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 柄谷行人に「日本の近代文学の起源」の「風景の発見」より、芭蕉は旅で風景を見たのかどうか疑問に思いました。
 そもそも、風景はある段階(歴史)で成立しました。にも関わらず、私達は「風景」が昔から存在していたと思い込んでいます。
 芭蕉『奥の細道』には「風景の描写」は一行もないと柄谷さんは述べていました。では、何を芭蕉は見たのか・・?芭蕉について、知識がなく分からない点がいろいろあります。 
 芭蕉について、詳しい方またこの質問に関して考えがありましたらお答えください。お願いします。

A 回答 (8件)

柄谷は、こう言います。


『周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」において、はじめて風景がみいだされる。
風景はむしろ「外」をみない人間によってみいだされたのである。』

まわりをキョロキョロ眺めている者、が風景を発見したのではない。
自分の内面を見つめて、外界には無関心な者が、風景を発見した。
なぜか?

風景を発見しなかった者は、芭蕉だ。
能因法師の歌枕をたどって、西行は歌の修行をした。
西行の五百年忌に、その旅の足跡をたどって、芭蕉は「奥のほそ道」に出立した。

「奥のほそ道」に、風景の描写はない。書かれているのは、風景ではなくて、
能因法師→西行という歌の伝統、伝統の文学の心を、風景に投影したものだ。

このように風景は、「ものの見方」「目に見えるものを、どう認識するか?」によって把握される。
芭蕉のように、「ものの見方」が600年の伝統の文学にどっぷり浸っていれば、
その「ものの見方」は当たり前になってしまい、意識されず、
風景を、新たに発見する事は、ない。

風景を発見した者は、漱石だ。
漱石の時代には、文学の「ものの見方」の断絶があった。明治20年の言文一致運動だ。
漱石は、漢文の教養が深くて、それまでの文語体=漢文調 から口語体への、文学の断絶・「ものの見方」の変化を、痛感した。
この断絶が漱石を悩ませて、文学論を書かせ、当たり前の普遍的な 「ものの見方」に意義をとなえさせた。


要は、柄谷が言ったのは、
風景は、「ものの見方」「目に見えるものが、なぜ美なのか?」によって認識される。
伝統にどっぷり浸かった「ものの見方」、当たり前になった「美の基準」から、新たに発見される風景は、無い。という事で、

構造主義の哲学では、美の基準・規範(コード)化。と言います。

何が美しいか?この風景が、なぜ美なのか?
古今集→新古今(西行の歌が、最多に収録された)→芭蕉、という日本文学の伝統は、
古今集の「美のコード化」の、ずっと延長にある。

だから、芭蕉は、風景の美を「新たにコード化しなかった」風景を発見しなかった。
「風景の描写」ではなくて、「コード化された美を、記述している」
「伝統の文学の心を、風景に投影したものだ」という事か?と思います

この回答への補足

 回等ありがとうございます。
>能因法師→西行という歌の伝統、伝統の文学の心を、風景に投影したものだ。
とありますが、もう少し詳しく聞きたいです。
芭蕉の『野ざらし紀行』や『奥の細道』は「無常観」が感じられ、「死」をイメージさせる句もありますが、そのことと、上記に挙げたことは繋がるのでしょうか?

補足日時:2008/12/18 22:35
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あけましておめでとうございます


>理解できますか
ええ、理解したつもりで書きました。無常は、日本文学の根本問題だと思います。
もう少し、つきつめて考えてみますね
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この回答へのお礼

 色々とありがとうございました。

お礼日時:2009/01/10 01:13

No.6で考えたように、


卑弥呼への殉死→保元物語→島津義弘→伊達政宗→阿部一族 と、ずっと
『決意による死=美』とする文化の伝統が、日本にはある。
それが大衆に浸透したからこそ、政宗の霊廟が市民の手で再建されたのだと思います。

江戸期には、歌舞伎の時代物として殉死・あだ討ちが上演され、それを町人の世界で描いたのが、近松の心中ものだ。
『決意による死=美』=恋愛を永遠に成就させる、愛の絶頂で時間を止める
という図式が、近松によって定着された。と私は考えていました。


>芭蕉のいう無常の根本には死があり、「死」の観念がはかない多くの美的世界を発見したといえる。私達は、詠まれた俳句を目に見える風景の姿だと思っていたが、その根本・背景には「死」の美的世界であることを認識していないのではないか

この↑文章には、まったく驚愕しました。
近松・芭蕉・西鶴は、江戸の文学の三大スターですが、近松だけでなく、
芭蕉も、「死の美的世界」「無常の根本としての死」を背景としていたのですね。


そこで、最初のテーマに戻り、風景を発見したのか?ですが、
(前述したように、柄谷の理論は、フランス構造主義の未消化な輸入では?という疑念を、私は棄て切れないのですが、)

No.5で随想した、西行のお墓と有名な歌(山家集に並んで記されている)から、西行の死生観を考えると、それを芭蕉が受けつぎ、

>「旅」へ出ることは、いつの場合でも「死」と向かい合うこを意味していた

死を覚悟して、旅に出立したのですね。
だがこの点、西行から伝承された美のコード・「無常」を受けついだのなら、柄谷の言説のとおり、風景の発見ではない、と思います。

>「死」と向かい合うからこそ「生」を思い切って燃焼させることになる。だから「生」の充実は常に「死」を観念することによって存在するものであると考えられます。この「死」のはかなさが美として形象化されている句が、
>夏草や兵どもが夢のあと
>のような句だと思いました。

これ↑にも驚きました。まったく賛同します。私も、そう生きたいです

この回答への補足

 新年あけましておめでとうございます。
お返事がだいぶ遅れてしまい申し訳ありませんでした。
私の考え・・根拠という根拠は感じられないとおもいますが、理解できますかね・・?(泣)

補足日時:2009/01/06 00:31
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仕事柄、土日祝日が忙しくて、


返信おそくなって、ごめんなさいね。しかし、ここからまた、

私が別の所で書いた文章を、そのまま記します。というか、記させて下さい。
手ヌキで、申し訳ない。・・・

決意による死。日本はずっとそれを美として来た。
殉死は、古代から日本で行われた。魏志倭人伝は、卑弥呼の死について、徇葬者百余人、と伝えている。
清盛が力をつけて行く頃の保元物語では、年記三百四十七年ぶりに謀反の者への死罪が申し渡されて、源平七十餘人が首をきられるこそあさましけれ、と書かれ、敗れた兄弟五人が自決するのを、皆よくぞ見えたりける、と記述している。*

病死した主君への殉死は、室町の武家社会で始まって広く行われるようになった。
江戸の初期、島津義弘が八十五歳で病没すると、ときの薩摩藩主の禁令を破って十三名が殉死し、彼らは罰をうけて埋葬もされずその所領は没収された。
島津義弘は、秀吉の無謀な朝鮮出兵が撤退する戦で、朝鮮を援軍する明の二十万の大兵力をわずか五千で退散させた。
退却戦の殿(しんがり)は過酷で、多大な犠牲をともなう。
それを立派に果たして全軍を救った義弘は、
日本中から武勇を讃えられた。

関ヶ原では石田方についた。
石田三成は戦いが劣勢になると、島津の一軍を置きざりにして退却しようとした。
義弘は、弱腰の三成を諌めたが、ついに大将の器量なしと見限った。
敗走する石田方にあってよく戦い、目前に迫る家康の本陣に切り死にせんした。だがその寸前で踏みとどまり、一軍を率いて敵のただ中を猛然とつっ切って戦場を離脱し、その勢いに家康方は手が出せなかった。

関ヶ原と朝鮮撤兵の名声を家康は畏れて、石田方であるのに所領を安堵され、維新の薩摩藩士の功績につながった。


また、伊達政宗が六十九才で病没したとき、直臣十五人が殉じて、その殉死者にまた五人の従臣が殉じた。
次の仙台藩主、忠宗には、十二人と四人が殉死している。
仙台の経ケ峰は、杜の都と広瀬川を見おろし太平洋を遥かに望む緑につつまれた丘陵で、ここに政宗の廟所瑞(ずい)鳳(ほう)殿(でん)と忠宗の廟所感仙殿(かんせんでん)がある。
家臣の墓は、今も粛々と主君につらなる。桃山様式の豪壮な建築であるが第二次大戦で消失し、昭和五十四年と六十年に市民の尽力により再建された。

そうして殉死は広く行われ、殉死者の人数が誇られる風潮があった。
江戸幕府はこれを、人材の損失で、忠義よりも実利をめざす殉死も見られる、として家光の時代の一六六三年に武家諸法度で殉死の厳禁を口達し、この頃が殉死者数の最も多い時代となった。

この口達は、主君と家臣の忠誠という、戦陣で生死を共にする武士の気風を断絶して、代々うち続く主人の家を崇拝させる意図だ。個人の心のつながりが、制度である家督の存続へと置き換えられたのだ。*

森鴎外の「阿部一族」は、この時代に殉死を当然として次々と切腹する武士、それを淡々と受容する武家の妻や娘たちを描く。また、自らの殉死により、家督を継いだ長男が次代の若い主君に重用され、藩と家とを、新しい体制へ円滑に移行させる実利を述べている。


ごめんなさい。客先と飲酒したので、論理的にハチャメチャです。
なぜ、殉死が、日本文学、というか、日本文化の根底にあるのか?を
酔っぱらって無いときに、書かせてください
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うわぁ...!驚きました。


ちょっと失敗して、他に寄り道してました。

>芭蕉のいう無常の根本には死があり、「死」の観念がはかない多くの美的世界を発見したといえる。私達は、詠まれた俳句を目に見える風景の姿だと思っていたが、その根本・背景には「死」の美的世界であることを認識していないのではないか

うわぁぁ鋭い。しかも、格調たかい。だが・・・
「死」=美的世界 などと言い出すと、私がやっぱり他の寄り道で話した、
三島由紀夫の世界になってしまいます。

>月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり、舟の上に生涯を浮かべ馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
>明らかに、「無常」のことを述べ表していませんか?

>旅へ出ることは、いつの場合でも「死」と向かい合うこを

>「死」と向かい合うからこそ「生」を思い切って燃焼させることになる。だから「生」の充実は常に「死」を観念することによって存在するものであると考えられます。この「死」のはかなさが美として形象化されている句が、
>夏草や兵どもが夢のあと

ビリビリしてしまう。これも、別の寄り道で話した、ハイデガーずばり!ではないか?
だが、こんな言い回しって・・・『「生」の充実は常に「死」を観念することによって存在するものである』・・・嫉妬してしまう位、深い日本語の表現。


ごめん、今夜は随想にさせて下さい。ご存知か?とも思うが、
芭蕉のお墓は、大津の義仲寺にある。今は、前に湖岸道路があって、その向こうに埋め立て地の、高層ホテル・西武デパート・関西電力があって、
琵琶湖の岸まで、ずっと遠いのだが、
昔は、お寺のすぐ前が、湖岸だったそうだ。絶景だったそうだ。ご住職の奥様が、話して下さったの。

また、大津の石山寺(源氏物語の)のそばに、芭蕉の幻住庵があって、
竹下内閣の、ふるさと創生資金1億円の一部で、再建したのだが、茅葺きで、床の間があって、
良いです。はるかに、瀬田川・琵琶湖を、木立ちをこえて望めます。

西行のお墓は、弘川寺ですが、そこから少し山道を登ると、
西行の塚があって、桜の根が、塚の養分をすいつくすように幹を太くして、のたうって、いっぱいに葉を茂らせて、花を咲かせて
この桜は、西行の化身か?と、ぞっとして腰をぬかしてしまった。

ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ
佛には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば
(山家集)
この歌の通りに、死んだのが、さいぎょまで さいぎょう のスゴい所だ。

石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて翠微に登ること三曲二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。
(芭蕉、幻住庵の記、冒頭)

[石山寺の奥の、岩間寺のうしろに、国分山がある。上代の、国分寺を伝える名だ。ふもとの清流を渡って、緑なす山道を・・・、八幡宮が・・・]
今も、芭蕉が記したままの、山道をのぼって幻住庵をめざします。

あらし吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり
能因法師、百人一首 [落語の、ちはやぶる・・・の系統ですね]
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回答No.3です。


>芭蕉の『野ざらし紀行』や『奥の細道』は「無常観」が感じられ、
>「死」をイメージさせる句もありますが、そのことと、上記に挙げたことは繋がるのでしょうか?

ストレートな言葉の、誠実さにうたれました。私も、真摯に語る決意をしております。
二つの点から、お話しします。

1.柄谷行人が言う、芭蕉が「風景を発見しなかった」という論点
2.私が、松尾芭蕉をどう思うか、という論点

1は、前回の私の発言で、要約できていると思います。私も柄谷のファンです。
だが、彼の芭蕉への言及に、すべて賛同は出来ません。
エキセントリックな言い方ですが、フランスの構造主義を、そのまま日本文学に未消化のまま、適用した、輸入言説じゃあないのか?との疑念を棄て切れません。

2.について、お話しします。

東京っ子の小学生だったので、修学旅行は日光でした。
あらたうと 青葉若葉の 日の光

まさに、そのとおりの自然のすばらしさ、華厳の滝・中禅寺湖・いろは坂。皆でおどった、わらく踊り。。。
私は芭蕉に、ただ圧倒されて光につつまれて、、、まったく幸福な少年時代でした。

次に芭蕉を思ったのは、5年たって大学受験の勉強をしていたときで、
小西甚一先生の「古文研究法」です。この今また開いてますが、351頁:しほり、ほそみ、389頁:わび・さび。すばらしい先生の記述に、うなってしまう。しかし、(小西先生、すみません)あの17才の当時は、理解できませんでした。猫に小判、でした。

その「さび」が、すっとおなかに落ちたのは、九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫、1987.45頁。社会人になってから、出会った本です。
地味かつ上品・意気かつ渋味。
それぞれが、その対極の、<派手・下品、野暮・甘味>に流れない、
ギリギリの、さび。。。

これって、地味で上品な・意気でシブい。現代につらなる、感受性だなあ。
芭蕉の「さび」は、九鬼によって現代人に伝承された。と私は感謝しております。


まだ根拠を確認していませんが、
「無常観」は、「平安貴族→能因法師→西行」と同じ世界観で、自己をとりまく自然を、
風景を、同じ基準で・同じ美のコードで、
把握していたのでは?と思うのです(これは1.柄谷の論点です)

ごめん、仕事の時間になってしまい、また、お話しさせて下さいね

この回答への補足

お早いお返事ありがとうございます。
私自身、国文学系の人間ではないので、芭蕉や柄谷さんに関しては知識がほとんどなく疎いです。
 今回は、機会があり柄谷さんの本を読むことができ、疑問に感じて質問しました。
 私は、中学校・高校の時に、芭蕉は旅をし俳句を詠んだよ!などと学んで、その頃まで(柄谷さんの本に出会うまで)芭蕉は、素晴らしい風景を詠んだ俳句を沢山残しているなぁ・・と思っていましたが、ところがどっこい(笑)それが風景ではなかったとは驚きです。
 芭蕉の初めての旅『野ざらし紀行』の書簡には、「旅といひ、無常といひ、かなしさいふかぎりなく」と記されています。ここで「無常」という言葉に注目してみた時、芭蕉のいう無常とはどのようなものなのかと・・。
 野ざらしを心に風のしむ身かな
芭蕉の『野ざらし紀行』の冒頭にこの句が置かれているのはご存じだと思います。この句は、無常の身だからいつ旅の途中で死ぬかもしれないという気持ちを詠んだものといわれています。この旅は、「野ざらしを心に」した旅でもあり、「死にもせぬ旅」でもあるといえると思います。または、「死」の観点の上に立っての「旅」?
 それには、母の死を体験した芭蕉に「死」が一段と迫りくるものとして意識されていたのではないかと考えられるのではないかと思います。つまり、芭蕉のいう無常の根本には死があり、「死」の観念がはかない多くの美的世界を発見したといえる。私達は、詠まれた俳句を目に見える風景の姿だと思っていたが、その根本・背景には「死」の美的世界であることを認識していないのではないかと考えました。
 そして、そのことは『奥の細道』中にも、「無常」の用例が見えると思います。冒頭には、
 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり、舟の上に生涯を浮かべ馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
明らかに、「無常」のことを述べ表していませんか?また、「旅」へ出ることは、いつの場合でも「死」と向かい合うこを意味していたようでに感じることができます。「死」と向かい合うからこそ「生」を思い切って燃焼させることになる。だから「生」の充実は常に「死」を観念することによって存在するものであると考えられます。この「死」のはかなさが美として形象化されている句が、
夏草や兵どもが夢のあと
のような句だと思いました。目の前に生い茂る夏草という具体物と、史劇の世界のイメージとを多く重なり合わせ、表出したものであると捉えることができました。 
 長々と自分の考えを論じてしまいましたが、easy_allさんはどのようにお考えになりますか?
>「無常観」は、「平安貴族→能因法師→西行」と同じ世界観で、自己をとりまく自然を、風景を、同じ基準で・同じ美のコードで、把握していたのでは?
については、理解できました。しかし、伝統の文学の心+死の観点を含めたことになるのですかね?
 乱雑な文になってしまいましたが、お返事頂けたら幸いです。
よろしくお願いします。

補足日時:2008/12/19 18:01
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柄谷が論じているのは「風景」という概念がいつ成立したか、でしょう。

「民族」「伝統」そういったナショナリズム的なものといっしょに成立した「風景」という名前のナショナリズムについて論じる姿勢を彼はもっていたように思いますが…。私も柄谷について読んだのが前なので明確にはわかりませんが、たしか、そんな論理のもと、作品を読み解く文学理論展開をしていたと思います。
それに則って考えると、近代以降に成立した「風景」という概念を元禄の芭蕉がもっていたはずはありませんから、芭蕉は柄谷の言う「風景」は見ていないことになります。だから柄谷の「芭蕉は風景を見ていない」という理論は成立します。


ですが、近代以前には「枕詞」に代表されるような景勝が多く存在し、その土地にまつわるイメージというのは芭蕉の句を詠む場合、特に『類船集』に詳しく載っています。
所謂「名所」と呼ばれるものです。能の「道行」に代表されるような名所語りは古来からある別の「風景」の見方です。

この「名所」について考える論文はいろいろありますから、当たられてみるとご自身でも発見することがあると思います。

ちなみに、柄谷のこの論には芭蕉の第一人者というべき堀切実氏が丁寧な反論をされているので、当たられると良いかもしれませんね。
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静けさや、岩に染み入る蝉の声




風景がなければできません。芭蕉の姿が目に浮かぶようです。
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