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ヘーゲルの弁証法についてですが、
教科書では「正」を蕾、「反」を花、
「合」を実としています。
この例えが一体何を意味しているのかが分からないのですが、よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

辞書で調べた程度ですけど



「正」はまずその基礎となるものである蕾
(「種」ではないのは判断というのはいろいろなものを加味した上で成り立つものだからでは?)
「反」は蕾から生じたものであるから「花」であり
またそのもの自体を引き立てるというメタファーでは?
「合」が実であるのは正と反によって生じるものであるからではないでしょうか?
(蕾からいきなり実にはならないし蕾のない花はない)

「正反合」の語義を見る限り上に挙げたような意味なのではないかと思いました。
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この譬えは、ヘーゲル自身が「精神現象学」中で使ってるものなんですよ。


そこの部分を全部引用しなきゃ、意味不明なんですよね。
幸い、ネット上にも掲載されていたので、私の下手な説明より、
そちらの方が良いかと・・

>花が咲けば蕾が消えるから、蕾は花によって否定されたと言うこともできよう。
>同様に、果実により、花は植物の在り方としては今だ偽であったことが宣告され、
>植物の真理として花に代わって果実が現れる。植物のこれらの諸形態は、
>それぞれに異なっているばかりではなく、互いに両立しないものとして
>排斥しあっている。しかし同時に、その流動的な本性によって、
>諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、
>それらは互いに争わないばかりでなく、どの一つも他と同じく必然的である。
>そして、同じく必然的であるというこのことが、全体として生命を
>成り立たせているのである。

「実」は、「蕾」と「花」の前提があって存在し、しかも双方を消し去ると・・

参考URL:http://members.tripod.co.jp/romeo601/chapter1.ht …
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 いちおう大学院でヘーゲル読みをやらかしていた者です。

泣かされました。はい。

 まず、「実はヘーゲルは《正・反・合》という言葉は使ってない」という事実がございます。それに近いことを言っているのは、むしろフィヒテではないかと思います。高等学校の倫理の教科書などでは、わかりやすさを追求してのことか「正・反・合」としていますが。
 そして、「ヘーゲルの弁証法って何?」という問題に答えるのは、やっぱり簡単じゃありません。彼の『論理学』でも、大まかに「移行」「反省」「展開」と、3通りほどの「弁証法的運動」が語られています。それに、彼は何でもかんでも三拍子のリズムに無理やり押し込んでしまうクセのある人ですから、押し込んだモノによってはどうしようもない無理が出てワケがわかんなくなったりもしております。たぶん、彼自身、わかってない。

 が、きわめて大まかではありますが、「より全体的・包括的な見方、考え方へと上昇していく運動」とは言えようかと思います。「より全体的・包括的な方へ」です。それ考えますと、「蕾=正」「花=反」「実=合」という説明は適切とは思えません。「実」が「全体」であるかのように読めてしまうからです。No.2のkequさんが引用されている箇所は、そうは言っていません。「蕾と花と実は、同時に両立せずに交代するが、それらはその植物にとって一時的なあり方であり、それらが生まれ、消えていく過程そのものがその植物の全体である」といったあたりです。「その植物」とは蕾「だけではない」、花「だけではない」、実「だけではない」、しかして、そのすべてである、と。
 この「だけではない」というのが aufheben です。このドイツ語の動詞は、「捨てる」という意味と「保持する」という意味の両方を持つ、実にややこしい言葉なのですが、ヘーゲルはここに大きな意義を認め、好んで多用しています。「前段階の見方、考え方では、絶対的で固定的で自立的なものに見えていたものが、次段階では相対的・流動的・従属的なものとして、より全体的な認識のごく一部にすぎなかったことがわかる」、と、そんなときに、前段階の認識が「aufhebenされた」と言うわけなんです。大きく脱中心化され、価値を減じられたけれども、でも保持されているというわけで。

 ということですので、その譬えの意味は、実は「蕾も花も実も、それだけでは植物の全体ではない、それらが交代するサイクル全体こそが、その植物の全体像である」といったあたりです。

 このへんの説明で、実は別のところに書いた「仮面ライダー編」てのもあるんですが…すいません、ちょっと見つからなくて。
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ご質問の参考になるかどうか分かりませんし自身もないのですが、以前、へーゲルについて調べ、まとめたノートのコピーをお送りします。



アリストテレスの論理学は18世紀のカントをして、その完全性を認められたのだが、そのわずか数十年後、同じドイツ観念論の哲学者ヘーゲルによって久々に論理学が哲学の中心に踊り出る。
アリストテレスの論理学は帰納や演繹などもっぱら個人的な推論に係わる論理を扱っていた。推論はさまざまな概念と思想とを生み出すが、それらはそれぞれの特徴と共に限界ももち、議論や論争、観察や実験によってより洗練され、しだいに科学として全人類に共有されうる真実に近い概念の体系を築き上げる。ドイツの哲学者ヘーゲル(1770-1831)は人の論理的な思考そのものと、人と人との議論が複雑な現象の中にしだいに真実を見出だしていく過程を弁証法として体系化した。
ヘーゲルによれば、ある概念Aはそれに対立する概念Bを生み、この対立はそれらを止揚する概念Cを生んでこの対立は発展的に解消されるのだという。この弁証法的な思想の発展はこれまでたどってきた古代ギリシャの哲学史にも見ることができる。ミレトス学派の水など唯一で究極的な本質的一元論に対してピタゴラスは大きさという直接目に見える具体的な属性を掲げて対立した。しかしこの存在としての概念どうしの対立は、エレア学派の推論重視の思想によっていわば止揚させられている。エレア学派とソフィスト達の推論や弁論への偏向は、やがてソクラテスという倫理を重視する思想を生み、この両者の対立はやがて英知や形而上という論理と倫理との双方を包含する概念を生み出したプラトンによって止揚されている。
哲学という世界の根源を求める思想は、一つの限られた真実を全体に拡大する誤りを常にくり返してきた。ヘーゲルもまた例外なくこの過ちをくり返している。ヘーゲルは世界が絶対者としての精神の自己展開の体系であり、その発展の歩みが弁証法であると考えたからである。彼は宇宙を解明しつつあった人の弁証法的思考そのものを拡大して神格化し、宇宙の変化(進化)の原因と考えたのである。
後にヘーゲルの思想を引き継いだフォイエルバッハとエンゲルス、そしてマルクス、レーニンなどは人間社会の発展や闘争の歴史が弁証法的に進化していることに注目し、資本主義的な社会形態は必然的に共産社会形態へと発展すると主張し、それを加速しようとしたのである。

以上ですがご参考になれば幸いです。
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