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ニーチェの永劫(永遠)回帰という思想は「輪廻転生」とも違い、「まったく同じ一生を繰り返す」という考えだと思うのですが、これは「死んだ後もまた同じ生を繰り返す」という思想なのでしょうか?

「あの世」を否定するニーチェなので「生まれ変わる」とか「再生」のような思想は持たないと思うのですが、永劫回帰はどういう思想になるのでしょうか?

「ツァラトゥストラ」は大好きで何度も読むのですが、なかなか難しくて理解できません。後半になると比喩が深すぎて理解できなくなってしまいました。

詳しい方がいましたら、ご教授願います。
本やHPの紹介でもうれしいです。

A 回答 (3件)

うろ覚えの記憶に基づく、すごくいい加減な回答ですが


...

(1)時間は無限
(2)世界(物質?原子・素粒子の種類や数?)は有限
であれば、いつかは、世界が今と同じ状態になることがあるはず。
そこから後の世界の動きは、物理の法則(?)にしたがって、必然的な経緯をたどるはず。
だから、今と同じことが、遠い未来にもまた繰り返される。

こんな感じの解説を読んだような(勘違いのような)。

あやふやで、ごめんなさい。
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ニーチェの思想は、意図的に哲学体系として立てていくことを避けたものですから、非常にわかりにくいものです。

なかでもこの「永劫回帰」はむずかしい。
私自身、よくわからないところも多いのですが、わかるところまで書いてみたいと思います。

まず、ニーチェは「神は死んだ」という言葉の解釈なのですが、単にキリスト教の神が死んだ、ということにとどまらず、プラトン以降の西洋哲学が生み出した伝統的価値観と解釈できるようです。ニーチェはそうしたものが、今日もはや何の意味もない、と断じます。
伝統的価値が体現する奴隷道徳とはなにか。
強者に怨念や恨み(ルサンチマン)を抱いた弱者がつくりあげた虚偽でしかない。
人々はニヒリズムに陥っている。ルサンチマンに支配されている。
このニヒリズムはどうやって克服されなければならないか。

神がいると仮定すると、人間の生はそれに規準づけられて意味を持ってきます。
けれども神や、従来の哲学を否定したニーチェは、人間の生は、それ自体としては無意味であると考えます。
意味も目的もない、天国もない、来世もなければ、終末の理想郷もない。
そうやってニヒリズムを徹底させていきます。

ここで時間について少し。
ユダヤ教やキリスト教の見方では、時間は、創造を起点とし、やがてくる終末を終点とする一本の直線です。
それに対して、古代ギリシャやインドでは、時間を円環的なものとしてとらえていました(このことと「輪廻」のつながりは、「輪廻」について詳しくないので触れません)。

キリスト教を否定したニーチェは、時間に対しても、直線的時間観をとらず、円環的時間観をとります。
終末がないのだから、時間はまた新たなサイクルをたどることになるのです。

永劫回帰とは、一度あったことが寸分違わず、もう一度、さらにもう一度、と無限に繰り返される時間観です。
再生ではなく、繰り返しなんです。

「一切はこわれ、一切は新たにつぎ合わされる。存在という同一の家は永遠に再建される。一切は分かれあい、一切はふたたび会う。存在の円環は、永遠に忠実におのれのありかたをまもっている」(『ツァラトゥストラ』第三部 快癒しつつあるもの 中公文庫)

こうして、ニーチェはニヒリズムを乗り越え、生を肯定しようとする。
ものごとを純粋に、全面的に肯定したいと考えたニーチェは、ニヒリズムの徹底化ののちにいきついた思想が「永劫回帰」なんです。

参考文献としては、『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』(須藤訓任 講談社選書メチエ)をあげておきます。これを読んでニーチェがよくわかるようになったか、というと、?なんですが、この本自体、私は大変おもしろく読めました。

以上なんらかの参考になれば幸いです。
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#2です。

不備な回答をしてしまったので、気になっていました。

そうです(笑)。
永劫回帰がなんで生を肯定する思想なのか。
その核心部分にふれていません。
実はそこがよくわからなくて意図的にすっ飛ばしたんですが、やはり気になるので、ハイデッガー『ニーチェ(1) 美と永遠回帰』(平凡社)を見てみました。

まず、#2で引用した部分は、『ツァラトゥストラ』の中でも永劫回帰をわかりやすく言った部分だと思って、付箋をつけておいた部分なんですが、どうもハイデッガー先生によると、引用としてはおおいに不適切な部分であったようです(どこをどう読んでるんだかね…)。

この部分はツァラトゥストラではなく、生き物たちが語っている部分です。
ツァラトゥストラの教えの部分を、美しい体裁でツァラトゥストラに演じてみせる。
ハイデッガーは「この知は知ではない」と言います。

「彼が苛烈な戦いによって得た《同じものの永遠なる回帰》の言葉を、彼らは早くも月並みな曲に作り、しきりと演奏しているが、本質的なことについては、侏儒と同じく何も知っていないのである」(『ニーチェ (1)』p.369)

永劫回帰の思想は月並みな歌になってしまう。間違って、安直な理解のされ方をしてしまうのです。
それはどうしてか。
どんな災厄が起こったとしても、すべては過ぎ、また移り変わると考えることで、「人はいかなる決断も迫られずにすむ」からなんです。
けれども当然それは誤った解釈である。

ハイデッガーは永劫回帰の思想の意義を、こう語ります。
「将来において何が起こるかはまさに決断に懸かっているのであり、回帰の輪はどこか無限の彼方で結ばれるのではなく、輪が切れ目のない連結をとげるのは、相剋の中心としてのこの瞬間においてなのである。回帰において何が回帰するのかは、この瞬間によって――そして瞬間の中で拮抗し合うものを掌握する力によって――決せられる。永遠回帰の教えにおけるもっとも重い本来的なものは、まさに“永遠は瞬間にあり”ということであり、瞬間ははかない今とか、傍観者の目前を疾駆する刹那とかではなく、将来と過去との衝突であるということである。この衝突において、瞬間は本当の瞬間になる。それは、すべてが如何に回帰するかを規定するものである」(同p.372)

けれども、もしいっさいが回帰するのであれば、ツァラトゥストラが憎む矮小な人間もいっしょに回帰せざるを得ない。

「最大の人間もあまりに小さい。――これが人間にたいするわたしの倦怠だった。そして最小のものも永遠に回帰すること――これが生存にたいするわたしの倦怠だった。
 ああ、嘔気、嘔気、嘔気。――そうツァラトゥストラは言って、嘆息し、戦慄した」(『ツァラトゥストラ』第三部 快癒しつつある者)

けれどもツァラトゥストラは、彼が軽蔑していたものの回帰さえ肯定し、肯定することで病気から恢復していくのです。

もちろんこれはハイデッガーの独自の見方、人間を世界-内-存在とする自身の思想を導いていくためのニーチェの読み直しの、しかもその断片にしか過ぎません。
それでも、たとえば、自分が繰り返し繰り返し生きたいと思えるように、いま現在の生を生きよ、という解釈などにくらべて、よほど説得力があるように私には感じられます。

ハイデッガーの引用部分含め、読み方がこれで正しいかどうか、まったく自信はありませんが、以上私はこんなふうに読んだ、ということで。
不明な点があれば、ご質問ください。
また読み方の不十分な点、誤っている点などありましたら、どうかご指摘ください。
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