プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

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ひとと社会と戦争が嫌いな無職の仁科です。
先日はとんずらこいてしまいました。だから削除されたのでしょうか。
忙しいと、疲れてしまい、私は自棄になってしまうのかもしれませんね。
今回こそは冷静さを欠くまいと思います。焦らずゆっくり、冷静に、だらだらと書きたいと思います。

で、今回はヒエラルキーについてのみ質問します。
ヒエラルキーについてどう思いますか。みたいな。
私はヒエラルキーが戦争の原因であり方法であり目的だと思うのですが。
安易にそう思うのですが、
そう思うと、ヒエラルキーって悪いよ、害だよ、と言いたくてたまらなくなるのですが、
けれども誰も話し相手がいませんから、こんなところで話したいのですが、
ヒエラルキーは、かなり悪いものじゃないですか。
なくせば、ヒエラルキーなくせば、戦争も、そろそろ、なくなるのではないですか。
ヒエラルキーなんか、人なんかが人なんかと、生きることにおいても、ヒエラルキーなんか、ないほうが、少しは、楽になるのではないですか。
とか。

これはあれです、ブリッジローンさんの考えにも近いかもしれません、
し、梅原猛さんとか、あと、むのたけじさんってひとも、そんな考えでした。たぶん。
なんでしたか、ここ一万年くらい、人類に刺さっているトゲは、ヒエラルキーなのだと、か。
それ、抜けば、人類の新たな夜明け、っぽくないですか。

A 回答 (31件中1~10件)

 ヒエラルキーの問題は根が深いですね。


 まず、素朴な話として、ヒエラルキー論は、哲学の人に聞くより、経営学や、社会学の人に聞く方がおもしろい答えが返ってくるかと思います。
 それはさておきいくつか、浅学ながら基本的なことを述べます

1.階級と階層の違い

 #09の方はニューディール政策の話をしていますが、これはヒエラルキーとは言っても、「社会階層」の流動性の話であって、「階級」の話とは少し違いますね。過去一万年というスパンで見るのであれば、古典的なヒエラルキー概念はどちらかといえば、社会階層のことですね。階級と、階層の概念の区別には様々なものがあるので、詳しくはググっていただけると面白いと思います。
 一例を挙げれば、個人が努力によって移動可能なもの――たとえば、現代日本社会では、努力次第では金持ちになりうる――は「階層」であり、経済政策や社会政策によって、より平等な形に近づけることができなくもないものです。一方で、「階級」概念は、貴族と平民、のようななんともしがたいもののことです。
 または、直接的な権力関係の有無があるかどうか、だとか、いろいろな形で、階級と階層の概念の違いは規定されているので、少し調べていただけると、興味深いのではないか、と思います。これは社会学系では、伝統的な概念ですので社会学系の入門書などをいくつか図書館で紐解いてみると、よろしいかと思います。

さらっと、ぐぐった感じだと、こことか参考になるかな?
http://www.gifu-keizai.ac.jp/~takeuchi/c4shakaik …

2.ネットワークとヒエラルキー

 ネットワーク構造と、ヒエラルキー構造が、異なるものだ、とお考えの方は多いですね。確かに、中心的・集権的な権力構造をもったものと、集権性を持たないものとの対比は可能なのですが、両者はすっぱりと別のもの、というわけではなく、両者の概念はならだかにつながっています。簡単に言えば、集権的組織構造を、ネットワーク図で表現することは可能だ、ということですね。
 現在の社会科学では、ネットワーク分析が流行になりつつありますが、集権化されたネットワークのトップというは、ネットワーク的に言えば、誰に対してもダイレクトに意志を伝えやすい人、だというような規定の仕方もできます。こうしたネットワーク論に関しては、増田直紀さんの『私たちはどうつながっているのか』(中公新書、2007)が入門書としてわかりやすく書いてありますので、ご覧になっていただければ興味深くお読みいただけるかと思います。
 また、経営学の分野ではトマス・マローン『フューチャー・オブ・ワーク』などを紐解いていただくと、権力を集権化した組織が有利な場合と、分権化した組織が有利な場合についての議論が、そこそこに面白く展開されています。

3.ヒエラルキーの合理性

 さきほどのトマス・マローンの話でも権力分散型のシステムと、集権型のシステムを比較してどちらがどういう場合に合理的で有利なシステムか、ということを、企業のケースで述べていますが、国家や、社会がヒエラルキーを必要とした理由はなんだろう、ということについては、昔から侃々諤々の議論があります。
 最も有名なものの一つは、ルソーの『不平等起源論』『社会契約論』といったあたりになるか、と思いますが、最近わたしが読んだものの中で面白かったのは、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄 下巻』(草思社、2000)における説明です。
 いろいろと面白い説明はあるのですが、一番おもしろかったのは、司法システムとしての合理性で、下記のようなものです。

 *20人~100程度の小規模血縁集団や、部族社会においては、全員が全員と知り合い
 *なので、ヒエラルキー構造がなくても意志決定も効率的にできるし、争いが起こったときに、争いの関係者が全員親戚で、相互に利益が絡み合っており敵対グループの関係を結びにくいため、だいたいのもめ事は調停されうる。
 *しかし、1万人や5万人規模の社会となると、全員が全員と知り合いとなることは難しく、知らない人同士のケンカが起こりうる。
 *こういった大規模社会では、親戚同士による揉め事の当事者達の調停を行う、というメカニズムでは限界が生まれる。よって、ケンカを最も効率的に調停する制度として集権的、ヒエラルキーシステムが要請される。(実際に、原始的な社会が一定規模の人口密度に達すると、集権システムが選び取られている。集権システムが機能していない、そこそこの規模の部族社会などでは、殺人がかなり頻繁に起こる)

 司法システムとしての合理性のほかに、他の組織との意志決定/競争システムとしての優位性だとか、さまざまな説明がありますが、人口規模が一定に達すると、社会全体を集権的な組織として成立させることにはかなりの有利な選択となるだろう、ということですね。

4.ヒエラルキーシステムの欠点

 …と、ここまでどちらかというと、ヒエラルキーの合理性について述べてきましたが、むろん、仁科さんのおっしゃられるように、このシステムは欠点もものすごくたくさん抱えています。
 たとえば、ヒエラルキーの頂点として機能するべき人が、精神的にまいちゃってヒトラーみたくなってしまったり、人質にとられたりした場合にはこのシステムはすごく弱いですね。集権的なシステムの中で、誰がどの役割を担うともっとも合理的・効率的なのか、というのは難しい話でして、役割が固定されてしまうと、しばしばシステム全体が腐りやすい。賄賂だとか、偉い人がぜんぶある一族の親戚関係で占められてしまうとかが生じやすい。
 こういった腐敗をふせぐために、古代中国では官僚システムを能力主義にするために科挙がとりいれられたり、ある種の政治システムではトップの人間を世襲ではなく投票や合議によって決定するわけですよね。

5.戦争とヒエラルキーの関係

 この問いはあまり考えたことがなかったですが、ヒエラルキーが問題になる場合もあれば、そうでない場合もある、という気がします。
 戦争の理由もいろいろあるからなぁ…

 この問いに関する反証としては、「ヒエラルキーを原因としない戦争はあるか」ということを反証例として言えれば、一つの答えになるか、と思いますが、これは「ある」とお答えさせていただきたいと思います。
 たとえば、先ほど挙げたような、ヒエラルキー関係にない20人程度の小規模血縁集団Aと、小規模血縁集団Bが、たまたま一つの小さな島に流れ着いたとしましょう。で、その島の生活(食料)資源が20人が生きていくので精一杯の島だったと仮定しましょう。むろん、食料生産については農耕などをうまくやることで食料生産量が上がる可能性が期待できますが、このケースではどうがんばっても最大20人規模だったとします。※ゲーム理論っぽく言うと、Win-Win関係の構築できない、ゼロサムゲーム的な状況だと、言い換えてもいいです。
 このような場合には、集団Aと、集団Bは、まあ、高い確率で戦争になりますね。資源の取り合いで。両者ともヒエラルキー構造は関係ありません。
 もし、集団Aと、集団Bが手を取り合って生きていこうとしても、結局は、資源が足りなくなります。集団間で戦闘をしない場合には、個々人が殺し合いをするか、あるいは、合議によって誰から順番に死んでいくか、など、様々な方法によって生き残る20人が決定されることになります。ただ、これはあくまで仮定であって、実際には非常に高い確率で、両集団の間で戦闘が起こると考えられます。

6.ヒエラルキーはなくせるか

 完全になくすと、組織や社会の効率上、問題が発生する可能性が高いですが、現在のように、意思伝達手段や、コミュニケーションシステム、トレーサビリティなどが、複雑多様かしつつ発展してきた時代においては、古代とは別の形での組織設計は可能だろう、とは思います。
 たとえば、集権的組織では情報をトップに集約することで、トップの人間が適切な意志決定をくだす、という効率性が重要です。しかし、情報共有をトップに集約せずとも、インターネットなどを介して組織の全員が、同じ情報にアクセスできるような場合には、組織のトップが誰が何をするかを決めるのではなく、組織の中の個々人が、共有された情報をもとに最適な振る舞いをしていくことは可能になってきた、と思われます。ただし、どうしても自分で適切な意志決定のできない人(「頭の悪い」とされる人や「未熟者」)はいるので、そういう人をフォローする必要はどうしても発生しますが。
 こうした組織や、社会制度の設計については、経営学や経済学の分野で盛んに議論されています。興味があれば、ちょっと難しいですが「制度論」などの議論を参照してみてください。集権的ではない組織や社会の設計がいかに可能か、というのは社会科学におけるホット・トピックの一つです。

 少し長くなりましたが、こんなところで。ご参考になれば。

この回答への補足

 コンペキュアルさん回答ありがとうございました。
 たいへん参考になり、私は要勉強なのだと思いました。
 ですが遠い図書館に通う気概はなく、ウェブで読める文書しか読まないもので、

 「階層」と「階級」が別のものなのだと分かり、どちらの階もいやなものです、
 縦割りというものが生理的に大嫌いで、
 ヒエラルキーなんて内部にも外部とも競争があり、人心を荒廃させるばかりで、

 司法や権力が必要になってくるのは、だいたい人口一万人以上からだとか。
 司法や権力の集中、ヒエラルキーは私にとり否定の対象ですから、
 人口の多い地域はそれだけで非人道的な環境だとも言え、
 都市のにぎわいは素敵なのでしょうけれど、しかしそれがヒエラルキーを要請してしまうなら、さみしいですけれど、
 人口を分散し、大都市や都市を解体することでヒエラルキーを解体しつつ、ヒエラルキーの芽を摘みつつ、
 分散した民をあやつりたがるあしき者のくわだてに、からめとられないよう注意しながら、
 ひとびとの心がこれ以上は荒廃せぬようにしたいものですが、

 私は人口過密や忙殺よりも寂しさのほうで個人的に人心が荒廃していまして、
 また、人口が多ければ人同士がよそよそしくなり、やはりひとりひとりは寂しいのでしょう、
 ひとの幸せにかなうような、ほどよい人口というものがあるのだと思います、
 数十人から数千人くらいの規模で、自足できる社会なら、
 ヒエラルキーもできず、他の集団と競う必要もなく、のんきに暮らせるのではないでしょうか、

 あげてくださった「ヒエラルキーのない戦争」の例は、架空の場合のようですから、「ある」というよりかは「ありうる」のだと思い、おそろしく、
 歴史上の戦争から探すとき、ヒエラルキーのない戦争は、ないかもしれませんが、よく分かりません、世界史は苦手科目で、
 ヒエラルキーと競争と殺人をセットで自他に、とくに自らに禁じれば戦争もなくなるかもしれません、
 
 なんだかこのごろは「戦争をなくす」ということにしか関心が湧きません、
 なぜでしょうか、それ以外の思考はむしろ余計なことにさえ思います、
 とくに「はたらこう」という考えが看過されており、要勉強で、
 あるいはやはり要職で、要就職で、
 無職が要職とみなされる社会に生きたい、

補足日時:2009/03/07 04:13
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ところで、この質疑の主題、ヒエラルキア/ヒエラルキーですが、


これは「マクロ的視点」から浮かび上がった問題点ですよね。
社会全体/世界全体を眺望して見えたもの、ですね。

そんな問題/問いかけ/興味対象にも「マクロの視点」が存在すると同時に「ミクロの視点」が存在します。
そして不思議な事に、社会全体で通用する論理が個人間ではチグハグだったり無意味だったり、非生産的だったりする事が多々在ります。
反対もあります。

人間社会の原始は、当たり前に「個人と個人」であると思うのに、何故こんな風にミクロとマクロが食い違うようになったのでしょうね。。。。
「最大公約数の謎」とでも名付けようかしら。。。^^

個人対個人ではヒエラルキア/ヒエラルキーは存在するでしょうか?
私は存在しないように思います。
(あーーもう此れは質疑済みでしたでしょうか。。。?汗)

「存在を愛して、欠陥を憎む」ですが、
あの方とはこの質疑で初めてお会いしました。
「ポルノ」と言う存在。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4533194.html

この質疑で「存在は善悪を越えている」と言う見事な風穴を開けて頂いたのです。
私の長年の引っかかりを解くべく、しがみついて続けた渾身の質疑です。←只の自慢。大汗  お手隙の時にでも覗いてみてくださると光栄です。

それから、こんなのもありました。
「怒り」は実在する感情、でしょうか?
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4453150.html

少しばかり経済学をかじった所から、ミクロ/マクロと言う表現になってしまうのですが、
「社会に置ける問題」と「人間そのものの問題」と言う、二面性と言うか両面性と言うか「人間と言う表裏一体の存在」を観察し、より良い未来に向かって進むには、この二つの視点を同時に厳正に保持しなければならないと考えています。

ヒエラルキア/ヒエラルキーも「人間社会のトゲ」ではあるかも知れませんが、「人間そのもの」には存在すらしていないものかも知れませんよね。。。?

何だか「きっちり質疑を咀嚼出来ているわけでもないのに、偉そうな事を。。。」と思いつつ書き連ねております。
申し訳ありません!


また余談ですが。。。
>自生してくるものを待ちます。
と言う表現は、「しゃべり過ぎると心の中の「自分」が枯渇する気がする」と言う事でしょうか?
いえ。。。私はいつも「しゃべり過ぎた」と後悔するのです。
言葉が自分を連れ出して行ってしまい、自分の中身が空っぽで下らないものに成り下がるような気がしてしまうのです。変ですね。。。^^

それから、
ひとって、意外に気付いていないけれど、
「愛されたい」と渇望しているつもりなのに、実は「愛したい!!!」だったりします。
意外に意外に「心の侭に好きになる/愛する」って難しい。

私はずっとずっと寂しいと感じて生きて来たけれど、
誰かに自分をちゃんと見ていて欲しいと望んでいたつもりだけれど、
ある瞬間にガツン!と思い知りました、
「ああ、私は心いっぱいで誰かを愛したかったんだ。。。」って。

「(自分の)望む侭に愛されたい」よりも「(自分の)心の侭に愛する」方が実は相手の許可が要るような(要らない?)感じで、より困難な印象です。

脈絡無くて申し訳ありません!

この回答への補足

 ゆっきんさんこんばんは。
 ネタというかボケだったのですがすべったようです。私はだいぶあほらしくなってます。哲学とか言葉とかがやけに虚しく思えます。

補足日時:2009/03/20 02:23
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この回答へのお礼

 

お礼日時:2009/03/20 03:51

 ni_shi_naさん 簡単な評言を もうふたこと・みこと 書きます。



 まぁ たしかに 対(つい)関係の秘め事は 公表しません。する必要はありません。(おそらく そのために 人間関係一般の取り決めとしての《合意を取りつける》という門をくぐって ふたりは 二人だけの世界に入るのでしょう)。

 一般に 自分に不利になることを 自分から 暴き出す必要もありません。ということは つまりは そういう不利になることや 恥ぢになることを たとえ 公表されても どうってことないぜという歩みが 大事だという意味に採ります。

 それに 自分のまちがいを指摘されて 黙ってしまっては 何にもならなかったり――つまりは だからこそ 《あやまつなら われあり》という命題があるのでしょうし―― 恥ぢを暴かれて 隠そうとしても かえって 恥ぢの上塗りになったりしては 歴史が前へ進まなかったりという問題が あります。
 すなわち このように 一般に 面子を大事にすることによって 一向に社会が前へ進まないという問題は その人が ヒエラルキアの上の段にいればいるほど 大きくひどい結果を招くのではないでしょうか。しかも おそらく かえって そのヒエラルキアの裏のほうへ 不祥事を隠し 糊塗し ますます ヒエラルキアが お化け屋敷の様相を呈し 怪物御殿と化することになります。

 こうして わたしたち一人ひとりの 適度に ストリップショーを厭わない気概が ヒエラルキアを 透明にしていくことができるのではないでしょうか。

 今後の予定は?

この回答への補足

 ブラジュローヌェさんこんにちは。

 やましいことを隠していると、よくないのだなと思いました。
 
 流通している人間観がうそくさいシンプルなものになると、生きるには窮屈ですから、
 ひとりひとり自分がどんな変態なのかを露わにすればいいと思います。
 世の中がさまざまな変人や変態やお化けだらけになれば、子供たちも生きるのが楽しいと思います。

 今後の予定はないです。
 さっきウェブに投稿するための小説を書こうとしましたが、頓挫してしまい、しょんぼりしています。

補足日時:2009/03/17 16:04
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 ni_shi_naくん(なぜなら 逃げ腰の姿勢を見せたから) お早うございます。



 それが 哲学です。そういうものです。
 つまり 恥ぢさらしになるのが 哲学です。言わばあたかもストリップショーのごとくです。

 以前のやり取りの中で 次の命題に同意します。
 ★★ (No.27補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それでも愛とはどういうものかを記してみますと、
 私にとって愛とは自らを十全に発揮すること、さらに個々どうしが相互の十全な発揮を妨げないことだと記します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 同感します。そして さらに そこに
 ○ 少しでも お手伝いをすることがあれば あたかも触媒になるかのごとくして 手を差し伸べてみる。
 ☆ を添えたいとも思います。《妨げないこと》から ほんの少し積極的になるという調味料のようなものだと考えます。

 こんなところでしょうか。ではでは。

この回答への補足

 ブラジュローヌェさん、こんにちは。
 
 哲学って、変態だったんですね。
 なんだか師弟関係めいてきました、しかも全裸の、
 こういうのはヒエラルキアなのでしょうか、どうなのでしょう、あまり、いやですが、

 みんな変態なら、もっとよいと思います。みんな裸で、
 心も裸で、声も裸で、みんな十全に変態なら、明らかな変態なら、
 たとえ自分ひとりであっても、果敢に変態をするのがよいと思います。

 恥かしいことは多くて多くて、ひとだってことも恥で、
 歴史も今も悲惨なことが多く、町もすさみ、私の生も日々むなしく、
 愛についての記述に、うなずいてもらえて私はどこかほっとしましたが、
 行為が伴っていませんから、言葉ばかりではむなしく、十全ではなく、
 生身で向き合うのが苦手で、まだ私は他者を愛せず、積極的になれず、

 自分の十全な発揮がどんなものかということに気付けている瞬間はまだ少なく、
 十全に自らを発揮している他者を直に見たことも少なく、
 
 のどかな妊婦さんを見たことがあり、
 ゆっくり歩いたりくつろいだりしている妊婦さんは自他を十分に発揮していると思い、
 私は妊婦にはなれず、変態になるのみで、

 こころがしばしば狂おしい私は、ついひとのこころをも狂おしくさせたいと欲してか、ひとの心を文で乱そうとばかりして、ウェブで、
 自意識過剰な変な文をひとに送ると変に思われ、
 
 変であることはまだ一般的ではなく、
 ひとは変なのだ、ひとりひとりが変態なのだ、ということが一般常識になる日は来るのでしょうか、

 今回のように話ができたことは私としては嬉しいことで、
 はじめは面倒でもあり、習慣にないことは面倒で、

 いちいち反応が遅くてすみませんでした、眠ることを重視していまして、寝ながらぐつぐつと考えを煮て、たいした考えもできず、

 ヒエラルキアについてはよくわかりませんでしたし、
 もっと社会について手広く知る必要を感じました、

 ありがとうございました。

補足日時:2009/03/16 16:05
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この回答へのお礼

 
 仁科です、

 回答してくださったみなさんに簡単なあいさつをします、

 アーカサタナさん、ありがとうございました、面白がってカタカナ読みしてすみませんでした、

 クリャさん、あるいはコリャさん、色んなことを書いてもらったのに、かるくいなしてしまい、すみませんでした、

 チョトツさん、もしくはキョトツさん、いやみなひととか言ってすみませんでした、

 バナナサンドさん、ありがとうございました、他のページでもバナナサンドさんの意見を読むと、失敗しないために歴史や経験を生かさねばと思います、
 吉良吉影とか書いてすみませんでした、

 あまぞうさん、ご意見ありがとうございました、私は考えも足りず、考える材料も足りず、答えを見出せませんでした、土器は病だとか、とんでも意見を書いてすみませんでした、

 きぐるみさん、萌えとか書いてすみませんでした、勝手になのだ口調にしてすみませんでした、百合でいいんです百合で、

 キューまるまるキューさん、グッときたとか洗脳とかへんなこと書いてすみませんでした、らぶとか、

 ゆっきんさん、お礼の文が明らかに手抜きですみませんでした、

 コンペキュアルさん、とても参考になりました、社会について考える手ほどきを受けた感じがします、

 みみみ、みこでしさん、ありがとうございました、みこでしさん、

 あまがっぱさん、ありがとうございました、不思議な無音の世界の声について、より深い質問を受けたのにそれ以降よく考えもせず、ちゃんと哲学できていません私、すみません、

 ブラジュローヌさん、人生相談の相手もしていただきありがとうございました、気力や自身が欠けていてすみませんでした、

 自分で「このQ&Aは役に立った」ボタンを一回だけ押してしまいました、


 みなさん、ありがとうございました、


 

お礼日時:2009/03/16 16:28

 ni_shi_naさん こんばんは。


 ちょっと たいへんなことになっています。意見表明や議論目的の質問だったということで 削除になり しかも 会員停止の状態になりました。かろうじて このようにして つなぎます。

 全体として 少しわたしが どうも 再反論へと誘導してしまったかに思われる嫌いがあります。
 というのも すでに
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (α) 口説いて合意がなされなければそれは和姦ではなくレイプになってしまうのでしょう、
 性行為ではレイプは悪く、こどもを犯す行為もいけないことらしく、おとなの性愛でもまず合意は必要で、
 (β) けれどもその合意は、言葉によるものであるべきなのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように 《互いの合意への意志表示》の必要性については 認めておられるようなのですから。
 しかも たしかに (β)のように 《言葉によるもの》だけかどうかにも触れてはおられますが わたしの回答内容として 《だけ》ではないことも 明らかだからです。
 ☆☆ 10.意思表示 もしくは ≫意思表示に相当する何らかの形式を介在させるということ≪ これが 大切であり 必要である。

 ☆ そうして ただし 最後のところで いくらか あいまいにした表明があるようにも思いました。その点にも 触れます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (γ) 男女どちらが先に合意を強く求めても、それによるヒエラルキアはうまれず、性愛を求めたほうが下位につくことはなく、
 (δ) 青年ポールの働きかけで友愛が性愛になるとしても、性愛と友愛が平等なら、ポーラさんに優位性が生じることはない、という結論になりそうですが、

 (ε) しかし私にとり女性は明日への希望で、女性はヒトという種の根幹であり男性は女性よりは末節に近く、補助ですから、
 女性のポーラさんに、男性のポールは、どこまでもひざまずくのが良いと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (γ)にかんして わたしが 問題としていたのは 《どちらが合意を求めるか》ではなく 《合意を得るかどうか もしくは 合意を表明するかどうか》でした。

 少し 愚痴っぽくいえば ポールは ポーラとの交通において けっきょく 心がかよったという気持ちになったことはなかったのです。一度だけ 遠くから その表情の中に まごころを捉え受け取ったことがある それだけなのでした。この一度っきりの事件が 最後まで尾を引きました。すなわち 心がかよったと思ったことがないのに その事件の感覚が 消えやらず つかず離れずが 続いたという意味です。

 ★ 男性のポールは、どこまでもひざまずくのが良いと思います。
 ☆ これはですね けっきょく 互いの合意が成ったなら そのあと――つまりあくまで そのあとです―― そうしても それほど いやだとは思いません。という答えになります。

 けっきょく 一方の側だけの証言で 話を進める恰好ですから 十全なものにはなりませんが 一方の側として 明らかにすべきことではあるとも思います。

 では 合意が 何らかの気持ちとしてでも 得られない場合 しかも それにもかかわらず 友愛一般から 性愛関係に入ったなら どうなるか。ヒエラルキアの問題が 起きるか。これが 重大なことになると わたしは 考えています。
 とりあえずには おそらく 権力の濫用であるとか そういった一般的なヒエラルキアの問題情況に対して あまり 大きく 反対や批判の声を挙げられなくなるのではないでしょうか? つまり 広く対話の問題において その合意の取りつけを あいまいにしたという事実関係が残っていて その結果 権力に対して 人びとの合意を取りつけなさいとは 大きな声では 言えなくなくのではないでしょうか? どうでしょう? そういう問題なのでした。
 人間の愛一般と 性愛関係とは 同じ地平にあって 人間存在にとって 地続きであるとすれば そういう問題が 起こり得るとは考えるのです。それほどのことではないでしょうか。

この回答への補足

 ブラジュローヌェさんおはようございます、ふふ、困ってるみたいですね、
 けんかは嫌いですがちょっと楽しいかも分かりません、
 このページはそろそろ閉じようと思います、

 なぜ心が通わないのでしょうね、なにが意思の疎通を難しくするのでしょう、
 忙しさとか、かっこつけるとか、潔白を求めすぎるとかでしょうか、
 
 まごころは無様だったりしますし、無秩序だったりしますけれど、自然の摂理には最も適っているかもしれませんのに、相手の耳が開いていないと悲しくて、素直に声も出せません、

 気がかりなことは、たぶんそれが記憶というものでしょうから、腑に落ちないことを忘れられず、ひきずるのは自然で、

 ブラジュローヌさんはフェアというか潔癖なひとなのですね、うしろぐらいことが嫌いな、クリーンな、つまり義憤みなぎるひとですか、

 哲学議論サイトなんかがあればいいのでしょうか、
 対話なり語らいなりは一対一でするのがよいのだと思い、

 対話なり語らいなり、関わりあうことの仲においての難点は、そのおこないの中で改善してゆきながら、まごころの濃度も上げてゆけばよいのかもしれませんが、
 ひとは難点あつかいされると、ますます素直さを失い、
 
 十全に生きることとか、ひととちゃんとしっかり関わることとか、そういうことを実行する中で、思考なり改善なりをするのがいいのでしょうが、
 そんなことを今の私はできていませんから、なのでうしろ暗い小声しか出せず、説得力もなく、説得力なんかそれほど要らないというふりをして、
 
 私なんぞがブラジュローヌさんの人生に意見するのは申し訳なく、あるいは光栄なのかもわかりませんが、そうでもないでしょうが、
 なんだか私は失礼なことばかり書いてしまって、どうもすみませんでした、

 

補足日時:2009/03/16 09:50
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 ni_shi_naさん お早うございます。


 話がかみ合いました。
 さっそくですが
 ★☆ 性に対する臆病さ / あるいは 潔癖さ
 ☆ の問題と捉えられたようですね。
 でも (1) ポーラは 下着姿で 男子学生の前に現われるという大胆さを持ち合わせていますし (2) ポールは その当時 あわよくば 合意のサインが出れば 一気に 攻め込むと思っていたわけですから ちょっと 感覚として 違うように思います。『狭き門』をポーラが引き合いに出してみたりしていますが 決して ヨーロッパ人のような(しかもその中の限られた人びととしての)清純の実践という意味合いは なかった。こう理解していただいたほうがよいと考えるのですが それには 合点がいかないでしょうか。
 むしろ仮りに聖職者を目指すような修道者であったとしても ちょうど『アベラールとエロイーズ』の例のように 一たん 火がついたら それに向けて 突っ走るという性格の持ち主だったと思います。二人ともです。

 もう一点は 次のご理解とご認識に対して 反論します。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ポールとポーラは人間さま意識をもっていますけれど、いぬねこの性もひとの性もそこに上下はなく、
 生き物の性にヒエラルキーを設けることは、よくないような気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 二つの事柄があります。(1) ひとつは ひとと猫とを分け隔つ基準が あります。ことに及ぶに当たって 《合意をとりつけるかどうか》です。《口説くかどうか》です。
 (2) このとき ポーラのほうは この基準ないし《門》を ないがしろにしています。言いかえると 言葉で言わなくても 好き嫌いの感情だけですすむものだと思っています。もう少し色をつけて言いかえれば 犬が 犬のほうから最初に 仕掛けてきたなら その責任は 自分にはない それでよければ 仕掛けて来なさいという心づもりでいます。
 たぶん 再反論が出るかとも思います。
 この《合意ないし口説きの介在》ということを 理論として まとめたものがあります。すでに投稿したことのあるものですが 反論の為にも参照してください。ヒエラルキアの起源が分かるのではないでしょうか。とまで思っている問題点です。

 * 性愛にかんする総論であり その各論については 何もないという性格の理論です。

 1. 性愛関係は 愛の問題に従属する。愛は あらゆる関係性の原型である。
 2. 性愛関係は たしかに間接的にせよ この世界を超えるという超越性の問題に・つまりいわゆる信仰に かかわっていると思われる節がある。
 3. ひとつには 普遍的な愛は 人間にとって 実現不可能であるからだ。それゆえ 生活態度の中におさめられる性愛が 基軸のごときものとなる場合がある。  
 もう一つには 性愛関係が愛という一般関係の中で特殊に もっぱら人間的自然(つまり生理・知覚関係)にかかわる部分が大きいとするなら その自然は あたかも意志や知性に対する超越性にまでかかわるかたちとなって現われるからだ。精神は 物質(生理)が 手に負えない。

 4. 性愛関係は 愛の問題に従属するが どのように従属しているかは分からない。むしろ従属していないかのように――そして超越性にかかわるかに思われるときには あたかも意志や知性を凌駕し 限界づけさえするかのように―― 一つの特殊領域をつくっている。
 5. このようにして性愛関係は 特定の二人の特殊な関係領域である。
 6. 特殊なというのは 一般の人間関係における言葉による表現とは あたかも別種であるように見えるからである。一般的な以心伝心と 特殊な二人のそれとは 別の種類であるかに思われる。

 7. この性愛関係が愛の問題に従属しているそのありさまは分からないが もし確かに従属するものだとすれば それは 一般の人間関係としての愛の問題から この特殊としての性愛関係の領域へと入っていくはづである。こういう順序であるはづだというとき そのあたかも入口ないし境界にかんしては 規定しうると思われる。その境界における表現関係についてその要件を 規定しうるであろう。
 8. すなわち 口説きの問題であるが いまの仮定に立つならば むしろ規定すべきだと考えられる。
 9. 逆に 広く見渡して たとえば 人類のどの社会にも持たれている近親婚の禁止は 性愛関係に対する愛一般の関係の先行・優先を物語るように考えられるからだ。
 10. そのように内在的な規定があるとすれば 具体的には 愛にかんして 関係一般から特殊関係へ入ろうとするとき そのための意思表示を必要とすると思われることである。意思表示 もしくは意思表示に相当する何らかの形式を介在させるということ これが 大切であり 必要である。
 11. その意思表示の表現内容がどうであれ この《口説き》あるいは《互いの合意》という形式を介在させるということ このことによって愛は 性愛関係を自らのもとに従属させていると言って 威張りたいのではないだろうか。コミュニケーション(人間の人間としての交通)が 愛一般の関係行為の問題であるゆえ。
 12. 性愛関係にかんして規定すべきことは 前項のほかにないはづだ。つまりその入り口での問題がすべてであって 性愛関係じたいについては 特に規範的なことがらは何もないと言ってよい。ただし特定の二人のあいだで別様にそれらを規定することは 妨げられないと言うべきかも知れない。
 13. 要するに 境界での表現関係(つまり 口説きにおける意思表示の形式の問題)を除けば 性愛関係は その特別の対(つい)関係にあって いっさい自由だと考えられる。

この回答への補足

 ブラジュローヌさん、おはようございます。
・ポールとポーラが性に対して臆病ではなかった、ということには合点が行きました。

・性愛について、愛が性愛よりも偉い、というヒエラルキアを、私は否定してみます、というかその差を曖昧にしてみます、そこに従属はないのだという意見を書きます。

 あまりモテていなさそうなブラジュローヌさんに、更にモテていない私がこんな所でひっそり性愛について話すのはなんだかこっけいでかなしい気がしますが、
 それでも愛とはどういうものかを記してみますと、
 私にとって愛とは自らを十全に発揮すること、さらに個々どうしが相互の十全な発揮を妨げないことだと記します。

 愛ではどうもイメージが湧きにくく、言葉で示そうという気概が感じられず、
 なので友愛にします、好きな気持ちでもいいと思いますが、
 友愛もなるべくお互いを十全に発揮させあうことで、
 性愛も男女が自らやお互いの性を十全に発揮させあうことでしょうから、それは友愛でもあり、
 そして友愛も性愛なのだと思うのですが、
 友愛(愛一般)と性愛との区分を曖昧にするのをがんばる私で、

 友愛もまたどこかしら性愛なのだと思います、友愛にも性愛がひそんでいるという意味で、
 私は幼児のころから十代の半ばごろまでは友達がいましたが、
 ふりかえれば性愛的な気分をともないつつ友人と接していました、心のどこかで。
 四歳のころですが、私と同性の友人は意味もなく何となしに下半身を裸にしてベッドに入り笑っていました、変態児童です、
 少年期に私は、男子に対しても女子に対してもどこかしら伴侶のような気分で関わっていましたし、
 友愛つまり愛一般は、おそらく個々の関係において、それは家族間においても、性愛的な気分を含んでいます、

 けれどもいちいち友愛を性行為に発展させていては疲れますから、伴侶を選ぶのだと思います、
 その選択をする際に性的な境界の突破が起き、その前に口説く必要があり、これがいったいなにをどんなふうにすればいいのか私には分かりませんが、
 口説いて合意がなされなければそれは和姦ではなくレイプになってしまうのでしょう、
 性行為ではレイプは悪く、こどもを犯す行為もいけないことらしく、おとなの性愛でもまず合意は必要で、
 けれどもその合意は、言葉によるものであるべきなのでしょうか。

補足日時:2009/03/15 09:19
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この回答へのお礼

 青年ポールは言葉というものをとても信じ、言葉ばかりを重視しているようですが、
 ポーラさんはあまり言葉というものを重視せず、言葉を信じられずにいるようなのか、なぜなのか、
 ぼんやり屋な青年ポールはなぞめいたひとで、彼の言葉がはたして彼の本心なのかはわからず、嘘ではないものの本心でもないような言葉をしばしば放つポールなのか、
 あるいは他のひとびとの言葉が信用できないものなら、ポーラさんにとり人の言葉は信用できないものであり、重要なものではなく、
 
 けれども男女は信頼しあわねば、つがいになれず、
 つがいになるのは虫や魚や鳥もで、その際に歌や踊りで口説くかのように魅了し、
 性愛の合意を形成するときに言葉による合意にこだわることは、ないのではないですか、と思います、
 フィーリングですか、まったく知りませんが、めっぽう疎いですが、
 あやふやなものでなされる合意かもしれず、合意というか、一発契約による合意のようなデジタルなものではなくて、
 幾度かの性愛行為を重ねつつ、お互いの体のほうが無意識な合意の度合いを、高めたり深めたりするとか、

 仲良しなセックスが始まればそれは一度ばかりではないでしょうし、世界中の夫婦たちは、いちいちセックスのたびに言葉による合意をしているのかどうか、
 まず一度目のセックスが肝心なのだとしても、友愛(愛一般)の地平と性愛の地平が同じ程度の偉さだとすれば、友愛から性愛への移行は、ふたりが更に仲良くなるということで、それ以外のひととの性愛行為の可能性は一時的になくなるものの、性的な愛は、子供もできうるし、それはおめでたい移行で、
 男女どちらが先に合意を強く求めても、それによるヒエラルキアはうまれず、性愛を求めたほうが下位につくことはなく、
 青年ポールの働きかけで友愛が性愛になるとしても、性愛と友愛が平等なら、ポーラさんに優位性が生じることはない、という結論になりそうですが、

 しかし私にとり女性は明日への希望で、女性はヒトという種の根幹であり男性は女性よりは末節に近く、補助ですから、
 女性のポーラさんに、男性のポールは、どこまでもひざまずくのが良いと思います。

お礼日時:2009/03/15 09:39

 ni_shi_naさん こんにちは。


 のらりくらりでもないのですが――ご自分のお考えで いなしながら お答えいただいているようですが―― 話が いま一つ その先へ進まないようでもあります。

 もう一点 こちらから 問いかけてみたいと思います。
 《Q:男と女――その対等性について問います》
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3689191.html
 という質問をしたことがあります。対等性を問うとは 男女間のヒエラルキアの問題です。
 いい加減程度なら ギュナルキア( gynarchy / gynecocracy )でよいとおっしゃっていますが いちど 考えてみてください。わたしとしては 対等性を問い求めています。
 要するに この質問に 回答を寄せるかたちで お考えをおしえてください。

 注文の多いレストランのごとくにて。

この回答への補足

4:40 2009/03/14

 おはようございますブラジュローヌさん。
 
 ポールとポーラの物語を読み、
 そこには男と女のヒエラルキー、というか対等のような似た者同士のような、どっちもどっちのようで、
 この二人は、臆病な二人で、少年少女のころからの、性に対する臆病さを共有しあいつづけているようで、

 男性の性、男性の本能に対する臆病さを、互いに増幅しあっているのだと思いました、
 理性が暴走して、本能を過度に抑圧したり、性欲に対して怯えているような、

 ノエマ1970さんの回答が面白かったです、経験豊富なひとのようで、
 私は童貞ですけれど、ひとは自らの性を生きるものだと思い、
 ポールとポーラは人間さま意識をもっていますけれど、いぬねこの性もひとの性もそこに上下はなく、
 生き物の性にヒエラルキーを設けることは、よくないような気がします。
 虫のセックスもペンギンのセックスもヒトのセックスも同列で、
 ただ、やりすぎるのは良くないという、ほどほどがかんじんらしく、

 ポールとポーラは日本人のようですが、なぜか名前がバタくさくて、
 聖書もバタくさいのだと思います、なんとなくですが、
 旧約聖書は、親の言うことを聞かない子供たちへのいさめなのでしょうか、
 新約聖書はセックスやオナニーばかりしているひとびとへのいさめなのでしょうか、
 いずれも書かれた時と場所の、その状況においての、規範なのだと思い、
 歴史や文化や、決まりごとは、その時その場、その国々のひとびとで異なっているのが自然で、
 時代と場所が違う、今ここの世界には、通用しえないはずのものだと思い、
 けれどもひとによっては、昔のヨーロッパのひとと合う場合もあり、器質的にですか、
 ブラジュローヌさんはヨーロッパの昔のひとっぽいのだと思います、聖書を要請したひとびとに似ているのだと思います、
 ポールは健康優良児で、しかもぼうっとしていたのなら、それは、本能の暴走には気をつけねばならなそうで、

 言葉は理性的なもので、本能をいさめるための言葉であるならますます、
 本能と理性の対決がおこり、そこにおける勝ち負けで、心身の中でヒエラルキアが生まれ、
 脳がペニスに勝ち、理性が性欲に勝ち、そのヒエラルキア、

 聖書というものは、男性の理性に都合が良い規範なのだろうと思います、
 男性の本能、男性の理性、女性の本能、女性の理性、という四者があるとして、
 聖書は、あるいは教会は、男女の理性を贔屓にしすぎているのだと思います、
 それを教えにすると、本能や性欲が、そういう行過ぎた理性に抑え込まれてしまい、
 そういうヒエラルキーは、よくないだろうと思うのですが、必要な器質のひともいるのでしょう、

 ポールとポーラは、男女の理性を贔屓しすぎていて、男女の本能を蔑視している、そんなヒエラルキア、
 相手が、というか自分が本能をのぞかせれば、それはルールブックに違反していることだとして、自分を罰してしまう、のかも、

 憲法は民が国権を縛り付けるためのものらしく、
 法というものは理性に似ているのか本能に似ているのか、国権は理性的なものなのか本能的なのか、
 理性が本能を縛り付けすぎないようにするにはどうしたらいいのでしょう、
 自分や他者の本能からの声をよく聞くとよいと思い、性欲や本能からの声は堕ちた声だとすると、語らいは成り立ちにくく、
 理性が、本能や性欲やけものの交尾を見下すのはヒエラルキアで、
 性欲や本能が、理性を無視し軽んじるのもヒエラルキアで、

 歴史においてや、現在において男性たちがしていること、とくにいさかいやら戦争やらを思うと、もう基本的に女尊男卑の思想が蔓延するのが自然だと思うのですが、フェミニズムを更に極端にしてしまって、
 男性はせかいへいわのために社会や政治からはもう謹慎するのがよいと思い、
 女性に都合の良い世界でよいと思い、男性の発言権というか、投票においての男性の一票の重みを女性の四分の三くらいに抑えるとか、

 ポールとポーラの記述を読みながら、映画の、いつか読書をする日、という作品を連想しました、
 岸辺一徳と、あと能面顔の女優の話で、熟れて奥手な男女の物語でした、

 なんでもヒトは女がベースで、男も女の体をベースにできていて、
 なら男というのもは一時的な、女のための補助生物なのだと思い、
 男はつつましい伴侶であるべきで、べきで、

 男女それぞれにとり他者とくに異性は、なに考えているか分からず、
 女性は、自他の差に怯えやすいのかもしれず、相手の心を読もうとして、けれども演技や沈黙が入り、
 臆病さというものが、私においても、かなり、余計なものだと思い、

補足日時:2009/03/14 06:20
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この回答へのお礼

 ふと、ブラジュローヌさんと裸で抱き合う妄想を、布団の中でして、はあはあ、いけないと思い、あわて、
 きよめるために四、五人の女性と妄想の中で抱き合い、はあはあ、そして少しばかりの射精、

 愛は想像力で、相手におもいを馳せるのは愛のしるしなのだそうで、
 
 ヒエラルキアは他者が十全に自由にその他者らしくあることを許さないものだと思い、
 だから、ひとが自らを具体的に十全に生き、他者にもそうすることをゆるしているには、ヒエラルキアは邪魔で、
 ヒエラルキアはひとびとを萎縮させ、がんじがらめにする、

 堕落しまい、と思うことが、もうすでに、自分は今、上にいるのだというヒエラルキアで、
 坂口安吾さんは堕落せよと言い、それもヒエラルキアで、
 堕落なんかは、もしかするとなくて、誰かにとって都合の悪いことを堕落だと呼んでいるだけかも知れず、
 都合に合わせることも自然でよいのでしょうけれど、
 踏み外すことを恐れすぎることは不自然で、境界を越えるときに新しいものごとが生まれ、
 
 ポールもポーラも臆病すぎて、がんじがらめで、
 男性の性は、狼でもあるかもしれないけれど、女性の手下になる男性なら、子犬のようにしっぽをふって、かわいくて、
 そんな子犬を愛する女性も可愛らしくて、

 修道院というところでは、男性性に対する臆病さが、理性の暴走によって高められているかも知れず、

 少年ポールが、自らの性に対し、その暴走を危惧していたとして、
 その性への自戒やら恐怖やらが、ポーラにも乗り移ったりしていて、恐怖の共有で、
 
 性について正直に語らうことのできる同性、同年代の友人の獲得は青年期には必要なことで、

 恋だの出産だのは自然で美しいものだと思うものの、
 けれども恋や育児に失敗することも悲しいけれど十分自然なことだとも思い、

 女性も女性の群れも無様だけれど、男性よりはまだましだと思い、どんな男性も私よりはましだと思い、
 女性たちが政治や社会の中枢をになっても、腐敗はするのでしょうけれど、女性も臆病なようですし、

 うんこしたくなりましたし、そろそろ父が起きてきますし、まだまだ父への気持ちに改善は起きず、
 こんな文を回答にします。

お礼日時:2009/03/14 06:27

 ni_shi_naさん ご返答をありがとうございます。



 その昔 《油断》ということが 文字通り 起こるかに思われたときがありました。中東から石油が来なくなるのではないかという危機です。
 ▲ オイルショック
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B2%B9% …
 ☆ 話は 下世話になります。このとき 政府・役人は アラブ産油国の担当役人と 実懇になる必要があるというので かれらを日本に招待し 上を下へのもてなしをしたそうです。その中で――聞いた話ですが―― 最高級の娼婦に 渡りをつけて かのじょらをあてがい さらに もてなしたと言います。ムスリムの方々も そのことを拒否しなかったそうです。というより 漏れ聞くところでは 所望したとか言います。
 ひとつの見方として このような《努力》があったからこそ 石油の輸入も 途切れることなく 経済成長も 成し遂げることが出来たという議論があります。
 どう考えますか?
 ヒエラルキアにかかわると思っての問いかけです。


 《Q:自我にとっての絶対悪は愛ではないですか。》
 この質問に対しては 《悟り》でなくてもよいですから 投稿してみては いかがですか。というのも わたしは その質問者とは 断絶しているからです。次のわたしの投稿が その理由となる事態です。
 《Q:人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか》No.45
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4632161.html
 その《自我》のほうの質問は きわめて まちがった見解がまかり通っていると考えます。妥当な見解を示すべきでしょう。

 今回も――二点ですが―― ぶっきらぼうのままにて。

この回答への補足

 こんにちは。仁科です。
 
 なんだかオイルショックの事例について、どう考えますかと問われましても、世界史は苦手で、
 まず私は生まれていませんでしたから、ウェブで調べるばかりなのですが、いったいどこまで調べればいいのやら、ムスリムとか、
 七十二人の処女とセックス、なんて思うとくらくらくるのですが、私の場合オナニーの際の妄想では多くても四、五人で、
 
 持っているものは持っていないものに対し威張るのでしょうか、
 相手が下手(したて)に出ているのを見ると、つい威張るのでしょうか、
 来日したムスリムの役人たちが、もしも女性たちだとしても、彼女たちがヒエラルキアに毒されていれば、
 あるいはそうでなくても、外国においてエロスを全開にし、外国の最高に素敵な男性をはべらせるのでしょうか、

 権力をかさに威張る男性よりも、同じように威張る女性のほうがより冷ややかかもしれません、
 なんとなく怖いです、もしも手下になるなら、あまり高濃度にヒエラルキアな女性よりは、
 中濃度か低濃度にヒエラルキアな女性の手下になりたいかもしれません。

 示されたオイルショックの例が、ヒエラルキアにかかわることだと思えば、たしかに
 オイルショックも政府も接待も娼婦もムスリムの役人も、ヒエラルキアだと思いますし、
 関係するひと全てにヒエラルキアはすり込まれていたのでしょう、
 高度経済成長は日本じゅうの人々が世界経済のヒエラルキアを駆け上った思い出なのでしょうし、

 松下幸之助の幸福観はたぶんまあ良いのでしょうけれど、道路や自動車が私は嫌いで、固い道とうるさい音がいやで、
 石油の出ない土地に暮らすひとびとは、石油に頼らない暮らしをしているのが自然だと思うのですが、

 母や妹にも訊けば、
 まあそういう(娼婦の)ひとびとのおかげもあるものの、そればかりでもなく、他の色んなひとびとも頑張ったのでしょう、
 と言いました。


 シフトさんと喧嘩しているのですか、
 自我にとり愛は敵か、ということについて昨日の夜すこし考えてみましたが、
 あまり、私は愛なんかとは、そんなに縁がうすいですし、私に妥当な見解をもてるか疑問です、
 
 ブラジュローヌさんがんばってください。  

補足日時:2009/03/12 15:36
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この回答へのお礼

 回答No.20の補足で、
「ルソーは……ウィキペディアの彼の顔はなんだかぼんやりしてて素敵」
 と書きましたが、ソローでした。
 ぼんやりしている顔はルソーではなくてソローです。

お礼日時:2009/03/12 16:36

 回答番号:No.22です。


 回答番号:No.3の投稿の思いを変革はしていない、回答番号:No.22のとうこうです、仁科先輩の仰せのように、No.22でも、『ヒエラル』を人為的で、大人世界からの次世代への警鐘的刷り込みと教育の内容であり、枠であるということは理解しております。
 大人社会で生きていくうえでの生きること、そして見ること、判断し理解するための強制的枠について、気づいたことをこのNo.22では、投稿しました。

 その他についても、自分ではそう齟齬してない気持ちでおります。
 というふうに先輩のお書き込みのご指摘を理解したつもりです。

 回答番号:No.3はそういう刷り込み以前に、大人の頭と生活社会にぶつかった時に大きなショックを経験したことを、主に内容として投稿しました。
 そして今、私はこの大人社会の枠と頭を、意識、認識のアプリオリ・カテゴリーにまでになっているかのような枠を出るようにしております。
 そういうような、其処から出た世界は無論、人為的な三角錐という枠の無い原初世界となるのでしょうかね。

この回答への補足

 仁科ですが、仁科先輩ではありません。
 先輩と後輩のたて割り関係はヒエラルキーなので嫌で、変な感じです。
 苗字というものがダメなのかも知れないと言う私なのに仁科というのも苗字で。

 krya1998さんの過去に興味が湧きまして、
 krya1998さんの過去の質問や回答をこっそり読んでみようかと思います。

 あんまり、頭や意識や認識を、くわしく自覚したり、いじったりするのは、不自然だったり、不健康なことだったり、するのではないのですか、と思います。

 ヒエラルキーの枠組みは、あらゆるところで長いあいだ用いられてきたものでしょうから、
 今の社会で、多くの人が仲良く生きる方法としてヒエラルキーを用いているのなら、
 それにも良いところはあるでしょうし、不完全だからといって安易に否定するのはよしたいと思います。

 その枠から急に出るのは危ないことかもしれません。
 よりどころがなくなると不安でしょうし、廃人になったり、ボケてしまったりするかもしれませんし。

 息抜きやガス抜き程度に、たまにか、しばしば、ヒエラルの枠から出るくらいでよいかもしれないと思い、
 ひとりになったり、自然の中に遊んだり、無礼講などしたりして。

 ウェブで今、学者さんたちの、社会についての意見を読み、私は自分の考えの足りなさに自分で呆れています。自信喪失というか、自分に対する過信や妄信を失いました。
 私はもっと落ち着いて巧く細かく考えるべきだと思います。事実を正しく知りながら、適度に考えを改善してゆこうと思います。
 当たり前なことなのでしょうが、私は本当に要勉強です。 

補足日時:2009/03/12 12:03
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 bragelone です。



 いくつか話題があるのですが 二点に絞ります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 日本は、仕事を失えば路頭に迷うらしく・・・
 よその国の仕組みを代替案として採用したらいいという意見があるなら、私もそれに賛同する気はまんまんで、
 各市町村の女性代議士の群れに頑張って欲しいところかも分かりません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 依然のアマゾンのアボリジニーの話のごとく その国や社会には それぞれの歴史と文化があって ほかの国で成功した政策だからと言って 簡単に  採用しても 効果があるかどうか分からないという議論があります。
 この場合 日本人は 高福祉・高負担の方式は 嫌うのではないかという消極論です。中福祉・中負担がいいのではないかというものです。
 そこまで 文章責任を負うのが 一介の市民です。と思います。

 いま
 《Q:自我にとっての絶対悪は愛ではないですか。》
という質問が出ています。あなたの《悟り》を これに対しても おすそ分けしてみるのは どうですか。

 ぶっきらぼうのままにて。

この回答への補足

 なにかと極端な仁科です。

 はっ。
 「中」というのは、なんだかよいですね。
 「中」には私も弱いです。ほかの日本人たちも「中」には弱いことと思います。
 「中福祉・中負担」、あるいはためしに「高」も、社会実験として、どこかの市町村で試してみたら、どうなのでしょうか、
 などと、無責任ですが、無職で税金もろくに納めていない身で、

 軽口みたいな私の文にも残念なことに文章責任がつきまとう。
 私は責任をまとうことに違和感というかたじろぎがあります、
 腰が引けます、全く大人でない私で、責任とか、仕事とか、そういうことを担えるプロのひとの心境が分かりません。
 どうして責任なんか負えているのでしょうか、計り知れません。

 私は悟ってないです。
 言わずもがなですが。

補足日時:2009/03/11 16:26
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