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この時代のテレビドラマは、大河ドラマをはじめとして非常に多く製作されていますが、見ていていつも気になるのは、織田信長の時代に、信長は家康を厚遇しているような描写が多いことです。その頃、確かに信長と家康は同盟していたとはいえ、力や勢いでは信長の方がはるかに上で、足利義昭にもあれだけ不遜な態度をとっていた信長が家康にだけ賓客のように扱っていたというのが信じられないのですが(秀吉に対しては「さる」なのに、家康に対しては「家康殿」などと言っています)。このような家康の「持ち上げ」は、やっぱり後で幕府を開いたことによる製作者のご祝儀相場であると考えていいでしょうか?実際の信長は家康に対し、もっと偉そうな態度をとっていただろうと考えている私が間違っているでしょうか?

A 回答 (6件)

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。



信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田家の敵であったわけですが、これは「戦国の習い」であり、致し方ないものとされたでしょう。

今川義元の死後しばらくして家康は今川氏真と手を切り、信長と同盟を結んで背後の憂いを経ちました。この時に家康が信長の居城である清洲城を訪問したといわれますが、ここで両者は約20年前の思い出を語り合ったと想像できます。この時期に織田と徳川が同盟し、信長の死までの20年間揺るぎなく同盟が継続したのも、「信長・家康の少年時代の良き思い出」があったからかもしれません。

その後、信長の娘の五徳姫が家康の嫡男の信康に嫁いで血縁関係が結ばれ、信長と家康は誠実に同盟義務を果たしあったと評価できます。

家康は朝倉攻撃(浅井の裏切りで失敗に終わる)や姉川の合戦で近江に出陣して信長を助けましたが、一方で家康は主敵である武田信玄・武田勝頼との抗争で少なくとも3度、織田からの援軍を得ています。

(1) 三方ヶ原の戦いの前後 (信長は、足利義昭が諸大名を扇動して形成した『信長包囲網』でがんじがらめにされていましたが、約3千人の援軍を出しました。この兵力は、家康が浜松城に篭城して信玄に対抗するのであれば大きな戦力となります)

(2) 信玄の死後、勝頼が遠江の高天神城を攻略した時 (結果として援軍は間に合いませんでしたが、信長自身が出馬しました)

(3) 勝頼が長篠城を攻囲した時 (信長の本拠地から近いこともあり、信長自身が大兵力を率いて出馬し、家康軍と共同して、長篠の合戦で大勝利を収めました)

長篠の合戦で武田軍が大損害を蒙った後は、武田と織田+徳川のパワーバランスが明らかに武田に不利になりましたので、武田が積極的に織田・徳川に戦を仕掛けてくることは減りましたが、長篠の合戦の後は家康が信長の合戦に援軍として参加することはなくなり、徳川が独力で武田の脅威を排除する(排除できる)ようになっていたようです。結果として、遠江から武田の勢力は次第に駆逐され、家康は三河・遠江の二国の太守となりました。

「信長が、家康の嫡男の信康と正室の築山殿の処刑を家康に命じた」
とされる事件ですが、近年の研究では
「信康と五徳姫の仲が悪かったのは事実のようだが、五徳姫が信康の非を父の信長に訴え、それが信康と築山殿の『信長から家康への処刑命令』につながった」
というのは俗説であるとする見方が有力になっているようです。

史料から伺えることは、
「家康と信康との間に対立が生じ、家康が自分の意思で信康を幽閉、次いで切腹させた。信長は『家康殿の思うように処置されれば良い』という立場であった」
ということのようです。

現に、織田と徳川の同盟は信康の死の後も全く揺らいだ形跡はありません。
これは私見ですが、
「『家康が嫡子である信康と対立して腹を切らせた』というのは、信玄の嫡子の義信に対する仕打ちと全く同じで人倫にもとり、外聞が悪い。『信長に命じられて止む無く腹を切らせた』とすれば、家康の名誉が守られる」
ということで、江戸時代になってストーリーを作ったのではないかと考えます。

また、信長の死後に、羽柴秀吉と対立した織田信雄を助ける形で、家康は小牧・長久手の合戦を戦っています。
後世から見れば、「家康の武略に秀吉が翻弄された」「羽柴と織田の対立を徳川が利用した」ようにも見えますが、実際の所、兵力では羽柴軍は徳川・織田軍より圧倒的に優位です。羽柴軍の戦いようによっては「圧倒的な兵力で徳川を押し潰す」ことも可能であり、家康はそれを覚悟して開戦した筈です。
「家康が、信長の死後も友諠を忘れていなかった」状況証拠となるでしょう。

家康が信長に対してどのような感情を持っていたのかは史料からはなかなか伺えませんが、状況証拠として、
「関ヶ原の戦いの後で家康が天下を取った後の、信長の子孫への待遇」
で推し量れるのではないでしょうか。

関ヶ原の合戦で家康に明らかに敵対し、剃髪して高野山に上った織田秀信は仕方ないとして、

信長の弟の織田長益(有楽斎)
信長の不肖の子であった信雄

の二名が、1600年現在で生き残っていた信長の主な近親ですが、家康はいずれにも「大名」の地位を与えております。

信長の縁者の江戸時代以降の状況については、ウィキペディアに詳細に書かれていますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0% …
さしたる武功もなく、「積極的ながら西軍についた」者も少なくない中で、天下人となった家康は、信長の縁者を十分に優遇していると言えるのではないでしょうか。
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織田家には長篠を終えるまで徳川と戦う余力はありません。


常に戦続きで、自分に匹敵する強敵を抱えていました。
もし徳川が寝返れば、織田家は根本から崩壊します。
それまでは徳川を自陣営に引き留めておくため、賓客扱いでしょう。

足利義昭や秀吉など、いざとなったらいかようにも切り捨てられるし、他のものに替えるまでです。重要性が段違いなので比較になりません。
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大名を自分の家臣のような言い方をすると


フロイセンは記載しています。

実際、
ボクサーは相手を見下すような言い方をしますが本心はどうでしょう?
この考え方で勝てるでしょうか?

答えはノーです。

祭りの時、
庶民と一緒に上は裸になって踊り、会話して体を拭いてやったりしていた。と言う記録が残っていますし、民衆の評判をえらく気にしていたとあります。

それと逆に、逆らう民衆千人を処刑したとあります。
気性が荒いと言われる根拠ですが、家康にしろ大名の多くは同じ行動
(見せしめ)はしています。

服従していれば多くの福をもたらしますが、
裏切りは即刻死を意味します。

それ所か、庶民の元へは行けません。

家康とサルには「絶対的な信頼」を置いていたと思います。
本心も見せたと思います。

主君を変え、頭が良く、
私なら信長様のような策でなくこうするのだがな。
と言う逆らい好きの方には、うわべを見せたと思います。

服従させる努力などしない。気に入らないから殺しただけだと。
気に入らなければ家臣でもその場で切る。
そう言う人間だと。

本質を見極められる人間は少ないのです。
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信長は主に西に向かって侵攻していきますので、その背後に当たる


東隣の支配者であった家康を下に置かぬ対応はしなければならなかったと
思います。ただ質問者さんが指摘されているように後世に作られた映画や
小説の中では江戸幕府を開いた偉大な家康に配慮している可能性も
指摘されています。家康が少年時代、信長に会って天下取りを約束したと
いうのもご祝儀相場と言われています。
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 実質的には、織田家の武将のようにあちこちの合戦にこき使って、実際に対面した時は、対等に接して持ち上げるのは、外交の初歩です。


 言葉一つや、接待の宴会費用で数千の強兵を扱えるなら、安い買い物です。

 部下を多数死傷させるような戦いで、家康をこき使った上に、家康の部下のいる前で、「さる」や軍備を全く持たないお飾りの足利義昭のように扱ったのでは、家康の部下が黙っていません。例え家康が信長に従おうとしても、部下が付いてこないでしょう。

 家康の正室・嫡男を殺す指示を与えた(軍事戦略上必要だった)ように、必要となればぎりぎりの要求をしなければなりません。不必要な不快感を家康家中に広めるわけにはいきません。
 家康を軽んじ、正室・嫡男を殺す指示を与えたのでは、数千の軍を持つ徳川家は、信長についてきません。
 家康を重んじるが、正室・嫡男は不行き届き。これなら、側室がいて子供の多い時代ですから、徳川家の離反はないかもしれません。(それでなくとも、信長は多くの同盟武将の離反に悩まされ、最後は明智光秀の謀反に至りました。)

 武田信玄が死ぬ前に、家康の領国に侵入しましたが(三方ゲ原の戦を含む軍事行動)、これが上洛の軍なのかどうか議論があります。

 基本的に、武田軍の総兵力で京都まで、織田・徳川軍と戦いながら進むのでは兵站(補給能力)・兵力に無理がありすぎます。(織田・徳川方の領土内を進むので、総兵力は3倍近くの差になりますし、城攻めになる武田側は一層無理となります。)

 歴史上の記録として表に出てきていませんが、私は武田側から家康に対して、度重なる同盟の誘いがあったものと考えています。武田軍の力を見せながら、家康本隊はできるだけ叩かないで、同盟を働きかけるという基本方針で、家康領に侵入したのではないかと考えています。(このときの戦いは、三方ゲ原まではあまり大きな戦いをしていません。

 織田・徳川対武田では、上洛できないが、織田対徳川・武田なら、織田を潰して上洛できるという、信玄最後の賭けではなかったかと思います。

 ですから、他の人が見ている前では、家康を立てるという信長の方針は、実際もその通りであったと思います。
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>織田信長と徳川家康の関係



             ↓
私は浅学ながら、歴史が大好きです。
中でも、源平・南北朝・戦国・幕末時代は登場人物のユニークさや活躍に心は躍り、感動と感涙に時間の経つのを忘れ、様々な読み物・ドラマ・映画を堪能しております。


戦国時代を平定統一した→信長・秀吉・家康は何かにつけ、比較・例えられ、エピソードも多いですが・・・
その中で、3者3様の生涯において→微妙な上下関係・出自・境遇でのシンパシーと超え難い身分差&コンプレックスがあったのでは・・・。


◇信長と家康の関係<順不同、私見>

*同じような弱小国(尾張・三河)の嫡男に生まれた。

*幼少時に家康は、駿府(今川)と尾張(織田)の人質として預けられていて、織田家では当時の御曹司である信長と子供同士のある種の同情(友情?)と連帯感が芽生えていたのではないでしょうか。

秀吉は、身分が百姓であり、信長から見れば全くの子飼いの部下であり、家康とは扱いや接し方で自然と異なる。


*その後の、今川家の没落後は逸早く同盟関係を結び、朝倉攻めや武田との戦では→家康は小なりと言えども同盟軍の首領であり、その立場に沿った接遇を行った。

信長から見れば、己の戦力の一部を与えている傘下の中の、秀吉は単なる一軍の部隊長であり、多くの部隊長クラスで忠節と戦功を競争させる持ち駒の1枚であった。

◇天下布武の志を体現するには、余にも多くのライバルが存在し、且つ四囲を囲まれていたので、少なくとも心を許し、手を取り協力してくれる弟分、助っ人として評価&利用価値を認めていたのではないでしょうか・・・。

但し、上下関係の誇示なり、裏切りや危険視すれば容赦無しの睨みも利かせていたのが→「家康の嫡子・信康への娘の輿入れと武田との連携疑惑で築山殿&信康への処置:殺害命令ではないだろうか?」。

◇歴史にifは無意味かもしれないが・・・

もしも、本能寺の変が無ければ全国統一が早まり、それが固まり完成する前の信長の死後は跡目争いが激化→信長の子息と後見役の諸将がどんな生き様を見せ収斂して行くのだろうか?。

その過程で、織田直心の部下大名と同盟軍(徳川)、帰順した大名の中での、ライバルの反目・対立・合従連衡が激化したり、信長の適材適所と役立たずの切捨ての中では、サバイバル競争で誰が生き残り、織田家の世襲なのか?
それとも誰が天下人の座を勝ち取ったかは興味深い題材であり面白い推理ゲームである。
<私は、その場合は年齢的に見て、ポスト信長・秀吉・家康世代は→第2次戦国時代に突入し、九州(島津)・中国(毛利)・四国(長曾我部)・近畿北陸(織田家の有力大名集団指導体制)・東海(徳川)・関東(上杉)・東北(伊達)での群雄割拠が続いたと思います>
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