アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

一部の宗教では、罪も悔い改めれば許されるみたいに言いますよね? 免罪符の考え方です。


私はどうかと思います。罪の内容、その原因(わざとじゃない)などでは許されるのもあるでしょう。

でも、中には、救いようのない罪もあるでしょう。何がそれに当たるかは、不問とします。


それでも、悔い改めれば許されるんですか? なんか、納得いきませんね。

皆さん、「免罪符な考え方」について、どう思いますか?

A 回答 (10件)

信じ悔い改めればということですが


本来の悔い改めというのは「もうしない」というのではなくやる気もなくなる。興味もなくなるという感じです。
キリスト教で言えば癒されるとも言います。
    • good
    • 0

どこの宗教多かれ少なかれ簡単に罪をチャラにするとか難しい経典を読んだ事にするとか遠くの聖地まで行った事にするとかあります。


まぁ免罪符もその一種でしょう。

>皆さん、「免罪符な考え方」について、どう思いますか?
実生活でもあるでしょう。
    • good
    • 0

それは、自分の中でどれほど悔いているかに依るでしょう。


人間的には大きな罪は許しがたいけど、天の尺度は人間の尺度とは異なるし、表面的なものではなく、真実の姿で測れるでしょうから。

悔いれば許されると考えて犯す罪なら、意図せずに犯してしまった重罪より重いと思います。
また、無智による罪も重いでしょう。この場合の無智は無知とは違います。無知は、その罪の存在を知らないこと。年齢を超えたのにうっかり女性風呂に入ってしまう男子なんていうのはこの類でしょう。
でも、幼児でなければ、いたずら書きなどは例え禁止と言う札がなくても常識として公的な場所に名前などを書く事の是非は判るはずです。これが無智の罪です。

私はカトリックですが「悔い改めよ、されば天国の門は開かれる」というのは生易しい事ではないと思っています。
基準は人それぞれでしょうが、振り分けるのは私達ではなく天ですから。
煉獄と言う概念があります。簡単に言えば許されるべき罪であれば一定期間煉獄に止まってから天国に入るんだと習いました。しかしその苦しみは、時間は一瞬でも地獄の方が遥かに楽だと思うくらいきついと教わりました。
悔いて許される「悔いる」という行為はこの煉獄の辛さを自ら科す事に匹敵すると思います。

ちなみに親鸞の教えの「悪人」は凡夫の事で、悪人と言うより非善人と言うべきだと思います。人はすべからく罪を犯しやすいもので「善人は極楽浄土に入れるが、自らを善人と考える者より、自らを弱い者だと自覚して救済を求めて努力している者こそ極楽浄土に入れる者だ」と言う意味だと解釈しています。
    • good
    • 0

罪について考えるときに整理すべきことがあると思います。


「誰に対して罪を犯したか?」という点です。
聖書では「神に対して犯した罪」と「人に対して犯した罪」に分けられます。
このことを考えるにあたって簡単な例えをお話してみたいと思います。
仮にある会社(世界全体を意味します)があるとします。
そこには社長(神、世界を創造しました)と
会社員(全人類を意味します)がいます。
ある時、A社員とB社員が意見の相違で喧嘩になり、A社員がB社員に大怪我をさせてしまい、B社員は病院に入院するはめになってしまいました。
さてこの場合A社員は誰に対して損害を与えた(罪を犯した)のでしょうか?もちろんB社員に対してでしょう。
ですがB社員が休むことによって損害をこうむるのは会社でもあり、
最終的にその損害の行き着く先は社長なのです。
A社員はB社員に害を加えたと同時に社長の経営に害を加えました。
このように人が人に対して罪を犯すとき、同時に人は神に罪を犯すことになるのです。
「悔い改めれば許される」とはこの時の後者にあたる、神に対して犯した罪に該当します。
人に対して犯した罪に関して聖書ではきちんと償うように戒められています。
「悔い改めれば救われる」という言葉が独り歩きし、人に対する罪に適用されることが多く安直すぎると反感を買われることが多いと思いますが前述しましたとおりそれは誤解なのです。

ところで問題なのが「人に対する罪」を償う人は多いのですが(法律があるので仕方なくでも)
「神に対する罪」を償う人は少ないのです。
会社において通常、仕事のミスを金額換算すると、とんでもない額になるものです。
聖書では神に対して犯した罪と、人に対して犯した罪を金額換算して、その損害の度合いを比喩している箇所があります。(マタイによる福音書18章21節ー35節)
神に対する罪は1万タラント(現在の日本円にすると約6千億円)
人に対する罪は百デナリ(百万円)
比べ物になりませんね。
人に対する損害は償えそうですが、神に対してはどうでしょうか?
「これはひどすぎる、何様だ!」と思われるかもしれませんが、
神様なのです。これは心で感じるべきことですが
すべてを神が造られたならば、
そして神御自身がが絶対に犯すべからず、神聖な存在なれば当然の評価と言えるでしょう。
しかし神は神聖であるだけではありません。
愛なのです。
だから人を許したい。
しかし神は愛だけではありません。
神は義であり不当なことはされません。
だから神はあなたの代わりに六千億円払おうじゃないか!と考えられたのです。
ですから神は神のひとり子を人間にならせ、罪のない血を十字架上で流させたのです。
「イエス・キリストの血は私のための六千億円だ・・」と信じるひとは神に対する罪が許されます。

「悔い改めれば救われる」といいますけど「悔い改める」とは
「ごめん、悪かった、もうしない、許してくれ!」といってのた打ち回ることではありません。
「悔い改める」のギリシャ原語は「思いを変える」という意味です。
ですから今度からこういうのはどうでしょうか?
「思いを変えてイエスの血は私の神に対する罪を許す価値がある、と信じるものは救われる。」と・・・

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。  ヨハネ第一の手紙4章10節

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
コリント人への手紙第二 5章21節

 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
  すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ローマ人への手紙3章22-24節
    • good
    • 0

>罪も悔い改めれば許されるみたいに言いますよね? 免罪符の考え方です



それはちょっと違うんじゃないかなとは思いますね。免罪符的な考え方というのは「これ(お札とかお守とか献金とか)を買えばあなたの罪は許される」というものです。たぶん、こういうことってはっきりいって全ての宗教でやっていると思います。
人間はさほど強い生き物ではないですからね。そういうニーズが世界中どこの国でも、いつの時代でもあるということでしょう。

で、本来の考え方というのは「罪を犯した人は、その罪の重さを骨身に沁みて知っているから、それを心の底から悔い改めたならその人は罪を犯してない人より罪が許されるはずだ」というものだと思います。
イエスの考え方や歎異抄(善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや)なんかはそういう考えだと思います。

キリスト教を始めとした一神教(ユダヤ教やイスラム教も該当します)では「人類には原罪がある」という思想があります。人は生まれながらにして罪を負っているという考え方です。だから「悔い改めれば許される」という思想がでてきます。
しかし、日本人には代々続く根っからのキリスト教信者でもない限りこの原罪という考え方がありません。私もこの原罪というものが全くピンとこないです。だから、「悔い改めれば許される」という思想がなんとなく違和感を感じるのです。
ただし、日本人には「悔い改める」という思想はないですが「水に流す」という思想があります。穢(けが)れは清い水に漬ければ流されるという考え方です。清流が多い日本ならではなんでしょうね。
    • good
    • 0

許すのは罪を犯した人でなく周りの人です。


本人は罪を犯したという事実も消せないし、一生その罰を受けることになるでしょう。
ただ、その罪を周りや本人が攻め続けてしまい、その後の人生を前向きに進めなくなるようなことはいけませんからね。
    • good
    • 0

そのような宗教は、


誰でも平等に許される事が「主」なのではなく、
どんな酷い事をやらかしても、それを全て許してしまうという偉大な存在が「主」であり、
だから、崇めよ!称えよ!許されよ!であり、
その存在に創造されたのが、人間なのか
救われたい人間が、その存在を創造したのか…

神のみぞ知る?…というところでしょうか。
    • good
    • 0

私は「罪を犯した相手から許されること」が免罪符だと思ってます。



一生のうちで許されることがなかったら、何度生まれ変わっても許されるまで罪を償うのだと。
    • good
    • 0

日本人は唯一神という考えを持ちません。

これは宗教観が生まれたころから共通しています。その上海がありましたから、先に宗教観だけが完成してしまってから他宗教が入ってきましたので、その宗教が生まれた土地では唯一神でもこと日本では多くの神々の中の一つと言う位置付け(その宗教の信者を除く)が主となってしまいました。(それが証拠に、日本人は赤ちゃんの時にお宮参りに行き、青春時代に異性とクリスマスを楽しみ、死ねばお経をあげてもらう民族です。しかもインシャアラーと言う言葉の意味を自分は特に否定する気になれません。この様な民族では絶対神の宗教観を持つ国の国民からは信頼は得られません)

ところが「悔い改めよ」と説いた宗教はどうかと言うと唯一神的考え(厳密には違っても、その宗教を流れるベースは唯一神的な考えです)、つまり神を人間以上の絶対者としての位置付けとなります。そうすれば、その神に対して悔い改めれば救われるというワケです。

そう考えればあなたが疑問に思うのも無理はありません。アミニズム(多神教)的考えでは納得いく方がおかしい事になります。しかし、絶対神的考えでは納得いく考えになります。宗教観の違いとして考えた方がいいと思いますよ。
    • good
    • 0

確かに何でも許されるなら、何をしても良いと


思うやつがでてきます。
便利な考えのようで、おそろしいです。
誰がいったい許すのでしょうか?
結局は自己満足になります。
許されるのではなく、二度と同じ過ちをせず、
人に対して寛容になり、ためになる人になるよう
努力することです。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!