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お世話になります。

偶有(性)とは、”ものに付け加わったり失われたりして、そのものが、そのものであることには関わらない(必然性のない)付帯的な性質をいう”とのことらしいのですが、思想家によっては「属性」「様態」とも呼ぶということです。

そこで質問です。「属性」と言われると、バナナで言えば「黄色」に当たりますが、「黄色」が本質的性質ではないとは思えません。
より正確に言えば、本質の範囲がわかりません。

A 回答 (6件)

興味深い質問ですね。


素人考え休みに似たり(?)ですが、参考までに。

「バナナ」をどのように見るかで「本質」も変わってくるのではないでしょうか。フランスの哲学者サルトルは「実存は本質に先立つ」といっていました。
たとえばこうです。「バナナ」を食べ物という観点からみる人にとっては「黄色い」は「たまたま黄色い(偶有性)」だけであり、「赤いバナナ」でも「バナナに変わりはない、食べられればいいんだよ(本質)」ということになります。

また生物(遺伝子)学者にとっては「遺伝子構造」が「バナナであるかどうか(本質)」の決めてであり、「黄色い」かどうかは「たんなる一性質」でしょう。
ようは「バナナ」をどう見るかによります。「どう見るかによる」なんていうのは、そりゃあ、どうしたって「偶有的」ですよ、「本質」っぽくないよ、とおっしゃるかもしれません。
いろいろな「見方」を総合していって「バナナ」の「ほんとうの本質」はないのとお思いでしょうか。
それはたぶん可能でしょうね。想像してみてください。

「バナナ」は引用符に囲まれています。このかっこの味わいに注意してください。あくまでも言葉のひとつです。つまり「本質」といっても「意味」が問われています。「意味」のなかで「本質」も了解されています。では「意味」とは何かと問えば、言わずと知れた「言語哲学=分析哲学」(ダメット)の領域です。「意味」などというものはない、ただ論理学的「変項」があるのみと言ったのは確かクワインですが、これも、よく考えればサルトルの断言と似ていなくもないと、いまふとそう思いました。

「本質」という問いは、そもそも、どんな(次元にある、どう答えたら納得し、問いが鎮まる)問いなのかもよく考えてみてください。

「本質の本質」を「善」(この「善」の含意=迫力はほとんど失われてしまいましたが)とみたのは古代ギリシア人ですが、この方向を現代にいかすのは並大抵のことではなさそうです。そもそも「いかす」必要があるの?というのが大半の人の考えでしょう。

そこで質問者さまへの答えです。もし「赤いバナナ」が登場すれば、「黄色いバナナ」もあることになり、「黄色い」は「偶有的」なものにとどまるでしょう。わたしは「赤いバナナ」を見た記憶があるんですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「赤いバナナ」

一本とられました^^

>ようは「バナナ」をどう見るかによります。「どう見るかによる」なんていうのは、そりゃあ、どうしたって「偶有的」ですよ、「本質」っぽくないよ、とおっしゃるかもしれません。

いえいえ。おっっしゃるように観察者側の次元によって変化するというものだと納得しました。
おそらく引用した文章の暗黙的前提に”(観察者側の次元を固定した時に)”というのが入っているのかなと思いました。

お礼日時:2009/07/27 12:11

 偶有性と属性。


 
 説明にバナナを取り上げているので。
 
 植物の種、それが発芽して、成長して、実をつけ、また種を宿し、発芽する。

 状態は変われども、杉は杉、バナナはバナナ。

 このことでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「種としてバナナ」で考えれば、おっしゃられることは本質に含まれるのかと思います。
ユニークなご意見ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/29 02:19

 では、維持存続繁栄を目的としない 個としての 本質があるとすれば それは そして誰もいなくなった 世界を実現させることでしょうか

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> では、維持存続繁栄を目的としない 個としての 本質があるとすれば それは そして誰もいなくなった 世界を実現させることでしょうか

うーん。どうでしょうね。
各人の言動パターンを決定する性格の核の部分を「個としての本質」と仮定して書いたのですが、求めていらっしゃるものは違いますよね?
ご要望に応えられなくてすみません。

お礼日時:2009/07/29 02:15

 本質とは、それを、それとたらしめているもの なんですね




 それでは、もし仮に人間の本質 というものがあるとすれば、やはり犬や猫などの動物とは違うという意味において、理性や理念道理を持ち、分別をつける能力 なんでしょうか
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>理性や理念道理を持ち、分別をつける能力 なんでしょうか

それも(人類としての)人間の本質のひとつかもしれませんね。

お礼日時:2009/07/28 01:44

>>より正確に言えば、本質の範囲がわかりません。



また、難しい問答ですね。
本質の範囲とは、それ自身がそれ自身であることたらしめている範囲ということですね。
植物の実としてのバナナは本来青色に近いですが熟すれば黄色になる、赤になるなどいろいろですね。色にこだわってるわけではないのですね。バナナというものの存在を認識できれば形や色にはこだわらないということでしょう。
バナナの本質といえば木のありよう実のなり方、味や風味で決まるのでしょう。
犬や猫の本質といえば、見かけや大きさ色は千差万別ですから本質ではないですね。犬や猫としての本能が本質なのでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>犬や猫としての本能が本質なのでしょう。

なるほどですね。
個々人によって本質は違うけれども、人間に共通した本質は何か考えるならば本能を土台にしている何かと言えるのでしょうね。

お礼日時:2009/07/28 01:38

「黄色が本質的性質ではないとは思えません」ということは「黄色が本質的性質である」ということですよね?



まずは結論から否定させていただきます。あくまでも、他人から得た知識からの見解です。偉そうに感じたらすいません。

人間には、3つの色覚に関する視覚受容体があるらしいのです。参考書が手元にないので詳細に書けません。この3つの視覚受容体は、それぞれ受容しやすい色があります。その3つの視覚受容体の総和が1つの色として知覚されます。例えば、空は紫色の波長が多いそうですが、人間には青色として知覚されます。

昆虫は、色覚受容体が4つ存在するそうですので、人間が「黄色」に見えても、昆虫には別の色に見えます。勿論、その色は人間には想像できません。

観察者が「色」を創造するという主張です。観察者は、世界の手掛かりとして色を産出するということです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「本質」という言葉を流動的でないものとして考えていたのかと思います。
おしゃるように観察者の側の視点で「本質」というのも変化するということだと思いました。

お礼日時:2009/07/27 12:01

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