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日本はどう行動することが最善だったと思いますか?
張るノートを受け入れておけば丸く収まってましたか。

A 回答 (6件)

 その時代と限定するなら、精々宣戦布告を確認してからの開戦ですね。


 そうなると戦術論としては色々小細工はできるでしょうが、戦略論としては対ロシア外交くらいしかいじりようが無いでしょうね。

 ハルノートを受け入れたら・・日本はまぁ米国の植民地、として悲惨な未来が待っていたでしょう。
 日本の当時の人口からいっても海資産を凍結・撤退していたら多くの人が餓死していたでしょうかねw
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大きな流れを考えると政府や軍部の上層部全て変えないと止められなかったでしょう。



特に軍令部にまともな緻密な計画が立てられる参謀がいなかったので、しっかりとした諜報部隊と参謀を育成しておけば善戦したでしょう。

真珠湾からなら、中途半端な攻撃が米国の立ち直りを早めたので、徹底的にハワイを叩き、万全の体制で情報管理をしっかりとしてミッドウェー海戦に臨めば良かったと思います。

でも国力もさることながら全体的に技術力不足もあったので、原爆投下数が増えたかもしれないので、戦争回避するため、軍部上層部の一掃(暗殺)が一番とるべき手段だったと思います。
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耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、受け入れれば良い。

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 なんか一部勘違いしている方がいますので補足しますと、第二次世界大戦のはるか前から米国による対日制裁は続いていました。



 例えば・・・
1904年~1905年、日露戦争
1904年、アメリカは日本を仮想敵国として「オレンジ計画」を策定。
日露戦争での日本の勝利は、白人の敗北としてアメリカで排日運動が高まり、
「事後法」による移民や日系人の排斥へと推移していきます。
当時、日本人は先人の努力で黄色人種の中では世界でも特別扱いでした。
一流ホテルへ宿泊できたのは黄色人種の中では日本人だけでした。
アメリカ移民の先輩中国人は鉄道の線路工夫がやっとで奴隷状態でしたが、
日本人は農業などで次々と荒れ地を豊かな農地へ変えていきました。
それは白人にとっては魔法でした。白人より優秀な黄色は許せないことでした。
白人移民は技術も才能もなく貧乏でした。
白人は日本人の農地や店舗を強奪しても神から許されると考えました。
「事後法」による移民や日系人の排斥へと推移していきます。
1906年、アメリカで新帰化法。帰化申請を白人とアフリカ人に限る。日本人は帰化不可。
1913年、排日目的の「外国人土地所有禁止法」。
アメリカ市民になり得ない外国人(日系1世)の不動産取得、保有、使用、譲渡を禁止。
法案のなかには、日本人の営業不許可や日本人学童を隔離するものまで含まれていた。
1922年ケーブル法成立。アメリカ市民(日系2世)が非アメリカ市民と結婚した場合は市民権を失う。
1924年、「移民法」で日本人の移民を全面的に禁止。別名「排日移民法」。
これまでアジア人の中では特別扱いだった日本人についても
他のアジア諸国と同じ人種差別的な取り扱いとなる。
1941年12月7日 日米開戦、日系アメリカ人は敵国日本と同一視される。
1942年、日系人12万人の強制収容(3分の2はアメリカ市民)。ドイツ人イタリア人は自由。
日系2世がアメリカに忠誠を誓い従軍しました。
1946年、収容所が閉鎖される。日系人は家屋の破壊や資産喪失に愕然となりました。
今のアメリカ西海岸の農地の多くは日系人が荒れ地を開拓したものを強奪されたものです。

 つまり、戦争をするか、奴隷となって生きるかの二者選択だったわけです。
 この丸く、収めるとなると日露戦争に勝利したことによる欧米の対日強硬論が始まったわけです。
 となると黄色人種は白人の奴隷となって生きる事・・・これは本当に丸く収まる事になるのでしょうか?
 
 貴方はどっちを選びます?
  白人に対し黄色人は劣る人種だから奴隷となれといわれ一生奴隷になりますか?
 それとも抵抗しますか?

  
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
そんな大日本帝国から平和な民主主義国日本に変わるための最短手段がアメリカに挑戦状を叩きつける太平洋戦争だったってことですね。
わかりやすい説明ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/22 15:23

太平洋戦争は日中15年戦争の最後のステージという側面を忘れてはなりません。



当時、中国を侵略していた日本軍は「大東亜共栄圏」つまり、白人を敵視して「アジア人だけの理想郷」をつくる、という口実で侵略を正当化していました。
大東亜共栄圏が完成しなければ、アジア人は白人の奴隷になるしかないという脅迫も、当時の政府が繰り返し国民に言っていたことです。

歴史に「もし」はないのでしょうが、せめて「アメリカには勝てない」という山本五十六らの忠告を天皇がまともに聞き入れていれば、平和的な外交を追求する余地はあったのではないかと感じます。
せめて、1945年の2月に近衛文麿が天皇に「もう降伏しましょう」と直訴したとき「もう少し成果を出してから有利な条件で降伏」などと昭和天皇がわがままを押し通さなければ、東京大空襲も沖縄地上戦も原爆投下もシベリア抑留もなかったはずです。

圧倒的な軍事力を持ちながら米軍がベトナムでもイラクでも失敗していることを見ると、結局軍事力に頼った発想では誰も幸せになれないのだと感じます。

質問の回答は「中国侵略をあきらめて平和外交を基本にする」でお願いいたします。
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平和を裏付ける精神性が世界的に今よりも幼稚だった。


でのそんな理想を持っていた静かなる人達は世界のあちらこちらに存在しただろうなあ。
がしゃくしゃやりたがる人の流れに何故、飲まれなくてはならないのか人生を無駄にしてしまう憤りを感じるよ。
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