プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

タイトルの通りですが、詳しく説明すると↓のようになります

「私は【自分の名前を言う】です」と名乗ってから、
自分は【自分の名前】であるということを証明するという物です

哲学的な感じがするのですが、発想力を駆使して話し方も工夫しなければならないようです
答えは「なるほどー」「そんなことか」と思うようなことらしいのですが検討がつきません

国語的に自分を証明する方法が判る方居られましたら
どうか教えてください
国語的でなくても答えが判る方居られましたら教えてください

↓授業中に出た回答(いずれもだめでした)↓
戸籍やパスポートは、偽造できたりするのでだめでした
両親を連れてくるのも、その辺の人を連れてくれば可能なのでだめでした
DNA鑑定も、一致して本人のものと断定できても
自分は【自分の名前】であるとはいいきることはできないのでだめでした

国語らしく答えるようなのでとりあえずこのカテゴリに質問しましたが、他に適当なカテゴリがある場合は
教えていただけると幸いです

A 回答 (7件)

 


こんな人を馬鹿にしたような質問というか、問題には解答がないのです。国語の先生としては、ターゲットとしている「あること」を示したいがため、こういう謎々のようなことを言っているのだと思いますが、正確には、先生が何を答えても、先生が、他の生徒の回答を否定したのと同じ論法で、先生の回答も反駁できます。

論理学の問題ですし、それも非常に高度な問題で解けません。また哲学の問題でもあり、この場合も解けません。つまり、「証明できない」という答えしかないのです。

しかし、そんな次元の話ではないはずなので、一つの答えというか、仮説として考えられることを述べます(仮説というより、哲学的回答なのですが、こういう考えには、反論もあって、絶対正しいとはいえないので、仮説なのです)。(一つと言いましたが二つ述べます)。

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1)「自己の名前」は「自己に決定権がある」。これは、「私は山田グーです」と自己紹介したとします。すると、友人がいて、「きみは鈴木キーではないのか、嘘を言うな」と仮に反論したとします。

しかし、当人が、「鈴木キーとも言いますが、この場、この機会の場面では、<私は山田グーです>」と宣言すれば、その人の名は、山田グーになります。

これは、言葉において、実体とその名称のあいだには、必然的連関はない(ソシュール的な構造主義言語学では、シニフィエ(意味内容=所記)とシニフィアン(表示記号=能記)のあいだには、恣意的・文化規定的結合があるだけで、必然的な連関はないという風に言います)、そのため、「宣言」が、その連関を構成するということです。

他人が、名前を決定することもあります。例えば、両親が生まれてきた子供の名前を、「田中グー」だと決めれば、それが、この人の名になります。あるいは、学校の友人たちが、田中グーという生徒に渾名を付けて、「田中クークー」だと言って、呼んでいれば、少なくとも、そう呼んでいるいる人たちのあいだでは、「田中グー」という人の名(渾名)は、「田中クークー」であるとなります。

ものの名前を宣言することを、「名付け」とも言いますが、少なくとも、当人が、自己紹介で、自分を名付けた場合、その名付けた名は、その人の名になります。

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2)しかし、上の説明で、「きみは鈴木キーではないのか、嘘を言うな」という反論が出てくるという例を述べました。

これは、どういうことかというと、人の名前も含めて、ものの名前一般は、ある文化や集団や共同体において、「相互了解」において、決まっている何かであるというのがあるのです。

従って、ある共同体のなかで、ある人が、「田中グー」という名前で、認知されていれば、自己紹介のとき、この認知されている名である「田中グー」と名乗った場合、共同体に属さない人には、その名の妥当性は分からないので、「宣言」として受け入れるのですし、共同体の人たちには、認知している通りの名前を名乗れば、その名が正しいのです。

つまり、自己紹介したとき、反論がでない場合は、その名が正しい名だという証明になるのです。

戸籍証明とか、両親を連れてくるとか、こう言ったことは、共同体における認知事実の確認になるのですが、部分的であって(つまり、偽装もできる)、完全証明にならないとしても、「認知事実」が全体的証明に準ずることだと言えるのです。

哲学的・論理学的には、こういう問題は、答えがないのです。

しかし、プラグマティックには、1)で述べた、名称の宣言、つまり「名指し」で、ものの名は決まります。また2)で述べた、共同体のなかでの「認知」で、その名が、そのものに相応しいかどうかは確証されます。
 
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この回答へのお礼

チェックを怠ってしまって申し訳ない・・・
すみませんでした

7回お礼を投稿すると書いていることが意味不明なことに成りかねないので
非常に失礼な事は承知の上で最新の回答者様にお礼レスをしつつ
回答していただいた皆様にお礼を言いたいと思います

私が思っているよりも壮大な説明が出てきて少々驚きました
内容も難しく私には理解することが難しい文もありましたが、大体ですが理解することができました
皆様の回答を見た限りでは
"答えることは不可能ではないが100%は無理"
と読み取ったのですがどうでしょうか?

最後になりましたが、
丁寧にいろいろと教えていただきありがとうございました
月曜日に学校へいって問題の出題者に出会ったら
私なりにまとめた答えを突きつけてみようと思います

本当にありがとうございました

お礼日時:2003/04/12 19:59

論理学という学問があるんですよね。

数学と国語の間の子みたいなものと思ってもらえれば。でも実際この問題は哲学に近いものですね。

「AはBである」という文章はコピュラ文と言います。「A=B」が成り立つのなら、文章中のBを置換して、「AはAである」と言えます。つまり「わたしはわたしである」ということです。でもこれは同語反復(トートロジー)になり、無意味ということになってしまいます。
「吾輩は猫である」という中に、すでに「吾輩は吾輩である」と「猫は猫である」という2つのことが実は暗示されているのですが、暗黙の了解ということで普通は無視されます。
それはもし、「わたし」と「【わたしの名前】」が全く同じものであったとしたら、という前提があればの話で、撞着に陥ってしまうわけです。

さて、「わたし」と「【わたしの名前】」の関係というのはシニフィアンとシニフィエの関係といいます。つまり「実体そのもの」と「実体を表現するためのもの」ということです。これは言語学に突っ込んでいるのですが、「犬という観念」に「犬」という名前をつける時、「i n u」という発声が観念と関連しているかというと、そんなことは全くありません。言語のほとんどは有契性がありません。あるものをその名で呼ぶという必然性がないということです。有契性がある単語を上げろとしたら、音を言い表す言葉があるくらいです。しかしそれもどの言語にも共通というわけではないので、普遍的なものではありません。

さて、名前というのはつまりその実体と必然的に結びついてはいないのですから、「わたし」が「【自分の名前】」であることを証明するには、「必然性」というものが欠けています。名付け親が名付けたからとか、そういう言い方では到底証明できないというのはここなのです。もしかすると、今ある「【自分の名前】」というのはなんかの間違いによって付けられたものかもしれない、いやむしろその可能性の方が高いかもしれない、ということは結構考えられます。しかし、その「【自分の名前】」の正当性うんぬんが問題ではなく、結局「わたし」と「わたしの名前」を結び付けるものがないということになります。

そこで、少し外国語のことを考えてみることにしましょう。「わたしの名前は~です」と外国語で言う場合、"My name is ~."という英語のようなパターンもありますが、「わたしは~と名乗ります」という表現も結構多いものです。つまり、「わたしがそうだと言っているから」「わたしがそう決めて名乗っているから」という理由があることになります。たとえ親が付けた名前であったとしても、「わたし」がそれを名前として認知しなければ、それは「わたしの名前」とは言えません。判断基準が「わたし」にあるということです。

おそらくこれでも反論されるでしょう。「『わたし』が嘘を言っているとしたら?」とか。そう、詐欺師なんかそういう手口を使いますしね。「自分が証文だ」なんてことを言ってもそうやすやすと信じられるものではありません。つまりこれがわたしがいい考え方だと思う#2の最初への反論ということです。

では#2の後者のアイデアについて考えてみましょうか。”自分が「自分の名前」でないとしたらどうなるかを論じる方法”というのは、それ以外のものが【自分の名前】だからといって、別にわたしの存在そのものとはなんらかかわりがないといって否定されることになります。必然性の問題ですね。

ということで、一番妥当なのは「自分で名乗っている」からということになるでしょうが、それもどうかと思うので、わたしからは答が出ません。一助として書いてみました。

その人自身とその人の名前が連動しないのは、その人が逆立ちをした時、その人の名前は逆立ちをしないことからもわかります、とでも言えば立派な屁理屈にはなるでしょうが。
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うーん。

難しいですねー。

わたしなら、相手の名前をきいて、
「あなたが〇〇さんであるように、わたしは××です。
あなたが〇〇である限り、わたしは××であるのです。」
というくらいですかね。。。
「我思う、故に我あり」といったところでしょうか。。。

なんか、屁理屈ですね。。。
いったいどういうことなんでしょうか。。。。
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「私は、Aです」


「私は、『私はAではない』という証明が出来るでしょうか?」
「私は、『私はAでない』という証明が出来ない以上、
『私はAです』」

・・・・・ってのは、だめでしょうかね?(^^;)
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わかりません



なら書くなって思うかもしれないんですが、もし
このまま答えがわからないまま
回答が締め切られてしまうと、不眠症になりそうなので書かせていただきます

答えがわかったら ぜひっ!
教えて下さい

こうゆう問題が大好きな分、
悔しさも一押しなのです

わがままを承知でお願いします m(_ _)m
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書類はダメ、証言もだめ、そして、


記号である、”名前”と自分(肉体)の同一性を
証明しろという事ですね。

私には、2つしか思い浮かびません。

まずは、
私が「自分の名前」であることは
私がそう決めたからだ。と主張する事です。
つまり、名前というものは、客観的なものではなく、
あくまでも主観的なものだ ということを
宣言するのです。
それで、偽者だ!と言われたら、
同じ名前の人はいるかもしれないけれど、
私は私なのだから、私にとっては本物だ!。
と答えることになります。

もうひとつの方法は
自分が「自分の名前」でないとしたら
どうなるかを論じる方法です。
偽名を使い、偽造書類を使っている事になるのですが、
それらすべてを否定する(偽りであると断定する)よりも
それが本物である事を肯定するほうが
自然な形になります。
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【自分の名前】だけでは無理です。

強いて言うなら、たとえば鈴木太郎が自分を証明したければ、
「私は鈴木太郎か、もしくはそれ以外です」と言うしかありません。

>戸籍やパスポートは、偽造できたりするのでだめ
両親を連れてくるのも、その辺の人を連れてくれば可能なのでだめ
DNA鑑定も、一致して本人のものと断定できても
自分は【自分の名前】であるとはいいきることはできないのでだめ

と、ここまでいちゃもんをつけるなら、もはや答えはないのです。

もし先生が、自分の名前を証明できるという模範解答を言ったなら、「じゃ、それが夢だったらどうしますか?」と言ってやればいい。夢から覚めれば自分は鈴木太郎ではなく、山田一郎かもしれないし、そもそも人間でないかもしれないんです。この世が夢でないと言える人など古今東西、誰もいませんでした。
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