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上記の通りです。

A 回答 (2件)

「律令時代に仏教が伝来しますが」の時点で既に間違っているのですが, 何をお尋ねなのでしょうか?


もちろん聖徳太子の時代には律令などありませんしね.
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上記の方が言っておられますが、仏教が伝来したのは聖徳太子の時代ではありません。


伝来の時期については諸説ありますが、欽明天皇(539年即位。第29代天皇)が百済の王から伝来されたという説について簡単に説明します。
このとき、朝廷では蘇我氏や物部氏が権力を握っていました。欽明天皇が仏教を受けいれるべきかと聞いたとき、蘇我氏が賛成し物部氏が反対しました。一旦受け入れたものの、流行り病等が起こったので物部氏はこれを「日本古来からの神のたたり」と主張し、廃仏が実施されます。
後年にも同じようなことが起こりますが、最終的に、この両氏の戦いは蘇我馬子の時代に蘇我氏が物部氏を倒したことにより、決着。後に、馬子が支持していた推古天皇が即位したことにより、仏教を受け入れることが決定的となりました。
聖徳太子は推古天皇(593年即位。第33代天皇)の摂政として政治を行いましたが、幼少期の伝説や彼の建てた法隆寺を見れば分かるとおり、仏教を受け入れました。馬子と協力して仏教の道徳観に基づいて政治を行ったといわれています。
聖武天皇は(724年即位。第45代天皇)、在任中に病気や災害が数多く起こったため、仏教に帰依しました。結果、東大寺を建立し大仏を作りました。


余談ですが、日本における律令時代とは大化の改新を皮切りに始まる(近年では疑問視され始めていますが)天皇に全ての権力を集めようとする一連の流れもしくはその制度が施行されていた時代のことです。この大化の改新は、中大兄皇子と藤原鎌足が、前述した蘇我馬子の孫・蘇我入鹿を暗殺しその父蘇我蝦夷が自殺したことに始まります。これにより、蘇我体制の政治が終わりを告げ、数代の天皇を中大兄皇子や中臣鎌足がサポートするようになります。最終的に中大兄皇子は天智天皇(661年即位。第38代天皇)となり、その死後、壬申の乱で勝利した大海人皇子が天武天皇(673年即位。第40代天皇)として、さらに中央集権を推し進めました。
この律令制は、聖武天皇が墾田永年私財法により、「土地は天皇のもの」という律令の根幹が揺らがされ、桓武天皇(781年即位。第50代天皇)の時代に、大きく行政改革がなされたことで終わりを迎えました。(この終焉にも諸説在ります。)


上に幾度か書いていますが、この仏教伝来の流れについては諸説あります。ご自分で調べて見られるのもいいと思いますよ。
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