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私は外国の長編小説を読んでみようと思い、何冊か中古書店から購入してみました。
具体的に目を通したのは赤と黒、白鯨、ベニスに死す、悪霊などです。
しかし、どれを読んでいても序盤が全く面白くありません。もしかしたら、中盤以降は面白くなるのかもしれませんが、とてもそこまでよむだけの意欲が続きそうにないです。なぜ、外国の長編小説は、序盤がここまで冗長なのでしょうか。
ちなみに、私の好きな他の日本の文学では、そのような経験をしたことがありません。名前をあげると、村上春樹、江戸川乱歩、中井英夫、夢野久作、夏目漱石、道元、鴨長明(方丈記)安部公房、太宰治、宮沢賢治などは、序盤からだれるようなことはなかったです。
もしかしたら、私の集中力不足のせいかもしれません。あるいは、日本と西洋の文学は、構成などで違いがあるのでしょうか。皆さんのご意見をお待ちしています。

A 回答 (6件)

 


 0.一聴一耳
 
 音楽や映画は、出だしから心をつかむ、序奏や導入が不可欠です。
 落語も、聴衆の顔ぶれにあわせてマクラを振り、さらり羽織を脱いで
本題に入る呼吸が絶妙なのです。
 
 いまや現代人にとって、長々しい前置きや情景描写は、かならずしも
興味をつなぎとめる魅力でなくなりました。しかし、かつてロシア文学
は、厳しい一冬を過すために、長くて難解な書籍が好まれたそうです。
 
 1.ポー《アッシャー家の崩壊》、カポーティ《冷血》の風景描写
 
── 「物うく、陰鬱に、音もなくひそみ返つて、空には低く重たく雲
のたれこめたある秋の日、ふしぎに荒涼とした土地を、わたしはただひ
とり、日もすがら馬で通りすぎていた」(松村達雄訳)
 アラン・ポウの「アッシャア家の崩壊」の書き出しである。この冒頭
の文章は、それから語り出される話の雰囲気を数行のうちに決定してい
る。物語の進行につれて、読者は最初に受げた数行の印象から脱れるこ
となく、その雰囲気の密度のなかに沈む。荒涼たる、凌まじい、厳粛な
自然の像から受げる、堪えがたい感情に支配されてゆくのである。(略)
 カポーティの「冷血」──牧場主とその家族四人の殺害事件を扱つた
記録小説(※Non-fiction novel)──の冒頭もその例外ではない。
…… 松本 清張《闇に駆げる猟銃》(P7-8)より。
── 松本 清張《ミステリーの系譜 197501‥-0210-19770325 中公文庫》
 
 2.メルヴィル《白鯨》の巻頭。
 
──”壮大な悲しみ”というのは、この物語のメイン・テーマであろう。
しかし、人と鯨の抗争という、途方もない次元の物語に読者をひきこむ
前に、作者は奇矯ともいえるテクニックを駆使する。巻頭、「語源部」
と称して当時の辞典の鯨の項目が抜粋され、ついで「文献部」と称して
八十項目におよぶ諸文献からの引用がなされる。それは「聖書」から
シェイクスピアを経て、ダーウィンに至る博識ぶりで、十九世紀アメリカ
版の「群書類従」といった景観を呈する。ここですでに作者の偏執が示
されるのであって、この部分をとばさずに読む読者だけが、幸福な境地
を約束されるという仕組みとなっているのである。
── 紀田 順一郎《世界の書物 19890320 朝日文庫》P282-283
 
 3.洒脱、簡略な叙述。
 
── 蛇、長すぎます。── ルナール《博物誌》より
── Renard《Histoires naturelles 1907 France》
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg …
 長きものづくし ~ 枕草子なりせば ~
 
 4.瀟洒、過去回答より。
 
── つぎの書き出しは、日本文学三大名文の例(年代順)です。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4603015.html (No.3)
 現代文の条件 ~ 翻訳ソフトでも通じる三段論法で ~
 
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別に質問者さまの「集中力」のせいではないと思います。


『赤と黒』を初めて読んだ時のことを思い出しました。期待に反して、なんて退屈な小説・・・という印象。それが、途中まで読んでからは夢中で読み浸ってました。
西洋の小説というのは、力がありますね。これを日本家屋に適用すると、畳はぼろぼろになり、屋根など吹っ飛んでしまいそうです。
やはり風土の違いというのが大きいでしょう。伝統も違う。文化が根本的に違う。
日本の文学作品は、西洋の物真似から始めたわけですが、やはり日本的になるのは仕方のないことです。
日本的なドストエフスキーなど、読みたくもありません。
音楽でいえば、マーラーとかブルックナーの交響曲みたいなのが西洋文学の感じでしょうか。
ただ、すべてが同じでないのは勿論で、たとえばロシアのガルシンなど、作品の長さも短いですが、二葉亭四迷の翻訳があるように、日本人にも受け入れやすい面があったりする。
それと、ある作家に思い入れがあると、冗長ささえも好もしいものに感じられてくるから不思議なものです。
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この回答へのお礼

風土の違いが決定的な原因かもしれません。翻訳されているからかもしれませんが、外国の小説はどれも文体が硬質で情緒性に書けていると思います。
今は読めないことを気に病まないようにします。学校の先生にも
「読めないのは、今は読むべきときではないからなのかもしれない」
と言われました。気に入った作品は読んでいけばいいですし、なかなか良いものがないのであればそれで気にしないようにしてみます。
ご助言有難う御座いました。

お礼日時:2009/11/10 10:57

 海外文学の翻訳者は、明治大正昭和初期頃までは、作家や詩人などがずいぶん参加していましたが、20世紀後半からは、創造系の人でなく,学者に近い立場の人による翻訳が多くなりました。



 その結果、元々の作品の《言葉の意味》を正確に翻訳しようとする傾向が強くなり、《言葉の音》などや、諸地域の言語に含まれている感覚的な表現の翻訳がおろそかになる傾向があります。

 また、あなたが上げた日本の作家が、古典の道元,鴨長明はともかくも、それ以外の作家は近代文学の中でも古典に近いものが多く、作家の言語感覚そのものが既に社会的に認められているといって良いと思います。

 他にも理由はいくつも上げられますが、要するに,「日本と西洋の文学」は、もともとその作品の制作に使用された言語が持っている感性が違うので,その感性を含めて翻訳しなくてはいけないのでしょうが,現時点では客観的にその正否の判断しやすい《言葉の意味》を正確に翻訳した作品の出版が進められているのです。

 このような傾向を正そうという動きがいくつかの出版社で、意欲的に進められていますが、大手出版社ではまだまだ進んでいません。

 文学における言語の違いは、音楽における楽器の違いの様なものです。
 楽器の個性を知り尽くした人が編曲すれば、それなりにはできるでしょうが、フルート曲の楽譜をそのままヴァイオリンで演奏した場合、がっかりすることが多いでしょう。

 あなたが特に序盤を冗長に感じる理由の一半は、言語の違いでしょう。

 かまわず読み続けると、翻訳者の感性に慣れてゆき、よみやすくなります。
 ただし、読み続けられることは、鈍感になることかもしれません。
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この回答へのお礼

>>海外文学の翻訳者は、明治大正昭和初期頃までは、作家や詩人などがずいぶん参加していましたが、20世紀後半からは、創造系の人でなく,学者に近い立場の人による翻訳が多くなりました。
 その結果、元々の作品の《言葉の意味》を正確に翻訳しようとする傾向が強くなり、《言葉の音》などや、諸地域の言語に含まれている感覚的な表現の翻訳がおろそかになる傾向があります。

そういう事情もあったのですか。どうりで表現に情緒性が欠けているように思えたのかもしれません。

>>あなたが特に序盤を冗長に感じる理由の一半は、言語の違いでしょう。

そうなると外国語を学ぶしか、(現段階では)外国文学を楽しむ方法はないようです。あまり現在の翻訳には期待せずに、外国語で読むか、日本人の作品で満足するようにしてみます。もしくは、作家の翻訳した作品を読むことも考えてみます。
ご回答有難う御座いました。

お礼日時:2009/11/10 11:05

この場合、いちばん大きな理由を考えるのですが、結局のところは、


その小説を読んでくれるその国の人たちがそうした小説の出だし、展開を好むから。
と判断するのがいちばん妥当と思われるのです。
つまり、向こうの人たちはゆったりとはじまり、たっぷりと読めるものが好きなのです。
そういうものを選んで読み、ひとにもすすめる。作家も希望に応じ、小説もその方向に発展します。

一方、日本では単刀直入にはじまるもの、比較的短めなもの、余情たっぷりに終わるものが好まれます。
日記文学、紀行文、俳文、あるいは世界でも最も短い詩形式であるだろう短歌や俳句を思い出されてもいいでしょう。

明治以降、西欧の文芸を取り入れて伝統もいろいろ変化してきたが、この嗜好は根強く生き残った。…
と、こういうふうに物事を括ると、その途端、例外がいくらでも出てきて困惑するのですが(笑)
まあ、アドバイス程度に。


また、この「たっぷり読める」長編小説に関して。
中世の「トリスタン、イズー物語」のように男女がくっついたり離れたりして聞き手をやきもきさせる長いものもいいでしょうが、そこに神・キリスト教・一神教・絶対者というものを登場させ、それとの相克や闘争、宥和や和解や決裂といった主題を導入すれば物語の奥行きはグンと深くなります。読みでもある。もちろん作者が小手先でそうしたテーマを扱い、内実がなければ、読者もバカばかりではないですから、すぐその軽薄さがばれてしまうだろうことは明白です。

こういった面から、2番の回答者の方がマーラーやブルックナーのシンフォニーを持ちだしてらっしゃいますが、同感です。ブルックナーのいつ果てるともしれない心理葛藤劇も、マーラーの厭世的な彼岸へのあこがれも、絶対者との対立や相克を描く長編小説と、内面的心理的に同じ構造を持っていると感ずること多々あります。

第二次大戦後すぐの時期に出てきた第一次戦後派の作家たちは、この西欧文芸の富を日本にも定着させようとして長編小説に取り組みましたが、どうもはかばかしい成果が得られなかったようです。
なぜなのかは、これもいろいろ考えられるところです。一つは西欧的な意味での絶対者との対立がないこと、そしてそれに代わるテーマがにわかには見つからなかったことなんでしょう。

たとえば三島由紀夫の『豊饒の海』四部作は、個々にはいい出来だと個人的には思うものの、全体として見た場合、骨格のなさがあらわで、ただ単に長い小説を書いてみたかっただけではないか、と暗澹たる思いです。輪廻転生を描くのなら、もう二十年三十年生きながらえて観照的な立場に変貌してでも「時間」の深みを見据えた小説を発表してほしかった。滅多にない才能であるだけに残念なことしきりです。


最後に、小説の概念の違いが向こうとこちらとにあるということ。
日本では長編、短編ともに「小説」と呼ばれていますが、
これがたとえば英語では、長編小説はroman、novelのことであり、短編小説はshort story、conte(コント)のこと、これらは「別個のジャンルとして意識されている」とのこと。(このあたり、平凡社世界大百科事典「小説」の項を参照、「 」内:引用しています)

表現形式が異なるのだから、別の発想、別のテーマ、別の書き方・書き出しであって普通となります。
あまり神経質になることもないのですが、向こうの小説を読む場合には、ちょいと頭の隅に入れておいたほうがいいかもしれません。

短編小説を語る場合、通説になっているのがモーパッサン型とチェーホフ型です。
短い話の中に予想外の展開と結末を用意するモーパッサン。かたやチェーホフは何げない日常の中に余情隠々たる人生の諸相を描きました。
これらの短編作家と長編作家とを比較なさっても興味深いかもしれません。
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彼ら西洋人は粘着質というか気質が日本人の短気さとは逆なのだろうと思います。


バカンスの場でも、日長が海岸のベンチにねそべって一日中でもいるようです。日本人はとてもそんな時間の過ごし方は出来ないですよね。
小説でなくても、ノンフィクションでも、翻訳ものは分厚い単行本2冊分がごく普通です。日本の主流は新書版(笑)。
長編小説ですが、まず舞台と登場人物、そして時代背景などを丹念に、執拗なほど手をかけて作っていくのが彼らの手法なのでしょう。だからこそ人物が動き出し、事件を起こし始めるとその豪華な舞台や背景が生きてくるのだろうと思います。せっかちな読者の心理を考えない彼らはある意味不器用だったのかもしれません。
古典のスタイルがそういうものだと思えばいいのでしょうか。
読者へのサーヴィスをまず考える日本の小説家が悪いというわけではないと思いますが。
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>なぜ、外国の長編小説は、序盤がここまで冗長なのでしょうか。



わかりません。

◇◇◇
>私の集中力不足のせいかもしれません。

外国の熟達した読み手でも冗長に感じることはあるみたいです。
モームは『世界の十大小説』の序で、飛ばし読みについて肯定的な考えを述べていますが、冗長を感じるからこその考え方でしょう。
バルザックも『パルムの僧院』についてこんなことを述べているそうです、「再読するに及んで、冗漫さは感じられなくなり、最初あまりに長たらしく散漫に思われた細部の必要さがよくわかった」。再読する前は冗漫さを感じていたということです。
ついでに言えば、興がのらなければ中盤以降も冗長に感じられるのではないかと思います。

◇◇◇
言葉の障壁以外にも、文化・文物の違いによって日本の小説には感じない「隔たり」を覚えることもあるんじゃないでしょうか。

桑原武夫がフランス人に、日本でバルザックよりスタンダールのほうがよく読まれる理由を聞かれて次のように答えています。
―――スタンダールには西欧の社会風俗を知らずとも楽しめるところがある。バルザックは、あの描写はフランスの生活、家のつくり、家具などを知らぬと、事物が生きてこない、そういう理由もあると思います―――

悲劇というのは時代や国の隔たりを比較的越えやすいが、喜劇(=笑い)は時代背景や外国文化を知らないと入っていけない(知っていてもピンとこない)性質がある、というのは経験的にご存知ではないでしょうか。
『赤と黒』にはフランス人が読むと噴き出してしまう箇所があるが、我々日本人には分からない、と『赤と黒』の訳者でもある桑原武夫は書いています。翻訳者にも分からないほどの、単純に言葉の問題とも言えない、言葉を通してメンタルの奥の奥に繋がる微妙な(文化的な)問題も関係があるかもしれません。

◇◇◇
先に引用したバルザックの言葉は、桑原武夫の「小説の読者」という硬質のエッセイからの孫引きなんですが、そのエッセイに、アランが『パルムの僧院』『赤と黒』『谷間の百合』を少なくとも50回、『戦争と平和』は10回以上読んでいるという話も出てきます。アランの明敏をもってすれば小説は一回読んで意味の通じないはずはないのに、彼がなぜこうした手間をかけるのか、ということを小説の表現様式にからめて述べている箇所があるんですが、今回の質問と無関係ではないですし、読書論として(納得はしなくても)参考になると思います。

この文章は河合塾の「現代文 入試精選問題集7」(改訂版)に採られているので、雑誌でも買いに行ったついでに立ち読みでもしてみてください。少し原文を削った部分がありますが、解説が付いているので全集(第一巻所収)で読むより分かりやすいと思います。手元にあるのは2004年増刷の問題集でそんなに古くありません。今でも載ってると思います。(私は学生でも教育系の人間でもありませんが、赤本など「本」として読むことがあります)

もちろん、アランのような読み方は文学を職業にした人か文学偏愛家の読み方であろうとは思いますけどね。

◇◇◇
>あまり現在の翻訳には期待せずに、外国語で読むか、

読むのが大陸文学の英訳であったとしても、語学勉強の要素を介在させることで、つまらない日本語翻訳文に接したときの時間損失感は軽減できます。また、社会人として忙しくなるとゆっくり長編小説を読む気にはなかなかなれませんから、語学勉強という「実用」の要素を入れることで、文学との関係を継続させていけるとも思います。

◇◇◇
ついでながら・・・・
明治・大正の翻訳文学には重訳が少なくありませんでした、いや、重訳天国と形容しても誇張ではないかもしれません。二葉亭四迷はロシア語ができましたが、内田魯庵が訳した『罪と罰』は英訳からの重訳ですし、森田草平が訳した『悪霊』も英訳からの重訳の筈です。「明治の翻訳王」といわれた森田思軒はフランスの小説を数多く翻訳していますが、彼も英訳から重訳してたんじゃないでしょうかね。
《 諸地域の言語に含まれている感覚的な表現 》に通じた人たちばかりが翻訳にたずさわっていたというわけではありません。
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