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江戸時代、貴重な宝物を管理していたのはどのような身分の方なんでしょうか?
又、江戸時代はどのようにして宝物が管理されていたのでしょうか?
主に書物について教えていただけたらありがたいです。刀や銅鏡などその他のものでも歓迎します。

A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

これは「千代田城」のことでよろしいでしょうか?
(江戸時代、「江戸城」とは呼ばず、「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民は、ただ単に「お城」とよんでいました。

>>主に書物について教えていただけたらありがたいです。

「若年寄」支配下で「書物奉行」という役職がありました。
寛永10年(1633)に設置され。定員は通常は4名で、増減があった。書物方。
職務は、幕府の紅葉山文庫にある図書の出納保管でした。
書物奉行の下には塗師・蒔絵師がいた。
役高は200俵、7人扶持で、同心若干名が属した。著名な人物に、高橋景保、近藤重蔵がいる。
書物奉行の職務記録として、(安永3(1706)‐安政4(1857年)までの記録である全225巻の『書物方日記』があります。

>>刀や銅鏡などその他のものでも歓迎します。

「若年寄」支配下で「御腰物奉行(おんこしのものぶぎょう)」という役職があり、旗本の中から選ばれ定員は2名。「焼火の間詰」という、割合、上位の役職でした。
役高は700石。
仕事としては、将軍家の佩刀(はいとう=腰に差す刀)や大名に下賜する刀剣、あるいは、大名から献上された刀剣を「管理」し、刀の試し切りや出来栄えの彫金等の目利きをしました。
そして、老中-若年寄-腰物奉行-腰物同心-首切り役人、という序列でしたが、「首切り役人」は、やはり、自分で首を切ったりすることを嫌い、浪人の「山田浅右衛門」という者に代行させていました。
山田家は、代々、浪人ではありましたが、「公儀御様御用(こうぎおためしごよう)」という役目を請け負い、死刑人(下手人、死罪、獄門など)の斬首役を勤めました。
また、そうした死刑を執行し、首を刎(は)ねた死体を今度は、先に述べたように、将軍が大名に下賜するための刀を試し切りをしたり、逆に、将軍家への進物で届けられた刀の試し切りなどをして、刀の「吟味」もしました。

>>刀や銅鏡などその他のものでも歓迎します。

「銅鏡」などは、一般的に「宝蔵(ほうぞう)」と呼ばれ、「留守居役」支配下で「富士見宝蔵番頭」という役職があり、そこで管理をしていました。「富士見宝蔵番頭」の下に「富士見宝蔵番組頭」や「富士見宝蔵番衆」がおり、交替で(当直制で)管理をしていました。
次のサイトで、「富士見宝蔵番頭」をクリックすると、詳しい説明がみられますよ。
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/edojob.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
場所はどこでもいいです。此方が管理の方法は全国一緒だと勘違いしていたので。
細かい解説ありがとうございます。書物方日記とは面白そうですね。読んでみたいと思います。

お礼日時:2010/01/04 19:45

一番大事なのは


拝領物で
http://bakumatu.727.net/aidu/aidu-kiso-yakushoku …
ここを見ると、会津藩では御奏者番ということになるようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F% …
ここにあるように、榊原家が軽お咎めで済んだのは、拝領書類の効能ですから、一番の宝物は、家康の証文。
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この回答へのお礼

奏者番という役職があるのですか。
礼式を管理する役職も気になっていたのですが同じなんですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/04 18:55

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