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先日、COP15が閉幕しましたが、100ヶ国以上の元首が集まって侃々諤々。閉幕後の評価が、論者によって正反対の評価があったりして、私のような凡人には、一体、何だったのか、さっぱり判りません。
そこで、以上のような事柄を、一般化してみると、

各集団が、各集団を包括している全体的問題に関して、各集団の利害関係を代表した諸個人の合意は、如何にして可能か。

全体会議と称して、叩き台の原案の策定方法すら紛糾したような。如何に各国の選良・賢人とは言え、100人以上では、効率よく話し合うことはできないのでしょうか。こうした、会議とか組織とかの、工学的考察も含めて、われわれ地球人は、如何にして、合意を得ることが可能なのでしょうか。

やっぱり、絶対的外部(つまり神頼み)に頼るしかないのでしょうか。

A 回答 (26件中1~10件)

環境保護主義を賛美することが当たり前となった国内の情報だと、


今回の紛糾はすごくわかりにくいですよね。TVだけ見てればなんで良いことなのに合意できないの?
と感じると思います。ただ、別の視点を持ってみると理解しやすいのではないでしょうか。



まず開催前の事情から。
環境保護に関しては京都議定書という枠組みがありました。ところが今回のCOP15での日本政府は、
『京都議定書と同じ内容なら合意しない』と立場を明確にして国際会議に臨みました。
ここがまず解りにくさの第一点ではないでしょうか。国内では『京都議定書』はすばらしいもの、
として扱われているのにおかしいな?と思われるかもしれません。

実は京都議定書の枠組みはアメリカ以外の先進国のみに
(つまりすでにやっているヨーロッパを除けば主に日本に)削減目標を課した、
日本にとってみれば外交的敗北以外の何者でもなかったわけです。これをまず払拭する。
今回の日本の目的はここです。実際に、各国も環境保護に同意することはやむなし、
といった風潮になりつつありました。従来型の会議であれば、何の問題も無かったでしょう。



ところが、開催前に事情が一変します。『クライメートゲート事件』の発生です。


環境保護主義の大元の理論を作るときに科学者達がやりとりしたメールが流出し、
その理論の元となったグラフが、実は一般人に『温暖化が起きていると誤認する』
ように細工されていたものであることが判明してしまいました。

科学、というと動かしようの無い絶対の事実を扱っているように思われるかも知れませんが
その実はブレ幅の大きい実測値を"理論に基づいてもっともらしく"見せる技術でもあります。
特に温暖化問題というのは『予測のうちで最も酷い場合』を喧伝し、
最初のシミュレーションから数年経過した後、中央値から大きく下に触れていても
『予測の下限は超えていない』と嘯く、まったく褒めらたものではない不誠実さによって成り立っています。
とはいえ、これは従来の"科学的な態度"と何ら変わるものではなく、温暖化を主張する
科学者にとっては何が問題なの?という反応がほとんどであったようにも思えます。

ですが、このあたりの感覚は、やはり科学者特有のものかもしれません。
会議は最後まで紛糾し、さらには開催国側が『合意によって作られるはずの文章』
をすでに作っていたことまで判明。
科学者以外にとっては、やはり何よりその不誠実さが大問題であるのです。






結局、従来型の全会一致方式を取ることはできず、
新たな温暖化対策に合意する国のみで『対策に留意する』という
一番最低の強制力の言葉での採択となりました。

後に、史上最低の国際会議と呼ばれ・・・るかどうかは、やはり
ここ2~3ヶ月のうち発表される合意国による独自対策の声明によるでしょう。
温暖化が本当かどうか。これはひとまず置いておくとして、
(ぶっちゃけ私はこの件に関してキチガイ扱いされる側・つまり懐疑派なんですが)



以下は質問の、様々な意見がある中で、如何にして合意を得るか。
そのプロセスについての話に絞ります。

そもそも会議とはいかにあるべきか。
一般的な認識では、賛否両論を持ち寄り、議論を尽くした上でその正当性を確認するという
プロセスとされているかと思います。
しかしながら、こういった『ブレーンストーミング型(知識の交流から何かを生み出す)』
の会議は、特に時間が限られた国際会議のような場ではふさわしくない、ということが
今回、判明してしまいました。

では、日本古来の会議の形、つまりネマワシをすればよいか?これも違います。
これ以上、会議を儀式化することは、それこそ各国代表があつまるという壮大なムダを
何度も繰り返すことになりかねません。
日本のビジネス界からは最近流行のToDo(すべきこと)を明らかにする、あるいは
PDCAサイクル(計画・実行・チェック・修正)を確立するという解答が出てくるかもしれません。
もちろんこれはそれなりに支持を得られる考え方だと思います。




ですが、今回のCOP15という最低の会議は、全く別の、最高となり得る解答の形を示したのです。
つまり、全会一致である必要は全く無い、というもの。
提案されたアイデアを合意した人間のみで行えばよいのです。

開き直りかよ!とツッコミが入りそうですが、全くその通り。開き直ればすべて解決します。
平等な負担、といっても、その平等の意味は考える人によって違うのです。
万人に共通する平等というものは、概念としてはあっても、その合意を強制することは
決して出来ない。まして持ち寄った情報が嘘・・・とはいえないまでも、作為が多いものであれば
合意を得るための最大の障害、『不信感』が生じてしまいます。

この提出した情報の不誠実さの代償を、すべての参加者に負わせるのは、もはや道理として通りません。
情報の提供者とそれに同意した人間達に責任を持たせることで、誠実な会議は実現できるのかもしれません。
ここで初めて、単に目立つことを目的としたセンセーショナルな、そして実現不可能な
パフォーマンス的なアイデアを廃し、ようやく"自分が出来うる範囲での実現可能な協力"
を話し合うことが可能となるのです。



まぁでも私はそれでもCo2削減反対だけどね。キチガイでごめんなさい。
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この回答へのお礼

ほ~ぉ、COP15は、色々有ったようですね、京都議定書の評価も、そのような見方があることは知りませんでした。尤も、環境問題がこの質問のテーマでは無いですから、あまり詳しくは立ち入りませんが、事実の共有が、参加各国の間で成立していなかったようですね。この質問の、導入にCOP15を使用したのは、問題点として、地球温暖化の原因が、先進国にあるから、先進国が義務を持って、後進国には義務はないのか、と言った点の対立から、議論の合意の可能性のに関して考察を加えて見たかったのですが。例えとしては、複雑すぎて、焦点が曖昧になったようですね。

さて、問題のプロセスの件なんですが、ご回答のようなモデルとは、微妙に違うのではないだろうか、と言うような質問の意図があったのですが、判りにくいですよね。私も、回答者様同様、キチガイの一種でしょうか。
例えば、貿易振興の会議とか、世界金融に関する会議とかは、そもそも、貿易を振興する手段、金融を安定させる手段、つまり、ほとんどの場合(キチガイを除いて)それによって各国が利益を得ると言う前提があって、合意が成立するわけですね。ビジネスモデルも同様に、手段に関する試行錯誤であって、原理的には市場経済競争と同じなのではと、考えている、キチガイですね。

あと、
間接民主主義における、集団の利益を代表する個人が、集団の利益に反する合意を認めることができるのか。
この辺りに関しても、コメント頂けると、もっと有り難かったですね。

参考にさせて頂きます、有難うございました。

お礼日時:2009/12/27 16:48

しばらくでした。


最近になって、お返事が届いていることに気がつき、またぞろお邪魔を致しております。いつまでこうもしておれず、じきに消えますので、大目に見てくださいませ。

貨幣史に関する研究が予想以上に質問者さまの課題に、どう役立つというのか私なんかには見当もつきませんが(笑)まあ、お勉強熱心なことで、頭が下がります。
しかも、なんですか、今回いただいたお礼欄の引用は、何のためのワザワザの引用なのか、申し訳ございませんが、よくは理解できませんでしたものの、名文にして意味深な、なかなかの内容の一文とは感じました。

さて、「真偽」
じゃなくて「信義」とは何ぞや?
「天命」なんて、そんな大げさなコトバは、もとより私の頭のなかにはありませんでした。まあ、余裕しゃくしゃくなら美辞麗句もふんだんに使えるのかもしれませんが、ふだん約束を守るのだって、それは結局、自分のためでもありますから。
単純な気性ゆえなのか、ガマンできる程度の者がガマンすればいいだろうくらいにしか思ってません。

辞書には
「真心をもって約束を守り、相手に対するつとめを果たすこと。」
と出ています。

>ある集団の代表は、その集団の利益を守ることが、信義を尊重

約束を守る、少なくとも、守ろうと思うからには、それだけの価値を認めていてこそではないのですか?
代表の選び方に、そもそも、選ぶ側のレベルが顕れてしまってるわけでもあるでしょうけど。

うーん、そういえば、スポーツの世界で、たとえばオリンピック競技の代表チームに、ライバル国にあたる外国人の監督や指導者をつけたりしますよね。


『私のものと私のものでない「ゴミ」』
ここは、
いやぁ、なるほどねえええ!!
と思いました(笑)
「ゴミ」ってのは、自分が出したものでも、ゴミになったとたん、自分のものではないものになるのでしょうか?

台所仕事をしていても常々思うのですが、分別のために、プラスチック容器などの汚れを、ある程度落とします、そのたびに、ペーパーで拭うべきか、お湯で流すか、洗剤を使うべきか、けっこう迷います。


>くれぐれも、種が目を出す、手伝いなどなさいませんように

えっ?なんのことですか??
でも、知らないうちにやっちゃってるかも(ぺろっ♪)
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この回答へのお礼

お元気でしょうか?
便利な時代になりましたが、相変わらず時代遅れの私は、スムーズに反応できずに、情けない限りでございます。勉強熱心というか、単なる活字中毒症状でしょうね。お礼欄に引用した文章も、単にご回答に対する感謝の気持ちを、絵の様に表現すると、ちょうどよさそな文章がたまたま有ったと、と言う事で、文字どうりに解釈していただければ、宜しいかと。

さて、真偽や信義は、いまや正月の御餅の様に黴まみれ。
そこで、「私のものと私のものでない『ゴミ』」に話題を変えましょうか。
こうした気の利いた「フレーズ」は大概オリジナルではなく、何処かの本で読んだ受け売りですが、慎重に精査したにもかかわらず、今の所、出典が確認できません。恐らく環境経済関連の本でしょうが、読み飛ばして読書録に記載しない本が半数近く有りますから、致し方の無い事でしょう。

出典は確認できませんが、この問題は、実は「外部不経済」という経済学の問題ですね。経済学で外部不経済と言う意味と、若干ずれますが、生産に関わる廃棄物の問題です。ご回答者様は真面目な方ですが、工場の煙突からは、毎日毎日煙が出ていますし、私も車を運転しながら、マフラーから煙を出しています。出てくる煙は、誰も所有権を主張しないようで、代わりに排出権という得体の知れないものが出てくる。極端な話、私が息を吐くにも誰か他者の許可が必要だと言うことなのでしょうか。
別の意味から極端な事を言えば、生産に関わる「重力の恩恵」を経済学は無視している、というようなことですね。こうした些細なことの積み重ねが、結局は環境問題(ちなみに、私の課題は環境問題ではなく、敢えて言えば経済哲学の分野です、念のため)に繋がっていくのでしょうね。

聞いた話ですが、江戸時代の商売の中に、人間の排泄物を商う方がいたと言う事です。まぁ、長屋を廻ったり、武家屋敷からも商品を仕入れて、農家に売るらしいです。排泄物の件は一例で構造的に、江戸時代はゴミはあまりでなかったようですね。

>じきに消えますので、
さまざまに違ったご意見に触れられる点が、このサイトの長所でしょうか、今後とも頑張っていただきたいものですし、以後の質問にもお付き合い頂きたいと、思う次第です。

この場をお借りしまして、皆様のご回答に、改めてお礼申し上げます。
有難うございました。

お礼日時:2010/02/21 05:05

No.23です。

こんにちは。 時折拝見させていただいておりました。
だって、合意を得ようというお約束の実験でしたでしょう?^^

fishbowl66様にはご迷惑かもしれませんけれども、含蓄あるお礼と参考文献のご教示、
並びに他の回答者の方々の回答は、私にとって大変実りあるものとなりました。

>結局、私のものと私のものでない「ゴミ」、COP15で、ある国の代表が発言していた「CO2は要らないが、経済成長は欲しい」といったある意味、虫の良い発言が可能なのかという事でしょうか。

はい、どうやらそのようですね。
「地球の環境問題」の名のもと、自国に最善の「利害」をもたらすべく、
各国が「経済性」という杓子定規で、互いに合意を何とか取り付けている状態です。
しかし、発展にゴミはつきものですから、ゴミを出すなというのも難しく、
さりとて、地球資源を所有し消費するのにもかぎりがありますし…
う~ん。どういたしましょう。

>人間が資本や土地をまず所有して、それらを元手にしながら自らの肉体や知恵を用いて富を産み出している、というのは一種の幻想に過ぎないのではないか。
>むしろ、人間自身が、人間をも含み、しかしそれより広大で深遠な、いわば大自然の産物ではないのか

はい、そうですね。
何やら最後の一文は、人間に「謙虚であれ。」と渇を入れてもらう印象を受けました。
「地球資源が有限で枯渇の恐れがある」という考え、これはいつから囁かれ始めたのでしょうね。
そして近い将来、「人間が自然を所有/支配する」ではない「人間自身も大自然の産物」というあらたな意味付与が為される日が来るのでしょうか。
私は少なからず、そのような希望的観測を抱いてはいるのですけれども。 甘いですかね。

結局は、いつの世も、人間は人間同士の格差是正/解消を、互いの闘争関係に持ち込んできたということでしょうか。そしてそのための崇高な理念。

私は別質問にて、「人間が自然を支配するのではなく技術を、つまり機械を支配することによって、人間間の格差がなくなる可能性があるのではないか」などと吹聴しました。
もちろん他愛も無い冗談で、信じてはおりませんけれども。

>エントロピーの観点から、疑問の余地があるとのような事が書いてあったと思います。

はい、そうかもしれませんね。
確実に言えること、それは、市場経済に支えられた日々のたゆまない科学技術の発展ではないでしょうか。
ただし、データの精査と発表形式云々につき、かなりの問題が露呈しているのも事実のようですね。
これは、このご質問における収穫のの一つではないでしょうか。

>この容認とか寛容といった表現は、ある意味上から目線のようなものがあり、イスラム文化からグローバリゼーションのような、自分達を苦しめる文化に対して、理解・容認・寛容といった態度は採りづらいのではないでしょうか

そうですね、その「自分たちを苦しめる」は、「歴史的因縁の対立」を抱える宗教国家が絡むほど、大変難しいと想像します。

私が先に異文化理解と申し上げた理由は、当初の世界的合意からの視点からいつしかズレて、
日本の立場を代弁する立場から「知日派を増やして理解を得るように画策する」という、
何とも姑息な物言いにすぎませんでした(汗)。
まったくもって、異文化理解などとはおこがましい。
言うは易しですね、とほほ(反省)。

理解はともかく容認や寛容というのは、互いの関係性によっては、多少なりとも、上から目線と受け取れることもありましょう。
それには、いつしか下からの圧力が生じることで、「力の均衡」が出来上がることで変わり得るのではないでしょうか。
その「力の均衡」とは文化的なるものなのか、それとも経済性を意味するものか、はたまた…。

そして「再生産」「貨幣の歴史」は、いまなお、ちょっとひきずっております。宿題といったところでしょうか。

こちらこそ、また是非ともお願い申し上げます。
本当にありがとうございました。
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この回答へのお礼

お正月ののんびりした気分を鯨さんの事件が吹き飛ばしたかと思いきや、その後、マグロさんまで物議を広めて、日本の食習慣の将来を心配するいとまもなく、ハイチの地震、世界各地の大雪、目の廻る忙しさの中、環境問題における研究機関の報告の訂正も比較的静かに目立たぬように発表され、そこへもって、各国のCO2削減目標が、これまた注目も集めず、と言うか、基準がバラバラで、評価に関する難しい取扱説明書が必要な有様で、独り言のように、発表された。ふぅ、一気に書くと息が続きませんね。

環境問題を声高に発する人々の理論の中に、事実関係がはっきりしてからではもう間に合わない、と言う理論がありますが、これこそ現代を悩ます、哲学的課題のようです。

この間、日本では相変わらずの、政治とお金の陳腐な議論に食傷気味になり、ついつい歴史の気ままな空想の中に誘い込まれてしまいます。えっ、最近の歴史・考古学は、埋蔵物や文献と言った実在対象を扱う実証的なものでした、ね。私が誘い込まれる空想は、古代人の心でした。

Oh, say does that star-spangled  banner yet wave.
O'er the land of the free  and the home of the brave!

ライスボウル等々のピンキリの試合前に歌われる、アメリカ国歌のクライマックスですが、どうやら現代は、Bannerを見失ってしまったのか、或いは見る影もなく朽ち果ててしまったのか。

アラン・ソーカルは学問に対する信頼を揺るがせ、ゲーテルは合理性に関する確信を失墜に追い込み、成長神話は、暗渠の下に、白い腹を浮かべる魚のように、脳死判定を待つばかりのようです、多少大げさな受け止めかも知れませんが、かって、科学の進歩の先にばら色の未来を象徴していたBannerのほころびの隙間から、私たちはなにを発見するのでしょうか。

「お前の不幸な子孫になおいっそう大きな不満を予告しているいろいろな理由のために、現在の状態に不満なお前は、恐らく、もう一度むかしに返ればよいがと望むだろう。そうしてこの感情はお前の最初の祖先への賛辞や『同時代人への批判』となり、不幸にもお前の後を生きる者にとっての恐怖をよび起すにちがいない。」ルソー「人間不平等起源論」『』強調は引用者
では、また何処かで、有難うございました。

お礼日時:2010/02/13 17:02

No.21です


一人の人間の意志決定でも、様々な考え方があります。
1.受動的(ボトムアップのみ)
2.能動的(トップダウンのみ)
3.受動と能動の両方(ボトムアップとトップダウンの両方)

受動的(ボトムアップのみ)という代表は、前野氏の受動意識仮説
http://takashimaeno.com/maenosbooks.htm
http://www.maeno.mech.keio.ac.jp/Maeno/conscious …
(後者のリンクはなぜだか現在無効になっています)
に代表される考えになるでしょう。

トップダウンにしてもボトムアップにしても、一方通行であったり、情報伝達が中途半端であったなら、様々な階層で複雑な温度差を作り出す原因にもなるでしょうから、関連性を如何に保つかが問題になろうかと思います。

関連性は、繋げようとしても繋がらず、繋がるように繋がっていくものだと思います。
ただし、繋がり合おうとする関連性の間に、障壁を取り除いたり、障害物を設定することはたやすいことです。

意志決定問題でのルール作りとはまさに繋がり合おうとする関連性の間の障壁を調整することに相当すると思います。

意志決定:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E6%80%9D% …
合意形成:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%84%8F% …
自由意志:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1% …

自由意志と決定論について、一人の人間においてどのような立場を取るのか?(たとえば、両立主義なのか非両立主義なのか)が、全体の意志決定をどのように捉えるのか?といった認識の差異にも影響すると思われます。

この回答への補足

 では、主客対置を撤回すれば何が起きると言うのか?何も起こらない。もともとの静穏な事態が復原されるだけである。余計な騒ぎのもとである主客対置や主観内部対外界といった分断が消失した跡には、われわれ経験の所与としての面体分岐が明瞭に視界のなかにその姿をあらわす。そしてそこには脳生理学の治療不能の宿痾であった外界物体の認識可能性が直下に見える。すなわち、知覚風景としての面分肢は立体的事物の意味である対分肢の構成要素として始めから意味されているゆえに、知覚風景を持つことは即ち立体事物を認識すること(の少なくとも一部)にほかならない。それゆえ、無理に外界から意識内部への作用流入を追究して脳の研究を始めたり、脳状態から外界への逆経路の不可能に悩んだり、簡単にいえば脳生理学の一切が不要になる。脳のことは一切全部忘れて静かな経験に安住できることになる。
 その静穏な経験は脳生理の騒音から解放され、かつまた主客対置の人工的境界の汚染も清掃して、雲ひとつない晴朗な本来の人間経験である。山川草木に対して、それらを見る主観などは跡形もない。そこにあるのは、もともとの経験そのものである山であり川であり草木の繁りである。浅薄軽薄なダミ声で主客未分とか主客合一だとかはやすだろうが、それは無視したほうがよい。自然と一体!などという安っぽい掛け声も聞かぬふりでよい。ただ、われわれの何百万年前の祖先がしたであろうと同様に、この純粋無垢の山川草木を楽しみ、そのなかで生きることである。
 ではしかしわれわれの近い先人が二千年にわたって営々と築きあげた哲学と脳科学は、すべて徒労であり無駄な努力であったことになるというのか?これらすべての努力はただそんな努力はすべて無駄だという結論のために浪費されたのだろうか。
 そのようにさせないもくろみがひとつ私にはある。それは主客対置の分断に代えて略式に主客の「重ね描き」と呼べる方式を採ることである。精しいことは他の著書(「時間と存在」その他)にゆずってほんの概略を述べると、主客対置から解放した原初的経験の上に重ねて脳生理学の知見を描きこむのである。物理学では日常的な氷や机のマクロの感覚的描写の上に、ミクロの原子分子の姿を重ねて描くのと同様に、粗大で感覚的な原初的経験のマクロの描写の上に、細胞から原子や光子に至るミクロの科学的描写を重ねて描くのである。
 こうした「重ね描き」は、これまで日常的描写をミクロ科学描写で説明するために用いられてきたが、ここでその解釈を変更する。科学的説明は二次的従属的用法であって、本来は、マクロの日常描写に重ね描くミクロの科学描写は前者の細部、時間空間的細部である。この解釈の下では、脳生理学の無数の知見は世界の一部である「経験しつつある人間」の頭骨内部の細部描写として日常描写に重ね描かれて、世界の細部情報を与えることになるのだから、それを得るための労力に十分匹敵するだけの意義がある。
・・・
 この重ね描きの構図では、脳から外界への経路などの問題は初めから起こらない。脳は初めから外界の一部として細部描写されているだけだからである。科学の初心に戻ればそうある以外にはなかったのである。
 さらにこの構図は、「自我」の概念から「意識」という不純な要素を追い出して本来の実生活的意味を復原するだろう。主客対置の文法的表現ともいうべ「私はXを見る」といった主語-動詞-対語の三分節に惑わされて経験のなかにありもしない分断を持ち込むことをやめる。この三分節は多くの身体運動には適切であったが、それを心的経験にまで不当に拡大したところから西洋哲学の最大の災厄が生まれたと言えまいか。心的経験の全体をそのまま「私はXを見る」で表現して、それ以外の分断を拒否することが、実生活での「私」の意味に復帰することであり、外部自然と私とが切れ目なしに地続きになっている経験に、人為的な乱れを与えないことである。そしてこの無垢な経験を、実生活の言葉で描写した上に、科学者が獲得した科学的細部を描き加えたものが、上に述べた重ね描きにほかならない。
 この重ね描きを採用するならば、脳による外界のオートメ産出という、この世にありえぬ怪物は消滅し、それとともに哲学の身心問題という遺伝病とも縁が切れるだろう。そして失うものはわずかである。主観-客観の対置、それから派生した意識という有害無益な概念だけが失われる。それを惜しむ人の数は多いだろうか。
『時は流れず』大森庄蔵

補足日時:2010/02/07 07:06
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり、大変申し訳ありません。
合意と意思決定をパラレルに考えることは、大変興味深く参考になっております。また、トップダウンを否定して、ボトムアップを強調する姿勢にも親近感を感じているところです。

ただ、私は、意思とか意識とかについては、あまり問題にしていないのです、どちらかといえば、記憶・感覚の方が、より本質的な問題ではと。意思決定とか自由意志といった問題は、そもそも不要な問題で、同義反復に陥っているような気がします。以下、釈迦に説法ですが。

この点に関しては、そもそも生命とは何か、と問わねばなりません。生命は確かに物理法則に基づく物質から出来ていますが、両者の大きな違いは、シュレーティンガーの言葉を借りれば、周期性結晶と非周期性結晶の違いでしょうか。前者は一般に物質と言われる原子の集合ですが、後者は、多種多様な原子の集合であるとともに、膨大な量の原子の集まりである、と言った点です。こうした膨大な量の物質の集合である生命は、エントロピーの法則・作用反作用の法則と言った物理法則から免れ、その内側に定常性を築き上げ、自己増殖し、時を刻み、ついには、感覚を持つに至り、最終的には、言語による思考を獲得してきたのでは、と考えています。つまり、基本的には物理法則に支えられているにもかかわらず、量の変化は質の変化に至る、と言った古い言い回しがぴったりするような、飛躍が有ったのではないでしょうか。

つまり、自由意志と決定論は両立しますし、同居します。そもそも、仮に意思をもつと言った場合、それこそ物理法則からの自由であり、一体それ以上どんな自由を望むのか、意思自体が自由の結果であり、またある意味、決定でもあると考えます。すると、意思決定も、これまた無用の問題になるのではないでしょうか。

問題は、こうした意思が、ある閾値を越えて発生するのか、常に発生していて、他の部分を抑えることにより、相対的に発生してくるように考えてしまう、誤解に基づいているのかどうか、と言ったことでしょうか。

ところで、人間の個体は80兆とも言われる細胞の集まりとの事です、意思の決定のためこれだけの量が必要なら、60億程度で、悲鳴を上げる地球号の舵取りは、難しいものですね。
有難うございました、遅れたお詫びになるのか、大森の面白い文章を貼っておきます。

お礼日時:2010/02/07 07:06

あけましておめでとうございます。


タイムリーに大雪が降ったからラッキーだったものの、スキー場に従事する方々はさぞかし将来(地球温暖化)を憂いていらっしゃるのだろうなあ、と思わずにはいられませんでした。

お礼を頂戴致しました。本当にありがとうございました。

>>市場原理主義は現代において普遍的な概念であり、これを世界的に排する運動や哲学なんて、御伽噺どころか絵空事なのでしょうね、きっと。
>こうした問題に関しては、年末年始の、気の抜けたビール状態・食中毒中と言う言い訳をして、さらりとかわしておきましょうか。

はい、現代は市場経済を至上とする壮大な実験場であり、五里霧中を進まざるを得ないものの。
『いまこそ、市場経済の延長ではない、非市場経済における人間の経済を中心にした研究が始められるべきである。』『マルクスの愛好したモットーは、いまも示唆に富むことを忘れないでほしい。』を頭や心の片隅にひっそりと置いておくべきなのかもしれません。
私も食あたり、ということでどうかお願いします。

他の御回答にもありましたが、「排出権」取引というものは、EUが積極的に枠組み作りを主導してきた経緯ではありますが、元々はアメリカが強く主張していたものなのです。
でもこれが本当に「目的に叶うしくみ」なのかどうか、一考に値すると思われます。

排出権取引により世界全体のCO2が削減されるのかどうか。
また、豊富な資源を輸出し、さらに排出権を売ることで利潤を得られる国など出てくることを鑑みると、本来ならば「GDPと連動した税方式」の方が相応しいのかもしれません。
いかがでしょうか。

さらに、ソースの信憑性がいまいちですが、よろしければ以下もご参照下さいますよう。
[国連「中国政府に疑惑」…風力発電「排出権取引承認」を停止]
http://fanchan.excite.co.jp/News/china/20091204/ …

>(ドイツの)地域評議会においても、当事者たちが主張するのは、当然のことながら…私的な利害である。
>にもかかわらず重要なことは、そうした主張を尽くしたうえで、各自が相互に私的所有権の行使を限定しあう公共性が成立する

参考文献のご教示をありがとうございました。
ドイツの事例はとても興味深いです。

さしずめ日本で言うならば、大規模修繕の予算不足、日照権、騒音被害、などの「今そこにある危機」に立ち向かおうとする、一定規模の構成員数で成り立つマンション管理組合にも相通ずるような。

翻ってご質問の問題点は、「今そこにある危機」について、各国が真に切実な危機感を抱くとはかぎらず、各々の利害と世界規模の公共性とを妥協させることが困難ということで、代表者の合意にそれを集約させざるを得ないということですよね。
高らかな理想と理念とは裏腹に、実際の国際外交では日本のみならず、各国が休みなく陰日向で交渉を続けていっているはずなのですが…。

本来であればfishbowl66様の仰るように「知識に優れ徳のある人が何時かはでて来るんだと期待」したいところですが、歴史的にどうやら「和を尊んできたらしいな」と思える日本からは、そのような突出したカリスマ的聖人が輩出されるとは、私にはなかなか想像出来ないのです。

また、細分化のお話ですが、これもとても理に叶っているのですが、実際には省益などの個々の利権に阻まれ、逆にマイナス要因に働く可能性も考えられます。

もしかすると──日本が地球規模の合意を得るための秘策とは、fishbowl66様のご指摘の「社会の再生産」(=文化)がカギなのかも、と思い始めております。
各国の異文化を日本が率先して理解する、相互交流をこれまで以上に密に揺るがないものにしていく、さらには(異文化の吸収に匹敵するほどの)日本の自文化の正確な理解と強い主張、というのが案外妥当な線ではないでしょうか。

つまり、多国間の共同作業と理解の先に、文化/文明の対立や衝突を乗り越える可能性が、残されているのではないかな、と思うわけでして。
現代は情報化社会で必要な情報は逐一手に入ると思いがちです。
ですが、国際政治の檜舞台において、もっともっと、文化の果たす役割(含む対外文化政策)や真の相互理解について、考えてみる必要があると思うのです。

いかがでしょうか。 話がソレてしまい、スミマセン^^

ps:「自分の利害関係を明らかにすることを避けるのは、これは弱点を明らかにすることも含まれてきますから、強い利益希求を抱いている場合ほど、とにかく隠すのが得策ということになりがちなのでしょう。」は、思わず納得です。
VenusAurea様、ありがとうございます^^

この回答への補足

「そこで一つ問題提議をしてみたいのだが、そもそも自然を人間が所有するなどということは原理的に不可能なことではなかろうか?たとえば、奴隷制の下では、人間という自然を別の人が所有することができると考えられ、その所有者は、賃金など支払うことなしに奴隷をただ働きさせることができた。しかし、そういう社会は人権を無視するものでよろしくないということになった。いわゆる近代社会においては、ある人が別の人を所有することはできず、ある人の働く能力を別の人が利用しようとすれば、しかるべき対価を支払わねばならない。とはいえ、近代社会といえども人間以外の自然を人が所有するという関係は否定していない。だが、その所有物が不要になるやいなや、人々はその所有をやめようとし、近年の日本に限っても、産業廃棄物の合法・非合法の投棄、地方自治体に措ける一般廃棄物埋立地不足は、深刻な社会問題となっている。・・・人間が資本や土地をまず所有して、それらを元手にしながら自らの肉体や知恵を用いて富を産み出している、というのは一種の幻想に過ぎないのではないか。むしろ、人間自身が、人間をも含み、しかしそれより広大で深遠な、いわば大自然の産物ではないのか。」
(『エネルギー経済とエコロジー』室田武)

上記の引用は、市場主義に対する批判でしょうか、どうしても具体性に欠けてしまいますが、結局、私のものと私のものでない「ゴミ」、COP15で、ある国の代表が発言していた「CO2は要らないが、経済成長は欲しい」といったある意味、虫の良い発言が可能なのかという事でしょうか。

ところで、言及することができなかったもうひとつの問題は、私の記憶では、多分、この本の中に書いてあったと思うのですが、風力発電、原子力発電、電気自動車等々が本当に「エコ」なのか、という問題です。
風力発電のために風車を立てますが、それは鉄の塊であり、その生産には大量のCO2が発生していますし、原子力発電の設備の建設、廃棄物処理のための設備の建設、電気自動車の電池の生産やその廃棄等々をトータルで考えていくと、エントロピーの観点から、疑問の余地があるとのような事が書いてあったと思います。

恐らく、計算式等の分量が多く、読書録に記録するのが困難だったかと思いますが、本当の所なかなか分からないことばかりのようです。

また、宜しくお願いします。

補足日時:2010/01/30 06:11
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この回答へのお礼

お礼がすっかり忘れた頃に届いてしまいましたか。

新雪の崖に向ってスキー板を落とし込む、勇気と快感を私も忘れてしまいましたが、いまでも私は冬が好きです。

さて、下の状況によりお礼が遅れた弁明に関しては、割愛します、唯々お許しを請うのみです。

食中毒と食あたりの対話は、恐らく、同病相哀れむ形式で合意は思いのほか簡単に成立したようです。
ところで、私が質問の文章にさりげなく「地球人」と言う言葉をそっとおいておいたのですが、そのことがご回答にある文化の問題だと思うのです。

『自転車に乗れる私と自転車に乗れない私とは排他的な関係にある。自転車に乗るということについて、「私」はいわば生まれ変わったのである。自転車に乗れる身体を持ってしまった私が、乗れなかったときの感触をもはや思い出すことはできないのは当然であろう。万が一、「自転車に乗れる私」に、乗れなかったときの感触が蘇ったとするならば、そのときの私はもはや自転車に乗れなくなるに違いない。』
(『記憶の持続 自己の持続』松島恵介)

異文化を理解する、と言葉で簡単に言えますが、文化を補完的・排他的とかむずかしい言葉を使う前に、異文化を理解する事と実践する事の関係はどうなっているのでしょうか、文化は物の様に沢山蓄えることができるのでしょうか。判り難い議論ですから、具体的に表現すれば、イスラムの文化を理解する事と、イスラムの文化を実践することの違いを確認した上で、イスラムの文化を理解するとは、結局のところ、実践しないのならば、容認するということになるのでしょうか。そして、この容認とか寛容といった表現は、ある意味上から目線のようなものがあり、イスラム文化からグローバリゼーションのような、自分達を苦しめる文化に対して、理解・容認・寛容といった態度は採りづらいのではないでしょうか。

実は、この辺りの問題は質問者も未整理で、日本人でありながら地球人でもある、と言う事は一体どの様な事を意味しているんだろうかなぁ、などと考えていました。

最後に、もう一点、本質問で言及されなかった点に関して、参考までに補足欄に書いておきます。
また別の機会がありましたら、宜しくお願いします。有難うございました。

お礼日時:2010/01/30 06:11

あけまして、おめでとうございます。


やっと、ゆっくり拝見し直しさせていただいて、暮れ以来のお邪魔投稿を続けさせていただきますが、やはり、本質問の御真意のほどは全てを呑み込めてはいないのかもしれません。ただ、No.18さまの
>利害を調節すべき、という話ではなく、コンセンサス制度の根幹。会話の主体となる人間の信義の問題なのです。

このあたり、私としては、またまた、特に共感を覚えたところです。

さて、
また「レベル」の話かよと言われるかもしれませんけども、いっそのこと、思考実験とまで言うのなら、思いっきり分かりやすく、このまま行けば近い将来、吸える空気がなくなるのだぞ、という問題であったら、ヒトであれば誰でも無関係ではない問題として設定できるでしょう、このくらい、万人に影響必至の問題であれば、目指すべき合意点に向けて迷わず進行させざるを得ないはずですから。
せいぜい、空気の消費量を各々どのくらいまで許容するか等で揉めるとしても、最低限の必要確保量については有無を言わせないでしょうし、もしも、その最低限度を超えてしまうような主張が、局所的利害に基づいてなされたとしても、認められるわけありません。空気なくなったらおしまいなんですから。
経済的利害がどうこうだと言ったって、早い話が、俗に言う「あの世にまで持って行ける金はない!」てなものでしょう。

>白も黒にしてしまう、ネゴシエーターこそ、代表にふさわしい

白は白、黒は黒であることをハッキリさせなくてはなりません、白も黒にしてしまってはいけません。
ただ、白は白、黒は黒であることをハッキリさせるという、要は見分けることが、実は、いろんな面で難しいことなのだろうと思います。

…以上のようなくらいのレベルのことを取り上げておられるのかなぁと思っていたんです。
しかし、こういうことだったら、まぁ単純なと言えば単純な話ですわね。

政権が変わったから等でコロコロ覆るということは、「朝令暮改」とでも言うのですか、反古にできる、しょせんは、その程度の問題に過ぎないという認識なのではないですか?
そうではなく、ことは重大な影響を広範囲に及ぼすのであればあるほどに、

>1)2)の問題に重点がおかれている様に感じます。
私、そんなつもりなくて、これでも、3)を意識していたつもりでした。

挙げられたところの
1)個人と集団の代表との関係
これは集団によってさまざまでしょうが、代表は構成員の利益を代表している、諸個人の合意によって代表が決まる。
2)集団の代表と他集団の代表の関係
これは、集団の代表の集団、例えば、市長会・知事会等々ですが、さらには二国間の条約、地域間の自由貿易連合、等々。これも、当該、構成集団の利益を代表して、構成集団の代表によって合意がなされる。

このようなレベルにおける話でしたら、これは、どうしても、根回しだの叩き出すだのという話になりがちですね。しかし、たとえプロセスが肝腎とか言っても、最終的に「合意」を目的としているには違いないのであって、プロセスとは、そのためのプロセスなはずで、合意なく達するなどとというのは問題外なんですよね?そのレベルでのことを取り上げておられたわけなんでしょうか、それでしたら、
質問者さま御提案の「組織を細かく」というのは、これは私も、もしかして良案かも、と思いましたよ。

>組織を細かくしても、断絶が細かくなるだけで、今度は分断された個々の点をどう乗り越えるのか、という問題が出てくると思うのです。

こうしたところでも、「学際的」視点を絡めて、ま、「溝が細ければ」、またぎやすかろうとでも言いますか、規模が小さいほどに、その分、各々利害の内訳を把握しやすく見えやすいでしょうし、ふだん、分野に疎い者であっても、相応の適切な説明を受けたりしながら、理解を深めていきやすいかもしれない。
そのうえで、その主張は却下されるべきであると判断された場合には、抑えも効きやすいではなかろうかと思われました。

ただ、一番困るのは、利害範囲が狭いわりに、主張の声ばかりが、やたら大きいのではないかという、その見極めではないでしょうか。
そうしたレベルにおいては、声が大きい者や狡猾に立ち回る者が利益を確保した、その分を、立場の弱い者や声の小さい者らがガマンしたり、譲る範囲が大きくなってしまいがちでしょう。
こういうことが積み重なっていくうちに、今度は、そっちで利害を同じくする者どうし繋がりが広がっていったら、一転、声の大きさが逆転・転覆という事態になるのは、歴史上でも繰り返されていることですよね。
そういう事態に至って、それまで欲掻いて一番声が大きかった者が、今度は自分が徹底的に踏み潰されることになりかねないわけで。


たくさん次々と高く売りさばかれるのなら、なぜ、その仕事に従事している人々のなかに、飢えた人々がいるのでしょう。
誰が飢えさせているのでしょうか。他人を飢えさせた分、飽食している人がいるのでしょうか。


日本も、その一員とされる先進国なるものは、発展途上国なる存在に先んじて且つ大いに利用もしながら、これまで良い思いをしてきた側なわけでしょうが、それで、先の見通し汲々としてきたからというので、すでに手に入れている生活レベルは、できるだけ落とすことなく維持しつつも、途上国側には、おまえらガマンせえよ、という、ある意味、実に、むしがイイとも言えそうなことを要求するのか、できるのか。
もし、できるとしたら、いや、できなければならないのだとしたら、どうするべきなのか。


一般的に日本人は、自分の利害を声高に主張するのを、みっともないとかいう感覚があるのでしょうが、ならば、それは自分の利益要求を抑え込むことに繋がっているのかというと、そうでもないらしい。それが、やれ根回しだ、裏工作だといった日本人が好むところ大という行動に向かっていかざるを得なくしているのではないですか?
自分の利害関係を明らかにすることを避けるのは、これは弱点を明らかにすることも含まれてきますから、強い利益希求を抱いている場合ほど、とにかく隠すのが得策ということになりがちなのでしょう。
表面的には主張をあらわにしない。しかし、だからといって、その利益希求を抑制するのではなく、どのみち自分の利益を叶えるため、単に裏で動くだけのことであるなら、それは本当の意味での「譲り合い精神」、「和の精神」であるとか言えるんでしょうかねえ?
ひょっとして、裏で動くことそのものに、一種の美意識を感じてるんでしょうか??


>世界中の国が合意できる可能性のある、事柄とはどんな条件があるのか。

温暖化問題と言ったって、私みたいな知識に乏しい一般人には、急に聞いても、ほとんど寝耳に水的問題で、具体的には、どこがどのように問題なのかを把握するだけでも、ひと苦労です。
「排出権取引」のことというのも、微妙な問題を各面で含んでそうで、難しいことですねえ。。


そういえば、
「人の高みに登る者は孤独の罰を受ける」とかと、言うのがありましたっけ。

メシア出現を待ち望むごときでは、どうしても限界はあるでしょうといったことを先回にも触れましたが、現実問題、「聖人君子」ではなく、辣腕ネゴシエーターのほうなら、何人でも登場してシノギを削ることになるのでしょうね。


ところで、いっそ、コンピューターに判断してもらったほうが、個々の利害意識に惑わされずに妥当な判断が下せるのではないかと御考えでいらっしゃるということですか?
どうなんでしょうね。少なくとも現段階で、そこまで万能にして自立的存在なんでしょうか、コンピューターって。
それだけは、すなおに疑ってますが。。。


>この代表の集団の上位に、何者の上位者がいない、同時に外部もない。

>法律にしたがって権力を行使する支配者がさらに上にいなければ、だれもが自分の自由を濫用するに決まっているからである。

簡単に言ってしまうのですが、これ、「濫用」できないようにしたらいいんです。そういうシステムを構築すればいい。
グラフの読み取りすら、まともにできてないだろう私なんか、せっかくアタマいい人には、一般人や専門知識に疎い者を操作・誘導して丸め込むために、その学識を利用した裏工作や根回しにではなく、こういうところに知恵絞ってほしい、と思いますけどね、やっぱり。
ですが、
>報道見てたら、ダメっぽいなぁ。
ええ~;そんなぁ。。。

この回答への補足

お礼が大変遅くなりました、もうお忘れかもしれませんが。
さて、正月以来、何度も頂いた回答を順番に読み直してみましたが、どのようなお礼を捻り出したら良いのか、考え込んでしまいました。特に、前のお礼で述べさせてもらった、レベル3を意識してのご回答となると、益々判断が難しく、結局、何処かのロバのように、右の草を食べるべきか、左の草を食べるべきか、悩みぬいた末に、何の結論も出ないまま、いたずらに時ばかり過ぎてしまいました。
その上、正月に大量に準備した、当たり外れの多い、普段読まない分野の借りてきた本の、貨幣史に関する研究が、予想以上に私の課題に役立つことに気がつき、そちらにも結構精力を注いだため、何度目になるのか分からないような、お礼の書き直しを、今頃やっている、質問者が、今ここに居ることに、なってしまいました。
言い訳が長くなりましたが、このお礼の書き直し自体、没と仮定して、思い切って続けましょう。
今回のお礼は、御回答の内容を批判すること、それが最善であり、その批判が間違っていると分かったら、質問した甲斐が有ったと言う事です。
その批判は、最も重要で、最も分かりやすい、以下の記述です。

>コンセンサス制度の根幹。会話の主体となる人間の信義の問題なのです。

さて、信義ですが、これは一体何のことでしょうか、信義が約束を守ることだとすると、ある集団の代表は、その集団の利益を守ることが、信義を尊重したことになります。ところが、繰り返し申し上げましたように、(3)のレベルになると、各集団の各代表が信義を尊重した結果、合意は不可能、という結論になります。
下に書いてあることを、繰り返しておきます。
>3)集団の代表と他集団の代表の関係II
この代表の集団の上位に、何者の上位者がいない、同時に外部もない。こういう集団が、国連のようなものですね。問題のCOP15も、ある意味でこの範疇に入るかと。>
特に、このレベルの話では、プラスサムの議論ではなく、マイナスサムの議論に主眼が置かれているという含意を汲み取っていただきたいと思います。質問に対する回答が多くなると、全てのご回答者様に一々同じ前提や仮定の説明を繰り返すのはなかなか難しいものです。
信義を尊重することが可能な、唯一(私の悪い頭で考えた)の方法は、中国古代の「天命」説ですか、為政者は天命を知ることによって、天下を治める、といった考えですが、これはここでの場合、外部を仮定しているので、論外の議論となります。

此処で問題とした記述は、
美辞麗句を使った、悪意のない欺瞞んであると、私は考えてしまいますが。


〔補記〕
本稿に対しては今村啓爾「三上喜孝氏による拙著『富本銭の謎と銀銭』の書評に対して」(『歴史学研究』七六七、2002年)による厳しい反論がある。著書に対する評者の理解からはじまり、書評のスタイルに至るまで、全面的な批判を展開している。書評の役割とは何か、学問的論争とは何かを考える上で筆者も大いに考えさせられた。
( 初期貨幣研究の問題点 『日本古代の貨幣と社会』 三上喜孝)

争いの種というものは、何処にも、何処の世界にも、ありふれたものらしいですね。
くれぐれも、種が目を出す、手伝いなどなさいませんように、お祈り申し上げます。

補足日時:2010/01/24 07:34
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この回答へのお礼

寡黙
Denken ist Danken ――思考は感謝である、とマルティン・ハイデッカーは書いた。感謝は、与えられたものを両手で大切に受けとり、しっかりと持ち、ほかの人に見せ、分かちあう行為に存在する。見たこと、経験したことについて――すなわち、与えられたものについて――語ったり書いたりすることは、思慮深く、感謝に満ちたものにものになりえる。思慮深く語り、書くことは、情報――すなわち、与えられたもの――全体の構図と内なる力を、ほかの人々にも見てとれるように、その外観と内なる関係を詳述し、分かちあうことだ。
思慮深さは、与えられているものに心を開くことから始まる。そこには傷つきやすさと危険が含まれる。真実とは、見る可能性を超えたものを、見るのが耐えられないものを、思考の可能性を超えたものを見ることであり、ジョルジュ・バタイユは次のように書いている。「極限のよろこびを知らなければ、極限の苦痛を知らなければ、今あることを、起こっていることを、知ることはないだろう!」
語るときには、自分を押し出して傷つきやすさの感覚に対抗することが可能だ。だが、思慮深く語るときは、自分に与えられて目にしたものを、ほかの人に提供することだけを追求する。思慮深く書くときは、人は自分の姿を忘れて、特定のひとりのためではなく、あらゆる人のために書く。読者にとって私はひとりの控えめな人間であり、与えられて見たものを、祝福したものを、苦しんだものを差しだすだけだ。
だが、感謝は――思慮深さは――また、あらゆる語りを沈黙させることができる。

(『信頼』アルフォンソ・リンギス)

お礼日時:2010/01/24 07:34

No.16です


あけましておめでとうございます。

なんだか、逆に難問を提示してしまったようで、申し訳ないです。

実を申しますと、一人の人間での「意志決定」という概念を重ねて考えています。

たとえば、やけどしそうな位に熱くなったお餅を手でつかんで丸めたり、目標を達成するために怪我や事故の危険性といった苦難を乗り越えようとしたり、病気を治そうとして苦い薬を飲んだりします。

これは、やけどするかも知れない「手」や、怪我をするかも知れない「身体」や、苦い思いをする「感覚」を、意志と呼ばれるものにて統制しようとすることで成し遂げられています。
「やけどするくらい熱いのが嫌」「怪我をしたくない」「苦いのは嫌」なら、別の方法を模索することでしょう。
お餅を作ってくれる人、目標達成のために働いてくれる部下、病気の部分と取り替えることのできる人工臓器などがあれば、意志決定は「迷う」わけです。
ここでの意志決定は、「どの程度、自身が行いたい」のか、「代価案に任せるときのリスク」、「費用」、「責任の問題」など、様々な要因が絡んでくることでしょう。

>>>
構成員と直接端末で繋がっているコンピュータ
<<<
は、紅白歌合戦の投票のように、単純な二分法で扱える問題なら比較的簡単でしょうが、背景に複雑な情況が入り組む「温度差」を抱えた問題の場合には、各自の判断に寄与している情報や状況・情況をもコンピュータに入力しなければならないでしょう。

たとえば、温暖化問題に関連する諸問題をどの程度理解しているのか?とか、温暖化問題が法的に制定されたなら、それを利用して商売をはじめるつもりなのかどうか?とかです。
まさに、多重・多層の意志決定問題を相手にしなければならない訳ですから、コンピュータ処理という案では、「やけどしそうな餅をひっつかむ手」とか、「怪我をしそうな苦難」とか、「苦い薬を飲む」とかいった役周りを背負い込みそうな人々は、反対側へと回ることでしょう。
もし、そういった人々に対して、コンピュータ処理上、低い重み付け(各自10点のところ、たとえば1点しか与えない)ということも可能かもしれません。

あと、
大衆は、だれかが意志決定をしてくれて、全責任をも引き受けてくれた方がいいと思うかもしれないし、トップダウン的に誤った意志決定をしたとしても、したたかに生き残れるだけの適応力をもっているから、とにかく「決めてくれ」と思っているかも知れないし、トップダウン的に誤った意志決定をしたら、子孫に申し訳ないから、慎重に決めて欲しいと思っているかも知れないでしょう。また、一人暮らしだから、人類の子孫のことなどどうでもいいと思っている人がいるかもしれませんし、政治生命を天秤にかけるひとがいるかもしれません。

国の代表者という場合、物理的な地方単位で決定されますが、国際単位で扱う問題が、国という単位で扱いきれない場合、たとえば、上述のように、問題に対してどういった態度を取ろうとするのか?といったグループが自然と集まって代表者を送り出す方が、理にかなっているかも知れません。(ただし、絶対に合意することはないでしょう)

>>>
米国は環境問題に関して、クリントン政権・ブッシュ政権・オバマ政権と政権が変わるたびに、態度を変えています。
つまり、代表者が一旦合意したことを、政権の変更によって、あっさり反故にされる、このような合意のことを、一体どういう言葉を使って表現したらよいのかと。
<<<
国内部にて、それだけの意見(前述の、絶対に合意しあえない集団)が混在しているということかと存じます。
いつぞやみた番組で、アメリカ国内では、法整備された時点を想定して、「炭素売買」で一攫千金を画策するニュービジネスが脚光を浴びているとのことです。

自由主義であろうが、帝国主義であろうが、共産主義であろうが、「変化に自在に対応できる人が生き残る」ということを、(テレビで)聞いたことがありますが、生物学的に臨界点が決定されている温度変化と環境変化に、人類以外の生命体がどの程度対応でき、間接的に人類にどの程度影響するのかは、ある程度決まっている問題になることでしょう。
(どの程度かは、科学者ですら、部分的にしか、知り得ないということです)
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。

>一人の人間での「意志決定」という概念を重ねて考えています。

成る程、意思決定ですか、確かに、合意もある種の意思決定と言う事になりますね。
個人の意思決定と集団の意思決定を、重ねて見ることにより、そこの違いが解かり易いと。

これは、コンピュータ支配者の思考実験より、断然面白いですね。

A)個人の意思決定は、合意に基づくものでしょうか。
B)集団の意思決定は、集団の構成員の合意とひとまずは言える。
C)各集団間の意思決定は、各集団の代表の合意とひとまずは言える。

そうすると、B)C)では、意思決定と合意は、ほとんど同義であって、A)も同一の形式を持っているかもしれません。しかし、此処で立ちどまって、集団の意思決定を考える場合、集団に意志があると言う前提が必要ですが、集団に意志があると言う根拠は、私には見つからないですね。

これは、興味深いヒントを頂きました、一歩前進しそうですが、以前頂いた御回答との違いを考えてみないとはっきりしませんね。

コンピュータの件は、最近の検索データとか、先の衆議院選のシュミレーションとか、新しい技術で、新しい可能性があれば、と言った思いつきです。聞き流しておいてください。

大衆と言うと、私もその一人ですが、仰るとおりだと思います。ただ、私の考えでは、大衆も社会によって作られるものだと、思うのです。卑近な例では、携帯電話、多くの人が最初は鬱陶しい、邪魔だと感じていたのです。これは、お金も一緒で、昔の人は、お金は卑しい物と長い間考えられていました。そのお金が、そうした評価を打ち砕くには、長い年月がかかりましたが、携帯はあっという間です。携帯電話が社会の意識とどう関わるのかと、突っ込まれると、困ってしまいますが、つまり、大衆は社会によって変わっていくだろうと考えるわけです。ならばそのような、組織、トップダウンやボトムアップ、さらに中間項を、有機的につなげる形式があるのではないでしょうか。

問題は、自然科学にせよ社会科学にせよ、同じ一つの世界を対象としているわけであり、両者の整合的な事実の探求に期待するばかりですが、ダメですか。

有難うございました。

お礼日時:2010/01/05 06:05

No.19です。


すみません、コメント見出しは日銀「元」総裁の福井氏です。
「元」が一字脱落してしまいました。
お詫び申し上げます。
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こんにちは。

No.17です。

「再生産」の御伽噺は、アフリカに絡むタイトルでしたか。
でも、チリ産養殖サーモンの切り身や東南アジアの養殖エビなど、次々とスーパーでの販売品目が該当しそうな感じですね。

>主に過去形で書きましたが、未来の話にしても良かったんですし、遠くの国の話にしましたが、この国の話にしても、良かったんですよ。

そうですね。
御伽噺は「経済の植民地化」で、経済性の意味付与された再生産の構図。
それは、かつての旧植民地の国々の独立時のような暴動化、なんて生じようもないほどに、「穏やかでやさしい植民地支配」なのですよね。

27日の日曜日付けの日経新聞1面上の日銀総裁のコメント見出し「大国の衣を脱いで闘え」の真横には「雇用創出 環境・健康で400万人強 成長戦略」と記されていました。
これが現実です。

市場原理主義は現代において普遍的な概念であり、これを世界的に排する運動や哲学なんて、御伽噺どころか絵空事なのでしょうね、きっと。

日本の経済的な植民地支配による食糧事情。
これは、環境問題に対する取り組み以上に、今後の見通しが危ぶまれている気がしないでもないです。

こんなところです。ありがとうございました。では、行ってきます。
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりました。
屋台の店主が、食中毒で、開店休業中、と言った比喩では、物騒かもしれませんが、兎にも角にも、御礼が遅くなって、申し訳なく思う次第です。

>>主に過去形で書きましたが、未来の話にしても良かったんですし、遠くの国の話にしましたが、この国の話にしても、良かったんですよ。

恥ずかしい、御伽噺ですね。この部分は『モモ』のエンディングの、コラージュと言うと微妙に違うし、盗作と言うと物騒だし、正確には、無断活用・無断拝借ですね。
社会の再生産に拘れば、私達が、買い物をしたり、交通信号を守ったり、スキー場でのんびり休暇をしたりすることで、その度毎に、僅かずつでも社会のシステムを再生産して頑丈なものにしている、というような意味合いです。

>市場原理主義は現代において普遍的な概念であり、これを世界的に排する運動や哲学なんて、御伽噺どころか絵空事なのでしょうね、きっと。

これは実験ですか?それとも、年寄りを煽って、なにを踊らせるつもりでしょうか(笑。
こうした問題に関しては、年末年始の、気の抜けたビール状態・食中毒中と言う言い訳をして、さらりとかわしておきましょうか。

今回の質問は、主として政治哲学もどき、ということでしょうか。有難うございました。

お礼日時:2010/01/04 04:25

A No.1です。


もしかすると前提となる部分がすっぽり抜けてしまっていた感がしてきたので、
科学技術と政策論、そして市民への合意のプロセスについての前提をおさらいしてみます。
そんなん知ってるわ!と思われるかもしれませんし、ちょっと長いですけどご勘弁を。




1985年。『コンセンサス会議』という手法がデンマークで始まりました。
それまでの世界は専門家のみの会合で正当性の確認を行うということをしていたんですが、
このコンセンサス会議の主体はあくまで政策決定者、そして市民であり、
科学者は科学技術について、合理的な情報を提供するだけ、といった立場になったんです。
日本でもこの手法は取り入れられ、特に科学技術の粋たる"原発"の説明会は
この手法であったと言えるのではないでしょうか。


何故、論述上の合理性を担保された"事実"を扱うはずの"科学者"を
絶対的な権威と置かなくなったのか。これは『科学的な合理性』と
『市民的な合理性』が異なる為です。

例えば原発のケース。日本の原発はチェルノブイリのようなメルトダウンを
起こすタイプではないので安全だ、と科学者は主張します。
また専門知識の無い市民の誤解として放射能漏れを危惧する声もありますが、
実際に放射能を測定してみれば、その強度は森の中(有機体の群生地)と比べても
原発周辺の方が低く抑えられているわけです。

ところが、あんたのうちの隣に原発作るよ!安全だよ!
と言われて素直にはいそうですか。とはならない。
これは科学者のリスク評価と、市民のリスク評価、(加えて政策決定者の評価)が
異なるためです。

専門家が正しいといっても、本当に正しいのか?この疑念が尽きることはありません。
科学的知見というものは、起こった現象によって原因を類推する作業です。
起こった現象について、調査に技術的なミスが無いことが担保されていれば、
それは異論をさしはさむ余地は無い。そのグラフは常に"科学的に正しいと言うことが出来る"。

しかし、科学者といっても類推の過程において、情報を見逃してしまうことがあります。
あくまで一例として、類推される前提では説明できない例外が発生している部分が
"見えなくなるような"グラフの縮尺を採用したときなどには、そういったことが起こりがちです。
また、現代の科学はあまりに細分化しており、実は自分の専門外の知識は全く知らないという
ことがある。しかし、世界で起こる現象は相互に影響しあい、特定の専門知識のみでは
将来の姿を予測する情報が不足しうる。

最初の地点(科学の最初の地点は原因ではなく観測です)が間違っていれば、
論理の帰結も間違うと言うことが起こりえる。




もちろん科学者は複数人による査読を行うなど、こういったことが起こらないような努力をしています。
しかし、リスクの実際の負担者である市民の視点からは、科学は信じられても、
ミスが起こりうる科学者を全面的に信頼することは、リスクを過少評価していると感じられる。
これは科学の論証可能性を原理に置くことによる、科学が原理的に内包する限界なんです。

もちろん、皆無と言えるリスクに過度におびえることは、かえって損失が大きくなるわけで、
どちらの評価が正しいとは一概には言えることではありません。
そこで、専門家の仕事は科学的知見から、市民のリスク評価が過大になったり、
あるいは過少になったりしないようにあくまで"情報を提供する立場(オブザーバー)"に
限定することになったんです。リスク負担者と評価者、そこから得られた合意(コンセンサス)
が世界では重視されることになりました。これが20年前です。




ここまでを踏まえて。オブザーバーとしての科学者に求められるのは何でしょうか。
それは一切の恣意性を捨てることです。

科学者が特定の結論になるように誘導することはあってはなりません。
"早すぎるコンセンサス""誤ったコンセンサス"は特定の"自称科学者"の主義信条によって起こります。
科学者は市民・政策決定者としての立場を捨て、起こった情報を正確に伝え、
類推される未来のパターンを限定していくことなのです。
限定しきれない部分は、限定しきれないことを市民に伝える必要が在ります。
もし、恣意性の介在が防げない場合は、両論を"併記"することで、
リスク負担者たる市民の判断を仰ぐ必要があるのです。





クライメートゲートで起こったことは何か。
それは一部の自称科学者による、恣意性の発露。
まさに社会に対する唾棄すべき背信行為です。
市民の結論を誘導するような視覚的操作。
査読を言い訳にした、異論の排除。
コンセンサスの形成においての科学者の役割は、誤解を防ぐような記載。
両論を報告書への記載だけではなく、プレーヤーたる市民への伝達することが
科学者の義務なのです。そのどちらの前提が破られた以上、もはやコンセンサスの形成は
利害関係者たる政策決定者や市民の間ではありえないことです。

質問者さんが言うような、利害を調節すべき、という話ではなく、
コンセンサス制度の根幹。会話の主体となる人間の信義の問題なのです。
科学者は科学者であることを放棄し、政策決定者や市民として行動したのですから。



コペンハーゲンで起こったことは何か。
従来型の会議であれば、会議の破談で終焉していたにもかかわらず、
仮の形であっても、一部の市民(政策決定者)で合意が形成された。
未だ元科学者に信を置いているのか、あるいは利害によるものか、はたまた宗教的な妄信か。
いずれにせよ、ここに価値が生じるかもしれません。
従来とは別の論理が形成される可能性はまだあると思うのです。
そして、そこにはやはり科学的合理性のオブザーバーは必要となるでしょう。

その上で元科学者達が、再び科学者を名乗れるほど信頼を取り戻す方法は、
少なくとも自己正当化ではない。ここだけは明らかなのですが。
(でも報道見てたら、ダメっぽいなぁ。)
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この回答へのお礼

又しても、詳しい解説を頂き有難うございます。
正月早々、詰まらぬお礼を受け取って、ご気分を悪くしてはと、お礼のペースが遅れてしまいました。或いは、斜め下から、世間の常識を疑って、あれこれ批判する者にとって、正月からの営業と言った風潮に乗っていくのも如何なものかと。兎にも角にも、御礼が遅くなり、申し訳なく思います。

「コンセンサス会議」という物が有ったとは、全く知りませんでした。早速、検索して見ましたが、全体像を見渡せるような資料は少なかったようです。それでも、二三の参考書やキーワードが見つかりましたので、参考にして見ることにします、大変助かりました。
ただ、こうした会議は、トップダウンでもボトムアップでもない、いわば中間的な位置で機能しそうですが、実際のところ、当該問題の合意形成に関して、議論の深まりを通して、どこまで影響力を持つ事が、保証されているのか、その辺りが、難しそうですね。

さて、問題は、
>ところが、あんたのうちの隣に原発作るよ!安全だよ!

これは、原発は安全だ、という主張と
その上で、どこに原発を作るのか、という、二つ以上の問題を区別する必要が有るような気がします。

一つ目の主張も、実のところ、係争中の主張であり、事実が確定した時には、どなたかが、仄めかしていた様に、問題は解決しているのかも。

二つ目の問題は、全体の幸福のために、個人の自由の制約は、ある程度は憲法でも肯定されているわけですが、それは、合意ではなく、法的強制力、つまり、法執行という、ある種の暴力です。

では、世界の全体では、
世界全体の幸福ために、一部の国の自由を制約するのでしょうか。

今回の質問は、上記の様な、独立した一つの国の自由を制約する、合意が、ちょっとくどくなりますが、世界全体のために、自国の利益を代表するものが、自国の不利益に合意して、なお、自国の代表でいられる、としたら、それは、どんな合意だろう、と。私には想像できないことなので、質問した次第です。

おそらく、ご回答者様は、理科系だと思います、二つ目の問題より、一つ目の問題に関心が有るのでしょう、今回の質問意図とは若干違いますが、面白い話が有りましたら、また教えてください。

お礼日時:2010/01/04 03:54

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