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女性の作る「性」の詩でも、いやらしいのはある。
しかし、僕が読んだ女性の作る「性」の詩に、なまめかしさはあるが、いやらしいと言うより、神々しい感じさえ受ける詩が少なくない。
これは、男性が作る「性」の詩にはない特徴だと思う。

例を上げてみよう。

・触れてよと願う心に手のとどかず
  触れるのはどうでもいいようなたとえば乳房

どうだろうか?
男性の俺は、卑しいからか、おいおい!「どうでも良くないだろう、乳房は・・」などと、考えてしまうが、この詩は、乳房を突き放して詠っている。
「性」を、ダイレクトに詩にしている。
男性には無い感性では、ないだろうか。

・初めての肉の重さを全身で噛みしめているあなたの下で

・雨の日はいつも決まって熱かった 君の唇 君の掌

どうだろう?
作者は、当時高校生だった、「岡しのぶ」という女性である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E3%81%97% …
http://www.jfast.net/~shelter/log/oka.html


後、有名な与謝野晶子の詩

・やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

これも、かなりなまめかしい。それに、すごいダイレクトに「性」を詠っている。
しかし、いやらしいかというと、そういう感じでは無いと思う。


それから、現代(?)の歌にこんなのがある。
はがゆい唇
・歯痒ゆいのよ その唇 キスする場所 間違えてる ・・・
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND3617/index.h …

作詞:阿木耀子である。 歌っているのは、高橋真理子



色々書くと、だれるのでこの辺にするが、

自分には、不思議で仕方がない。
こんなに「性」をストレートに詠いながら、いやらしいというより、なまめかしく、神々しい、しかも客観的である。

こんな印象は、女性の詩で感じるが、男性の詩で感じた事はない。
男性の作る「性」の詩は、どこか、いやしい。「性」にこびている感じがするのである。

たとえば、山口百恵の「一夏の経験」
・あなたに女の子の一番 大切なものをあげるわ・・・
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND3809/index.h …


繰り返しになるが、どうして女性は「性」の詩を「ダイレクトに、いやらしいというより、なまめかしく、神々しい、しかも客観的」に詠えるのか?

男性、女性、多くの方々の意見も聞きたい。
当然、僕の印象を、否定してもらっても構わない。
 

A 回答 (7件)

女性を性の対象にみて詩を作る女性が少ないのが


理由の過半かと思われます~男の性を称える詩を
読んでもノン気の男はベッキー☆しませんですから
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肉体という物質じゃなくて、目に見えない心のことを言っているからじゃないかと。



例えば女性が「私のことすき? 好きなら証拠をみせて」と言ったとします。
証拠としてプレゼントをしたとする。
女性は「んーーー」となる。
「キスする場所を間違えている」って感じ?。


もう片方の男は「君がいない人生を考えたら、ぞっとした」と言ったとする。
ベタな表現ですが、女性は感激するわけです。

当然、後者の言葉に女性は男が自分をどんなに愛しているか知るわけで、いやゆる接吻の場所が合っている。


女性は男性に比べて8倍扁桃体が働くそうです。(あくまで平均ですが)
扁桃体というのは感情を起こす部分。
その感情を高める表現を女性詩人たちは操るわけです。

それがうまいので「どうだろうか なんという」とか扁桃体を刺激されて、男も高まるわけです。

言葉を操って扁桃体に刺激を与える神々たち。
うーん 神々しい。。。言葉をたくみにつかえる人を神と呼ぶ、素敵な表現ですね。
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横たわる前には髪を軽く編む


君の重みで縺れぬように


いきなり稚拙をば晒しまして;ーーA
以前に、気まぐれで最初に詠んだときのがソックリ思い出せなく、上記は二番煎じです。
なにしろ、次に並べてみた短歌の名手たちの作品のあとに出すのは、いくらなんでも悲惨ですから(哀)

ご存じ俵万智さんの選で、『あなたと詠む恋の歌百選』より


さかさまの貴方を愛す夜の淵に 二人メビウスの輪となれるまで


こ、この「輪」ってのは!もしやシ、、、いやあわわ。

このように、女性の作でも、なかなかのキワどさなんですが、やはりと言うべきかフシギと言うべきか、イヤラシーい感じは希薄ですねえ。

次は、林あまりさんの作品から。


うしろからじりじり入ってくる物の正体不明の感覚たのしむ


うーむ;^^A
さて、この感覚↓、男性にも理解していただけますでしょうか。


まず性器に手を伸ばされて悲しみがひときわ濃くなる秋の夕暮れ

産むあてのない娘の名まで決めている狂いはじめは覚えておこう

立て膝をゆっくり割ってくちづけるあなたをいつか産んだ気がする

入れた瞬間ああと深い息を吐くこのひとを包む羽などなくて

http://www.geocities.jp/itaka84/006/hayasiamari. …


では、次に、大辻隆弘さんという男性の作品です。


わたくしはこだま、あなたといふ谷の深みに幾度となく訪れて

橋の半ばは霧たちこめてこんなにも夜を苦しむ曲線がある

青銅のトルソのやうな君を置くうつつの右に夢のひだりに

指からめあふとき 風の峪は見ゆ 膝の力を抜いてごらんよ


質問者さまは男性でいらっしゃるようですので、ある面では、こうしたことについて、同性に対し、辛い点を付けたくなり、その反面で、女性特有と感じられる神秘性など、男性には見い出せまいと思われるところを高く評価したくなられるのかもしれませんが、それはそれとして、
男性と女性とでは、性をめぐる感覚や価値観に、大きくか微妙にか、違いは確かにあるように私も思います。

やはり根本から、どうしても、生理学や心理学方面が関わってくるはずと思いますけれど、
性の場において女性は、基本的には、多く受け身、受け入れる立場から始まりがちのように一般にも思われているようですし、その理由には当然、体を痛めて産むリスクを負う側に立っているのは女性であるからというのが、一番大きいのは確かなのでしょう。

生殖行為の場面においては、一般に、若い場合は特にですが、男性側の、激しい急流のようなスパンに比べれば、女性側の それは、格段に長くて、途中、大小の うねりに出会いながらも穏やかに、ゆるやかに流れていく。大勢としては、そのようだと思います。
ですから、女性の場合、単に肉の面のみで、自分から激しく吐け口を求め、蹂躙的に所有したがるというのは、やっぱり珍しいほうではないかと思われますのと、あくまで基本的には、どちらかと言えば、男性の急峻なる求めを受け入れ、という形勢が一般的であろうかと思います。

熱心に求められて、そして受け入れる、というところに、それは、ただ自分発のみで欲求の激しさを単純に満たすことへの、なんとはなしに後ろめたさのようなものから免れ得ている、それは母性とも関わってくるものである、このようにも思われますし、
また同時に、
男性からの誠実なサービスを受け、支配を受けているようでありながら実は、かしづかれてもいる。女性にとって、ある種の誇らしさが感じられるものです。

そして、女性は、ある意味で、メンタル最優先なところがあるのでしょう。
ご質問本文にて お示しなさった、先のほうの歌謡曲歌詞の内容にも、そういう傾向が窺えますね。

そういった面から、女性の性と、その表現作品において、いわく「聖なる」趣きというものを付与しているのではなかろうか。
「ダイレクトに」表現することへの抵抗性の薄さというものは、このあたりから齎されているのかもしれません。

だからこそ、男性側としては、女性の、そういう「聖性」的なものをシッカリと持ち合わせておいてもらってこそ、容赦ない揺さぶりをかけ、ついには完膚なきまで剥ぎ取ってしまうことに、蹂躙と支配の醍醐味を求めてしまうのでしょうか。


ちょっと他の事で手が離せなくなってきましたので、ご質問本文中のリンク先もシッカリとは目を通せず、まだ何だか言い足りない、中途半端な気はするのですが、とりあえず、こんなところで。
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大した人生経験+男性経験があるわけではない女性です。

苦笑

私自身が「うっわーーー(どきどき!)」とした、女性作家の性の歌
と言うと、
俵万智
「落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し」
それから、質問者様が挙げていらっしゃる山口百恵の「ひと夏の経験」もすごいなーと思いました。
直接的な男性作家の歌や歌詞やらよりも断然良くも悪くも「いやらしい」と思いました。

それは同性であるが故、例えば
「ふいっ、と、何かの拍子にキスがしたくなる」とか、
「相手と初めての性行為に挑む時のドキドキ」がやはり自分自身の記憶にあるから、かな、と。

逆に、男性作家の性の歌は、理解の届かない領域があるが故、
その「自分には知りえないもの」がそそられ?ます。
女性として、女体の持ち主として、「あれ?そんな部分/もの/反応」にそんな事を思っているのね、と言う新鮮味かな。
じゃあ、彼もあの時こう思っていたのかしら?とか、
今、彼はあの歌のように思っているのかしら?とか。
そうやって思いを馳せる事そのものに、自分で勝手にドキドキしている気もします。

まあ、互いに「勝手にドキドキ」して、それがより一層「相手をドキドキ」させて、仲が深まるのならそれも良いかな、なんて。

話がずれました。
チャゲ&飛鳥の好きな私。(古!!汗)
彼らの歌は、楽曲もさながら、歌詞もなかなかに艶かしく、色っぽく、きゅーーっとします。
「君の服の上からジャケットを重ねた
 君の体を包んで僕は動かない」。。。river
「脱ぐための服で来る
 奇麗な天然になる君を見たいよ」。。。バーガーショップで逢いましょう
「いつか指のタクトで踊らせてみようか
、、、目隠しでも君のキスはわかる」。。。天気予報の恋人

うーーん、、、、
体温がそのまま伝わる、
誰かさんとの初めてのキスが生々しく甦る、
「タクトで踊らせる」って、、、どんなタクトだよ??(爆)
要は「聴く/読む人の記憶の引き出しの中身」に反応して、作品の印象は決まるのではないかな、と私は考えております。

そう言えば、万葉集の東歌
「鈴が音の早馬駅の堤井の水たまへな妹が直手よ」
これも、かなーりドキッとした歌です。
手に湛えた水に口をつける男性の、唇の感触、息遣い、、、
いや、、、想像してしまう私がいやらしいかも??苦笑

>いやらしいというより、なまめかしく、神々しい、しかも客観的
私は、あまりそうは思わない、と言うか、そう考えた/感じた事が無かったです。(あ、ご質問に回答する資格無しかもしれませんね)
特に「神々しい」とは思いません。
この「神々しい」と言う感覚が浮かぶには、何かしら性と言うもの、そのものに対して「特別/神聖さ?」を感じていらっしゃる方なのかな、と考えてしまいます。

私はどちらかと言うと、性というものに対しては、あまり良い感覚を持っていなかったので、なおさら感じなかったのかも知れません。

好きなように書いてしまいました。
とても我が侭な回答となりました事、お許しください。
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そうですね、仰ることは賛同出来ます。


詩をあまり知らない人間ですが、普段感じていること、知っていることを掘り起こして、回答に参加させていただきたいと思います。

改めて思い起こすと、女性と比べて男性の場合は性を詩にするとき、女性に服従心を求めたもの、支配的、暴力的、淫らな印象のものが多い気がします。
また、刹那主義(快楽主義)な印象もあります。
(ここまで読んで、気を悪くした方がいらっしゃいましたら申し訳ございません。)
もしかすると、書き手の男性自身が興奮していることもあるかもしれませんね。
男性が女性になったつもりで詩を書いても、それは、男性を喜ばせる意図が働いてしまうものではないでしょうか。
男性が書けば、主語が女性であっても男性の心理を意識したもの(女性の内面性が抜け落ちたもの)になってしまうので、恥じらいも何もかもが上辺だけで、どこか嘘くささを感じて質問者さんは、

>男性の作る「性」の詩は、どこか、いやしい。「性」にこびている感じがするのである。

と、お感じになるのだと思います。
男性は子供を胎内に宿す側にいないので、女性ほどには性に対して警戒心もなく開放的なのかもしれませんね。
それは性は本能で、添い遂げることとは別物と考えている人も多いのが一因ではないかと思います。
最後にも触れますが、今や古風という人もいるでしょうが、女性にとっては性は妊娠に結びつかなければ良いと言うものではなく、勇気も決心もいる、生に関わる大変な出来事なのです。

ここからは、色んな視点から女性のことを分析して見たいと思います。

最近は見かけなくなりましたが、十年ほど前迄は、お婆さんがピンクハウスのレースや小花模様の沢山付いた乙女チックな服やコギャル風の格好で街中を歩くのを見かけることがありました。
それは希なケースではありましたが、不躾ですが正直、驚くこともありました。
けれども、同性として気持ちは解らなくはありませんでしたし、そんなお婆さんのおしゃれ心は好ましく思えました。
お婆さんたちは若い頃、戦争や食糧難、家事に追われるなどして好きなファッションが楽しめなかったので、そうすることで青春を取り戻し、謳歌していたのでしょう。

中年以降で年相応の格好をしている女性でも、意外と夢見る乙女な部分を大切にしていたい人は多いかもしれません。
恋愛の歌を詠むのなら、尚更その気持ちは忘れたくないものなのではないでしょうか。
また、女性は男性よりも過去のことを良く覚えているから、若い頃、少女だった頃の気持ちを呼び覚ますことも得意なのかもしれませんね。
そのことが、性の詩を書く女性達の文章から嫌らしさや媚びを感じさせないものに昇華させているのかもしれないですね。

また、アロマオイルとかパッチワーク、ドライフラワーなども好きな女性は多いです。
繕い物や編み物が好きな人も多いです。
女性は対象に愛着があればあるほど長く綺麗にして留めておきたい気持ち、暖めたい気持ち、楽しみたい気持ちが強いと思います。
元々、女性は永遠に対しての憧れや愛着心が強いのでしょう。
変わらぬもの、変わらぬ心に惹かれるところがあるのでしょう。
それは、自分自身にも向けられることも多いと思います。


小野小町の有名なこの歌にも、その思いは詠まれています。

「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」

と歌を詠みましたが、

《 花の色は、むなしく色あせ 衰えてしまったのだね、
  春の長雨が降っている間に。
  そして、私の美貌も衰えてしまったよ、
  恋に思い悩んでいるうちに。》

という解釈が一般的ですが、もう一つ解釈があったんですね。

《 貴方の心はすっかり色あせてしまったのですね。
  私がむなしく物思いにふけりながら眺めている
  あの長雨に打たれた花のように。》
 

私には、後の歌の方が美しくロマンチックな印象があります。
清少納言の『枕草子』もそうですが、女性は観察眼、共感性に優れた脳を持っていると言われていますが、それ故に歌を詠むときも絵を描くように、色彩や質感までも想起させるような表現が出来る才能を持った人が多いのだと思います。
また、香りに敏感なことも役に立っているのでしょう。
先ほどの小野小町の歌にも雨に塗れた桜が薫るようです。

日本女性の感性は、遠く万葉集の生まれた時代から、これらの平安時代の女性達が暮らした、四季折々の情緒ある日本の風景が生み出した点が大きいと思います。

そして、これらの心の働かせ方が、

>繰り返しになるが、どうして女性は「性」の詩を「ダイレクトに、いやらしいというより、なまめかしく、神々しい、しかも客観的」に詠えるのか?

に繋がっていくのでしょう。

「客観性」については、先ほども申しましたように、女性の持つ「観察眼」のなせる技でしょう。
共感力も相俟って、女性は推論する判断材料を集めることが得意なので、理性を上手く働かせれば、「客観的」に表現することが可能なのだと思います。

女性は儚いものにも美を見いだし、一瞬を永遠に留めておきたい、そんな気持ちが強いので、性の歌のときも変わらずに、切なさや優美さを歌の中に込めることが出来るのだと思います。
女性にとって、性は「聖と生」と言えると思います。

幾つになっても少女の頃の心を忘れないと女性は言います。
また、性は生(命)と結びついていますから、女性にとっては軽々しいものではありません。

ですから、性の歌を詠むときにも「聖」を意識し、祈りにも似た感情が湧くのだと思います。
それは、生臭さからは遠いものです。
だから、嫌らしさや媚びた感じがないのでしょう。
そして、「生」を意識している(母性を持っている)から、「ダイレクト」な力強さも歌えるのだと思います。
女性である以上、性と生(命)の関わりは絶ちがたいものです。

質問者さんが感じた神々しさとは、女性が詠んだ性の歌は遊びではなく真剣で神聖なもの、真っ直ぐなものに感じ取れた結果だと思います。
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基本的に、有性生殖の仕組みとして、メスを奪い合って


オス同士が争うことで種内淘汰することで、優れた遺伝子を
残す=単なる自然淘汰より素早い進化を可能にするものです。
ゆえに、性に対して男性が積極的で女性は受身になるのは
自然な事で、男性の詩がアグレッシブになるのは当然です。
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歌詞なら作曲者が男女か?でずいぶん感覚が違ってくる。



♪オバンになっちゃうその前に、おいしいハートを、食べたい!

てのもあったでしょう?男性作家ですが。。。

女性作家では「あなたが他の誰かの肌を温める」なんてありましたね。

男性=情事の認識が逝くまでのため短絡的な表現が多い
女性=情事の認識において終わりはないため長期的な表現が多い
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