
週間ヤングマガジンで連載中の「センゴク 天正記」は毎週楽しく読ませていただいています。
特に、姉川の戦いにおいての新説は目から鱗でした。
さて、そんな「センゴク」ですが、長篠・設楽ヶ原の戦いの記述を非常に楽しみにしていましたが、どうも最後までよく分かりませんでした。
というのも、織田・徳川連合軍の勝利(武田軍の敗北)理由がよく分からないのです。
先陣を切った真田兄弟が潜伏していた明智光秀を始めとする織田軍の主力鉄砲隊に殲滅(致命的というより、生存者がいないほどの全滅っぷり)されたのは分かりました。
そのことによって、武田軍が大打撃を受けたのも分かります。
しかし、すぐさま武田軍が全軍撤退となった理由がよく分かりません。
(鉄砲隊を除けば)おそらく連合軍の主力最強主力である徳川軍は徳川軍は山県昌景が抑えており、
その他の部隊は(兵隊の練度でいえば)武田軍の方が上回っていると思います。
(織田軍は兵農分離が進んでいるとはいえ、「弱い」と認識しています)
「センゴク」の描写では、長篠城を酒井忠次に奪われたことは、
むしろ武田軍の利であるような描写をしていますし、
それまでの山県昌景、馬場信房を始めとする武田軍の活躍の描写を見る限り、
「先陣の真田軍の全滅→全軍の撤退」
と直結することに違和感を覚えます。
「武田軍撤退の理由」について、ご存知の方がいらっしゃいましたら、
教えてください。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
最近ヤンマガは全く読んでいないのですが、そうですか長篠まできましたか。
元々「センゴク」はマンガですから、その解釈や描写は「まずマンガとして面白いか」が最優先であり、「史実として説得力があるか」ははっきりいえばどうでもいいことです。
例えば、鉄砲隊で「生存者がいないほどの全滅」というのは100%ありえません。そういう大量破壊は大砲や機関銃が発達する第一次大戦以降の話です。なぜなら、火縄銃の有効射程はせいぜい50メートル、これは今でいうとエアガンよりちょっと長いくらいです。ベテランのサバイバルゲーマーなら、風が強いなどの理由がなければ30メートルくらいは当てることは普通です。で、その50メートルを必死でこっちに向ってくる奴に落ち着いて撃つことができるかというそれは無理。だって、命中率100%なんてゴルゴ13じゃないんだから。一回外せば次はないと思うとプレッシャーでますます落ち着いて撃てないでしょ。
そして撃たれるほうも、もし体の一部を撃たれたらそれで気力が萎えてその先に突撃する気は失せます。脚に当たればそれ以上走れません。
閑話休題。長篠合戦での武田軍右翼つまり織田軍左翼(明智軍がいたところ)というのは一番激しい戦いがあったところではありません。そこは織田軍も柵を築いてがっちり守っています。柵を築いて待ち構えているところを正面突撃するのは下の下であることは歴戦の武田軍にとっては常識以前のことです。
長篠合戦で最も激しい戦いがあったところは武田軍にとっては左翼つまり山県あたりがいたところです。ここは地形も緩やかでひらけており、柵もありません。武田軍に騎馬部隊があった可能性は低いですが、その機動力を存分に発揮できます。
そしてそこに展開していたのが徳川軍です。みんな、織田軍は弱い弱いいいますけど、それはあくまで『織田軍』、徳川軍は別です。遡って三方ヶ原合戦で徳川軍は武田信玄に散々に打ちのめされますが、倍の武田軍に対して奮戦し、ここを強調したいのですが家康以下本多平八郎など主だった武将が誰一人戦死していません。そして信玄をして(先を急ぐという事情があったとはいえ)徹底した追撃を断念しています。
つまり武田軍が決戦地として選んだ場所にはちゃんと武田軍と互角の力を持っている家康がいたのです。姉川合戦や後の小牧・長久手合戦を見れば分かるように家康の野戦指揮能力は信玄、謙信クラスに匹敵するものです。さらに、その後方には織田信忠が恐らく伏兵として控えていました。万が一徳川軍が突破されても側背を突かれないように信長は万全の手を打っていました。
実際の合戦の流れは、ほぼ一日中突撃し続けた武田軍ですが兵力差もありジリジリと勢いを失い、山県以下武将の戦死が相次ぐと士気と統率を維持できず戦線が崩壊し始めやがて全軍の撤退に繋がっていったと思われます。
ではなぜ「センゴク」ではそういう描写をしたのかというと、「センゴク」は仙石久秀のマンガであり主題は織田軍です。ここで徳川軍が活躍する話を書いたら読者が混乱する(馴染みのあるキャラクターが活躍したほうが感情移入しやすい)からでしょうね。
また、長篠合戦の実像については近年かなりホットになっていますね。雑誌歴史街道で最近特集が組まれましたが、歴史街道の見解では「追い詰められていた信長・家康」となっています。しかし一方歴史群像シリーズなどを持つ学研も最近ムック本を出し、その見解は「万全の戦略を持って決戦に持ち込んだ信長、一発逆転を狙った勝頼」というのを持っています。ちなみに私は後者を支持しています。
蛇足・よく「武田兵と織田兵の実力は1:2」なんていいます(たまに1:3ていう見解もありますけどそれはいくらなんでもないと思う)が、前述のように武田兵と徳川兵は互角ですから、徳川軍は8000くらいいたので15000の武田軍からすると差し引きは7000、織田軍は25000くらいで来たのですから仮に武田軍を3倍にしても織田軍が優位には変わらないわけです。単純に武田軍を2倍にして「倍にすると30000対33000でほぼ互角」という方は戦争をご存じない。
この回答への補足
ご回答ありがとうございます。
そうですね…やはりフィクションとしての色合いが強いですか。
仙石秀久の羽柴隊は、長篠の戦いではそれほどの活躍はなかったので過剰な期待はしていなかったのですが、
姉川の戦いでの表現が非常によかったので、長篠の戦いでの新説に期待をしてしまいました。
キーポイントは鉄砲隊よりも、徳川軍対山県隊ということですか。
納得できる説明、ありがとうございます。
「一発逆転を狙った勝頼」
これは私も支持しています。
堺を押さえている織田家と、甲斐の田舎の武田軍では、経年と共に経済力の差は歴然となりますし、硝石の入手も困難でしょうから、
あの時期に長篠で「決戦」を挑んだ判断は、ある意味、已むを得なかったとも思います。
ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
基本的な理解として一つ・・・
戦争で人がバタバタ死んでも目標を達成できれば成功、などと残酷になるのはナポレオン戦争以降と考えた方がいいです。
損害率ですが、現代戦でも継続作戦では1割も損害(戦死、戦傷)が出れば、失敗と判断されます。
ましてや戦国時代の戦闘での損害はかなり低いです。
確かな数字ではありませんが、大激戦と言われた第4次川中島でも1~2割とかじゃなかったでしょうか??
データとか持っていませんが、「生存者がいないほどの全滅っぷり」が本当であれば、絶対に総崩れになるでしょう。
だって、この時代、お国のために、なんて思想はありません。みんな自分のために、なんです。その第一は生き残ることなんです。
だから名を惜しむ大将の戦死はあっても、兵は逃げちゃうんです。
そういう観点を持って、その中でいかに戦国武将たちが部隊をまとめることに腐心しているか、が戦国ものの楽しみでもあるのです。
ちなみに、この時代、人的被害では戦死よりも戦病死、戦傷死のほうがはるかに怖く、数倍はあります。
というか20世紀初頭まではどの国でもそうです。
ついでに、長篠の戦では、織田・徳川軍の方がはるかに多く、野戦築城までされていたことがわかっています。
この回答への補足
ご回答ありがとうございます。
そうですね…当時の「感覚」で歴史をみることが大切だと感じました。
武田軍は山県昌景を始めとした将が戦死しているのに対し、
連合軍は雑兵の戦死は多いものの、将はほとんど被害がありませんしね。
ありがとうございます。
No.3
- 回答日時:
再度です。
背水の陣ですか、読んで字のごとく、後ろに河を置いてのことわざです。背後に敵が廻りこんで、退路を遮断しますよと、いっているわけです。はよ逃げやといってるわけです。窮鼠猫を噛む式で全軍死にものぐるいに向かってこられれば、織田側の被害も多くなりますから、まあ江戸時代の主従関係でありませんから、いち早く離脱、これだけでしょう。兵の頭にあったのは、火事場で閉じ込められて、逃げるときとおなじですよ。真田隊も竹束をもって、戦ったでしょうし、後世の徳川織田の創作の色が強いでしょう、お互い徒歩(カチ)での戦いですので、バンバン撃って一貫の終わりなんてこと、ありえるはすないじゃないですか。誘い出されて、機関砲での十字砲火でも浴びたならわかりますがね。種子島でありえないでしょう。雑賀の鉄砲衆の操作方法は武田も織田も研究済みでしょう。もっと地味で、ちょつと戦って後ろで休憩なんて、しょっちゅぅでしょう。刺せば血も内臓も飛び出るんですよ、まんがも読み物も、バーチャルですから。
鼠の時間と像の時間 時間は同じではないんですよ。戦国と現代。どうでしょうかね。
この回答への補足
再度のご回答ありがとうございます。
漫画の引用になってしまいますが、信長本陣への突撃を試みた真田兄弟の先陣が、(島津軍の釣り野伏せのような戦略で)窪みに誘い出され、高台の四方から鉄砲隊で射抜かれていました。
所詮は漫画の表現ということで納得してみます。
ありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
「センゴク」の描写では、長篠城を酒井忠次に奪われたことは、
むしろ武田軍の利であるような描写をしています
ここがよくわかりませんね。退路を絶たれる事になるわけで、挟み撃ちになる可能性を、武田側の将兵が知った時点で、マクルがごとく崩れてぃったんでしょう。戦場での兵の心理とは、そんなものでしょう。袋のネズミ。20世紀の戦争でも、同じで後ろに回られることは、全滅を意味するからです。落下傘部隊で、後方に降下、兵力の強弱ではなく、存在が恐怖に繋がるわけでしょう。
近年の発掘調査でも、言われているほどの弾丸は出ておりませんし。もともとそんなに鉄砲を持っていったのかも疑わしい限りでしょう。砦を築いての防戦、武田は砦を攻撃、組織的騎馬隊これなんかも、ありえませんから、まあ普通の徒歩での砦の攻防戦でしょう。だから時間が掛かったのもうなずけます。信長は常套手段として、敵の後方に、たれ歩をたらすことで、敵の心理的圧迫を呼び、敵の腰が引きはじめたときを、討って出る瞬間と決めていたのでしょう。勝頼も長篠を取り囲んで、織田側が出てくるのを待っていればよかったのに、本隊まで前進して、退路を絶たれる失態をしてしまった。鉄砲がどうのとか、三段撃ちがどうのとかより、犠牲を最小に、ちょっと勝てばよいとの信玄から何を学んだのかなあとおもいます。
ですから撤退ではなく、われ先に になると、捲くるがごとく くずれる。あっけないほどにです。
合戦でもっとも多くの首を採れるときは、敵が組織的撤退時ではなく、我先にの状態の時でしょう。
この時代馬二頭が並んで通れる道はどこにもなかったでしょうから、余計に、退却がしにくい。
この回答への補足
回答ありがとうございます。
私も長篠・設楽ヶ原の戦いでの最大の分岐点は、
酒井忠次の長篠城奇襲であると考えています。
しかし、新しい視点を「センゴク」に求めたところ、センゴクにおいては、酒井忠次の奇襲を、
「勝頼は長篠城にいるはずであり、それを奇襲する」
というものでした。
結果として、長篠城は占拠できたものの、そのために鉄砲数百丁を始めとした戦力を割くことになり、
最初から連合軍へ突撃予定であった武田軍にとっては有利であるとしています。
(また。背後に敵がいることによって、背水の陣によって士気が上がると表現しています)
このような視点に立ったとき、なぜ
「真田兄弟率いる先鋒隊の全滅→全軍退却」
となるのかが見えないので、その点について考えております。
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