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地方の旧国名で、前後や上下でセットになっているところは色々とありますが、京都府北部地方の丹後には、なぜ対になる「丹前」や「丹中」がないのでしょうか。
読みは違いますが、丹波の後ろだから丹後で、前には摂津や山城が先にあったという事でしょうか。
それとも丹波は本当は丹前だったのでしょうか。

上下や前中後でセットに見えるのは、豊前と豊後、肥前と肥後、備前と備中と備後、筑前と筑後、越前と越中と越後、上総と下総、上野と下野あたりが思い浮かびます。

A 回答 (8件)

続日本紀(平安時代の歴史書で、奈良時代の日々の事件を簡潔に記述したもの)によると、和銅六年(713年)のところに



夏四月乙未。《癸巳朔三》株丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國。

と書いてあるそうです(参考URL、csvファイル)。「株」というのがよくわからない(分離するという意味かな?)のですが、
「和銅六年四月三日に、丹後国から、加佐、與佐、丹波、竹野、熊野の五郡を分けて、丹後国を設置した」という意味でしょう。

丹波国の名をそのままにして、一部を丹後国として分離したということだと思います。「なぜそうしたか」という当時の事情は知りません。

参考URL:http://kodaishi-db.hp.infoseek.co.jp/
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この回答へのお礼

詳細な回答ありがとうございます。経緯は分からないままですが、丹後の起源は知ることができました。五郡の位置関係が京より遠いので丹波後=丹後としたのかと思います。

お礼日時:2005/08/18 17:33

中央思想と言いますか、その部分を都のような中央とみなす場合、



後ろや東、南などはありますが、前(もっと都)
とは言わないようです。

上座下座ですね。

例外として、江戸前がありますが、
土地でなく、海です。

これは、江戸の前の海で取れた。こう言う意味です。

この観点から、丹波には、相当な権力があった。
(過去遷都した。朝廷と相当深い関わりがあった。)
または重要地点とみなしていた。

こう考えました。

#7さんの説明が最も良いと思います。
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もともとの丹波は旧国名で言うと丹波・丹後・但馬と若狭の一部を含む広大な地域だったようです。


古事記では、「丹波」もしくは「旦波」として出ています。
但馬(タジマ)に関しては、古事記では「多遅麻」と表記されていますので、但馬は「タンバ」の別表記だったと思われます。
「多遅麻」はこの大丹波の中心地で、古代の大和朝廷に影響力を及ぼした一大勢力があった土地です。

古代には言葉で、敵や祟りをなす霊を封じる風習がありましたので、「丹波」を二つに分け、さらに中心地を「多遅麻」と言う一地域の名称に封じ込める必要があったのではないでしょうか?その後、丹後が成立したときに、丹波だけ「丹前」のように表記すると但馬が「タンバ」として復活してしまう恐れがあるので避けたのでは・・・。

他に三分されて上中下や前中後に合わない地域には、「総」があります。
こちらは、阿波の忌部氏が開拓した地域ですが、上総・下総・安房となっています。この安房はもちろん忌部氏の故地阿波から来ています。
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この回答へのお礼

詳細な回答ありがとうございます。但馬=丹波が同じ読みだったというのは興味深いです。ただの当て字なのか意味のある漢字なのかが気になりますが・・・
丹波地方は大江山伝説なんかもありますから、なんらかの有力豪族の根城だったんでしょうね。丹波について、ますます興味が出てきました。

お礼日時:2005/08/18 17:38

手元の日本地名ルーツ辞典によると、もともと丹波国は後の但馬国・丹後国・丹波国を合わせたもので、684年に但馬国が、713年に丹後国が分国された、とあります。

従って「丹前国」というものが過去に存在したということはありません。

また丹後国は、京都より遠い地域であったため「丹波道尻国(たにわのみちのしりのくに)・丹波後国」と称し、後に丹後国と改められたそうです。丹後国に限らず、国を分国して「前・(中)・後」と分ける場合、その前後は都から見た位置によって決められています。都に近ければ「前」遠ければ「後」となります。

では、なぜ丹前国というのがないのか、ということについては、下記の年表からの推測になりますが、
http://nihonsinwa.at.infoseek.co.jp/data/map.htm

年表によれば、律令以前は「前・後」または「上・下」という分割になっていますが、以後は既存の国からの分置という形になっています。7世紀末は、律令国家の確立に向けて分割による新国形成が進められましたが、701年の大宝律令までにそれらはいったん完成されたのではないでしょうか。そしてそれ以降は、既存の国から分離する形で新しい国が作られるようになったのではないかと思います。(重ねて強調しますが、あくまで推測です)
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この回答へのお礼

詳細な回答ありがとうございます。上下前後の関係についても分かった気がします。丹後のみならず但馬も丹波からの分家であるというのは面白かったです。

お礼日時:2005/08/18 17:36

No.4 訂正します。


(誤)丹後国から、加佐…
(正)丹波国から、加佐…
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「丹波」とは、元々、現在の京都府中部・兵庫県中部の地名でした。


その後、丹波の国は北部に広がっていき、日本海にまで達することとなりました。

この広がった地域を、丹波の国の裏側にあるということで「丹後」と呼ぶようになったわけです。

それがこれから考えますと、他の「前・中・後」のように、「丹前」「丹後」という呼び方に変わる可能性なかったとは言えないでしょう。

変わらなかった理由は、私見ですが、「丹波」からすると「丹後」は分家みたいなもので、本家筋の名前を変えることは考えられなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。分家としての丹後という説は面白いですね。他の回答をみてても、当たらずとも遠からずといったところでしょうか。安直に丹波の一文字を使ったのが気になりますが・・・

お礼日時:2005/08/18 17:30

但馬と丹後は 7 世紀ごろまで丹波の一部だったということから、対象となる相手がないのだと思います。


同じような非対称は東北にもあります。陸前(ほぼ宮城)、陸中(ほぼ岩手)があって陸後はありません。陸奥(ほぼ青森)です。
これも陸奥を3分割したからそうなのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。陸前・陸中・陸奥もそうですね。ただ、陸奥の場合は奥=後とみれるので但馬・丹波・丹後よりは関係性がみつけやすいですね。

お礼日時:2005/08/18 17:27

回答は知りません。


「丹前」というと防寒用の和服を思い出しますが、これは江戸時代に堀丹後守の屋敷前にあった風呂屋に因んだそうです。

参考URL:http://www.kimono-taizen.com/know/tanzen.htm
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この回答へのお礼

ありがとうございます。丹前で調べると、旅館の浴衣の上着しか出てこないんです・・・

お礼日時:2005/08/15 12:54

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