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以前、戦国時代に書かれた書物を本で読んだことがあります(現代訳で)。
それによると戦国時代、一番強い兵隊は越後の上杉兵だそうです。
ちなみに2番目が甲斐の武田兵、3番目が相模の北条兵と三河の徳川兵らしいです。
武田兵は騎馬隊があるのであるので強いのは分かりますが、なんで越後兵はそれより強かったんでしょうか?

A 回答 (3件)

合戦には戦略というものがあり、目先の勝敗はどちらでもよいのです。


例えば徳川家康は「桶狭間の合戦」で大将の今川義元が首を打たれたため三河に敗走、越前攻めでは主将の織田信長が逃亡したので敗走、三方が原では武田信玄に敗れて浜松に逃げ込み、本能寺の変でもやっとの思いで三河に脱出、とどちらかというと負け戦の多い武将です。
中国でも漢を建てた劉邦はライバルの項羽にやられて逃げ回りますが、最終的には勝利を拾います。
「尾張兵は弱兵」といわれ、その理由として尾張は肥沃な濃尾平野に恵まれ、津島の海運により商業が発達して豊かなため、命を惜しむからといわれてきました。
それに対して隣国の三河は今川に富を吸い上げられ、貧しいので命がけで戦うため強いとか。
越後も雪国ですから、人間的には我慢強い気質の方が多いため、「強兵」といわれると思いますが、それと本当に強いかどうかはまた別と思います。
幾ら個々の資質が高くても越後の兵はアマチュアですから、尾張のプロの兵士に勝てるかどうか。
柴田勝家が手取川の合戦で散々敗れますが、あれも主君の信長が、越後兵はこれ以上南下しないと読みきっての戦略で、上杉にとっては余り実のある勝利とは思えません。
兵の強弱は江戸期に甲斐の軍略家がまとめますから(武田家滅亡後、徳川に多くが仕えた)、どうしても武田家を持ち上げる傾向があり、武田信玄が梃子摺った越後兵は強いとなったと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
尾張の兵がなぜ弱いと書かれたのか分かりました。
また上杉兵が強いと言われた理由も分かってきました。

お礼日時:2005/04/10 10:28

兵の強弱というのは2種類の要素があります。


純粋に個々の兵士の強弱と、指揮官の能力からくるものとです。
戦国時代でもこの点は変わりません。

一般に地形や気候の厳しい地方の兵は忍耐力や身体の強壮な事から強いが都会の兵はそれに比べて弱いと言われましたが近代戦ではそのような通説は否定されています。

しかし戦国時代はある程度通説が正当であったようです。  領地で戦争が多く繰り返された地方、交通の不便であった地方などでは自然に体力が必要で、セミプロ化していたと思われます。
越後は地方豪族の力も強い地方の上家督争いなどで小規模の戦争が絶えなかった地方です。
それは甲斐の武田も後北条、も同様です。

尾張の織田が弱かったと言われたのは気候が温暖で、平野も多い土地柄が影響したでしょうが、信長の兵農分離でプロ化した後は弱くはありませんでした。

武田の騎馬隊と喧伝されますが当時の編成では騎馬武者に多数の歩兵が同行し共同して戦闘する方法が多く、騎兵隊のように大規模に集合して行動することはなかったのです。  騎兵隊のように集合して行動したのは多分大阪夏の陣で伊達の騎馬鉄砲隊が初めてでしょう。

兵の強弱に編成や掟などが影響する事も多いのです。
薩摩の島津家では部将が戦死したらその部下は全員踏みとどまり死ぬまで戦うと定められていました。
武田の兵にも信玄健在のころには同様な精神的絆があったのではないでしょうか。 それに土地柄鉱山が多く工兵のような使い方も出来ました。

将の器量が強弱に影響する事は多大でした。
戦術、用兵とゆう面で武田信玄は群を抜いた存在でした。 兵の訓練度も高く陣形の変化も思うままで、武田不敗の伝説を生む位でした。

徳川家の場合は不遇の時代が長く、それを抜け出す為家臣団の団結が特別に強かったのではないかと考えます。 それに武田の遺臣を積極的に取り込んだ戦略眼、それを井伊直政の赤備えに集結して先手として活用した用兵が見逃せません。

上記のように兵の強弱は複雑な要素の有機的な組み合わせで決まるものです。 
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この回答へのお礼

詳細なご回答ありがとうございました。
それにしても島津の下級武士に生まれず良かったです。

お礼日時:2005/04/10 19:38

他にも薩摩や土佐の兵も強かったようです。

一番、二番のランキングは単にその本を書いた人の主観だと思いますが、一般に貧しい地方のほうが兵が強いと言われています。だから日露戦争や前の大戦においても東北や四国九州の兵隊が精強だとされていました。日常的に厳しい状況に置かれているので精神力などが鍛えられたのでしょうか? 
更には上杉謙信や武田信玄など率いる将帥の能力や、戦績もイメージの形成に役立ったのだと思います。

それから武田の騎馬隊ですが、騎兵が一団となって突撃するような兵隊を想像しているのであれば、それは半ばフィクションです。馬に乗るのは移動時で、戦場では基本的に馬を下りて戦いました。また、騎馬隊といっても騎兵だけで編成されていたわけではなく、騎馬武者とそれに従う徒歩の兵四、五人で一単位を構成していました。騎馬の割合も、他国に比べて際立って多かったというわけでもありません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。
私の書き方が悪かったようですが、その本の書いた兵の強さは大将の能力とは関係ないようです。というのも尾張の織田兵は非常に弱いと書いてあったので。

補足日時:2005/04/10 10:21
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