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音楽は技術化されているのに、文学はされていないのは何故でしょう?

最近疑問に思ったのですが、音楽には大学などもあり、技術化されています。ですが文学(物語)については全くなされていないように思います。
音楽にしても物語にしても、感性の問題によって左右されるという事実は変わりません。しかし音楽には音符があり音階があり、多くの音楽記号があります。一方、文学の方にはそういったものが存在しません。提唱した方はもしかしたらいるのかもしれませんが、世界的知名度を誇る音楽技術に比べればないも同然です。
歴史的に見て、文学は音楽に劣る注目度であったとも思えません。
私見としては、音という掴み所のないものを扱うことを可能とした、音楽技術の発明自体が奇跡であり、その奇跡は物語界においては起こっていない。というものです。
そこで是非皆さんの多くの意見を聞いてみたいのですが、どうでしょうか?

A 回答 (6件)

「音楽の技術化」の定義は?あなたが個人的に作った言葉ですね?


「技術化」という言葉の意味が全く分からないので全く議論になりません。
言葉の定義をしっかりしないと、共通の土台がないので意見の交換もできませんよ。

音階や音符、音楽記号の発明によって、音楽を記録することに成功したというだけならば、文学にも文字があります。
かつては口頭で伝承されていたものが文字の発明によって書き留められるようになりましたし、活版印刷の発明によって印刷物として広く流通するようになりました。

あなたの比較の仕方も分析の仕方も全然おかしいと思います。もう一度考え直してみてはいかがですか?
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この回答へのお礼

回答内容と合わせて考えてみて、自分なりの結論を出せました。
音楽は音を保存、もしくは他人に伝えるために音符や音階(←これらを生みだしたことを技術科と形容したのですが、説明不足ですみません)を作りだしました。そしてのちの時代でこれらをつかって創作するようになった。
文学は物語の保存のために文字を作り出した。そしてそれをつかって創作するようになった。
そして結論は、文学も音楽も発展具合に違いはない、ということです。

遅れましたが、ご回答ありがとうございます。足りないところも多く、すみませんでした。ところで同様のことを友人に尋ねたところ、関係はないのですが、面白いことを言われました。それは『音楽や美術は芸術であるけれど、文学は芸術ではない』ということです。
さて、これは何故なのでしょうね?

お礼日時:2010/07/24 06:05

質問者様の思いと少し外れるかもしれませんが、音楽と文学の技術的な違い、そして現代におけるテクノロジーとのかかわりにおいて、確かにおっしゃるようなことはいえるような気がします。


音楽は近世において音楽理論が生まれ、ほぼ作曲技術のようなものが確立し、コンピューターなどの現代的な技術にもよくなじんで、自動作曲のようなことすら試みられています。
これに比較して、文学理論のようなものは、あるにはあってもかなりアバウトなものでコンピュータなどとはあまりなじまず、ただワードプロセッサの発達が文章作成におけるほぼ唯一の技術的な達成であるように思います。

音楽は音(音色、音階、音響)とリズムの芸術であり、文字と言葉、そして人間世界の赤裸々な描写芸術である文学とはその複雑さ煩雑さ、含んでいる世界の広さから比べて比較できないほど単純であることから芸術としての深化が進んだのでしょう。逆に文学はその煩雑さ、世俗化からなかなか抜けられないことがあって、芸術として疑問がもたれる面があることは確かです。しかし、文学にも優れた芸術の面があることは間違いないと思います。
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音楽は音色とリズムと旋律を道具にして人間の音の感覚に訴える芸術です。

一方文学は言葉を道具に使ってそれによって表現される世界の見方に関する概念を楽しむ芸術です。この違いは、同じ美しさを表現するのにどれだけのお互いに独立な要素が役割を演じるかが本質的です。そこを理解するとこの質問の回答が見えて来ます。

先ず技術化しようと言うのですから、それを機械でも判るような言語で表現しなくてはならない。そこで、技術者は今対称にしている物を表現するのに、幾つの独立した変数があるかを数えます。そして、それがN個あると認めた場合にはそれをN次元の空間の中の座標軸を考え、その各々の独立変数に各座標軸を対応させて考えます。実際にそんな座標軸を導入するかどうかは別として、頭の中で本質的にはそれと同じことを考えているのです。その視点から考えてみると、文学を規定するための本質的な変数の数は、音楽と比べて桁違いに多い。それこそ、数千倍数万倍の違いがあります。それほど、人間が考えつく世界の見方に関する概念の組み合わせは、音楽を特徴付ける座標軸の数よりも多いのです。

簡単な話し、文学の理解には、それが何語では書かれているのか、その言葉を話す国民の歴史はどうだったのか、その文化はどういうものか、その世界観はどうなのか、その国はかつて植民地だったのかそれとも宗主国だったのか、戦争に勝ったのか負けたのか、農業国なのか工業国なのか、高度に資本主義が発達しているのか、民主的な国家か、それとも独裁的な国家なのか、女性の立場はどうなのか、一夫一婦制の国なのかそうでないのか、どんな宗教が信じられているのか、などなど、数限りない要素が絡み込んで、世界の見方の概念が構築されてます。それを道具にして表現しようとする芸術が、音楽や美術と比べて桁違いに込み入っているのは当然過ぎるくらい当然です。その桁違いな複雑さの証拠に、質問者さん自身が、音楽や美術は芸術だが、文学はその複雑さの故に芸術ではないという誤解までしております。

この複雑さが、現在でも文学を機械言語に翻訳することを妨げており、したがって技術化が進んでいないのです。私は、この高度に複雑な芸術である文学を機械言語に翻訳できる時代が果たしてやって来るのかどうかすら想像が付きません。人間の頭脳が考えつく新しい概念の発明は、砂が指の間からすり抜けるように常に機械言語の指の間をすり抜けて行くからです。

また、変数の数が増えて行くと、それをコンピュータが処理するのに必要な演算の数は一般に指数関数的に増えて行きます。この指数関数と言うのが曲者です。指数関数と言うのは本質的に倍、倍、倍と増えて行くことです。だらか、その増え方は変数の数をNとして、2のN乗の増え方をします。たとえば、Nが6だとその値は64ですが、Nが60だとその値は2の60乗、即ち10の18乗、即ち1億の一億倍の100倍の大きさになります。だから、Nの数の比較的小さい音楽ではコンピュータ処理可能ですが、それより桁違いに変数の数が多い文学では、今後発明される今までよりも数億倍性能のいい量子コンピュータを使っても、それを機械的に処理するのに宇宙の寿命よりも長い時間が必要となりそうです。

そんな途轍もないことを人間の頭脳がやってのけるとは、人間て凄いですね。
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ハーレクイン・ロマンスってのが文学かどうかは議論の分かれるところかも知れないが、こちらの文学はコンピューター設計で機械化生産しているそうですよ。



「あなたが探していた愛は、きっとここにある」って宣伝文句で職業女性が恋に落ちて、擦った揉んだした結果、仕事と恋の両方で大成功を収めるという一貫した内容のお話らしいんだけど、それを毎年何冊もの”文学”として出版する体制が整っており、しかも一旦生産された文学は一気に多言語に翻訳されグローバルに販売されるそうです。

まあ、「こんなの文学じゃねぇ!」と仰りたい気持ちも分かりますけどね、じゃあ、○○ハウチュとかいう会社が機械化生産している住宅は「こんなの住宅じゃねぇ!」と言いきれますか?

時代が進むにつれて機械化生産の住宅も現れれば、機械化生産の文学も現れるってことでしょうな。
それで満足する人は満足するんだからしょうがあんめぇ。

どちらも、本物は上等な人間が一品生産しなくちゃいけねぇんだけどねぇ。
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米虫木造大工さんには一本取られた。



ご存知のようにあたしゃ根が真面目なもんだから、文学を学問や芸術の一種だなんて頓珍漢こと考えちゃったんだね。あたしの馬鹿さ加減と来たら、小説なんちゅうもんは所詮娯楽だよって普段から言ってるくせに、いざってときにそんなこところっと忘れちゃった。何か、自分たちで飛行機を使って敵の戦艦を撃沈する方法を発明して連戦連勝だった日本海軍の上層部の役人どもが、それを素晴らしい素晴らしいと普段言っときながら、いざ予算編成になるとそんなこところっと忘れちゃって、自分たちが若かった頃学校で教わった巨艦巨砲主義一点張りで飛行機生産に予算回さなかったみたいな馬鹿さ加減だね、こりゃ。自分の仕事でもこんな馬鹿なこと時々やってるが、反省しなきゃ。

確かに娯楽だったら、皆の好きそうなパターンを用意しておいて、それをコンピュータでいろいろ組み合わせさせて、最後の所を人間が目を通して辻褄を合わせて一件落着っての手も確かにあるね。始めっから金儲けだけ考えてりゃ良いんだからそれもありだ。そんなら、文学は芸術じゃないってな質問者さんの意見にも賛成だ。
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主に西洋音楽理論について言っているのだと思われますが、音楽を構成する要素である音は物理現象であり、数値化されやすく、数値化することによって分解し再構成するという近代合理主義的な発想が適用しやすいと言えます。



歴史上最初のドレミはピタゴラスが作ったピタゴラス音階であり、これは打ち付ける金槌の大きさの比率と良く響く音程との関係から導かれたものです。そこから音階は現在主流となった大バッハによる平均律へと変遷し、5度中心の音楽から、3度、短2度へと発展していきました。つまり音階内の音同士の組み合わせによっていかなる響きが得られるかという音程中心の音楽理論は振動する物体の大きさの比率という数量的な問題から積み上げられたものです。

一方で文学を構成する言葉あるいは文字は意味や表象といった定性的な代物です。定性的で数値化困難な情報の塊である文学は科学的アプローチが適用しづらく、したがって理論的に体系を構築することが難しい対象であると言えます。言葉には形がなくあるのは意味だけです。その意味が数値化できない以上、文学の本質(私たちの感性に働きかける要素)を定量的に捉えることは不可能です。


音楽は定量的な要素からダイレクト感性に訴える産物を生み出すという点で特殊な芸術であり、それゆえ神秘なのだと思います。
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