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離人感を求めてしまう。
離人症で悩み、苦しんでる人に対してこの質問はとても不謹慎だと思います。すみません。
ただ私は今の自分でいるのに耐えることができないんです。
昔はよく離人感になり、その気持ち悪さより自分を別人のように見れて、なにも感じなくなることにとても癒されました。今までなかったほどに。
ただ最近は離人感になることがなくなり、そのたま無意識に自分を責めて離人感を求めようとしてしまいます。
自分でいることがどうしても耐えられません。
今の状況を悪化させることはわかっています。不謹慎なことも。
それでも聞きます。
自分で離人感を引き起こす方法はありますか?あればその方法を教えてください。

A 回答 (2件)

精神に限らず、肉体が疲労しても離人感がでることがあります。



健康に悪くておすすめ出来ませんが。
極度の疲労状態や徹夜後などの睡眠不足の状態だと離人感が出てくる事があるそうです。
極度に疲労というとマラソンですが、なったとしても僅かな時間だと思います。
徹夜の方が良いかもしれませんね。
あんまり寝ずに活動すると過労死する事もあるので、二日に一回は2~5時間寝た方が良いです。
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離人感は、自分で今の自分を受入れたくないという『心の作用』からおきています。

そうなる為のメカニズムと。治ると言う事のメカニズムを書いてみますが、『本当は自分で、自分の心の状態を、計らいで替えたり、調節する事』は不可能に近いものがありますので、始めに断っておきます。始めに、人間の心に湧き上がる感情が如何いうメカニズムで、湧き上がるのかを書いてみます。この事を説明するには、もう一つ説明する必要があります。

人間には『心が二つ在ります』一つは自我意識です。是は顕在意識とよばれているものです。処が気付き難いのですが、もう一つ心が在ります。もう一つの心とは、無意識界や潜在意識界の主人公として『自我意識とは』全く違う機能と能力を持っています。それは『無意識の意識』として、自我意識とは交替制を取っている事で、何時もすれ違いの状態で存在している事になります。従ってもう一つ自分には『意識』が在るとは思えないようになっています。

このもう一つの意識は、心臓や呼吸する事やら、ホルモンの調節やら、汗の出方やら、命に関係する事に関しては、全て一手に引き受けている者と言う言い方のほうが適切かもしれません。言い換えるなら『命そのものを働かせる者』と言う言い方でも可能という事になります。

従って一人の人間が、行動する場合、『自我意識』と共に『無意識の意識=命そのものの働き』と言う人格が共に行動している事になります。その働きの意思は『全てを肯定している者』です。

走ったりして、酸素が必要になった場合、即座に呼吸数や、心拍も最適になるように調節しています。驚くような場面では『髪の毛を逆立てたり、心臓を早鐘のようにしたり』する者です。咄嗟の行動が必要な時には、自我意識の出番を待たずに、体を反応させています。

その時に自我意識は『思わずに』体が反応した、と言います。自我意識が関与しなくとも、人間の体も心も反応するように出来ているからです。その意識と自我意識は、脳梁を介して絶えず情報交換をしています。そうして感情が湧き上がるシステムとは、その者が送る情報を受け取って、それを自我意識が翻訳して湧き上がる感情としています。

この感情を湧きあがらせる者との食い違いを人間は『心の矛盾や、対立や、分裂』として感じています。そうして自我意識は『心の矛盾』を心に圧迫感として感じています。この何処から来るか分らない圧迫感とは、『漠然とした不安、或いは罪悪感として、或いは恐怖感として、或いは脅迫行為として』自我意識は受け取って、果てしない自分自身の内面からの闘争として、スタミナを消耗しています。

何もしなくとも、疲れを感じたり、体中に力が入ったりする現象になっています。それは意識の根底からの恐れとして、力まずにはいられない事を示しています。如何してこうなるのかを書いてみます。自我意識は物事を言葉を使って論理的に考えています。そうして論理的な解決方法を探します。ですが答えの出ない問題も存在する可能性があります。自我意識の機能からは不可能な問題とは、割り切れない問題の事です。或いは矛盾した問題にしても同じ事になります。何故なら人間が『言葉』を持つと言う事が、割り切れない問題を放棄した事になるからです。

世の中の見方や、思考方法が、割り切れるものにしか対応できなくなる事が自我意識の機能の限界を作り出しています。如何云う事かというと、言葉にした時点で既に有限の事しか表現ができないと言う意味になるからです。人間の思考方法が言葉で思考する限り、有限の壁は越えられない事を示しています。分別と言う意味には『割り切れるもの』と言う意味が有るからです。割り切れる事を『有限』と規定しているからです。従って自我意識は、逆立ちをしても、『無限や永遠』は手に出来ないという意味になります。

この二つの意識の相違を、人間は古来より、『一切皆苦』として受け取ってきて、そうして乗り越える事を学んできた事になります。この学ぶ事とは『言葉に拠らない思考方法』の開発です。それが『禅』という事になります。そのためのテキストが『禅問答』という事になります。禅問答は自我意識が、今までの思考方法からは離れない限り理解できないからです。禅問答が一つでも、徹底して解けた時に、有限しか理解できなかった自我意識は『永遠の命』と言う概念を知る事になります。その事を『生死の問題が解決する』と言います。

キリスト教的な書き方をするなら。『神に会って和解する』という事です。今まで、意識の根底で、心同士が争っていたわけです。自我意識は心に圧迫を受けていました。その圧迫の元が、もう一つの自分自身の心と分ります。自分の心が二つ在った事を知る事を『見性』と言います。それ以後は『体にも心にも』力みがなくなります。それを『心身脱落』と言います
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