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ヨーロッパ史を独学で勉強している者です。

ハプスブルク家の為政者たちは様々な位を兼務して
いましたが、その中で「公」「大公」「王」などの位は
どうやって決められていたのでしょうか?

例えば、ルドルフ1世(在位1281年 - 1307年)は、
ボヘミア王であり、オーストリア公でもありました。
ボヘミアは「王」でオーストリアは「公」?

一方、フリードリヒ3世は、オーストリア「大公」で、
わけがわかりません。

ご存知の方、宜しくお願いします。

A 回答 (7件)

中世ヨーロッパでは王国の中に公領(ザクセンなど)、地方伯領(テューリンゲンなど)、辺境伯領(オーストリアなど)などが存在しました。


ルドルフ1世はそういった領土をどんどん支配下に置きながら、次々と「そこの王位」に就いたので複数の「王位」や「公位」を持つようになったのです。
(更に神聖ローマ皇帝ですから訳が分からなくなるのも当然です)

フリードリッヒ3世はマクシミリアン1世と通じてブルグント、スペイン、ボヘミア、ハンガリーを獲得してます。複数の公国を持ち、各部族の長という意味合いで大公と呼んだものと思われます。

私はこういった日本語訳を便宜上の呼び名だと軽く考えてます。
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ルドルフ1世は、ボヘミア王にはなっていなかったと思いますが。


ボヘミア王ルドルフは、ルドルフ1世の孫にあたりますので、ルドルフ1世とボヘミア王ルドルフが混乱していると思われます。

そもそもハプスブルク家は、現在のスイスのハプスブルク城を本拠地とする伯爵でした。
大空位時代のドイツ(神聖ローマ帝国)では、有力諸侯が、強大な君主を嫌い、弱い貴族を名目的な王としていました。
その時偶然選ばれたのが、弱小貴族だったハプスブルク家のルドルフ1世でした。
ルドルフ1世が、神聖ローマ皇帝になると、当時ドイツで最も巨大な力を持っていたぼへみあ王オットカル2世が、ルドルフの皇帝就任に反対し、反乱を起こします。
ルドルフは、オットカルを破り、オットカルの領地だったオーストリア公領を奪い、オーストリアに本拠地を移します。
この段階でルドルフ1世は、神聖ローマ皇帝であり、オーストリア公であり、ハプスブルク伯ということになります。
ルドルフの子アルプレヒト1世は、婚姻政策により、シュタインマルク、ケルンティ公領などを加えます。
しかしスイスでの反乱により、ハプスブルク伯爵領実質的に失います。(ウイリアム・テルの話)
アルプレヒトの子ルドルフは、ボヘミア王の未亡人と結婚し、ボヘミア王国を手に入れますが、1年で死んでしまいます。(チロルもこの時領有)
アルプレヒト1世の別の子アルプレヒト2世が、オーストリア、シュタインマルク、ケルンテンなどを継承します。
アルプレヒト2世の子ルドルフの死により、ハプスブルク領は、2分割されます。
兄のアルプレヒト3世は、オーストリアを本拠地とし、弟レオポルド3世が、ケルンテンを本拠地とします。

アルプレヒト2世の子のルドルフの時に、古文書を捏造し、オーストリアは大公を名乗るようになります。

兄のアルプレヒト系は、アルプレヒト5世(神聖ローマ皇帝アルプレヒト2世)の時代にボヘミアやハンガリーを手に入れますが、まもなく死んでしまい、レオポルド系のルドルフが神聖ローマ皇帝ルドルフ3世となり、オーストリアを手に入れます。
(ボヘミアとハンガリーは失います)

このように、ハプスブルク家の領土が時代により変化していること、同じ名前の人が、何人もでてきて、混乱しやすいことが、理解する事を難しくしている原因だと思われます。
一度WIKIなどを読み直して、図などに整理してみるとよいでしょう。
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ベーメン(ボヘミア)はかつて神聖ローマ帝国内でありながらチェコ人のプシェミスル家が支配していました


プシェミスル家は皇帝と教皇との叙任権問題に関し一貫して皇帝側に忠誠を尽くし
特にヴラディスラフ1世は(カノッサの屈辱で有名な)皇帝ハインリヒ4世に付き奮戦
皇帝から一代限りながらベーメン王位を認められます

さらにオタカル1世もホーエンシュタウフェン朝の皇帝フィリップを支援し
皇帝から世襲制のベーメン王位を承認されました
やがてプシェミスル家はハプスブルクのルドルフ1世に敗れるなど衰退し
アンジュー家のハンガリー王がベーメン王と同君連合したが
王位継承者が戦死しハンガリー王女アンナと姻戚していたたハプスブルク家フェルディナント1世が
ハンガリー王位とともにベーメン王位も継承しました
(ハンガリーと同君連合していたクロアチア王位もと共に)

オーストリア大公は
ルクセンブルク家の皇帝カール4世が金印勅書により7人の選帝候を指名しましたが
皇帝の娘壻であるハプスブルク家のルドルフ4世が選にもれたため
ルドルフが憤慨し、自分はオーストリア大公として認められている大特許状があると主張
今までドイツには大公という地位がなかったので訝ったカールが書状を提出するようルドルフにいい
届けられた書状はなんとオーストリア大公位はローマのカエサルとネロの特許状で明らかに捏造されたものだったが
(ローマ時代にオーストリアは存在していない)
しかしカールは壻の憤慨を理解し大公位を許した
(ルドルフは他にも男系が断絶したティロル伯領も捏造書状で継承するなど狡猾だった)

やがて捏造された大特許状にも関わらずハプスブルク家の皇帝フリードリヒ3世が帝国法で成文化され
オーストリア大公は正規の呼称になりました

後にハプスブルク家が領有権を得るトスカーナ大公国は
1569年メディチ家のコジモ1世が皇帝から称号を授与されています

長文失礼致しました
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先日他のトピックで調べていて見つけたんですが、神聖ローマ皇帝カール5世=スペイン王カルロス1世は随分と多くの爵位を持っています。


ハプスブルクの血を引く人です。
こうした地位は最初は闘って領地を奪ったり、譲り受けたりしたんでしょうが、祖母から父へ、父から子へというように、代々受け継がれて行くようになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC% …

位の名前は領地の仕組みによったのでは?
何々王国とか、何々公国とか、何々伯領とか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%9B%BD
「中世にはブルゴーニュ公国(君主の称号は duc)など国王の支配の及ばない諸侯による独立性の高い支配領域が存在した。しかし近世以降、絶対君主制の時代となると、諸侯の勢力は抑制され、現存する主権国家の枠組みの中に解消されていった。」

その後も称号(名前)だけ受け継がれたりしています。
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原理的には、ローマ皇帝が○○の地域に関しては○○公爵領とする。


なんてのを決めます。

基本的には、「昔からそう決まっていたからそういうことで」であるが、若干の情実もある。


No1の方が指摘しているように、ブランデンブルク辺境伯であるホーエンツォルレン家は王様と名乗れない。なので、ローマ帝国外のプロイセンにおいて王と名乗ることを、まーしょーがねーな、それなりに強国だしというので、プロイセンの王となりました。妥協の産物です。

このへんの構造は、「小沢一郎は代表選挙で負けたけど、それなりに遇したいから、副代表って役職作っちゃいましょう」というのと同じです。

あるいは、江戸時代の譜代・外様の構造ともにています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%96%E8%AD%9C% …

実績認めてくださいよと、譜代なる元外様もいるわけです。
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菅直人総理大臣


と、普通は言いますが、菅直人氏は同時に民主党代表でもあります。
また、衆議院議員でもあります。

同じ国務大臣でも長官だったり大臣だったりします。
防衛庁長官が防衛庁が防衛省になったので防衛大臣になりました。

ヨーロッパの称号も基本的にはコレと一緒です。

ハプスブルク家の場合
公爵領を継承すれば公爵
王国を継承すれば王国

オーストリア大公はルドルフ四世の策略で、防衛庁長官を防衛大臣に格上げしたようなものです。
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この時代, 「王」は神聖ローマ帝国の外の地域にしか許されなかったんじゃないかなぁ.


そのあとの話だけど, 「プロイセン王国」ももともとの君主号は「プロイセンにおける王」です (プロイセンは神聖ローマ帝国の中ではないので, そこにおいて王を名乗ることは問題なかった) し.
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