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大韓帝国は石島と呼ぶながら竹島の存在を認めて(1900に初めて)、統治したことを示す証拠として
http://www.mofat.go.kr/press/hotissue/dokdo/2009 …)をあげる人がいます。

他方、日本政策研究センターのブックレット「ここがおかしい中国・韓国歴史教科書」では

竹島を朝鮮の「漁民たちが漁をする拠点として活用してきた」という資料は存在しませんし、事実でもありません。そもそも1882年と1900年の二度にわたって、朝鮮側が鬱陵島の調査を行っているのですが、その際に彼らは竹島を確認していないのです。19世紀末にすら確認できなかった竹島を「漁民たちが漁をする拠点として活用してきた」はずがありません。

とあります。

1900年における韓国の竹島に対する認識はどのようなものだったのでしょうか?

A 回答 (10件)

どちらも危険な捏造主義的国家であり、信じる事が難しい国です。


なので、中立国をいかに味方にするかが大事です。
私が思うに日本は不利な立場です。
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 ご質問の 1900年における韓国の竹島に対する認識 について少し調べてみました。


 前記の1900年に韓国中央政府に報告された『鬱島記』について、韓国が出している紹介文です。

 『鬱島記』について、 
 1882年の鬱陵島開拓令(※実際の開拓民入植は翌1883年)以後に報告された公式の総合報告書である。
 ウ・ヨンジョンは1900年6月15日に戻り、報告書を提出し、日本人の速やかな撤収と鬱陵島の官制を改編することを建議した。
 その結果、同年10月27日勅令41号を発布した。

 と書かれています。(デジタル鬱陵文化大全 http://ulleung.grandculture.net/ (韓国語)の独島コンテンツのところより)(※ は、小生の付けた説明)

 内容も簡略紹介されています。全文は意外と短く、韓国側の立場でサイトを作っている人のページで載せてる人がいます。
 ・・・島民の生活実態と、日本人の実態を調査するために来たことが書かれ、
 汽船を泊めては上陸し、集落に行き島民の話を聞き調査したこと、
 それぞれの集落の島民から陳情書が出され、いろいろな訴えがあったこと、
 鬱陵島の島監(行政官名)の帳簿を調査したこと、
 島の大きさ、
 島の住民数、
 開拓した土地の面積、
 
 土地は肥沃で、穀が豊か、大麦・小麦・黄豆・甘藷が採れ、
 綿花・麻布・紙○が採れる。
 家々は水が足り、自給自足出来る、災の年があっても幸いなことに鶴鳥という鳥がいて、また薬草も採れるので飢餓を免れることが出来る。鶴鳥は昼間は海面で魚をついばんでいるが日が暮れると山の穴に帰るので、人が欲すれば山で火を用いればたやすく捕らえることが出来る。
 薬草はニラやニンニクの穂のような葉である。
 奇岩・怪石があり、人が立っているようなあるいは獣のように見える。その姿は千態万象。
 虎・ヒョウ・蛇・爬の害が無い。
 樹木はよく茂っているが、棘が刺さるような木は無い。
 島民が小金剛と呼ぶ所がある。
 このような名勝をこの世で再び見ることは出来ないであろう。甚だ惜しく、嘆かわしい。
 漢詩を一句詠む。

 鬱陵島の地元の役人にも会い、住民達にも直接会って書いた総合報告書ですが、先記のように竹島(現在の)の話はありません。
 東の遠い所に島がもう一つあって○○島って言うんだけど、そこへたまに行くんだけど、みたいな話は書いてないです。

 また、不思議なことに漁業の話もありません。
 鶴鳥が魚を取る話は書いていますが、人間が魚を取る話が全然書いてありません。
 餓えることが無い、とありますので漁業という程はとり立ててやってなかったのかもしれません。どうなんでしょうね。想像ですが、韓国の日本海側の出身の人の話で、昔は子供が海辺でバケツで水をすくったら魚が取れた、というのを聞いたことがあります。また、同じ話を本で読んだこともあります。また、私は日本の日本海側の海辺の町に住んでいるのですが、複数の老人達から同じ話を聞いた事があります。昭和の30年くらいまで、浜辺で桶(おけ)をさっとやったら小魚が取れたそうです。
 今は鬱陵島と言えば、何たってイカで有名ですが。イカの話も同記に書いてないです。
 1900年の鬱陵島は陸地から船で数日(5日程、風が良いと2日程)ですし、今のように冷蔵装置もありませんので、餓える心配が無いのにわざわざ船を出して荒波の日本海へ漕ぎ出す必要がなかったのではないか。どこかへ商品として売るための大ぶりの魚を取りに行く必要性もなかったのでは?
 と、想像します。島根県の人が1906年に許可を得て竹島へ行った時も、主にアシカ猟のために行っています。主な目的が魚じゃないんです。

 韓国側の主張を発信しているサイトを見ると、日本の江戸時代から1900年前後までの間にも、鬱陵島を担当地域にしている対岸陸地の行政組織の官吏たちが鬱陵島についての公文のやりとりを結構しています。
 そういう文献の中から、鬱陵島のはるか東の島についても書かれているものでも出て来れば韓国側の主張に重みが出ますが。今のところは出て来ていません。
 1905年の日本の島根県告示は、竹島の緯度経度をはっきり書いているのに対して、韓国の1900年勅令41号は「竹島・石島」の緯度経度を書いていません。
 石島が竹島だということが読み取れる他の公文書でもあればいいですが、今は方言からそう推測されるというだけで根拠として弱いです。石島という名称はこの時突然出て来ますし。
 地図に石仏と書いてある所がちょうど今の観音島の所なので、石島は今の観音島の事だとも言うし。

 少し調べただけでいろいろ出て来ておもしろいです。おもしろいなんて言っちゃいけませんね。日本人韓国人のとっても重要な問題ですね。
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この回答へのお礼

>日本人の速やかな撤収と鬱陵島の官制を改編することを建議した。
>朝鮮側の関心は鬱陵島での日本人の動きに注がれていて、現在の竹島のことは関心外だった感じです。

自国領で他国民が自国政府にそぐわない行為を行っていれば、当然是正すべきと考えるものですね。

歴史的にもいわゆる「竹島一件」でも朝鮮が国家政策として無人状態にした鬱陵島(旧日本名:竹島)で日本人が生産活動を行っていたので、問題となり、以後、幕府は鬱陵島(旧日本名:竹島)に渡る事を禁止することになりました。

しかし、その後も竹島(旧名:松島)にて生産活動を行っておりましたが、1900年の時点に置いても朝鮮側が鬱陵島(旧日本名:竹島)とは異なり、竹島(旧名:松島)での日本人の行動を何ら問題視していないところからも、竹島(旧名:松島)を自国領であるという認識は無かったんでしょうね。

それと

>また、不思議なことに漁業の話もありません。

とあるのに、韓国は教科書で竹島(旧名:松島)を「漁民たちが漁をする拠点として活用してきた」と記述しているとは目茶苦茶ですね。

お礼日時:2011/02/19 09:28

地図に無い=測量をしていない=漁民はその島を知らないのだ。


これでは漁民が知らなかった事を全く証明出来ない事が認識出来るのであれば回答は可能です。


逆に言えば、漁民たちが漁をする拠点として活用出来なかったと言う
資料と事実が重要です。

これがただ単に
>はずがありません。

ちゃんとぐうの音も出ないような証拠を提示し、明らかな違法性を提示し、
高い倫理観点からの指導が必要だとは思いますが、

同一レベルでの水掛け論をしています。
このままでは、サルの方程式により100年後には分捕られます。
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自分がそれをやってみて、そして人にさせてみて、褒めてやらねば人は動かず。


山本五十六。

拳の暴力や言葉の暴力では決して人は動かないのです。

右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい。
暴力で人の心が討てると思っている恥ずかしい貴方、さあ、もう一回討ったらどうですか?

こう言っています。
紀元0年にはもうここまで倫理は進化しているんです。

自分の意に反すると興奮するのは特に良くないと思いますよ。
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>私がどのような主義主張をしていると仰るのでしょうか?



韓国側の主張は無理があると思います。
韓国は竹島を自国領であると考えていたとは思えませんね。

もう忘れたんですか?

>ウィキペディアのページを紹介しただけで、回答の趣旨が分からない
百科事典に答えは書いてあります。

>回答の趣旨が分からない
すなわち、どのような主義か主張か分からないと記載しています。
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この回答へのお礼

>>私がどのような主義主張をしていると仰るのでしょうか?

>韓国側の主張は無理があると思います。
>韓国は竹島を自国領であると考えていたとは思えませんね。

>もう忘れたんですか?

それはNo.4様の回答に対するお礼に書いたものですよ。
isa-98様はNo.2の回答の段階でどうして上記の文章が分かるんですか?
isa-98様は未来が見えて、No.2の回答は未来の私に対しての回答だったというのですか?

だいたい、No.4様の回答に対するお礼に書いたものは、回答を読んだ上でのその時点の感想です。
No.4様の回答を覆す資料が提示されれば、No.4の回答のお礼内容は撤回する気でいます。
つまり、No.4様の回答を覆す資料が存在する可能性がある現時点では感想は持っていても確固たる主義主張は持っておりません。

それでもisa-98様がNo.4の回答に対するお礼に書いたものは主義主張だと仰ると言うのであれば、
No.4様の回答を覆す資料が存在しないことを知っているのですか?

それと、安龍福はどうでもいいのですか?

お礼日時:2011/02/18 22:10

>ご回答の趣旨が分かりません。



お答えいたします。

きれいな言葉はとても良いですね。
知的に見え、学があるように見えます。

ただ、質問を装った主義主張はあまり褒められた行為とは言えません。
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この回答へのお礼

前回の回答内容からどうやったら今回の回答内容が導けるのでしょうか?

安龍福はどうでもいいのですか?

>ただ、質問を装った主義主張はあまり褒められた行為とは言えません。

私がどのような主義主張をしていると仰るのでしょうか?

お礼日時:2011/02/18 21:09

・ 現在の鬱陵島の地図を検索でお探しになってご覧になるとわかりますが、鬱陵島の沖合い東(少し東北)に竹島という島があります。

鬱陵島から直線距離で2.5キロ程度、一番近い港から船で行くと4キロのところです。
 鬱陵島は鬱陵郡という郡なのですが、その鬱陵郡の公式ホームページの日本語版で 鬱陵島ツアーマップ をクリックなさると、鬱陵島全体図が出ます。
 竹島 は、鬱陵島の主な観光地になっていて、直行の遊覧船が出ていて、島一周めぐりの遊覧船のコースにも入っています。
 面積は207,818m2。テーマである竹島(韓国名 独島)より1.4倍くらいの大きさです。
 竹島には以前から人が住んでいましたが、水源が無いなどのため、今は1家族2名のみが住んでいるそうです。昔から竹が取れたので竹島だそうで、今は韓国山林庁が所有する島です。
 観光客が入って散策できるようになっているようで、同郡の観光ページには観光ポイントの説明があります。
 私の記憶では、1980年代の韓国を代表する大ヒット映画『鯨捕り(コレサニャン)』のラストシーンのロケが行なわれたのがこの島だったような気が・・・・。

 また、この竹島のすぐ北西に観音島という島があります。
 また、この他に鬱陵島には島という程ではない岩礁が島のまわりにあって、○○岩とか名前がついていて、そういうのが6~7個くらいあります。

 1番の回答者様がご記述のように、島の名前がゴチャゴチャしていてこの問題を複雑化させてます。

・ 1882年に李奎遠という人が命令されて鬱陵島検察使となって鬱陵島について調査します。王様の高宗は鬱陵島の近辺にあるという芋山島と松竹島についても調べるようにと、わざわざ近くの島について言及しました(承政院日記 高宗19年4月7日)
 この時の調査団団員は100名にも及びます。
 李奎遠は戻ってから朝廷に報告をし、『鬱陵島検察日記』を著わします。これには(現在の)竹島についての記述は全く無くむしろ、四方を見渡して海中に浮かぶ一点の島嶼の影も無し、と書いています。

・ 1900年、ウ・ヨンジョンという人が鬱陵島視察委員に任命され、金ソン遠、釜山駐在日本副領事赤塚正輔、警部渡邊鷹治、釜山税関官吏ラポート(E.Raporte)(※法人 とあるのでフランス人? 当時の大韓帝国では、開港した港の税関業務を英国人など外国人官吏が行なっていました)らと、鬱陵島の調査に行きます。
 島を船で一周し、集落に寄って、5日間の調査をし、都に戻って内部大臣李乾夏に報告書を提出し、『鬱島記』を書きます。
 (現在の)竹島については記述がありません。行ってもいませんし。

・ しかし、このウ・ヨンジョンの報告を元に問題の勅令41号が作られます。
 既出の通り、この勅令41号で竹島と石島が鬱陵島に含まれることが公になった、というのが韓国側の主張です。
 この時の竹島は今の鬱陵島の竹島と同じで、石島が今の竹島(韓国名 独島)である、と韓国は主張しています。
 石島が現在の竹島を指すのかどうか、が大きな問題になっています。


 質問文にお書きになってらっしゃるように、朝鮮が行なった2度の特別な調査の報告書に現在の竹島のことは全く出てきていません。
 高宗は鬱陵島の木材を伐採し搬出する権利をロシアに売ってお金を儲けました。
 しかし、それ以前から日本人も鬱陵島の木材で商売していて、1884年から1887年に掛けては金玉均の許可を得て植林した日本人(竹添進一郎、渡邊末吉)とそれを運んだドイツ人(ドイツ商会)、それらを気に入らなく思うロシア人(モーレンドルフ)との間で事件が起きたりしています。
 日本人が木材の商売を続けていては、ロシアに木材の権利を売れません。そういう事があったりして、朝鮮側の関心は鬱陵島での日本人の動きに注がれていて、現在の竹島のことは関心外だった感じです。


 上記の人物名、書物名などで検索なさるといろいろ出て来ますが、韓国側の立場で書いてる人のほうが日本側の立場で書いてる人より少し多いように見受けられます。
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この回答へのお礼

韓国側は勅令41号をもって1900年時点で韓国領として宣言されたとのことですが、
その勅令は鬱陵島の調査報告を基に出されており、
その調査報告は竹島(旧名:松島)についての報告が記載されていないということなんですね。

韓国側の主張は無理があると思います。

お礼日時:2011/02/17 17:07

No1です。

回答中に誤解しやすい箇所があったので補足します。

回答文中に「鬱陵全島と竹島(鬱陵島の北東に位置する竹嶼)」とあるように、
実は、鬱陵島の付近にも朝鮮で「竹島」と呼ばれている島がありました。
更に、問題の竹島(独島)については、江戸時代の日本では↓のように「松島」と呼んでいます。

1836年に、鬱陵島で竹や木材の密貿易をしていた日本人が死刑になっています。
この判決文には、「松島へ渡海の名目をもって竹島に渡り」と記されています。
ここでの罪状は「鬱陵島群内の竹島」への渡海で、松島(今の竹島)への渡海は問題にされていません。


更に、No2様の「安龍福事件」での于山島の問題から、
鬱陵島=竹島(朝鮮)や、于山島(謎の島)=竹島(朝鮮)=竹島(旧松島)?や、更に質問分の石島等、
名称が錯綜している為に、事実関係の整理自体が、非常に面倒くさい事になっています。

安龍福事件とは、
安龍福は「松島(現在の竹島)は、朝鮮領である于山島のことである」と主張した事件です。

しかし、当時から于山島の位置は不明で、現在でも特定できておらず、存在自体が疑問視されています。
他の証言でも矛盾や不自然な点が多く、日本では彼の言葉に信憑性があるとは考えられていません。
以上から、于山島自体が、安龍福の妄言(嘘)ではないかと言われています。
(これらの事はリンク先でも指摘されています)


以上から「安龍福事件」自体は、質問の要旨である、

1900年に朝鮮政府が行った政策が、竹島(独島)に対するものであるか?

とは無関係だと思います
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この回答へのお礼

1899年に大韓帝国学部が作成した「大韓全図」にも竹島は記載されておらず、加えて1900年に鬱陵島の調査を行った際に竹島を確認していないことからも、1900年には韓国は竹島を自国領であると考えていたとは思えませんね。

安龍福のことは知っているのですが、No2の方はウィキペディアのページを紹介しただけで、回答の趣旨が分からないので、現時点では安龍福のことはコメントをしないでおきます。

お礼日時:2011/02/16 23:50

なら何でこうなんのよ?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%BE%8D% …
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この回答へのお礼

安龍福は知っているのですが、
ご回答の趣旨が分かりません。

お礼日時:2011/02/16 23:51

質問者様の言っている人とは↓のことでしょうか



竹島(獨島)について (私は韓国人です)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6523777.html
>「大韓帝国は石島と呼ぶながら竹島の存在を認めて(1900に初めて)、統治したことを示す証拠があります。」
>もしその時日本の土になったとしても(もし資料があったら見せて下さいね)

反論の資料を要求しておいて、彼はこの直後に質問を締め切っています。(朝鮮人得意の勝利宣言→逃走ですね。)
私は↓の資料を出して反論しようとしたのですが、既に締め切られていました。


>1900年における韓国の竹島に対する認識はどのようなものだったのでしょうか?

回答:竹島の存在すら知らなかったと思います。

確かに、1900年に韓国は↓の勅令を出しています。しかし、これによって韓国領とされたのは「石島」です。
勅令の内容ですが、
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正するの件
第一条:鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し郡等級は5等にすること
第二条:郡守は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島(鬱陵島の北東に位置する竹嶼)、石島を管轄すること

となっています。しかし、石島に該当する島は未だに発見されておらず、存在自体が疑問視されています。
韓国は、この文章の石島=竹島(独島)と主張していますが、その根拠は、
全羅道や慶尚道の方言では石も独も「トク」と呼んでいた。
と言うことだそうです。
しかし、1899年に大韓帝国学部が作成した「大韓全図」にも竹島は記載されていません。(画像参照)
また、その本の中で、「鬱島郡の行政地域は東経130度35分から45分までである」としています。
(竹島はその行政区の外、131度55分にあります。)
ということで、石島=竹島とするには無理があります。


更に、1905年に島根県が竹島を編入した時も抗議をしていません。
竹島を領土と認識していたなら、これは不自然です。
韓国の外交権が日本の移ったのは1095年11月。竹島の編入は同年2月22日なので、抗議はできるはずです。
(実際、韓国は、日英同盟における韓国の地位の件で1905年10月17日に抗議をしています。)
「1900年における韓国の竹島に対する認識」の回答画像1
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