プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

よく「中庸」の意味を誤解なさって、
「平衡」とか「中心・真ん中」とかの意味合いで使われる、という杜撰な誤用が、
最近の日本で頻繁に見受けられますが、
正しい意味を考える場合に、私が気になったのは、「止揚」との明確な峻別の根拠です。

若し支障が御座いませんでしたら、
其の疑問の解消への手掛かりを紹介して頂けないでしょうか?

A 回答 (40件中21~30件)

ーーー現代の学問における、止揚や中庸の構造が現れてる例



その、同じものをちがう見方で見ることの例として 絵などの多義図形.選択的認知。メタデータメタ認知。相転移、次元、ペルソナ、微分積分、など、止揚や中庸に関係しそうな概念はたくさんあります。
でも、結局このように未だバラバラです。
それは、この止揚や中庸の概念は、未だ人間がその構造をはっきりつかんでないものの代表的なものです。こういう階層概念に対する、コンセンサス、みたいなものがなく、各自の専門分野で独自の言葉が当てられてるのが現状です。
主観と客観が入り交じり、統一的見解はありません。
なぜなら、複数の概念が同時に同じところにある、重なった様子を表現する言葉がないからですし、これは単純に「分析」すればするほどおかしいことになります。
なぜなら、分析して出てきた単一の要素であるはずのものが、同時に重なって存在する~動と静、時間と空間など~というありえない状態からこそ、それを直接表現はできません。
お書きになってる 西洋近代の「要素還元論」と、東洋古来からの「陰陽五行論」 の比較では、まさに還元して基礎の基礎であるはずのその要素が、2重写しになる、ダブって存在する、という還元論ではありえない、ある種の論理構成が、陰陽ではありますよね。
黒と白の太極図において、黒と白が互いにぐるぐる追いかけっこをするように、です。
黒と白が別概念であれば、それぞれ要素でありほかから独立したものであるのなら、こんな構図は理不尽ですしありえない物が、現実には太極図の主張も正しいです。
相補性という言葉を使うなら、黒と白は相補性があります。空間的にも時間的にも。
そういう結論が西洋還元論的把握で出てこないのは、時間変化を無視する~~諸行無常的な、時間の経過と共に安定して存在するものはない、という現実のもう一つの側面を無視して成り立つものだからです。
最も逆に、中国的なものは、時間変化に肩入れをしすぎて、把握をおろそかにしてるかもしれませんが。
なぜなら、黒と白はちがう、という西洋的主張も、また正しいからです。

空間静的把握ではー黒と白は別物
時間動的感性ではー黒と白は相補的  です。





ーーーーーーその他

超越ー内包と言う2つの対の概念も対かなと思います。
超越は、止揚で昇った先からの視点。上から見下ろすような、あなたとわたしはちがう、というイメージ。止揚という動的概念の中にも、静的把握が加わること。
内包は、中庸中道で、左右両方を含む視点、という気もします。あなたとわたしは一体だ、というイメージ。静的構図の中にも動的変化があることです。


止揚は西洋哲学の、静的把握に足りないものを補う形で、生まれてきてます。なので、止揚は動的ニュアンスを持ちます。
中庸は東洋医学の、動的感性心に足りないものを補う形で生まれてきてます。なので、中庸は空間図形的静的意味合いがあります。
つまりそれぞれ、生まれてきたフィールド(ヨーロッパ、東アジア)に足りないものを補う、という目的があって言葉が発明されてるので。


こういう、止揚や中庸などの、次元と階層の構造は、有機的なコンピュータである脳の認識能力の限界に対応してる、と思います。
つまり、脳は真理をそのまま捉える機能が付いてないから、このように真実を輪切りにして、バラバラに捉えるしかない、ということなんですが。
で、そういう脳機能の限界が、そのまま神経を介して、ツボや経絡などに現れてるのかな、とも思います。
もちろん経絡とか、あとは、漢方薬の仕組みなどは、もっと複雑なんだろうと思います。
ここでのツボの説明は、単純に、たった一個のツボを押すことに着目したものですから。そのツボが押されるところで、感覚的には何が起きてるか、というものです。


早く西洋医学と東洋医学の融合が進むといいなーと思います。 ツボも漢方も、いっときかなりお世話になったし・・
また、僕は心理学においても、東洋医学的心理学ーー相手と一体であることを前提に論理的に構成される心理学、というのも生まれて欲しいと思ってますし、
そのあたりは宗教との接点にもなると思いますし。



これで全部かしら・・かけるだけ書いたのですが・・内容の整理がどうも・・冷や汗です。
内面の感覚を言葉に起こしてすぐの文章なので、まとまりに欠けますがお許しください。
なるだけ論理建てて書いたつもりなんですが。
分かりづらいと思うので、また変なとこあったら言ってください。

特に僕は長いこと変化=動的だ、と勘違いしてて、それが用語の使い方にも反映して間違った記述をしてる可能性もありますので。

この回答への補足

沢山の入力を続けて下さり、誠に有り難う御座います。

各「補足・お礼」欄へ入力を致して参りますから、
読んで頂けると、嬉しいです。

因みに折角の機会で御座いますので、
奇妙な東洋医学的現象を此処で紹介します。
(奇妙である理由は、視覚だけに頼らない認識の有り方を示唆してくれ得るからです。)

その技術の名は「筋診断(法)」。

『視覚による認識で自然を分析し、問題因子を排除する、という「透視遠近図法」的な自然観が過大評価され、
たとえ視覚に頼り過ぎなくとも、対象達を捉え得る、という「絵巻物」的な自然観が過小評価されている』
と考えられ得る、現代社会に於きまして、
次世代向けの革命的なインパクトを与えてくれるのではないか、と私が注目してきた、新技術です。

具体的に申しますと、色が違うチップを掌に接触させると、
何故なのか、その色に関わる経絡に連動した筋肉の過剰な攣縮が
解れるのです。

(実際に西洋医学的には直せない大怪我を、此の技術が直している、という臨床データが次々と発表されております。)

もし何らかの研究に携わられているのでいたら、
御役に立てて頂ける非常に安全な技術ですから、お勧めしたいです。

尚、インターネット検索では、
個別の鍼灸院の名称がヒットしますので、
此処の情報は宣伝では御座いませんから、
URLの紹介を割愛させて頂きました。

補足日時:2011/02/24 05:31
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この回答へのお礼

遅くなりまして、申し訳が御座いませんでした。
更に伺いたい内容が浮かび上がって参りましたから、
御教授を賜れると、幸いです。

>自分が対象を見てる→対象が自分を見てる、というふうに見直せるという柔軟性は、時間空間的因果関係をひっくり返してますし。動と静の逆転です。

此の箇所を再び噛み締めておりました処、
次の様な事に思い至りました。つまり、
『「客体」の存在証明が「認識主体」によってしか叶えられない故に、
対象に認識される日本的な「我」は、
所謂「無我」に還元されてきたのだろう』
と考えたのですが、誤っていますでしょうか?

支障が御座いませんでしたら、返信を宜しく御願い申し上げます。

お礼日時:2011/02/25 03:15

本題に戻して中庸と止揚についてです。



なんかインスパイヤーされてます・・でもこんな方向性で話していいんだろうか・・・いまいち役に立つのかどうか分からないけど・・
ただ僕はけっこう感覚的で、普段これを言語化したり論理だてたりはしてないので、言葉になるときに全部書かないと綺麗に忘れてしまうもので、かけるだけ書いちゃえ、とわがままに書きます。
全部参考になるとは思わないんですが・・下手な鉄砲も数うちゃ当たるかも・・

厳密に言えば、哲学用語である止揚と、宗教的な中庸は、全く別物です。由来も定義も何もかも違いますが、僕は広い意味で同じものと見ます。切り口の違いなので。




ーーーー中庸のたとえ

中庸の概念は、たとえですが、
綱引きで、右100人左100人で釣り合ったロープの中点みたいなものです。
どちらもともに一歩も譲らない、強烈な力の釣り合いーそれが中庸の基礎だと思います。
良くバランス、といいますが、ぶっちゃけどっちかに偏ったほうが絶対楽です。
真ん中、とか平衡と書くと気が抜けますが、バランスを永遠に撮り続けるのは、左右どちらかに偏るより一段深い集中を必要とします。
やじろべえのように、バランスとり続けるのは気合が入りますし。
だからツボを押して気持ちいいときは、そのツボに押される方も神経が集中して、結果的に受動的集中が上がってますよね。
そのように刺激によって集中の階段を登ることになり、止揚が起きます。
この集中の上昇により、右か左かどちらに偏って優先順位が生じていたのが、左右の真ん中に回復させられ、優先順位が消え、100-100が回復すると思います。
つまり、左右どちらか=力むか麻痺するかどちらかに偏ってた状態が、変化と刺激によってバランスを取ることのできる中点に引き戻されることになると・・
それは、集中の深まりと高まりによって初めて可能になると思います。
祈りや瞑想は、集中の上昇を自分でやろうとすることで、ツボは人にやってもらうことかな?と。ここまで行くと憶測が過ぎますが。




ーーー中庸概念のたとえ続き

ロープを綱引きみたいに、右から10トン、左から10トンの力で引っ張られても、吊り合っていれば、ロープの真ん中の目印は動きません。
この目印がピクリとも動かないのを見たら、何も力がかかってないように見えるでしょうし。
この猛烈な力のかかってるロープの真ん中の目印が、中庸の中だと思います。中道も同じと思います。
前に書いた、中庸は、フィフティーフィフティーではなく、100-100だというのと同じです。
昔速読術の本に、高い集中とは、高速回転するコマがが全く静かに静止して回ってるように見えるのと似てる、と書いてた人がいるんですが、
様々な力の釣り合いと平衡の中で完全にバランスが取れてると、動きがないように見えます。
でも実際は、回ってるコマと同じで、見た目はたしかに静的で、かつ高速回転という動的でもあると思います。

あるいは、一枚の壁を、左右から同じ人数で押し合ってる、と言ってもいいですが。
単純に、力の釣り合い、力の拮抗とは、動と静を兼ね備えます。それは、単純な言葉の一つの概念で捉える表現するのが難しい状態です。
だから止揚とか中庸とか、分かりづらい言葉が発明されてるんですが・・

それらの喩えは、例えば、この世は闇だ! この世は光だ! という対立概念が激突して、ど真ん中でがっぷり四つでピクリとも動かない
そういう四つ相撲の状態を、中庸は指すと思います。
ぶつかってる真ん中で飛び散る火花~が中庸のイメージです。
これはそのまま、止揚になりますよね?
中庸という言葉は僕も大好きで、その意味を考えますが、僕にとっては、どっちにつくこともできない中庸は、一番険しい道だと思います。
サッカーの試合などで、ワンサイドになれば、ゲームもケリが付いて楽ですが、どっちつかずの状態のまま試合が膠着するのは、見てても手に汗握る=集中が下がることがありません。
結果のみえたワンサイドゲームのほうが、絶対に楽です。
だから誤解される中庸とは、足して2で割ってるだけなので、ホントの中庸とは、別物です。
質問文で書かれてるのはそういう意味なんですよね?





ーーー止揚(とめて揚げる)の説明

止揚は、このピクリとも動かないロープを、あるいは壁を、あるいは火花を、この境界線そのものを、それとしてみてとったときのイメージが加わります。

力の拮抗は無視して、ロープを、壁を火花を、そしてそのせめぎあう境界線そのものだけを見てみれば実に静かなものです。全く動いてません。
そう見ることが、止揚によって一段上の階段に上がったことに相当してると思います。
見てるものは同じですが、止揚前と止揚後では、同じものを、違う見方で見ています。


続きます
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追加ですー



2番目の投稿の「動的把握」という言葉は、ちょっとまずいですねー。





ーーーーーー分離と一体と、止揚の自覚

ツボによって麻痺や緊張が取れるのは、それらによって自分の体の一部が、自分でコントロールできなくなった、自由自在に自分の体を使えなくなってる、
自分と体との一体感が失われている=自覚とアイデンティティー、と感じてます。


ツボによって、そこのところが回復して、例えば腰を押せば腰に力がもどるし、
肩を押せば、余分な力が抜けます。
プラスマイナス0です。ただの0でなく、一段階上の、本質的な0=自分と一体だから気にならないという意味での0です。




自覚止揚によって、ツボの効いていた部分が、自分の自由のきく体となって戻ってきてくれれば、とりたてて意識されるものではなくなります。
自覚とはだから、僕はどうも、色々作為的な抑圧や麻痺や緊張が、フラットな0に戻ることを指して使ってるみたいです。それこそ自覚なかったですが気づきました。
本質的な0=仏教でいう無と同種類のものだと思います。

自分と一体であれば、それに気づかないですし、逆にツボの効く場所みたいに、自分の体が自分から感覚的に剥離し剥がれ落ちてても、そこが自分と気づいてない状態です。


なので、止揚、自覚は、この、自分の体から剥離して無自覚な状態から、自分の体と一体になって無自覚な状態へ変化するときの、その変化を感知することによって発生する、と考えます。
分離した無自覚から、一体化した無自覚へ変化するときの、その変化=自覚、と表現もできます。
ツボを押して「気持ちイイー!」という感覚は、「止揚」そのものを捉えた感覚だと思います。
「オーきくきく~」というのは、止揚の一種だと思います。

ツボになぞらえたものですが。

じゃあ中庸はとなると、これは静的優先の表現ですが、上に書いた0に居続けることの大事さを言ってるのかなとも思います。

ぺらぺらかいちゃって・・
僕も此処のスレで、ツボについて語れるのは珍しいので、ちょっとテンション上がりましたー。

この回答への補足

別のスレッドでは経絡の事に言及されていますか?

それぞれの箇所で思う感想を綴らせて頂くつもりで
是から入力を進めて参りますが、
別の作業から中々手を離せず、入力内容の思案が捗り難い状態が続いておりますから、徐々に返事をさせて下さい。

因みに今回に連続で御意見を送信して頂いておりますので、
他の方々からの「良い反響」もが届けば望ましいのではないか、
と考えているのですが、割り込みが無い様ですから、
此の儘で質問を続けさせて下さい。

補足日時:2011/02/24 03:12
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ーーーーーーーー鼎立と葛藤





>『「中庸」は鼎立で、「止揚」は葛藤なのでしょうか?
難しい字なのですけど、
鼎立は、調べると空間構図が優先した静的把握ですし(関ヶ原の布陣みたいな?)
葛藤は読んで字のごとく、心の動きを示すので、時間変化が優先した動的把握かなと思います。


主客と、動と静を絡めていうと
主観は、心と言っていいと思います。心や感情は常に変化するもので、いつも時間的変化と対応してます。動きがあります。「動かなくなった心」という表現は、文学的には精神的な死を指しますし。
*動きが優先する、という意味です。動ー静の順番です。

客観は、意識、意識的把握です。この能力は、時間的変化を一時的に脇へ置いておいて、目の前の一瞬を切り取る(=時間を2次的なものとして無視する)ことで生まれます。静物画のように静的です。
静ー動、の順番です。


ーと書いておきならイマイチです。なんか説明の順番もおかしいですね。
細かいところ実はわかっないので、おおらかにみてくださいー。
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東洋医学ですかー素人ですが、東洋医学や陰陽図はとても好きです。

詳しくはないけど。あと卍とかも。
あの構図に惹かれます。
ツボは好きでよく押します。以前調子悪かったときは一日押してました。中山式快癒器でですが・・・


以下それほど自信ない意見で構わないなら・・
時間と空間をもとにまとめてます。



>つまり、『西洋近代の「主客二元論」と違い、日本古来からの「謙譲」の方式がどうやって自然を認識していたのか?

謙譲、ですか。
ちょっと見方変えて、雨にふられるを、雨に譲ってるとも言えると思いますが、雨に主体性を与えてるとも言えるかもと。

そうなら、西洋の主客は、自分が主で、対象が客ですが、
日本の場合、対象が主で、自分が客、となります。

日本にも普通の主客の割り振りもありますから、うまく両方を使いこなせてるなら、日本のほうが視野が広いかもと思うんですが。それは理想ですが。
主客の役割の逆転、と思います。




自分が対象を見てる→対象が自分を見てる、というふうに見直せるという柔軟性は、時間空間的因果関係をひっくり返してますし。動と静の逆転です。

それは、西洋的強烈な把握は、空間構図的な把握(図にかけるような)で、時間変化を置き去りにする捉え方で、(対象が時間変化と共にコロコロ変わってしまっては把握などできませんから、把握とは時間をストップさせます、時は2番目に置かれます)
日本的ななんというのか情緒優先というか感情移入というのは、時間変化(時の流れ)が先行して、西洋的な強い空間把握の構図は後回しになってます。
情緒や心は、もともと変化するものですから。






ーーーーーーーーツボのこともについて分かる範囲で・・


以上を踏まえてツボの効能を見ると、それはアイデンティティー自覚だと思います。
・・専門でやってる人に言うなんてなんですがーーど素人なので勘弁ください。個人的観察ですから。


特に背中押してると感じるんですが、ツボの効く場所は、大体麻痺か硬くなってます。
それは心理的抑圧による心の麻痺と緊張とつながってると思いました。
そして、ツボを押して活性化することは、この抑えられた心とそれをガードする緊張に気づくことにつながります。



ツボを押すことがアイデンティティーだといったのは、つまり自覚ですが、
自覚とは、上に書いた、心と意識、というか、感性と把握、動と静が揃い踏みすることと思います。
それは中庸であり、50-50ではなく、100-100の揃い踏みを意味します。
僕にとっては、中庸と止揚とアイデンティティーは同じものを指します。


ツボが気持ちいい時、自分を見てて、ツボが硬くなってる場所は、例えば肩とかは、緊張して静的把握優先に大きく偏った自分の内面が体に現れてる、と思いますし、=悪い意味で西洋的
そこのツボを押すことで、強烈な把握優先を砕くことで、バランスを回復させる=把握と感性が揃いぶむように持っていける、と思いましたl.

麻痺してる場所~例えば腰は、逆に抑圧されて、把握を許されなくなった目隠しされた心や感性が現れており(変化を許されない「時」)=悪い意味で日本的
そこに刺激を与えることで、把握が加わり、感性と把握が揃い踏みすると感じます。


ツボへの刺激、というのは、動的なものと静的なものを両方持っていて、
変化、とは、静的空間が、動的に変わることなので、変化とは、動と静が合成されて起きる、と思います。
変化=動+静。
だから、ツボを押す「変化」は、相手のツボにおおじて、肩を押す時ならその動的成分を与え、
麻痺した腰なら、その静的成分を与える、と思います。

(どこかで「動的変化」という言葉を僕書いてませんでしょうか?世間ではそういう言葉でいいのですが、正確にはこの言葉は不正確と思います。
上に書いたように、変化とは、静に動が重なることで起きます。動的なだけじゃなく、静的成分を含みます。
こういう言葉の曖昧さがあるので勘弁ください)


大事なのは、動と静、と対立的に書くとき、それらは単独の要素ではなく、静=静が動より優先。 動=動が静より優先、という意味です。
なので、ツボを押す刺激という変化が、動と静を兼ね備えたものであり、それ故、体は、そのツボによって、刺激から吸収する成分を変える、と思います。

と思うのですが。


続き

この回答への補足

有り難う御座います。

入力の順番があべこべにはなっていますが、
勿論乍ら順番通りに拝読しております。

23日の朝に当サイトへのアクセスを試みて、先ず吃驚しました。

他の方々からも貴重な御意見を伺えて、有り難かったのですが、
是程に本文の主題を非常に上手く汲み取って下さっていますので、
此の質問を考えた甲斐が有った、と思います。

例えば『雨に降ら「れる」』の「れる」という助動詞の意味につきましても、
学会が無理矢理に「迷惑の受け身」という奇妙な概念を押し付けようとしているらしく、かのwikipediaでも其の解釈を採用している様ですが、
其の儘だと、単純に言葉の意味の割り当てを拵えているだけで、
東洋思想の根幹に関わる部分の検証へ繋がっていきませんね。

従いまして、「主客二元論」と「謙譲」との比較の価値に気付いて、
最初の欄へ其の旨を綴りましたから、
其の箇所でも非常に分かり易い説明を伺えて、助かりました。

そうですよね。『雨への「謙譲」』。
素晴らしい解釈だと思います。

補足日時:2011/02/24 03:45
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

次の言葉が上手く纏まらず、御返事に時間が掛かりましたが、
追加で更に伺わせて頂けますでしょうか?

>日本的ななんというのか情緒優先というか感情移入というのは、時間変化(時の流れ)が先行して、西洋的な強い空間把握の構図は後回しになってます。
情緒や心は、もともと変化するものですから。

此の箇所から『縁起』のことを連想しました。

つまり『東洋では「変化」が重んじられ過ぎているが故に、
「再現性」の価値が見落とされてきたせいで、
東洋では「西洋近代的な産業革命」が起きなかったのだろう』
と考えたのですが、誤っておりますでしょうか?

宜しければ、御教授を御願い申し上げます。

因みに、沢山の枠を残して下さっておりますので、
入力回数の余裕が大幅に増しましたから、非常に助かります。

お礼日時:2011/02/25 02:38

こんばんは。


2つは同じだと思うんですが、多分。

表現か、視点の違いがあるので、それをちがうというのなら、違いますが。
ある意味定義の問題だし、厳密さの程度の設定によって、違うとも言えます。
言葉が違うんだから、違うのは当たり前とも言えますし。


でも主観的な変化に関する、同じ人の内面での現象を表現してるとは思います。
つまり、これらは同じものと受け取るほうが好きです。


対象は同じでも、中庸は静的構図、止揚は動的な感じがします。

この回答への補足

凄く丁寧な説明を直ぐに返信して下さり、嬉しく思います。

此処迄にも発展するとは予想出来ておりませんでしたので、感謝の気持ちに満たされております。

時間の都合で、未だ読みきれておりませんので、
勿体無く思われますから、敢えて此の枠への入力を致しております。

補足日時:2011/02/23 16:13
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

そろそろで締め括りにさせて頂こうか、と考えておりましたが、
御待ちしていた甲斐が御座いました。

最も冷静な分析の御意見を拝聴出来た、という気がします。

私には、『東洋医学の将来性を見出したい』、という主観的な希望が有るのですが、先ず其処へ辿り着く前に、次の疑問を解決させねばならないのだろう、と考えまして、「止揚」と「中庸」との比較という質問を提出させて頂きました。

その疑問は、以下の通りの事です。

つまり、『西洋近代の「主客二元論」と違い、日本古来からの「謙譲」の方式がどうやって自然を認識していたのか?』、ということです。

日本語の中にも奇妙なところが有り、
『自発』の助動詞を使うと、「自動詞」の「受動態」の様な文章が出来上がりますよね。

例えば、「降る」という動詞には目的語が伴なわない筈なのに、
何故か『雨に「降られる」』という表現もが可能になっていますね。

こういう箇所もが、視覚中心の西洋近代科学との技術的な相違に起因しているのではあるまいか、と思っています。

従いまして、もう少しの御意見が欲しいものですから、
追加で伺わせて下さい。

敢えて峻別するなら、
『「中庸」は鼎立で、「止揚」は葛藤なのでしょうか?』

宜しければ、御教授を頂けると、幸いです。

お礼日時:2011/02/23 01:36

『陰陽五行の各要素の「気」が同じ位置に留まって、癒着している』、という症状の解消の為には、「気の分量の平均化」が適しておらず、寧ろ「適度な緊張感(元の気)」を取り戻させるべく、


「気の粗密の循環(平衡の崩壊)」を促す手段として、東洋文化圏で「鍼灸技術」もが発達してきた、と言えそうですね。

如何でしょうか?

○ 私は「鍼灸技術」のことは判りませんが中庸や止揚の考察から「気の粗密の循環(平衡の崩壊)」を促す手段という視点が導出されるということはすばらしいことだと思います。
「温故知新、古きをたずねて新きを知る。」ですね。哲学には東洋も西洋もありません。言葉の違いこそあれそこにあるのはまぎれもない「真理」ですから、今後も新しい切り口での新しい発見を期待しております。追伸まで
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

御蔭で白熱した議論が続いておりますが、
そもそも此の質問の表題を逆にして、
『「中庸」と「止揚」との相似性』を伺った方が、
寧ろ多くの方々からの御意見を募れた、と思われますか?

お礼日時:2011/02/23 16:25

『「陰陽」のバランスが保たれている「混沌」が平衡を崩されて、


「中庸」が現われた時に、漸く「秩序」が誕生する』
という認識は妥当だ、と思われますか?

追伸
○ 妥当だと思います。
中庸は新しい秩序への道といえますから。東洋的には秩序は妥当な表現ですね。
新しい秩序の下にまた新しい「混沌」が生まれると考えれば、紐も太くなることができますね。

この回答への補足

質問のタイトルの付け方にも、可也の工夫が要求されますね。

補足日時:2011/02/23 16:26
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この回答へのお礼

御蔭で漸く主題の回答が纏まってきました。

別の方の欄へも此の問題定義の目的を入力致しておりますが、
其処へも綴りました通りに、
私は東洋医学の由来を探りたい、と願っておりまして、
東西文化の比較の為に、
西洋的な「止揚」と東洋的な「中庸」とを並べてみました。

そこで、此処迄の過程の途上で判明した内容を申し上げます。

『陰陽五行の各要素の「気」が同じ位置に留まって、癒着している』、という症状の解消の為には、「気の分量の平均化」が適しておらず、寧ろ「適度な緊張感(元の気)」を取り戻させるべく、
「気の粗密の循環(平衡の崩壊)」を促す手段として、東洋文化圏で「鍼灸技術」もが発達してきた、と言えそうですね。

如何でしょうか?

お礼日時:2011/02/22 03:30

No.5,8,10です。


補足に次ぐ補足で恐縮です。

東洋思想と西洋哲学の融和については無理があるとは個人的には思っていませんので、思考の果てには適うのではないでしょうか。確かに文化的背景が異なりますから、発想自体、単純に比較検討できるものではありませんが、その根本においては相互理解も可能ではないでしょうかね。諦めずに挑戦する意味はあるんじゃないでしょうか。
鍼灸にしても触覚を手掛かりにしてきたとはいえ、同じ人間の体に対するアプローチである以上、西洋と全く相容れないということもないだろうと思います。異なる価値観を融合させることに異文化理解はあるわけですから、そこをいかに突破するかは考える意味はあるだろうと思います。

お尋ねの第二人称の認識客体化については、現状においては非常に困難と言わざるを得ないのではないかと思います。独我論的視点に立てば、第二人称の存在自体が明確さを失います。第二人称の客体化を語る上では、まずは対象を明確にする理論を獲得するのが最優先となるかと思います。
哲学として問われれば、そう言わざるを得ませんが、質問者さんが医療を念頭に置いているのであれば、また異なる結論は必要かもしれません。ただ、医療は医療の事情を考慮した上で語る必要があり、そうなると哲学カテはもはやカテ違いでしょうね。医療という事情に縛られると、哲学の普遍性は限定的になります。それは医学に置ける哲学であり、専門家内においてのみ普遍ということになってしまうだろうと思います。要するに、一般人の普遍性とは異なる結論も必要となってくるということです。

この回答への補足

御蔭で可也深い理解が可能になってきました。

『違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方とは異なる新しい考え方を統合させてゆくこと(止揚)』が、
東洋文化圏では余り高く評価されず、
寧ろ、「無心」なる言葉が象徴している通りに、
『感情(心)のぶれからの「解脱」』こそが、
『中庸』の中枢を構成しているのでしょうね。

補足日時:2011/02/20 22:09
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

入力が酷く遅くなり、すいませんでした。

又御意見を伺いたくなりました。

『西洋近代的な視点で、
複数の人間が御互いに相手を同時に認識している際には、
自分自身もが相手からの視線を受け入れている筈ですが、
相手から認識されている自己を、当事者は、
「再帰代名詞の自己」として認識している、と思われますか?』

第二人称の問題に思いを馳せている過程の途上で、
ふと考えさせられました。

この様な問いに対しましての明確な正解が存在しない、とは思いますが、主観で構いませんから、御教授を宜しく御願い致します。

お礼日時:2011/02/23 16:07

「陰陽」とは『「表・裏」の間での揺らぎ』のことなのだ、と認識しております


が、別の視点が必要なのでしょうか?

○ それで良いと思いますよ。コインには表裏があってコインといいますよね。風船の例えですと押せば変形しますが押すのを止めれば元に戻りますね。それは「揺らぎ」ともいえますが問題は元の形にしかならないということなのです。他の例えですと紐ですね。紐の表と裏は交互に出てきますがそれが揺らぎという意味でしょう。でもどのように長くても同じ太さの紐ですよね。そこで紐を太くするのには別の観点が必要ということかと思います。
参考程度に
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

執拗に質問を繰り返して、畏れ入りますが、又更に疑問が湧き上がって参りましたので、伺います。

『「陰陽」のバランスが保たれている「混沌」が平衡を崩されて、
「中庸」が現われた時に、漸く「秩序」が誕生する』
という認識は妥当だ、と思われますか?

宜しければ、御教授を御願いしたいです。

お礼日時:2011/02/21 06:15

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