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よく「中庸」の意味を誤解なさって、
「平衡」とか「中心・真ん中」とかの意味合いで使われる、という杜撰な誤用が、
最近の日本で頻繁に見受けられますが、
正しい意味を考える場合に、私が気になったのは、「止揚」との明確な峻別の根拠です。

若し支障が御座いませんでしたら、
其の疑問の解消への手掛かりを紹介して頂けないでしょうか?

A 回答 (40件中1~10件)

堅苦しい言葉・変換できる限りの漢字を使おう使おうと思って、逆に智恵の無いことが文章から露呈しています。


外国人でない限り、言葉をもうちょっと上手に使ったほうがいいでしょうね。

この回答への補足

久しく御返事を頂いておりませんが、「ギブアップ」を為さいますか?

是非ともBestAnswer作りに挑んでみて下さいませ。

補足日時:2011/02/20 11:01
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この回答へのお礼

的外れの揚げ足取りしか出来ませんか?

東洋医学の現代的な価値を見出す為にも、
『「中庸」が「要素還元論」的な概念に属さない』、という事情は重要になる筈ですので、ヒントを求めておりますが、難しいですか?

勿論、安易な辞書的意味の紹介を期待しておりませんが、
回答を下さいませ。

お礼日時:2011/02/19 12:41

中庸と止揚は、全く違います。


止揚は、複数の要素の相互作用において、新たな次元の価値を生むもの、
中庸は、必ずしも複数の要素である必要もなく、同一要素の取り得る複数
の状態も含め、複数の要素の同次元の相互作用において、それらの中間
に(潜在、顕在の既存の価値に)適した点を見出すもの、でしょう。
(ちなみにこれは、哲学ではなく言語的な質問ですので、よろしく)

この回答への補足

日数が経過してからの追記で御邪魔を致しますが、
追加の質問をさせて下さい。

『「表・裏」の様に切り離され得ない関係』と『止揚』とは、
相容れない立場に留まっていますか?

カテゴリ違いの御指摘が御座いましたので、
今後には気を付けて参りますが、
既に多くの方々からの貴重な御意見を賜れていますから、
此の儘で継続的に御教授を賜れますでしょうか?

補足日時:2011/02/23 17:06
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

『中庸』の状態を『陰陽の濃度比の均衡』と混同した怪しい説明が、
コンサルタントの方々の著作へ綴られている、という情けない状況が、久しく続いておりますので、
私が東洋思想的な見解を忘れない様にするべく、
自己の観点を安定させたいものですから、
此の質問を提出させて頂きました。

因みに、仰る通りに「哲学」のカテゴリの中で、
此の問いへの回答を御願いするのは、誤りなのかも知れませんが、
「言語」のカテゴリへの投稿を致しますと、
たとえ御教授を頂けたとしましても、
安易な辞書的説明が集まるのではないか、と考えまして、
此処に当質問を提出させて頂きました。

従いまして、折角ですから、御伺いをさせて下さい。

『西洋近代的な「要素還元論」に由来した「止揚」と違い、
東洋思想の「中庸」は、「陰陽」を部品として取り出せない、という私見には、どの様な誤りが含まれておりますでしょうか?』

宜しければ、御教授を頂けると、嬉しいです。

お礼日時:2011/02/19 13:40

1。

中庸は、儒教を背景とした表現で「かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること」といった意味です。
 http://dic.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&dtype …

2。止揚は、Hegel の aufheben の訳語です。ですから弁証法の背景で捕らえた「否定する」「高める」「保存する」になります。
 http://kotobank.jp/word/%E6%AD%A2%E6%8F%9A

 儒教と弁証法、背景も意味合いも違うように思います。

この回答への補足

丁寧な御説明は誠に嬉しいのですが、
辞書的な意味合いではなく、
それぞれが別の文化圏で誕生せざるを得なかった思想的な背景を知り、
「東洋医学の将来性」を見直すべく、
此の質問を提出させて頂いております。

従いまして、遅くの補足で畏れ入りますが、
主観的な解釈が伴なっても構いませんから、
「視覚中心の西洋近代」が考え出させた『止揚』と、
「要素還元論を持たなかった東洋文化圏」が考え出させた『中庸』との相違点・類似点につきましての御意見を伺えませんでしょうか?

補足日時:2011/02/23 17:15
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

仰る通りに、一般的に是等の概念は比較されませんが、
『そもそもの自然観が食い違ってきた事情の根拠』をも含めた質問を提出させて頂いているつもりでした。

つまり『要素還元論』と『東洋哲学』との比較の為に、
是等の象徴的な用語を掲げさせて頂きました。

従いまして、説明が不足していたせいですので、
畏れ入りますが、宜しければ、見解を伺わせて頂けないでしょうか?

御願い申し上げます。

お礼日時:2011/02/19 12:57

私が気になったのは、「止揚」との明確な峻別の根拠です。



○ 中庸、中道を的確に表現している例えは「琴の糸は緩むと良い音がでない、張りすぎると切れる。適度な緊張を与えて初めて良き音がでる。」ですね。
つまり、個人個人に合った進歩を目指す上での適切な精神的肉体的緊張状態を中庸、中道と言っているのですね。その意味で「中間とか平均とかそこそこ」を意味するものでないことは明白ですね。
一方、哲学的「止揚」は例えて言えば「温故知新」のような時間論での「進歩向上」を目指す方法論ですから(但し論法としては仏教哲学のような二重否定論法を用いてますので判りづらいですけど)中庸、中道とは意味が違うものですね。
あえて時間論に中庸、中道を当てはめるのであれば、未来に対しての適度な緊張感ですかね。それは過去への惜別と未来への進歩の期待ということでしょう。
答えになっているかどうかですが、参考まで
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この回答へのお礼

質問の意図を汲んで頂き、嬉しく思います。

折角の貴重な機会ですから、追加の質問をさせて下さい。

『「中庸」の適度な緊張感は、二重否定よりも寧ろ「陰陽」の両方を同時に受け入れる「謙譲」の姿勢を意味していますでしょうか?』

もし宜しければ、御教授を賜れると、嬉しいです。

お礼日時:2011/02/19 13:50

止揚には取捨選択が存在しますが、中庸が問題とするのは過不足かなと思います。


止揚が質を問うのに対して、中庸は量を意識する、といえるのかもしれません。
アリストテレスの中庸ならば、その量がもっとも問題とされるのではないでしょうかね。
また、止揚は発展という変化を必要とするのに対し、中庸とは常態であることを必要とするものかもしれません。
儒教の中庸ならば、その普遍性こそが重要といえるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

時間的な変化への着眼の有無には気付いておりませんでした。

因みに追加で知りたくなったものですから、追加の質問をさせて下さい。

『「止揚」の場合には、「要素還元論」的な部分集合からの取捨選択(単離・祭り揚げ)が要求されているものの、
「中庸」を成り立てせている「陰陽二元論」は、「元気(元の気)」等の過不足を予防している、という解釈でも正しいのでしょうか?』

宜しければ、回答を頂けると、嬉しいです。

お礼日時:2011/02/19 14:16

アリストテレスの中庸でいいんでしょうか?


仏教の中道とは違うらしいので。


過剰と不足が原因で、不幸になると説明してました。

例えば悪代官が年貢の取立てを厳しくして、農民が食べるものすら奪っていく。

悪代官の仕返しが怖くて、家族で震え上がって奪われる光景をただただ見ているだけで後の家族全員餓死になるのは、<不足>が原因の不幸。

何が不足しているのかというと勇気。

勇気が不足しすぎたため、家族で餓死する結果になる。


じゃあ 台風のさなか、河原で車を乗り回すのは勇気が豊富なのかというと、無謀と呼ぶ。
状況をちゃんと把握する理性の不足が原因で、消防署に救出してもらうハメになるので。


おおよその不幸は 過剰と不足が原因で起こっているとしている。


ですから1から10までのうち5が中庸という意味じゃなく、少なすぎて不幸になるならもう少し多く、多すぎて不幸になるのならもう少し少なく。


それぞれに節度を持つ というのがアリストテレスの中庸論だったと思います。



止揚というのは、新しい時代の到来により古いものをすべて否定するのではなく、古い中でも新しい時代になっても通用する普遍性のあるものは、新しい時代でも継続していく というものだったと思います。

この回答への補足

他のページでの御意見をも拝見しました。

キリスト教の問題に御詳しくていらっしゃる方ですね。

そこで追加させて頂きたい疑問が浮かんで参りましたから、
畏れ入りますが、伺わせて下さい。

『グノーシス派キリスト教には、
「陰陽の二元論」に似た考え方もが含まれている、という指摘を、
過去に或る文献で知りましたが、其の頃にも、
東洋思想的な「中庸」の概念は無かった、と思われますか?』

恐らく明確な正解は存在していない、と思われますので、
主観的な御意見で構いませんから、
返事を送信して頂けると、幸いです。

補足日時:2011/02/23 16:52
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この回答へのお礼

有り難う御座います。途中で画像が更新されましたね。

因みに、通信等の分野でも追加の質問への御協力を賜っておりますのに、再度の御願いを繰り返して畏れ入りますが、伺わせて下さい。

『アリストテレスの中庸の概念を陰陽二元論で説明なさることは可能でしょうか?』

壮大な質問なのかも知れませんので、あくまでも可能な範囲の内容で構いませんから、御教授を御願い致します。

お礼日時:2011/02/19 16:55

 こんにちは。



 現在の日本における政治の停滞と低迷 これについて《中庸》としての答えも《止揚》としての答えも 答えとしては・そして中長期的には ほぼ同じ内容になりましょう。
 
 経済的にも文化的にもよりよい方向へ向かうところの新しい力と それと同じ道をあゆむ古い勢力とにもとづき そして何よりも市民の生活に基礎をおいた 社会のあり方を模索するといった動きに焦点を当てることと考えます。

 ただたぶん どちらかと言えば 中庸は 静態的な情況における答えを見出そうとするときの ものの考え方だと捉えられがちなのではないかと思います。
 止揚は 歴史の展望をより長い範囲にとってその向かうべき方向を定めようとする考え方ではないかと捉えられがちだと。
 むろん 超短期の止揚もあることでしょう。ただしあまり長い歴史の観点というのは 中庸にはないように思うのですが そもそもの起こりについて無知だったでしょうか?

 えぇ それと 中庸は ひとりの人の心の持ちようといった内容にもなると受け取られているように思います。つまり もっと言えば そのときの情況が 全体として右やあるいは左に片寄ってしまっているときには その中での中庸と言っても ただそれらの勢力や流れの中間に位置するといった中身に留まらざるを得ないのではないかという批判が寄せられましょう。イメージはそれほど芳しくないように思われます。

 ★ 「止揚」との明確な峻別の根拠です。
 ☆ 止揚は 大きな情況や長い歴史という観点から見るときだけではなく 小さい範囲や短い時間において主題(問題)を捉えるときにも つねに《全体観》に立つと思われます。部分的な揚棄というのは まだ止揚が終わっていないと見なされるのではないでしょうか?
 その点で 中庸は 全体観に立つ場合だけではなく 部分的な時間や情況の範囲についても その人の態度や見方のもんだいとして あたかも成り立ちうると受け取られているのではないでしょうか? 

この回答への補足

他の方々からも多くの御意見を賜れましたので、
此の質問を提出させて頂いて良かった、と思います。

畏れ入りますが、追加で伺わせて下さい。

『「中庸」は静態的な状況の下での問いへの答えを提供してくれる』
という御指摘が御座いますが、
それは『流動化』の価値のことを意味していますか?

私の予想では、「東洋医学」が明らかにしてくれている様に、
「歪みの安定化」が「中庸」に繋がっていくのだ、
と思われておりましたが、如何なのでしょうか?

久しく時間が開いている段階での追記で、急に御邪魔し、
誠に畏れ入りますが、御教授を御願い致します。

補足日時:2011/02/23 16:43
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

他の方々からの御意見とは違う視点での話題を伺い、
良い意味合いで、意表を衝かれました。

因みに私の問題定義の主題の部分で、説明が不足していたせいで、
申し上げておかないといけない箇所が現れて参りましたので、
追記をさせて頂きます。

『元々、「中庸」の語は「陰陽五行論」に端を発しておりますので、
西洋近代的な解釈を其処へ当て嵌めてはいけない筈なのに、
強引にそれをも外来語の不自然な訳語に適用させたせいで、
いつの間にか西洋近代科学によって毒されて、
「陰陽五行論」さえもが「要素還元論」の一部へと貶められてしまっています。』

『つまり本来的な「中庸」には、分析由来の比較が伴なっていなかったのだ、と断言出来ます。』

従いまして、此の点をも盛り込んで頂いた上で、
若し支障が御座いませんでしたら、御手数を御掛け致しますが、
更に詳しい解説を伺えると、幸いですから、
宜しく御願い申し上げます。

お礼日時:2011/02/19 17:22

No.5です。


お尋ねの中庸は儒教のもののようですが。
思想自体には過不足を予防する作用はないように思います。
だからこそ、その常態の維持は聖人君子でも難しく、さりとて万人にも機会は与えられてもいる。要するに、実行するに特別の学はいらないが、非常に難易度が高いということです。
「中庸の徳たるや至れるかな」、つまり中庸の徳は至高である、といわれるゆえんであるだろうと思います。
その過不足が予防可能であるならば、さほどの難度は高くないはずで、聖人君子が難儀することはないでしょう。

ただ、儒教においては陰陽二元論というより、陰陽五元との結びつきの方がよく言及されるところだと思います。自分は面倒でそこはよく理解していませんので、その点についての追加質問がありましたら、他の方にフォローしてもらってくださいね(笑)
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

私の説明が此のページの表題へ十分に盛り込めませんでしたので、
此処で唐突乍ら追加の説明を致します。

予防と申しましたのは、「東洋医学(特に鍼灸理論)」への配慮です。

つまり、此の質問の本題は、
西洋近代の「要素還元論」と、東洋古来からの「陰陽五行論」との比較に有ります。

でも、是迄には上手く主題を興味深く表現出来ずに留まっておりましたので、少しずつの歩み寄りになってしまっております。

そこで、未だ表現が上手く纏まっておりませんが、
敢えて申し上げますと、下記の通りの内容に収斂します。

『そもそも古来の東洋社会では、
アイデンティティが確立されていないので、
要素還元論的な分析の技術が出来上がっていない故に、
自然現象の解釈が難しい筈なのにも関わらず、
どういう経緯を辿って、鍼灸医術的な病理学が出来上がったのか?』
ということです。

これを理解する為には、恐らく日本独自の「謙譲」という認識の技術へも言及する必要性が伴なってくる筈だ、と思っております。

奥が深過ぎてすいません。

又今後にも御教授を賜れると、助かりますから、宜しく御願い申し上げます。

お礼日時:2011/02/19 18:36

『「中庸」の適度な緊張感は、二重否定よりも寧ろ「陰陽」の両方を同時に受け入れる「謙譲」の姿勢を意味していますでしょうか?』



追伸まで

○ 「陰陽」という意味は「バランス」を取るという意味でしょうかね。それを両方を同時に受け入れる「謙譲」の姿勢とおっしゃられているように思えますが、「中庸」はバランスが崩れた状態を言っていると思いますよ。例えれば、風船は丸いですがこの状態を「陰陽」の両方を同時に受け入れる「謙譲」の姿勢と捉えると、更に風船を大きく丸くするためには息を吹き込んで一時的にバランスを崩さないと大きな丸い風船にはなりませんね。息を吹き込んでいる最中の風船は少し長細い楕円形状になりますね。この過渡期の風船の状態が「中庸」の姿勢だと思いますよ。
つまり、「陰陽」の両方を同時に受け入れる「謙譲」の姿勢よりもう少しバランスを崩しても未来に向かって向上を目指す前向きな姿勢、それが『「中庸」の適度な緊張感という意味ですね。
おそらく、陰陽だけでは向上がないので「中庸」を含めてより大きな調和を求めることにしたのではないかと思います。
止揚も同じですね。バランスを一時的に「止めて」より大きな向上を目指す「揚」の繰り返しですね。
しいて言えば「止」=「謙譲」、「揚」=「中庸」といえるのではないかと思います。
(二重否定の意味:
だから、現状の自分の否定から始まるのです。現状の自分、過去にとらわれた自分〔考え方や見方〕をいったん否定するのです。否定の上で未来に向かって現状の自分〔白紙の自分〕を肯定し、新たな自分(見方)を構築し、更なる向上を目指すことですね。
仏教では「無我中道」といいますね。まず我なしと否定し、新たな我を肯定するのです。古い自分を切り捨て、新たな自分で過去を見直し、評価し反省し(このとき過去の清濁は飲み込むわけですね。)未来に向けて進むわけです。これを時において実践することが中道(中庸に同じ)における緊張感ですね。二重否定というのは実践上の方便論ですから、要はいつも「これでよしと満足せずに常に見直すことに躊躇するな。」ということなのです。)
参考程度に

この回答への補足

『対象性の自発的な破れ』と同じなのでしょうか?

補足日時:2011/02/20 10:06
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この回答へのお礼

有り難う御座います。

私の酷い勉強不足に起因しているのかも知れませんから、更に追加の質問をさせて下さい。

「陰陽」とは『「表・裏」の間での揺らぎ』のことなのだ、と認識しておりますが、別の視点が必要なのでしょうか?

お礼日時:2011/02/20 11:19

No.5,8です。


返信拝見しました。
なるほど、東洋的思想の地において鍼灸技術が発展したことの根本理由を探しておられるのですね。

おそらく医学というものは、その地の思想を問わず、民間療法から発展してくるものだろうと思います。思想は起こった現象の後に発展してくるものですから、先に思想があったわけでもないだろうと思います。
鍼灸治療に関する最古のものは馬王堆の墳墓から見つかっていたかと思います。正確な時期を覚えていませんが、紀元前だったことは確かだと思います。その頃には鍼灸技術はある程度、完成していたということになります。
自然現象の解釈をするのに要素還元論が唯一無二の方法ではない、ということになるのではないでしょうか。
初めに要素還元論ありきだと不可能に見えるものも、その視座を離れることで容易に理解できることもあるのかもしれません。

鍼灸と陰陽五行は密接な関わりがあることは指摘されるところですから、まずはそこを理解されることをお勧めします。中庸だけの理解ではなかなか難しいだろうと思います。
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この回答へのお礼

御付き合いへの協力を下さり、有り難う御座います。

そうですね。

そもそも東洋思想と西洋近代哲学との融和を狙った発想自体の練磨に無理が伴なっており、それ等こそが「相即関係」を成り立たせている、という自虐的な「皮肉」を自分で言える様な気がします。

確かに西洋でも相互に認識し合う関係が研究され、
「囚人のジレンマ」・「共有地の悲劇」・「勝者の呪い」等が登場した、という事情を鑑みますと、将来的には、
更に両者が漸近していく展望が予想され得ますが、
鍼灸技術が触覚を手掛かりに据えて発達してきました故に、
視覚依存の主客二元論と完全には相容れないのかも知れませんね。

因みに『西洋近代哲学的な手段によっても、「第二人称」を明確に認識客体化させ得るのでしょうか?』

執拗な質問を繰り返して畏れ入りますが、可能なら、教えて頂けると、嬉しいです。

お礼日時:2011/02/20 10:53
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