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 人間の執着心は漬物だと思う、という感想にムッとしてこうした質問を思いつきました。

 フランスの哲学者パスカルのことば「人間は考える葦である」という有名な言葉の真意はともかく、人間の“考えは”往々にして“葦のようなもの”と思えてなりません。

 私なら、天に向かって真っすぐそびえたつ杉の木のような“考え”を持ちたい。

 たとえ強風に耐えられなくて倒れてしまったとしても。

 こうした思いは自己チュウであるとの批判を免れないのでしょうか。

 よろしくお願いいたします。

A 回答 (36件中1~10件)

 yy8yy8azさん、ANo.3です。


 「葦である人間」は考えることや高貴性を希求(究極の存在とは当為であり、当為の理念や要請は結果であるに過ぎない、つまり残滓でしかない現実界には実現や存在がなくても、希求という事の究極性と高貴性は、か弱い葦を超えるものである。)するが故に、その存在性を強調できる、という事ですよね。
 葦の存在が葦の世界ではない世界に存在する。
 そういう意味でもあるのでしょう。
 でもyy8yy8azさんは敢えて、《人間の“考えは”往々にして“葦のようなもの”》と思えてならない。
 現実界という残滓ばかりしか見えないところをみているとそういう観念も覗いてくるのでしょうね。
 存在の根源は意志であり、意識であると《マルクスの唯物論で中学の教育をされながら》思います。
 そして人間とはそういう至高を思考し、至高を志向し、至高を希求する。
 当為という自己性を否定しきったあり方はでき得ない。必ず望郷してくる。戻環してくる。
 徹底して堕落すると、必ずこうではならなくなってくる。
 そういうものだと存じます。
 パスカルは人間の故郷という天界性を道破していると存じます。

 これは葦の人間であろうと、数百年、数千年のたくましい杉であろうと同じです。
 葦も杉も創造や自然の結果としてのものであるから、同じ宿命にを担っている。
 単なる相対的な比較でしかない。
 人間はどんなにすごくても所詮は人間でしかない。
 被創物という悲しい宿命は超えられない。人間という存在性にいる限りは。創造を超えれば(可能であるが、)その宿命は超克しうる。

 葦も杉も根をはっているのは大地であり、頭を上げているのは大空である。
 葦と杉の大地と大空に何の変りもありはしない。
 杉が自己チュウなら葦も同じである。杉になろうが葦で居ようが、自己チュウの存在者は何になろうと自己チュウであり、至高の思考も、至高の志向も、至高の希求もできない。

 などと思いました。

 それと、不思議なことにヒンドゥのマハバーラタ物語のカルナも生まれて直ぐ、葦の籠に入れられて流され、老戦士夫妻に拾われ、育てられ、この物語でも、バガヴァッドギータでも重要な役割をします。
 つまり人間と人生における原理であり原則の一つとしてのカルナは葦に入れられ流され、たどり着くのですね。
 そして育てられる。この現実界の戦士に戦士として。インドではアルジュナより人気があるのですが。つまり、人生を少し斜めに生きる、活動性の原理ですね。
 人って自分のあり方に引き込んで、身につまされているんですね。
 聖性のアルジュナはどうもまとも過ぎてね。

 そして不思議にも、日本でも葦をそんなふうに使っている話が、記紀にあるようですよ。
 今はちょいと思い出せませんが。
 
 聖性といおうが、斜めの人生といおうが、創造って個々性と個別性そしてその分別認識で成り立っていますから、他と違うということが基本ですね。
 そういう存在性は所詮、自己中心です。どうしても。それをどう超克するかが人間の課題でしょう。
 マハ(偉大な)バーラタ(士族)物語、バガヴァッドギータ(根源を頌う詩)は私たちSelf-Realization Fellowshipの聖典です。
 そこでのアルジュナは腰骨のチャクラ、カルナは脊柱の上から下りる地点でもあり、昇るちてんでもあります。ラージャ(王という地上界の支配者)ヨガの教えです。以下:参考URL
 http://www.yogananda-srf.org/
 http://www.srf-tokyo.org/tokyo_group.php

この回答への補足

 徹底して堕落すると・・・・・の部分が理解できません。

 他は漠然とですが、解かったような・・・・・

 望郷と云う言葉も使っていますが、仏教的な見方で例えれば、飛沫となった泡が元の大海に戻る、吸収される、といったようなことを言っているのでしょうか。

 疑問が残りました。

補足日時:2011/02/25 16:12
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この回答へのお礼

 葦にかかわることを勉強してみます。

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/03/25 17:32

たぶん、意味はあってないようなものです。



適当に書いたので気にしないで下さい。適当で申し訳ないですね。

そういえば最近ブログなるものが流行っているようですね。私も以前少し書いてみたりして、今もありますがもう何ヶ月もほうっておいています。つたないブログで紹介するのも気が引けます。

普段のテレビなどのニュースについてや、日常の生活のことなどを写真を載せながらコメントをする、というようなものがほとんどのようですね。

暇つぶしにこちらでも見てやってください。
http://blog.goo.ne.jp/amatsu_kami/

この回答への補足

 解答No.30以降のお二方のやり取りを見て・・・・・

 私への問いかけではないことは承知していますが、感想を述べてみたくなりました。

 生命とは不思議なもの。すべての生命は生きようとしています。死のうとするのは生きる気力のなくなった「人間」のみ。
 いや、動物でさえ生きる力がなくなれば「死を待つ」行動に移るのかもしれない。

 言い換えれば“生きようとするエネルギー体”を生命と言ってよいかと思います。
 この生きようとする“力”が母親をしてAXISさんが取り上げたような言葉を言わせることになるのではないでしょうか。

 理屈以前の生物としての本能の働きによるものであると。

 その表れを理性の眼で見ると、その先に何か知れない“意志”的な力のようなものが有る、とAXISさんは感じているのだと思います。

補足日時:2011/03/24 08:43
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この回答へのお礼

 至って記憶力の弱い私は知識が身につかず、「感覚」のみでこのカテへの参加なので、大変です。
 また、物事に無頓着であるため質問も思いつきによる安易なものとなり、反省することになります。

 人間「の」考えは葦のようなものである。
 から、
 杉の木のように生きたいと思うのは自己チュウか。
 との質問の流れはおかしいですね。

 でも、いろんな回答をいただき勉強になりました。
 意外な方向へ問いの事柄が発展し、改めて自身の考えを確認する事ともなりました。
 だから質問文に不備はありましたが、質問してよかったと思っています。

 もう一日時間が取れるのでさらなる感想などを期待して、閉めずに置きます。
 AXISさん、回答ありがとうございました。それから回答くださった皆様、ありがとうございました。

お礼日時:2011/03/24 09:41

 _AXISさん、ずいぶん書いてくれていたんですね。


 日本語として文章は理解し、意味はわかります。でも私は、にわかには心に落ちてこないです。
 多分、おことばをきりつめられておられるからでしょう。
 質問を起してください、と申し上げたからかどうか、アックスさんのご質問がありましたね。
 ちょいと電話に出る前に訪問申し上げ、無理して脳みそを絞ってみました。そして今帰り、ここに訪問しました。そして今度はブログかHPを設けてくださいと、お願いします。
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陰と陽で生み出す創造



創造の父。

生命を生み出す父。
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それから、どうしたらいいかについて



母性を超える。

自然とまた一体になるのではなく、自然を超えて自然の創造者となる。

現実生活において言えば、「大の大人がお小遣いをもらわない」これは少し、かなりずれましたか。
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やはり不安だからではないでしょうかね?



それから、自分が生命を生み出す役割を担っているという自負と唯一残されたプライドからでしょうか?
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 ANo.30:アックスさんは何故だと思いますか?どうしたらいいのでしょうね。

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和を乱すものは殺してしまえ。

生命を断ち切るものは裁いてしまえ。


 と 母親が言うのはなぜですか?

この回答への補足

 この言葉は聖書にある、という事でここに取り上げたのでしょうか。

 この言葉の前後の脈絡を知りたくなるような、興味深い言葉です。

 まだ私の相手をする気があるのなら教えてください。

 よろしくお願いします。

補足日時:2011/03/22 23:14
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ANo.26のご投稿に対して:


1. No.25の補足のコメントをどのように見ますか?
  krya1998⇒たいへん名誉と存じます。
2. クリヤさんの最後に越えるべき壁は何でしょう?
  krya1998⇒最後に超えるものの前には未だきていませんので。今、現在は欲望と執着を、自己性と世の中を離れることなのだと存じます。
 そしてその苦労をこの上なく楽しめるようになりたいと存じます。
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 ANo.25に対して:


 私如きが、グル、パラマハンサ・ヨガナンダのご本、バガヴァッド・ギータの読み齧りから知ったかぶりで投稿することをどうか、お許し下さい。

【女性を神聖視しすぎているような】いえ、女性の本性に対面し、愛しています。素晴らしいと存じます。それは大創造界の原理です。どんな動植物も昆虫も鳥さんも母と子の姿は共通です。ブラフマンなる不顕現の意識がブラフマなる顕現意識の部分側面(父なる神、マハバーラタではシャンターヌが象徴している)を象出し、太初の顕現意識を発します(マハバーラタでは彼が森の中でガンガ、ガンジスですね)に出会う。つまり自己の観念の中で創造の母なる客体存在を象出する。これはシャンターヌに淵源する創造者の原理です。この女性と結婚して、創造界が生み出され、多様を創出していく。限りなく取り留めない。この取り留めないは、無限という価値性の当為とは区別されます。女性の取り留めなさはそういう価値的当為性に馴染み難いという面の一形態です。
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