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キリスト教では神がこの世を作り そして神がマリヤと通してキリストを地球にもたらした(?)とキリスト教の友達に教わりました。では釈迦はどうなのでしょう?白い像が天から舞い降りて釈迦が誕生したと聞いた覚えがあるのですが その前はどうだったのでしょう?キリスト教はキリストの前に神が存在するけど仏教は釈迦の前の話がないと言われました。本当なのでしょうか?教えてください。

A 回答 (14件中1~10件)

そんな事は無いですよ。


釈迦も何度も輪廻した話もありますし。

ただ、インドのアショーカ王が残した
原初仏教関係の記述だと、
現在言われている仏教とは
異なる記述があったりするようです。

聖書自体も正典編纂以前の部分となると
他にも書物が沢山あったらしいですから
文献自体の鵜呑みはどの様な物かと・・・
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私は倫理の分野で著作を持つ哲学家です(本業は倫理カウンセラー及び経営コンサルタントですが)。

既に多くの回答がされている折蛇足を承知で投稿させて戴きます。個人的には、ご質問内容に精通されている多くのご回答者の中でも特にCUE009様の解説 (回答No. 11 及び 回答No. 9)にいたく感銘を受けながら回答します。
+++++

「キリスト教はキリストの前に神が存在するけど仏教は釈迦の前の話がない」という事の解釈にあたり重要な点として、キリストが神であるという認識と、釈迦が誰よりも崇高な悟りの境地に達した人間であったという認識の違いを根本にして戴きたく存じます。仏教を宗教と定義するか哲学とするかの個人差がある前提で、キリストの教えは神の存在が前提である事と、釈迦の教えはそれを受ける個人の宗教観と分離できるという事を、ご質問にある表現に言い直しているものと解釈できます。

したがって、私はキリスト教徒ですが、仮に私が仏教を「信じ」たとしても、これを別の神様を信仰する事としてはとらえておらず、キリスト教の神(キリスト自身)以外の神を信じるという事にはなり得ないと考えています。このため、私にかぎらず、キリスト教徒でありながら仏教観を学ぶ人が多くいます。仏教を語る事は私の神への冒とくとはどうしても考えられません。私の唯一無二の神はキリストであり続け、仏陀はもともと神ではないのですから。

なお、数年前に発表された以下の著作(米国ではベストセラーだったのに日本語訳がない様ですが)を参考に挙げておきます。一方は神の子、他方は人間という、認識上の決定的な違いはありますが、それぞれのお言葉を比較すると、驚くべき共通点があるという事を紹介している力作です。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1569751 …
Jesus and Buddha: The Parallel Sayings (Seastone), Marcus Borg (著)

+++++
以上
アンドリューミナセ (Andrew Minase)

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1569751 …
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No4の回答に対する補足に対してです。


是という限定は出来ないと思われます。
宗教は内面より、未知なる物に対して疑問追求、人としての道を説いてきたものであり、そこに多くの人物が介在しているものと思われます。
科学は外なる物に対し、未知なる物に対しての疑問追求、人と物質の関わりを追求し、そこに多くの人物が介在しているものと思われます。
と考える事が出来るのではと思うのです。
宗教と科学は何を追及しているのでしょうか。?
(既に太古より現在に存在する普遍の法則:あるから発見することが可能なので、無いものは発見できないと思うのです.しかし、普遍の法則はその時代が来なければ、発見の糸口も見出せない事は歴史が証明)
とても興味を引くことでもあると思うのです。
きっと、それぞれが真実の一遍を含んでいるのではと思えてならないのですが。
それゆえ、双方は否定は出来ないと思われます。
又、肯定もある側面ではないかと思われもします。
故に、疑問追求の中より洞察力を持って、宗教と科学を繋いでゆく事がとても大切なことなのかと思います。
今の私たちの生活次元は三次元の世界ですが、神の世界は
どの次元なのかと思いますが。
もし、超立体的次元とするなばら、三次元からは見えるのでしょうか。という事になるかと思います。
ですから、神の存在は人の心の中にどのような、存在として位置付けられるかであり、そのことをどのように信じて自らが歩んで行けるかではないかと思われます。

多くのことより、普遍の法則(宗教からも科学からも)が断片的に発見され、一繋がりになり、集約されてゆくとそこに何が見えるのか。
今の時代で発見された事を受け入れつつ、疑問追求のなかより、自らの心に去来する事を大切に歩みたいと思うのです。
細胞の中にDNAがありますが、この設計図が人の体を
一つの細胞から、私たちの体を作り上げていること事態、
とても不思議な事であり、偶然には出来ないと思うのです。DNAは過去から存在したものであり、人が作ったものでは無いと思うのです。
偶然という観点からは曖昧しか見えてこず、必然があったという観点からは、発見の糸口が見えてくるのではと思うのです。

これからも、もっと深めて行きたいですね。
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No.9です。


ちょっと誤解を招くような書き方をしたかな?と心配になったので補足。

新しい宗教が、それまであった宗教と無関係に生まれることはありませんし
他の地に伝わるときは、その地にもともとあった宗教観の影響を受けます。

キリスト教というのはユダヤ教圏の中に生まれました。
ヘブライの神話をベースにするユダヤ教においては
超越者たる神が世界をつくり人間をつくったと信じます。
ところが人間は原罪を背負い楽園を追放されます。
でも最後には救世主(メシア)によって救われると信じられています。
このとき、ユダヤ教のポイントは
ユダヤの民は神によって選ばれた民である、とすることで
その証拠に、人間が堕落し、神の怒りに触れたとき
ユダヤの民だけは預言者を通じて神の意志が伝えられることで
これまで生き延びられてきた、とされています。
予言者ではなく、預言者ですので間違えないで下さいね。
ユダヤ教における最強の預言者がモーゼですね。

さて、今から2000年ぐらい前
ユダヤ教圏において、ナザレの大工の息子のイエスが
突然「私がメシアである」と主張し始めます。
神はユダヤの民だけではなく、全ての民を救うとの言葉を
預かってきた、とも主張します。
つまり、キリスト教はユダヤ教から生まれ
ユダヤ教の聖典を旧約聖書と呼んでベースにしつつも
さらに新たな神との契約を結び(新約)
旧・新約の両聖書に基づき個人と社会の再生を促す宗教であって
よって「その前」があるわけです。

一方、仏教はバラモン教圏の中に生まれました。
仏教とは「仏陀の教え」の意で
仏陀とは「悟りを得た者」の意。
最初に悟りを得たのが、釈迦族の王の子である
ゴーダマ・シッタールタという人です。
彼は王族でしたが、当時のインドにいては
王族よりバラモン(要するに「お坊さん」ですな)の方が
位が上でした。

さて、バラモン教はバラモン教の世界観を持っており
宇宙の根本原理としてアートマン(梵)がいて
アートマンと本来同じものであるブラフマン(我)が
個々の人間の中にいる、と信じます。
この世界観は、仏教にもヒンドゥー教にも基本的に通じています。
神を絶対者・超越者とし、人間より一段上に置く
という世界観の中で生まれたユダヤ・キリスト教と
宇宙と人間とが基本的に一体(梵我一如)であるという価値観の中で生まれた
仏教・ヒンドゥー教とでは、根本で大きな違いがあるわけです。

さらに、先に述べたように仏陀は
バラモンの教えでは解決しない悩みを救済すべく
その方法論として、この世を苦しみ・迷いの世界と見て
苦行にも悦楽にも偏らない正しい実践によってそこから脱け出ることを目指した
つまり一旦全てを否定することでリセットし
それによって俗なるものを一旦振り落とそうと考えたわけです。

その「一旦全てを否定しよう(神も絶対者もいないと考えよう)」
を徹底したのは2~3世紀に形成された大乗仏教においてです。
大乗仏教以降になると、一旦否定して得た悟りを
如何にこの世に活かすか?というところまで考えるようになります。
否定の末に魂を浄化し、浄化した魂によって
俗なる世界をポジディブに生きることは出来ないか?ということでしょうか。

後にインドではヒンドゥー教が勢力を持つようになり、仏教は海外に追われます。
チベットに渡ると、それまで体験によってしか得られなかった悟りそのものを
何とか伝えることが出来ないかということで
マンダラが考案されます。
つまり、チベットの仏教(タントリズム)においては
絶対真理としてマンダラがあったりします。

>神はいるであろうと思っていました
そのように形を変えながら伝わっていく、ということと
何より仏教もキリスト教も、信者を増やすために段々安直になっていきますよね。
仏教はお経を唱えれば救われる
キリスト教は神に祈りを捧げれば許される、といった具合に。
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私自身で確かめてませんが 仏典には梵天,観音が出てくるそうです 釈尊の経典には”観音これを説く”と言う言葉もあるそうで つまり自分だけの勝手な教えではない事を暗示しているとも言えます 


又キリストの教えには”神の教えです”なるものは無かった様に思います 旧約がベースとなっているからでしょう
参考
インドには釈迦とか釈尊とかの名前の人物は歴史上存在しないとのことです あくまでも”ゴータマ シッタールタ”との事です 古文書によれば日本にやって来たとき名乗った名前との事です 
これがほんとならインドで何時亡くなったかがはっきりしないのも納得出来そうです
又 釈尊については宗教上言われてる事と歴史上の事実とは食い違いがあるとも聞いております(学者の言)
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キリスト教は「神」を信じ、神の「教え」に従う宗教です。


ですから「神がこの世を作り」「イエスは神の子である」ことが
とっても大事です。

仏教は違います。
仏教は釈迦の「悟り」を信じ、釈迦の「どうやって悟りを得たか」を
自分でもやってみることで
釈迦の境地に至ろう、とする宗教です。
ですから「神がいるかどうか?」とか「釈迦と神の関係は?」なんてのは
仏教においては大切なことではありません。

>仏教は釈迦の前の話がないと言われました
仏教はバラモン教文化の中から生まれました。
しかし、バラモン教の教えに満足できずに自ら悟りを開いたのが釈迦ですから
釈迦以前の仏教の話はない、と言うことでしょうか。

キリスト教はユダヤ教文化の中から生まれました。
イエスは当時の人々に「悔い改めよ」とは言いましたが
別にユダヤの神を否定した訳ではありません。
それどころが「私が神の子」だから「私の方が正しい」と主張し
当時の権威の怒りを買って処刑されたわけです。

仏教は「誰が神の子か?」などといったことは問題ではなく
バラモンの教えでは救うことができない「生・老・病・死」の苦しみを
どうやって乗り越えるか?を問題にしたわけです。
ですから仏教にとって、釈迦がどのように生まれたか?とか
釈迦の前に何がいるのか?ということは
あんまり関係ないんです。

さらに言えば
仏教において大事な教えに「空」というのがあります。
空とは「何もない」ということです。
空思想においては基本的に神も絶対者もいません。
(仏教にもいろいろな派が生じて違う解釈も出てきますが。)
(でも、ここが仏教が他の宗教に較べ大きく異なり難解なところです。)

>仏教は釈迦の前の話がない
とは、もしかしたら「空」の意でもあるのかも知れませんね。

この回答への補足

空の教えは初めて聞きました。そうですか仏教では神も絶対者もいないのですか。。ずっと今まで仏教の家庭で育ちましたが神はいる(した)であろうと思っていました(誰と特定せず。) きっとそれは日本独自の仏教だからでしょうか。それとも自分は本当はキリスト教?最近あまりにもキリスト教の知合いに囲まれてて混乱しえるのは確かです。

補足日時:2003/11/01 17:36
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仏教の興りを考える場合、歴史的事実と仏教の自称する立場とがあると思うんですね。

歴史的事実というのは、仏教が当時のインド思想とどう関わりをもったかということです。仏教の自称というのは、仏教が自らをどう定義づけるかです。二つは、一致する場合もあれば、全然違うこともあります。また、分析する観点で答えが違ってきます。
 
 まず、歴史的な経緯、事実から言うと釈迦の登場はこうなります。当時、インドの宗教は、バラモンという僧侶階級によって支配されていましたが、釈迦はバラモン階級の出身ではありません。武士階級の出身です。当時、こうした正統派階級の僧侶ではない人がたくさん登場して、中国で言う「諸子百家」の様相を呈していました。一種の言論の氾濫状態です。釈迦もその中の一人だったのです。釈迦は、まずインド古来の神々に祈ったといいます。この時点ではバラモン教の伝統の中にいたわけです。しかし、それでは本当の救いにならないということを悟った釈迦は、祈ることや何かにすがることによって救われる道を捨てます。苦しみには原因があり、その原因を解決することによって悟るという道を開きます。自分を変えることによって、救われるという立場を出したのです。この意味で、釈迦の説いた教えと立場は、バラモン教とは立場を大きく異にします(祈祷者であるバラモンの存在意義を崩すからです)。しかし、釈迦の立場は、バラモン教とは相当に立場を異にしているように見えても、バラモン教の伝統から影響を受けておることには変わりなく(反論の含めて)、また少し前の時代の自由思想家の影響も受けていますので、その意味では「前がある」とも言えます。それは歴史的な経緯を持つものすべてそうなりますけどね。まず、キリストとは、発生が違います。旧約聖書の伝統の上にのっかて、ヤハウェの神を崇拝するというユダヤの伝統に載っているキリストとは発生が違います。バラモン教をかなりの部分で否定した仏教とは(ただしバラモンの中にも親しい人はいたりして、必ずしも攻撃的であったわけではありません)。

 次に釈迦と仏教の立場です。
こうして登場した釈迦は、「師なくして独り悟った」と言います。バラモン教とは、立場が違うということを明確に打ち出したのです。したがって、バラモン教で行うような沐浴や儀式によってではなく、人は行いによって救われると説き、バラモン教の儀式至上主義を明確に批判します。これもキリストと違いますね。キリストはユダヤ教の伝統の中で活動しましたから、ユダヤの学者と話すときには、モーゼの旧約聖書の律法を一応尊重する形で話しています。もちろん、本当の神の意志を述べているという意識だったのでしょう。釈迦は、バラモン教の伝統自体を否定する発言が、まま見られます。厳密な研究は、いろいろあるようですが、釈迦の教えを「非アーリアン」とするのも故なきことではありません(バラモンはアーリアンの伝統宗教)。

 こう考えると、立場においても、釈迦の前がないと言いたいところですが、ちょっと注意が要ります。ご質問が簡潔ですので、よく分かりませんが、釈迦の悟った真理は釈迦だけの個人的な経験としてしまっては、仏教はただの錯覚になってしまいます。釈迦自身もそのことは認識していて、自らはバラモンの伝統と区別しつつも、発見した真理に関しては、「古い宮殿の床がちりに埋もれていたのを、また発見するようなもの」と言い、仏教以前にも同じ真理を悟った人がいたこと、またこれからも悟る人がいたと言います。釈迦は、単なる発見者です。そこで、仏教では、かなり古くから釈迦以前の仏として、過去仏(代表的には過去七仏といいます)というのを設定しました。これは、釈迦以前の真理の発見者です。この意味では、釈迦の前があると言うことになります。しかし、「今ある」仏教の創始者という意味では、釈迦の前はないと考えているわけです。
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補足です。



 仏教に関する本で入門書として分かりやすくて、僕がお薦めするのは、
・山折哲雄『仏教とは何か』(中公新書)、
 聖書の入門書としてお薦めなのは、
・阿刀田高『旧約聖書を知っていますか』『新約聖書を知っていますか』(ともに新潮文庫)
・山室静『聖書物語』教養文庫
です。どれも初心者向けで分かりやすく、特に、阿刀田高のは爆笑できます。


 ヒンドゥー教の発展は、紀元後4~6世紀頃であって、仏教経典や前世物語に影響を及ぼしたものです。後世の経典の編纂者たちに多大な影響を与えたものの、直接釈迦の教えに添うものではなく、むしろ反動的要素があることは忘れてはならないと思います。
 
 現在残る経典や宗教芸術にヒンドゥー教の神々が残っているのは、仏教に対する「後世の」意味づけに過ぎません。
 ゆえに原始仏教の意義という観点から言えば、釈迦が仏教を開いた頃というのは、主にバラモン教と土着信仰の神々、そしてジナ教が盛んでありましたが、仏教がその神様たちの系統に乗っかって成立している、というわけではないことは周知のことです。
 と、ここは注意されるべきことかと思います。
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こんばんわ、はじめまして。



>キリスト教はキリストの前に神が存在するけど
>仏教は釈迦の前の話がないと言われました。
仏教は釈尊が説いた為、後世の人たちがそのように
呼んだのであって、本当はブッターストラー(悟りへの道)が
正しい呼び名です。
さて、キリスト教の前に、ユダヤ教があったように
釈尊以前のインドにはヒンドゥー教の教えがあり
宗教観がありました。その為、古代インドにも沢山の神さまがいます。
詳しくお知りになりたければ、専門辞典は高いので
大きな図書館に行かれて世界宗教辞典を検索してみて下さい。
お分かりになると思いますよ。
もし、仏教やキリスト教に関心がおありならば、
三宝出版から出ている高橋信次師の「人間釈迦 シリーズ」を
一読されるといいと思います。
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 キリスト教には「前の話」があって、仏教にはそれが無い・・・。


 「前の話」というのは、何を指しているのかよく分からないのですが、もしかしたらキリスト教には「旧約聖書」があるけど、仏教には「旧○○○」が無い、という意味なのでしょうか??それを前提にお話させてもらいますと・・・

 キリスト教の聖書には、旧約聖書と新約聖書があります(宗派によって内容・解釈は違いますが)。
旧約聖書は、元々ユダヤ教の聖典で、彼らはタルムナードとか呼ぶようです。

「旧約」というのは「旧い約束」という意味で、昔神様が人間と交わした約束ということです。
 この旧約聖書では、基本的に神様がユダヤ人を救うことを約束したものです。これは紀元前から続いている信仰です。
 ある日神様は「私はユダヤ人だけではなく、神を信じる者全てを救おうとしているのだ!」ということを言わんがため、イエスを神の子としてマリアのお腹に宿して布教活動をさせました。この神様の心の変化により、交わされたのが万人が救われるという「新しい約束」、新約聖書です。

 だから、元々存在していた旧約聖書からずうっと信じられてきた神様と、キリスト教の神様は変わらず同じ。イエスが布教活動をする前からユダヤ人によって連綿と語り継がれてきた神様です。
 
 一方、仏教は、バラモン教の影響はとても強いけれども、釈迦は「バラモン教の神様を信じて修行に励みなさい」とは言っていません。そういう世界もあるよ、とは言っていたかもしれないけれど、昔からあるものを信じるという類ではないと思います。
「自らを慈しみ、自らを信じよ」と言っているように、どちらかといえば、神様からは独立した人生哲学ではないかと思います(もちろん、科学的理解も含んだ総体的学問として)。

 そうやって考えると、キリスト教には「前の話」すなわち「ユダヤ教という母体」があるけれども、仏教は本来、特に既存の神様を信仰するのではなく、独自の形を模索しており、すなわち「前の話が無い」ということになるのかなあ、と思いました。
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