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観音寺城の戦いは、1568年に発生した、六角氏と織田上洛軍の合戦です。
戦いは1568年中の短期間で終わるはずなのですが、ウィキペディアの「六角義治」の項目に、それとは矛盾する記述があります。
この矛盾について、単なる間違いなのか、それとも史実なのかを教えてください。


矛盾は
「六角義治」の項ではこのように書かれています。
永禄11年(1568年)、織田信長が侵攻して来ると、仇敵であった三好氏の勢力と対信長で共闘することになる。三好三人衆の岩成友通らの援助を受けて徹底抗戦を図り、一旦は追い返すものの、信長は翌年、六角方の抗戦体制が緩んだ機に再侵攻して来た。激戦の末に六角親子の立て篭もる箕作城は落城した(観音寺城の戦い)。

この文章によると、1568年においては一旦は上洛軍を追い返した→しかし翌年の1569年に再侵攻を受け、観音寺城は落城した。
このように解釈できると思います。
しかし、観音寺城の戦いは1568年内で終わっているはずです
これは単なる間違いなのでしょうか?

A 回答 (2件)

ああ表現が少しあやふやなので勘違いされたのですね。



最初に追い返したのは軍勢ではなく使者です。つまり和議の使者を追い返されたので信長は開戦を決意して翌年攻め込んできたというわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
確かに前後の文章を視点を変えて読むと、そのように解釈できますね!

お礼日時:2011/09/07 12:43

翌年では無く翌月のような気がする


うろ覚えで自信ないけど
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!その可能性も確かに捨てきれませんね

お礼日時:2011/09/07 12:45

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