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浄土真宗門徒の者です。
真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか?
その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

A 回答 (35件中11~20件)

違うか。



神仏習合時に形成された概念
かな。。

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この回答へのお礼

いくつもの回答をくださっているのに返信が遅れましてすみません。いくつか誤解されている部分があるようなので解説します。

まず、阿弥陀如来は太陽神のようなものではありません。この宇宙に普遍的に存在する「自然の法則」(宗教的に言えば「真理」)を擬人化したものです。したがって仏像で表されるような人間に似た身体を持った、ひとつのパーソナリティを持った存在がどこかにいるわけではありません。
私が「仏教はアブラハムの一神教とは根本的に違う」と言うのはそれが理由です。世界と人類を作り、選ばれた預言者を通して人間に命令し、時に洪水を起こして世界を滅ぼしたりする、そういうひとつの人格・パーソナリティを持った「神」と如来とはそういう観点からまったく違うわけです。

あと、天皇とか民主党とかいう言葉が出てきていますが、私の質問の意図は純粋に仏教を論じたいだけですので、政治的な論争をするつもりはありません。

お礼日時:2011/09/11 22:55

さとりを開きさとりに至るものは解脱するのに縁起が根本思想にある訳がない



小乗から大乗に移行する時、俗界との縁を起こすというほどの意味になる
だからもともと縁起という概念は神道系のものということになる


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ユダヤ教系宗教と浄土系宗教が手を結ぶようなこと



これを仏教用語で縁起と言ってるww


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自称キリスト者のいう



時が満ちる時とは

民主党のの政策群が通った時
地方分権化もしくは地方主権化、外国人地方参政権付与、人権擁護法、TPP参加

これで日本は地方から崩壊し、自らの国を自らの手で国を治めることを法的に放棄させられ、国家そのものが崩壊する土台ができる



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ユダヤ系キリスト者とすれば


太陽を創造したユダヤの神による天皇の王権神授説としてとらえ
戦争責任を自らとるという意味において象徴的に天皇は自らの意志で磔台にあがる

このことの意味は中韓を侵略し国民全てを巻き込んだ戦争責任と敗戦に伴う経済的戦争責任を果たしていく段階で国民全体を野性化させてしまったことに対して、キリストのように天皇制度そのもを廃止するということを以って購う

ってことを天皇家自らに言わせたいってことを志向してるってことなのかな


時が満ちるときがくる
みたいな


それで
天皇は戦争責任という原罪を背負って国民を救うために
自らキリストとして磔台にあがるということを連想させる質問設定にしたということか。。

いわんや悪人おやって浄土真宗は原罪を意識させる宗教でね

阿弥陀様をひたすら信じいけば救われるの阿弥陀様は今度はユダヤ教の神って事のなるわけかな?
そして法灯明とはユダヤ律法のことであり自灯明とはそれにひたすらすがるという意味になる

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 No.4&14です。



 ◆ (歎異抄) 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

 ◆ 親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。

 ☆ このような命題は 案外《自灯明》という見方に かたちとしては似ているかも知れませんね。
 とは言うものの 他力本願のもとにこの《ひとり》の思想が生きられることにも間違いありません。


 何やらおかしなことが言い始められています。
 アブラハム(初めは アブラムですが)は ふるさとを去って行けというお告げのようなヒラメキとその基礎としての信仰からすべては始まっています。

 そのような旅の思想は ひとつに人生そのものが この世界への一時的な滞在であり巡礼の旅路にたとえられることを示すとも言われます。
 あるいは もうひとつには――旅とは別に―― ひとつの土地への永住にともなわれる慣れから来る思考の停滞を避けたとも。

 習慣から来る惰性を避けると言えば ここで人間にとってその存在をめぐって《ひとり》という思想にもつながります。
 つまりは アミターユスもしくは神というのは あくまでその如来もしくは神と《われ》との一対一のかかわりにおいてある。こう言おうとしていたと思われます。(ほかの意味もある中で そのひとつとしてです)。



 言いかえると 日の神の信仰を初めとする自然(自然なる神々)の信仰とそこから来る個人的な慣れや集団としての慣わしの問題も起きて来ますし。そしてナラワシにまでなればその社会におけるムレ(群れ・村)が ひとりの人間にとってその自由をさまたげるという問題も起きがちです。

 つまりは アブラハムの信仰も親鸞のそれも このようなナラワシおよびそこにおけるムレ(群れたがるくせ)といった問題情況にあって一人ひとりの自由を守る――そしてそれにもとづき共生をはかる――ことを旨とした。あるいはつまり そのため以外のものではないでしょう。
 その後の旧約時代の民族共同体としてのまとまりや新約時代からの教会制度やあるいは宗派をつくっての信徒団体としてのムレに片向く動き これらは あくまで歴史において派生してしまった副作用です。

 ムレタガリが――悪貨は良貨を駆逐するのナラワシのとおりにのごとく―― ほとんどそれは付和雷同であるなら無効であるのに勢力を盛り返して 基本理論としてつねに有効な民主制なる自由をさまたげて 社会力学じょう有力になっただけのことです。
 (現代では ムレタガリと民主制とのすり合わせが模索されていると思います。むろん後者の有効性を活かす方向にだと思われます)。

 といった過去および将来についての見とおしも 大事だと思うという投稿です。



 * 門徒だとおっしゃっていますのに もし理論として言うとすれば 信徒の組織を再興した蓮如は親鸞の考え方とはほとんど何の関係もない こう考えます。信徒たちの個人的な集まりや自由な助け合いは別ですが 宗派のための団体組織は 廃れるがままにしておけばよかった。その素地から《ひとり》の思想が根づいて来ることが いまにおいても 待たれます。

 このようなアブラハムないし親鸞の信仰にもとづく《ひとり》の思想は 決していわゆる個人主義に堕すことなく《われ》としての存在観――互いにわれであることをとおしての縁起共生の思想――を今からでも芽生えさせて行くことでしょう。


 * なお信仰においては――それは 非経験のナゾをめぐる非思考の姿勢を言っていますから―― 他力は 絶対他力のことですが 自力については それは人間の存在や能力が有限なのですから 絶対自力ということはあり得ません。それでも 聖道門において自力が説かれるとすればそれは おそらく無神論という信仰にもとづいている。こう考えられます。

 《無い神》を信じている つまりそのようなやはり絶対他力の信仰である。おそらくブラフマンなる主宰神を避けた結果 そのような自力の思想が――無神論のもとに――それだけに焦点をあてるかたちで 引き出されて来たのでしょう。

 自力と他力 あるいは 自灯明と法灯明 これらは それら自体として取り上げることは 屁の河童だと思います。
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この回答へのお礼

重ね重ねありがとうございます。後半の部分、特に共感できます。

お礼日時:2011/09/11 22:36

非支配国民には自虐史観を植え付けて原罪を背負わせる。




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これから推測すると



ユダヤ民族は旧約聖書が書かれる以前に日本のような国家を征服したことがあるのではないかって考えられるんだよね。。
だから太陽神を創造した神としてそれを呑み込んだ宗教構造になってる

こういう風に読むと
太陽を創造したユダヤの神が敗戦の戦争責任という原罪をその国家の元首にかぶせその国から追放し宗教的にその国を乗っ取り支配が完了するって筋書きになるんだけど。。
日本のキリスト教化がそれにあたるってことかな。。

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天照大神が太陽神なら ユダヤ教系の神は光よあれって太陽を作ったっていう神って設定なってるし



みたいな


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とか言われたって分かんないでしょ?



ということで
No.6の回答に行き着くんだなぁ


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