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浄土真宗門徒の者です。
真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか?
その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

A 回答 (35件中21~30件)

ユダヤ系キリスト者とすれば


太陽を創造したユダヤの神による天皇の王権神授説としてとらえ
戦争責任を自らとるという意味において象徴的に天皇は自らの意志で磔台にあがる

このことの意味は中韓を侵略し国民全てを巻き込んだ戦争責任と敗戦に伴う経済的戦争責任を果たしていく段階で国民全体を野性化させてしまったことに対して、キリストのように天皇制度そのもを廃止するということを以って購う

ってことを天皇家自らに言わせたいってことを志向してるってことなのかな


時が満ちるときがくる
みたいな


それで
天皇は戦争責任という原罪を背負って国民を救うために
自らキリストとして磔台にあがるということを連想させる質問設定にしたということか。。

いわんや悪人おやって浄土真宗は原罪を意識させる宗教でね

阿弥陀様をひたすら信じいけば救われるの阿弥陀様は今度はユダヤ教の神って事のなるわけかな?
そして法灯明とはユダヤ律法のことであり自灯明とはそれにひたすらすがるという意味になる

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自称キリスト者のいう



時が満ちる時とは

民主党のの政策群が通った時
地方分権化もしくは地方主権化、外国人地方参政権付与、人権擁護法、TPP参加

これで日本は地方から崩壊し、自らの国を自らの手で国を治めることを法的に放棄させられ、国家そのものが崩壊する土台ができる



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ユダヤ教系宗教と浄土系宗教が手を結ぶようなこと



これを仏教用語で縁起と言ってるww


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さとりを開きさとりに至るものは解脱するのに縁起が根本思想にある訳がない



小乗から大乗に移行する時、俗界との縁を起こすというほどの意味になる
だからもともと縁起という概念は神道系のものということになる


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違うか。



神仏習合時に形成された概念
かな。。

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この回答へのお礼

いくつもの回答をくださっているのに返信が遅れましてすみません。いくつか誤解されている部分があるようなので解説します。

まず、阿弥陀如来は太陽神のようなものではありません。この宇宙に普遍的に存在する「自然の法則」(宗教的に言えば「真理」)を擬人化したものです。したがって仏像で表されるような人間に似た身体を持った、ひとつのパーソナリティを持った存在がどこかにいるわけではありません。
私が「仏教はアブラハムの一神教とは根本的に違う」と言うのはそれが理由です。世界と人類を作り、選ばれた預言者を通して人間に命令し、時に洪水を起こして世界を滅ぼしたりする、そういうひとつの人格・パーソナリティを持った「神」と如来とはそういう観点からまったく違うわけです。

あと、天皇とか民主党とかいう言葉が出てきていますが、私の質問の意図は純粋に仏教を論じたいだけですので、政治的な論争をするつもりはありません。

お礼日時:2011/09/11 22:55

 こんにちは。

ここに書くのは久しぶりです。私は浄土真宗のボーさんと呼ばれる立場でございまして、宗祖の七百五十回忌中に書きになかなかこれなかったのですがこの質問を見て、ちょっと回答してみたくなりました。

>>真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したらよいでしょうか?

とのことですので、この質問のテーマは「自灯明・法灯明の浄土教的解釈」というところかと思います。私としてはこのテーマにそってご相談させていただきます。

 原始経典といわれる『法句経(ダンマ・パタ)』にはお釈迦様のこんな一説がございます。

「もしも愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思えるものこそ、愚者というべし」

お釈迦様は自身の愚かさを知る者を賢者と呼ばれましたが、日本浄土教のスタートラインはまさに愚かさを知るというところにあります。それは、親鸞聖人の師匠である法然上人の『鎌倉二位の禅尼に進ぜられし書』のなかで

「はじめにわが身の程を信じて、のちに仏の願を信ずるなり。ただしのちの信を決定せんがために、はじめの信をばあぐるなり」

と説かれております。これは、「信機(機の深信)」と「信法(法の深信)」という思想を端的に表したものです。信機とは「はじめにわが身の程を信じて」の部分であり、自分自身が救われる縁・手がかりの尽き果てた罪悪深重の悪人であるという事を知りなさいということ。そして、信法とは「仏の願を信ずるなり」の部分であり、その救われる縁・手がかりの尽き果てた悪人だからこそ浄土へ迎えとってやりたいという阿弥陀如来の本願をいただくのですということ。これが日本浄土教の基本的な信の構造です。
 どうしても浄土教は解説本などを読むと「念仏さえ称えれば救われる」とか「信心があれば救われる」と信法ばかりが強調されてい、信機がおろそかになっている現状は大変悲しむべきことです。。


 さて、「自灯明」の話をしていきましょう。は仏教学者中村元先生によれば自灯明とは「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず」と解釈しておられます。

 bragelonne氏も引用しておられますが『歎異抄』のなかで唯円師は親鸞聖人のこのお言葉を紹介しておられます。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」

このお言葉は部分的に一読すれば「信法」を説いている部分に見えるかもしれませんが、実はそうではありません。ここに説かれているのは実は「信機」なのです。それは、唯円師はこの言葉に続けて中国浄土教大成者の善導大師のこのような言葉を引用しています。

「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみ常に流転して、出離の縁あることなき身としれ」

そして、唯円師はこの言葉が親鸞聖人のお言葉とまったく違いが無いと述べておられます。
 これはどういくことかといえば、『歎異抄』のなかには阿弥陀如来が誰のために本願を立てたのかという記述がもう一つあります。それは、

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

という、最も有名な悪人正機の御文です。これと、先ほどの「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」とを見比べて解釈いたしますと、阿弥陀如来が親鸞聖人を救わんがために本願を立てたのだとするならば、親鸞聖人ははまさに正機に当たります。ということは、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という悪人正機の正機である悪人とは親鸞聖人のことであり、親鸞聖人=悪人という式が成り立ちます。このように考えれば唯円師がなぜ善導大師の言葉と親鸞聖人の言葉が同じであるとおっしゃたかが分かります。
 つまり、親鸞聖人にとっての悪人とは自分以外の他人に対して向けられた言葉ではなく、自分自身にのみ向けられた言葉であることがうかがえます。

 さて長々説明してまいりましたが、何が言いたいかといえばこれが浄土真宗における「自灯明」ではないでしょうか。法然上人親鸞聖人以前の仏教は「どの教えが、真理か?」「どの教えが、深いか?」「どの教えが、正しいか?」という視点で説かれていました。しかし、法然上人親鸞聖人が叡山において悩まれたのは「どの教えが、自分自身にあっているか?」ということです。経典の甲乙を論ずるのではなく、罪悪深重の自分にのどの経典があっているか、というのが浄土教の視点です。まさに、これはお釈迦様の相手に合わせて説き方を変える「対機説法」の形態を取られたと言えます。
 このように、「自灯明」親鸞聖人は自身の機のつたなさを省みてそれを拠りどころとし、南無阿弥陀佛のみ教えを選ばれたわけです。しかし、「法灯明」そのみ教えをいただいてみればすでに阿弥陀如来が成仏されたときに示してくださっている本願の無碍の一道であったと気づかされたという事ではないでしょうか。

 これが私の考える浄土教における自灯明・法灯明の解釈です。

 後から読めば、なんだかごちゃごちゃしててわかりずらいですね。すみません。急ごしらえの為、推敲する時間がありません。誤字脱字乱文どうぞご容赦下さい。

合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

素晴らしい回答をありがとうございます。挙げて頂いた法然上人の言葉こそ、私がここで聞きたかった答えかもしれません。感謝します。

南無阿弥陀仏。

お礼日時:2011/09/18 00:03

民主党が言ってるような政策群とは地方分権化、外国人地方参政権付与という法的に国を解体させる土台を作ろうとしている


君が言ってるのはインタムライズムとかで地方から国を解体させようとしてる

貴方はどこの国の人なのか知らないけれど、かつてキリスト教宣教師が世界に派遣され国家侵略の先兵として機能してきた、そのものの精神構造になってしまっているということ

相手を尊重するということは相手を生かすということでもあり
キリスト教の立場で仏教の解体を言うこと自体、唯一神系が陥りやすい独善になってしまっている

貴方がキリスト教系にいてキリスト教会は解体する必要があるというなら、それはそっちの勝手で貴方がそのようにキリスト教系に働きかけていけばいいだけの話なのではないですか?

キリスト教会は解体すればいいと考えている
だからと言って仏教も解体すればいいという話にはならない

国家の中でいろんな宗派がそれぞれ排他的にならずに共存している状態で、日本の国家の中で誰もが住みよい社会になるような国を創ろうという一点を見ながら存在している状態であるということができる
これを可能にしているのが山川草木悉有仏性という考え方

何故限られた器の中で平和的に共存状態にある体系にあるものをわざわざ解体する必要があるのでしょうか

このことから言えるのは
むしろキリスト教がその教義が似ていることから浄土真宗に帰依するべきところなのだと考えられる


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失礼いたします



下記の文頭
君とは
そのその更に下の回答者様のことで質問者様のことではありません
コピー再掲時に修正し忘れてしまいました

失礼しました
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あれ?



いや違った。。
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;この宇宙に普遍的に存在する「自然の法則」(宗教的に言えば「真理」)を擬人化したものです



それでユダヤ教の神と同じ解釈になっていきますね
浄土真宗にキリスト教を帰依させられますか?

日本でいろんな宗派が共存するのと同じように
地球上で戦争ばかりしてるキリスト教をその教理によって帰依させられますか?



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