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仏教徒の家に生まれ育ち、今までなんとなく仏教を信じてきました。

でも、興味を持って仏教をいろいろ調べてみたところ、
三蔵の量が莫大すぎて、また宗派がわかれすぎて、
どれを信じたらいいのかわかりません。

また、いろいろな経の中に、「この経が最高である」という表記があるようで、判断に困っています。

そこで質問させてください。

(1)いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、
一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
また、他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょうか。
逆に「この人は一切経を読まずに、自論を持ち出した」などはありますか。
(たとえば、親鸞、竜樹、世親、天台、伝教、空海、空也、カタエンニシ、などなど)

(2)日本で一番広まっているのは、南無阿弥陀仏のようですが、
南無阿弥陀仏の教義は、
「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」であると
考えていいのでしょうか。

(3)南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、
「今世」にはどのような意義があるのでしょうか。
また、南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、
「今世」の人生の幸福とは一体どういうものなのでしょうか。
理論の上からでも、実際にお念仏を信じておられる実体験からでも、
どちらでも結構です。

(4)理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、
南無阿弥陀仏を批判してみてください。
(極楽を求めるあまり、自殺する人が多い、五逆罪と誹謗正法の人は救われないなどの記述がある、浄土三部経よりも優れた経がある、など)

(5)理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、
南無阿弥陀仏を擁護してみてください。
(たとえば、来世の幸福を約束されたことで、今世を安心して生きられる、来世以降、永遠の幸福を獲得できる、仏典の中に念仏が最高だとか、念仏以外は地獄に落ちるなどの表記があるなど)

(6)南無阿弥陀仏を信仰されている方に質問したいです。
実際に南無阿弥陀仏を信仰されることで、どのようなプラス面(ご利益と言っていいのかな)を感じられますか。

以上、(1)~(6)の中で、少しでもご存知のことがあれば、
教えてください。

まだスッタニパータと法華経しか読んでいないので、
未熟なところはご容赦ください。

みなさんのご意見を伺いながら、岩波文庫の浄土三部経を読んでみようと思っています。

A 回答 (18件中1~10件)

 何度も失礼します。

あなたの質問はなかなか好きです。
(1)
>>いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
 法然上人は五回一切経を読み、大切だと思うところをそこから三度読み直したといわれています。この回数に関する真偽は私自身は、勉強不足のためこの場ですぐに答えることは出来ませんが、法然上人が一切経を読破したのは事実のようです。
 それは、法然上人が一切経を読破したという記述は『醍醐本』の中に載っています。まず、『醍醐本』は大正六年京都伏見区醍醐にある、真言宗醍醐三宝院の法蔵から発見された。義演という醍醐寺の八十代座主が法然上人に関する記述を見て書写したという。『醍醐本』を書写した義演の日記『義演准后日記』の中には、法然は浄土宗の開祖であって真言宗から見れば、直接関係のない枝葉のような部分に属するが、これを浄土教にとって貴重な書物とおもいかきのこしたという。
この『醍醐本』の本となるものを書いたのは、諸説あるが法然上人の弟子で亡くなる前に「一枚起請文」を書くことを頼んだ源智が中心になっていたことは確かなようです。この源智という人物は、異説もあるがどれも平家の出の人物とされ、源頼朝の厳しい平家狩りの後の生き残りであるという。それを法然上人が引き取り弟子とし、「一枚起請文」を頼んだいきさつも踏まえて法然上人が亡くなるまで身の周りの世話をしていました。言うなれば、法然上人の最も近くにいた愛弟子といえます。
このように成立した時代やいきさつなどからして『醍醐本』に関しては、宗教学的にも歴史学的にも史料として信憑性は高いものであると考えられています。その中に、「黒谷の経蔵に籠居して一切経を披見す」とあって、法然上人伝記には黒谷において一切経を読破したことになっています。

日蓮聖人に関しては、私は専門ではありませんが、日蓮聖人も一切経を読んだ一人といえるでしょう。それは『安国論御勘由来』には、「四季に亙つて已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。日蓮世間の体を見て、粗一切経を勘ふるに、道理文証之を得了んぬ。終に止むなく勘文一通を造りなして、其の名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日、屋戸野入道に付して、古最明寺入道殿に進め了んぬ。これ偏に国土の恩を報ぜん為めなり。」
と、日蓮聖人自身が「体を見て、粗一切経を勘ふるに」とおっしゃているのですから、一切今日を読破していると思います。

>>また、他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょうか。逆に「この人は一切経を読まずに、自論を持ち出した」などはありますか。
龍樹菩薩は読んでいると思いますよ。彼は小乗仏教を学びつくしていい気になっていたところ、龍王に竜宮城に拉致まがいの連れて行かれ方をされて、竜宮城において全ての大乗経典を勉強したことになっています。これはあくまで伝説ですが、龍樹が全ての経典を読破した記述であることも確かです。また龍樹の『十住毘婆沙論』易行品は大乗の修行者が、不退転の位を得るのに難行・易行の二道があることを説いて、難行道は五濁悪世、無仏の時代には悟りを得ることは難しいとし、易行道は水路を船で行くように不退転の位に入ることができるとして、東方の善徳佛以下、西方阿弥陀仏を含め多くの諸仏諸菩薩の名を出して、これらの諸仏諸菩薩を憶念し、敬礼して、その名を称えれば、早く不退に至ることができると説いています。このような教相判釈をしているということは一切経を読んだ上でしかいえないことでしょう。教相判釈ということでは天台大師智顗(ちぎ)も全ての経典を読破したと考えるのがでとうでしょう。
また、一切経は全て読破したということは聞きませんが親鸞聖人などは『教行信証』のなかで浄土三部経以外のお経もかなり引用しています。一切経にかなり近い経典郡は読んでいたはずです。まぁ、少なくとも私には読みきれるものではありません。また、どこまでが一切経なのかという疑問もあります。お釈迦様一代の教法は八万四千といわれていますが、八万四千の法門は法然上人も日蓮聖人も読んではいないでしょう。ですから、一切経といっても言葉にはばらつきがありあ、一定のものと判じることは出来ないように思います。

(2)
>>日本で一番広まっているのは、南無阿弥陀仏のようですが、南無阿弥陀仏の教義は、「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」であると考えていいのでしょうか。
おおまかのところでは間違っていないでしょうが不十分です。
 まずなぜ娑婆を穢土ととらえるかですが、時代背景としては末法思想が大きくかかわってきます。末法については「釈尊が法を説いた順番」でお話したとおりです。もう一つは時代背景を踏まえた凡夫自覚です。わかりやすくいえば完璧になりきれないという自覚です。この二つが、厭離穢土の理由になります。
またお念仏の救いに関して親鸞聖人は『教行信証』行巻の末尾にでてくる『正信偈』のなかで「往還廻向由他力」と説き「往相迴向(おうそうえこう)と還相迴向(げんそうえこう)も阿弥陀仏の他力に由る」と説いています。まず「往相」とは行くすがた、「還相」とは帰るすがたのことです。浄土教の解釈で言えば、極楽浄土へと往生することが「往相」、浄土から再び衆生を救うためにこの世に戻ってくる(生まれ変わるという意味ではありません)ことが「還相」です。すなわち、阿弥陀佛の救いは二つの働きがあることになります。末法に住む完璧にはなりきれない自分が阿弥陀仏を信じ念仏によって往生し、極楽浄土において成仏する。ここまでを往生し往相迴向。そこから、全ての衆生を救う仏となる。これを還相迴向といいます。つまり、阿弥陀佛の救いに関しては1念仏→2往生→3成仏→4衆生救済の四段階になります。
 つまり、「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」というような、浄土に生まれてはい終わりというのでは不十分です。極楽浄土は死んだ後行けるパラダイスではなく、死しても自分を高めて悟りを開こうという修行上のニュアンスが強いように思います。そのことをどうぞご考慮ください。

(3)
>>南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、「今世」にはどのような意義があるのでしょうか。また、南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、「今世」の人生の幸福とは一体どういうものなのでしょうか。理論の上からでも、実際にお念仏を信じておられる実体験からでも、どちらでも結構です。
 私は来世主義も現世主義というのもあまり好きではありません。浄土教は両方を持って浄土教なのであるから、両方を大切にするべきであると思います。浄土教を信仰する人の中にも、現世主義を徹底するあまり本来の味わいを失っているような人が見受けられます。それを踏まえて読んでいただけると助かります。
 浄土真宗をお開きになった親鸞聖人はお念仏をしながら生きる上で大切なご信心の中でも、至誠心(裏表のない心)をとく部分において善導の『観経疏』を引用してこのように説いておられます。「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり(外側で真面目で堅実に仏道修行を励んでいる姿を見せてはいけません。内側には自分自身をかっこよく見せたい見栄を張りたいという気持ちを消すことが出来ないのですから。)と説いています。
普通宗教と呼ばれるものはそうは説きません。対外の宗教は「かっこよくおなりなさい。」と説くはずです。キリスト教であれば神の信仰に入り悔い改め「右のほっぺを殴られたら、左のほっぺを出してなくってもらえ」「人はパンのみに生きるにあらず」といえるようなかっこいい人になりなさいと説くのです。儒教もそうです。小人ではなく仁義礼智信を兼ね備えた君子になりなさいと説きます。仏教であってもそうです。戒律を守って、座禅をして、お題目を唱えて、六波羅蜜の修行をして、仏というかっこいい人になりなさいと説かれています。こういった宗教をわかりやすく言えば「かっこよくなりなさいという宗教」であると思います。イギリスの評論化ホルロイドという人は宗教を「あらゆる宗教は自己超越の手段であって、宗教的経験を他から区別する特色は拡大の意識である。」と評しているように、通常宗教というものは自己超越の手段であり、今の自分自身を越えてかっこよくなって強さを得るものである。
しかし、親鸞聖人は「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ」といって、外側にかっこよさを見せてはいけないと説いている。親鸞聖人に言わせれば「凡夫に清浄心なし」であり、心の中に嘘を抱き続ける存在である凡夫が心から嘘いつわりを抱くことなくまじめで堅実に仏道修行に励むようなことは出来ないとするのです。つまり、凡夫のもつ真実の心とは「真実ではいられないという真実の心」となるのです。しかしこれは、親鸞聖人自身の悲痛な叫びのようにも思えます。真実でありたくも真実ではいられない、理想の自分と現実の自分の狭間にもがき苦しんで悩みぬいた結果でもあるでしょう。この「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」の言葉にはかっこよくなることによって得られる強さではなく、「自分自身の弱さやかっこ悪さに堪える強さ」を身に付けなさいということが説かれています。自分のかっこ悪さを背負って生きていく強さと言い換えることも出来るかもしれません。それについては、役者であり、親鸞役もこなしたことのある三國連太郎は「私は親鸞さんの偉大さは「人間を通して人間以上の能力を持つ」という伝説には向かっていった、ただ一人の革命家であるというふうに理解しているのでございます」と評しています。私の解釈では、人が人以上の能力を持もつことでかっこよくなれるというのが宗教でありながら、その宗教に人は人でしかなくそのかっこ悪さを背負って生きることしかできないと立ち向かった革命家であるとするのです。
私自身はこのような親鸞聖人の考えに共感し「今生」に関しては、自分自身のかっこ悪さを背負って生きていこうと思っています。親鸞聖人の教えは誰の上に立つたまの教えではありません。この人のほうが信心深い、あの人は信心が浅いと、差をつけることはありません。親鸞聖人ご自身が「弟子一人も持たず」とおっしゃり、また全ての念仏者は「御同御同朋(上下などない、同じ念仏の行をする、同じ念仏仲間である。)」とおっしゃっています。それはただ皆が平等というだけのものではありません。有名なお坊さんですと良寛さんなんかも禅宗のお坊さんでありながら念仏の教えを大切にした方だといわれていますが、その人がこのような詩を読んでいます。「愚かなる身こそなかなか嬉けれ 弥陀の誓いにあうとおもえば」愚かな身であることが嬉しい、愚かであるからこそそこをおぎなってやろうと阿弥陀様は私をお救い下さるという意味ですが、この詩は自分自身が愚かであると気がついたからこそ、私をさせてくださる方に気が付けたということです。もし、自分が完璧な人間である、もしくは完璧な人間になれると思い込んでいたならば、自分ひとりで生きて行けると思い込んでいるということですから、周りの人に気がつくことは出来ません。しかし、自分には至らないところがあると知っていれば、そこを補ってくれている人がいることに気づくことができるということです。親鸞聖人が説く自分の弱さを知れというのは勝手なニヒリズムではなく、心と真摯に向かい合うことで周りの人に気がつきなさいということです。私は「俺は誰の手も借りずに一人で生きてきた」と独りよがりの生き方をせずにすんだことを嬉しくおもいます。しかし、凡夫ですからやっぱり独りよがりになってしまいますけどね。けれどもそんなときも、またやってしまったなと自分の愚かさを今一度反省し、上記にあげた「「御同御同朋」の言葉を思い出しそんな私と同じであると親鸞聖人が励ましてくださっているようにおもいます。

(4)
>>理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、南無阿弥陀仏を批判してみてください。(極楽を求めるあまり、自殺する人が多い、五逆罪と誹謗正法の人は救われないなどの記述がある、浄土三部経よりも優れた経がある、など)
 私自身は実体験の上ではそういったことはありませんが、理論上でしたらいくつかありますよ。
●阿弥陀佛の十八願の中に称名念仏は説かれていない
あくまで十念とあるだけで、称名念仏という明記はありません。そもそも十念とは、仏、法、僧、戒、施、天、休息、安般、身、死を念じることです。ただ、十八願には「乃至十念(だいたい十念)」という表現なわけですから、上記のような十念であれば「乃至」がつくのはおかしいことになる。また総合的に見れば『観無量寿経』にも「具足十念」とあって、本経の末尾には「しっかりと心にとどめておきなさい。それは無量寿佛(阿弥陀佛)の名をとどめておけということです」ということも含めてみれば、ないし十念の解釈は阿弥陀仏の名前を呼ぶことになる。しかし、十念の解釈には多くの異説も存在しており『無量寿経』を単一で見たときは、十念を称名念仏とするのは難しいであろう。
●本願の中に極楽浄土への方法は念仏以外にも記されている
 それが書かれているのは十九願二十願です。わかりやすく訳文で載せます。
十九願「私が仏になるとき、すべての人々が悟りを求める心を起こして、さまざまな功徳を積み、心から私の国に生まれたいと願うなら、命を終えようとするとき、私が多くの聖者を連れてその前に現れましょう。そでなければ、私は決して悟りを開きません。」
十九願、菩提心を起こしさまざまな功徳を積むことで往生できることになっている。
二十願「私が仏になるとき、すべての人々が私の名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からさまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもって私の国に生まれたいと願うなら、その偈外をきっと果たしとげさせましょう。そうでなければ私はけっして悟りを開きません。」
二十願では、無量寿佛(阿弥陀佛)の名前を聞いて、さまざまな功徳を積んで、その功徳を極楽往生に廻向することで往生できることが説かれています。

今あげたものも浄土教批判の一部であるとおもいます。ただ、浄土教の祖師と呼ばれる方々は、それぞれにこういった問題点の答えはお持ちです。他宗からの批判ということに関しても、それなりの答えは用意されています。

(5)
>>理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、南無阿弥陀仏を擁護してみてください。(たとえば、来世の幸福を約束されたことで、今世を安心して生きられる、来世以降、永遠の幸福を獲得できる、仏典の中に念仏が最高だとか、念仏以外は地獄に落ちるなどの表記があるなど)
先にも述べましたが、末法思想について考えなければなりません。末法という時代と相応した経典であるということです。それについては、「浄土三部経」を見て聞きたいとおもいます。
『無量寿経』
 念仏は法蔵菩薩(阿弥陀仏の仏になる前の姿)が二百十億の諸仏の浄土を見て、選択された極楽往生するための行であること。
 三輩往生(生前の行いによって起こる往生の区別)を説く文の中でお釈迦様は菩提心などの諸行を説いているにもかかわらず、ただ念仏のみを讃歎され無上功徳とおっしゃったこと。
 経中において多くの往生の行が説かれているのに、お釈迦様はその仏力をもって念仏の教えだけを、末法が終わって法滅を迎えても残すとおっしゃったこと。

『観無量寿経』
 往生の行として定善(雑念を切り捨て散動せず行う善)散善(平生の散動する心で行う善)の諸行がとかれるけれども、「阿弥陀仏の光明全ての人を照らすけれども、念仏する衆生のみを摂取してくださる」と説かれていること。
 下品上生(生前の行いで九段階往生の区別があり、その中で最下位の者)の往生の行として聞経と称名の二行が説かれるけれど、阿弥陀仏の化身である化仏は「なんじ、仏名を称するがゆえに諸罪消滅す。故に我来たりてなんじを迎う」と念仏一つを選んで讃歎していること。
 往生の行として定善散善の諸行が説かれているにもかかわらず、お釈迦様はただ念仏の一行のみを「なんじ、よくこの語を持せよ、この語を持せよとはすなわちこれ無量寿仏の名を持せよとなり」とおっしゃって弟子の阿難に誰に請われるでもなく付属していること。

『阿弥陀経』
 諸々の経典の中には往生浄土の行として種々の諸行が説かれているけれども、それを六方の諸仏は証誠(証明)していない。けれども『阿弥陀経』の中で念仏往生を説きたまうとき、ことごとく六方の全ての諸仏は舌をのばし三千世界を覆い隠し誠実の語を説いて証誠したまうこと。

などがあげられます。このように往生の行として仏たちは念仏を中心に説いておいでです。しかもそれは、『無量寿経』にあるように法滅を迎えて以降も残る教えとして説かれています。法滅まで残るのであれば、末法であっても正しく残っている教えということになります。その保障が、お釈迦様によってなされています。それの救いは『観無量寿経』に説かれるには下品下生の十悪五逆を犯し、もっと他の悪い行いをしたものでさえ、臨終の苦しみにさいなまれる中心から念仏を称えるものは極楽浄土に生まれることが出来るという一文があり、罪の深いものでも救っていただけることが説かれています。さらに、『阿弥陀経』においてはそういった事柄が全世界の諸仏によって証明されています。
 ただ、極楽に往生することについては念仏が最も優れているということであって、娑婆において自力悟ることにおいての物差しではありません。ここからは個人的な意見ですが、『観無量寿経』においては下品下生のものが極楽に生まれて初めて聞法するのは「諸法実相・除滅罪の法」であって、『妙法蓮華経』の中核をなすものであるといってもよいのではないでしょうか。そうであるならば、私は整った極楽という環境で仏教を学びたいようにもおもいます。

(6)
>>南無阿弥陀仏を信仰されている方に質問したいです。実際に南無阿弥陀仏を信仰されることで、どのようなプラス面(ご利益と言っていいのかな)を感じられますか。
 これはすでに(1)(2)(3)(5)で上記したとおりです。日蓮系の方々からは「極楽を求めるあまり、自殺する人が増える」などといわれますが、逆に私はお念仏することで自殺すら思いつきもしませんでした。もしくは自殺すら思いつかないほどわたしが、馬鹿なのかもしれませんね。けれどもそんな愚かな私でも、分け隔てなく阿弥陀仏は救ってくださることに感謝の心でいっぱいです。

>>みなさんのご意見を伺いながら、岩波文庫の浄土三部経を読んでみようと思っています。
 確かに何の先入観も持たずに経典を読み解くのは大切なことですが、なかなかそれは難しいことです。そういった場合、最初に何か入門書のようなものを読まれることもオススメします。入門書にもでき不出来はありますが、日本浄土教の立場を少し学んだ上で「浄土三部経」を読まれたほうが私個人的にはよいように思います。ひろさちやさんあたりが読みやすいかとおもいます。どうぞご配慮ください。

 前の方より長くなってしまいました。申し訳ありません。前回にもまして支離滅裂な稚文、文意を読み取っていただきたくおもいます。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

長文のレスを、本当にありがとうございます。
何度も読ませていただいております。

心から感謝いたします。

お礼日時:2007/09/21 13:29

憶測するに、論理性・道徳的・実証性を重んじる方のようなので、テーラワーダ仏教(パーリ語原典の三蔵をよりどころにしている)を学ぶことをオススメします。



「テーラワーダ仏教の実践」やスマナサーラ長老の「ブッダの実践心理学1~3」をオススメします。多分サンガから出ると思うのですが「仏法」もかなりオススメです(自費出版版もテーラワーダ仏教協会に残ってるかも)。

参考URL:http://www.j-theravada.net/
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大乗仏教の


いや宗教の
宗派を超えて在るということが
どういうことか
判ってないらしい。
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少しは期待したのが間違いだった。


今の大乗仏教の宗派は
死んだ知恵しか持ち合わせてないらしい。

まさかかつての教義をそのまま日本人の大衆に展開するとは
お笑いだ。
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そういうことを考えると


やっぱり
誤解されやすい
大乗仏教はでる幕はないかも。。。
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大乗仏教は


哲学することを忘れた
堕落した宗派といわれないように
哲学は科学する目も持っているということ
無記にすべきことを
きちんとわきまえること
など
少し緩めると
どこぞも馬鹿がすぐ調子に乗って展開するから
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勘違いされる人がいると困りますので


大乗仏教は小乗仏教が原点にあることを
お忘れなく。
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経典は先人の知恵であり


それが社会にどう作用したか
温故知新とし
その知恵を現代の世界にどう反映させていけるか
その宗派を通してどう社会に関わり
大乗仏教と一括りにされる
その大きな船を救うことに夫々の宗派のその教義や知恵をどう今に適用させられるか
いまの大乗仏教に求められているのはそういうことなのではないでしょうか。
宗教はある宗派一色に染めようとすることが目的ではなく
色々な人の知恵の集積により
どうしたら大きな船を救えるか
その一点にあります。
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大乗仏教の大乗(大きな船)の対象が定まれば


派生する宗派の裾野はそれを覆うだけです。
地球に生息する
生きとし生けるもの
を対象とし
それを救うとはどういうことなのか

種を絶滅させることなく
人間の保護という形ではなく
自然な状態で
共生させる状態への
啓蒙と実践でしかありません。

人間同士も
宗教も
国家も
生きとし生けるもの全てを対象に
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ここは宗教のカテゴリではなく哲学のカテゴリですので、その観点から回答させて頂きます。



「南無阿弥陀仏」は信念の主張であって、事実の陳述を意図していないので、正しいか、間違っているか、の質問自体が意味が無いと思います。

仏教のいろいろな宗派の主張の何が正しいのか、どれを信じていいのか、という問題設定(質問)が非常に視野の狭い問題意識を反映しているようです。はじめからキリスト教やイスラム教やヒンズー教は排除して仏教の説法の範疇で、自己の信仰の選択を考えることに哲学的な意味はほとんど無いと考えられます。

(1)には既に適切な回答がなされていますので、(2)~(6)について:
「死後の浄土での極楽往生」は、少なくとも鎌倉新仏教(仏教革新運動といってよいでしょう)のリーダー達にとって、ある意味方便であり、彼らの主とした意図は現世での民衆の(圧政からの精神的、飢えからの肉体的)救済でしょう。この点をはずしたどんな解釈も意義が薄いです。
法然、親鸞、日蓮、等々は現実に支配階級の圧政に対して民衆の側に立って自己の信念を訴えていたのであり、現在の日本の多くの宗派の姿勢とは大いに違っていたわけです。もちろん、歴史的な制約や思想的な未熟さを現代の眼から非難するのは簡単ですが、彼らは座学の徒などではなく自己の信念の実践者(思想史的には革新者)であり、当時の支配層に対抗しうる「信仰」を民衆に広く普及させることをめざし、事実それにより弾圧されたわけです。

『浄土三部経』もいいですが、(たとえば)『歎異抄』の全体を理解する方がはるかに勉強になりますよ。本当に哲学として仏教を考えるのであれば.... 「方便」としての仏典をいくら研究しても、「南無阿弥陀仏」の思想の表面を知るだけで、中身は理解できないのではないですか....老婆心ながら。
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