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浄土真宗門徒の者です。
真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか?
その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

A 回答 (35件中1~10件)

 こんにちは。

ここに書くのは久しぶりです。私は浄土真宗のボーさんと呼ばれる立場でございまして、宗祖の七百五十回忌中に書きになかなかこれなかったのですがこの質問を見て、ちょっと回答してみたくなりました。

>>真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したらよいでしょうか?

とのことですので、この質問のテーマは「自灯明・法灯明の浄土教的解釈」というところかと思います。私としてはこのテーマにそってご相談させていただきます。

 原始経典といわれる『法句経(ダンマ・パタ)』にはお釈迦様のこんな一説がございます。

「もしも愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思えるものこそ、愚者というべし」

お釈迦様は自身の愚かさを知る者を賢者と呼ばれましたが、日本浄土教のスタートラインはまさに愚かさを知るというところにあります。それは、親鸞聖人の師匠である法然上人の『鎌倉二位の禅尼に進ぜられし書』のなかで

「はじめにわが身の程を信じて、のちに仏の願を信ずるなり。ただしのちの信を決定せんがために、はじめの信をばあぐるなり」

と説かれております。これは、「信機(機の深信)」と「信法(法の深信)」という思想を端的に表したものです。信機とは「はじめにわが身の程を信じて」の部分であり、自分自身が救われる縁・手がかりの尽き果てた罪悪深重の悪人であるという事を知りなさいということ。そして、信法とは「仏の願を信ずるなり」の部分であり、その救われる縁・手がかりの尽き果てた悪人だからこそ浄土へ迎えとってやりたいという阿弥陀如来の本願をいただくのですということ。これが日本浄土教の基本的な信の構造です。
 どうしても浄土教は解説本などを読むと「念仏さえ称えれば救われる」とか「信心があれば救われる」と信法ばかりが強調されてい、信機がおろそかになっている現状は大変悲しむべきことです。。


 さて、「自灯明」の話をしていきましょう。は仏教学者中村元先生によれば自灯明とは「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず」と解釈しておられます。

 bragelonne氏も引用しておられますが『歎異抄』のなかで唯円師は親鸞聖人のこのお言葉を紹介しておられます。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」

このお言葉は部分的に一読すれば「信法」を説いている部分に見えるかもしれませんが、実はそうではありません。ここに説かれているのは実は「信機」なのです。それは、唯円師はこの言葉に続けて中国浄土教大成者の善導大師のこのような言葉を引用しています。

「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみ常に流転して、出離の縁あることなき身としれ」

そして、唯円師はこの言葉が親鸞聖人のお言葉とまったく違いが無いと述べておられます。
 これはどういくことかといえば、『歎異抄』のなかには阿弥陀如来が誰のために本願を立てたのかという記述がもう一つあります。それは、

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

という、最も有名な悪人正機の御文です。これと、先ほどの「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」とを見比べて解釈いたしますと、阿弥陀如来が親鸞聖人を救わんがために本願を立てたのだとするならば、親鸞聖人ははまさに正機に当たります。ということは、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という悪人正機の正機である悪人とは親鸞聖人のことであり、親鸞聖人=悪人という式が成り立ちます。このように考えれば唯円師がなぜ善導大師の言葉と親鸞聖人の言葉が同じであるとおっしゃたかが分かります。
 つまり、親鸞聖人にとっての悪人とは自分以外の他人に対して向けられた言葉ではなく、自分自身にのみ向けられた言葉であることがうかがえます。

 さて長々説明してまいりましたが、何が言いたいかといえばこれが浄土真宗における「自灯明」ではないでしょうか。法然上人親鸞聖人以前の仏教は「どの教えが、真理か?」「どの教えが、深いか?」「どの教えが、正しいか?」という視点で説かれていました。しかし、法然上人親鸞聖人が叡山において悩まれたのは「どの教えが、自分自身にあっているか?」ということです。経典の甲乙を論ずるのではなく、罪悪深重の自分にのどの経典があっているか、というのが浄土教の視点です。まさに、これはお釈迦様の相手に合わせて説き方を変える「対機説法」の形態を取られたと言えます。
 このように、「自灯明」親鸞聖人は自身の機のつたなさを省みてそれを拠りどころとし、南無阿弥陀佛のみ教えを選ばれたわけです。しかし、「法灯明」そのみ教えをいただいてみればすでに阿弥陀如来が成仏されたときに示してくださっている本願の無碍の一道であったと気づかされたという事ではないでしょうか。

 これが私の考える浄土教における自灯明・法灯明の解釈です。

 後から読めば、なんだかごちゃごちゃしててわかりずらいですね。すみません。急ごしらえの為、推敲する時間がありません。誤字脱字乱文どうぞご容赦下さい。

合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

素晴らしい回答をありがとうございます。挙げて頂いた法然上人の言葉こそ、私がここで聞きたかった答えかもしれません。感謝します。

南無阿弥陀仏。

お礼日時:2011/09/18 00:03

indians さまこんにちは magga です。



気になったので僕の思うところを書いてみたいと思います。

僕の解釈の自灯明法灯明は
法(この世の法則性)=自(この世の法則)で
「生きることの検証・探求者であれ」と
全ての信仰を捨て去る革新的な言葉であると理解しています。

我々は生まれてより、数多なる言葉、概念に出会い、疑い、愛好し、信じ、騙され、信仰し、と、態度を決めていきますが

カーラーマ経などで説かれるように



どのような言葉でも概念でも、誰が説こうが、どのように説こうが、何にとかれていようが、人気があろうが、よく信じられていようが、論理的だろうが、それだけで信じるなかれ。

よく信じられていても、よく愛好されていても、よく思慮されていても、虚偽であることもあれば、その逆であっても、真実以外のものでないことがある。


その法が「不善で欠点があり実践しても有益でなく苦のためになると知るときそれを捨てなさい」「善で欠点がなく実践すると有益で楽(苦の減)となると知るとき実践しなさい」



と「根拠のある信」、納得と実践を重要視され、真理の護持の態度などで、各々が違う言葉概念を愛好している中で理性的に対話により理解を深める方法を示されるとともに、

ブッダが発見された境地を発見する道筋も科学の参考書の如く示して、自分のことも信じるなかれと、徹底的に調べろと。

そのようにして生命一人一人が、真偽混在の言葉概念の海の中、飲み込まれず自立できるように説いてくださった基本姿勢が集約された言葉が

「自灯明、法灯明」

だと僕は考えます。

<<釈尊在世時にも出家しないまま仏教に帰依した者は多数おり、釈尊は彼らをも無視しませんでした。>>

もちろんです^^

在家も出家も実践者なのですから、互いに支えあい最善に成長しあう関係を喜ばれたことと妄想します。出家が在家に法話瞑想指導したり、在家が出家に法話瞑想指導したり、皆探求・実践者として生活していたでしょう。

在家の方が成長しているケースもよくあるケースだと思います。

<<であれば、修行も出家もしない在家でも仏教の恩恵には与れるはず。>>

出家でも、在家でも実践によって善い方向に成長するというのが私が思う初期仏教の御釈迦様の立場です。

我々はどんな行為をしても、その方向に成長してしまうものですからw
八正道はよい実践規範になりますね^^
 
心の波を受ける(影響を受ける)という意味合いでは若干ながら全生命に恩恵があることとは思いますが・・・
心の成長、観察眼の鋭さの成長などの恩恵はないと思います。

念仏というサマタ瞑想によって心が落ち着き穏やかになる。
これも実践による、成長と僕は理解しています。


<<上座部のような出家至上主義になってしまったのは、第一回仏典結集が在家信者を交えず大迦葉らの阿羅漢によってのみ行われたため、彼らが優越する内容が正統とされてしまったと考えます。>>

僕はどこが出家至上主義なのかいまだに理解できないのですw

御釈迦様が覚り、そこに至る実践法を説いた→在家も出家も実践→各々が心の成長(智慧と道徳)→覚るだけの状態になった人は覚る。

覚った方は、在家生活は出来ませんし、実質出家状態、サンガがあればそこに赴くでしょう。

<< したがって、上座部も釈尊の真意ではありえず・・・>>

あと、基本、上座部はパーリ経典無改変努力派という立場であって
今ある経典それが全て事実であるという信仰ではないと思いますよ。

もちろん人間がすることですから、いろんな人がいますがw

その信仰をしてしまったら、真意から外れる危険もはらんでるとは思いますが^^

経典にあるからとて、師が語るからとて信じるなかれですからねw

徹底的に理性的に、納得と実践で観察し法にのっとって成長する。
それが僕の思う御釈迦様の教えの概要です。

何か思索の参考になれば幸いです。

~生きとしいけるものが幸せでありますように~
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この回答へのお礼

ありがとうございます。「自灯明、法灯明」についての解説はよく理解できました。上座部の有り様についても説明をしてくださりありがたいです。

敢えて気になった部分を挙げるとするならば、
>覚った方は、在家生活は出来ませんし、実質出家状態
これはそうとも限らないと思います。出家という形で悟りを開きながら俗世に混じり在家のような俗っぽい生活をした一休禅師のような例もありますから。

>念仏というサマタ瞑想によって心が落ち着き穏やかになる
法然上人登場以前の観想念仏ならそうだったかもしれませんが、浄土真宗の念仏は瞑想ではないし、心を落ち着かせるためのものでもありません。弥陀への帰依を表す言葉です。

お礼日時:2011/09/18 00:14

空海と最澄の決定的な違いは?






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教理自体は宗教を学んだ大元のものなのだろう。

。これは天台宗出はほぼ共通している教理と考えられるけれども

要は親鸞商人は自らの欲望に負けることを実践し、悪人も救われるのだというのを自らが宗教家として救われることで悪人正機説が成立する

という天台宗茶番劇の主役が親鸞商人だった
とか


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それとも、欲望を抑えられなかった親鸞聖人の教理とその実践には欠陥があってキリスト教やイスラム教のようになっていくのが浄土真宗の本質なのですか?





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また、イスラム教もユダヤ教から派生した宗教ですが、ユダヤ教と同じ解釈になるならイスラム教とキリスト教を統合する教理含まれているのですよね?



仏教は実践の哲学である
ですよね?


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;この宇宙に普遍的に存在する「自然の法則」(宗教的に言えば「真理」)を擬人化したものです



それでユダヤ教の神と同じ解釈になっていきますね
浄土真宗にキリスト教を帰依させられますか?

日本でいろんな宗派が共存するのと同じように
地球上で戦争ばかりしてるキリスト教をその教理によって帰依させられますか?



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あれ?



いや違った。。
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失礼いたします



下記の文頭
君とは
そのその更に下の回答者様のことで質問者様のことではありません
コピー再掲時に修正し忘れてしまいました

失礼しました
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民主党が言ってるような政策群とは地方分権化、外国人地方参政権付与という法的に国を解体させる土台を作ろうとしている


君が言ってるのはインタムライズムとかで地方から国を解体させようとしてる

貴方はどこの国の人なのか知らないけれど、かつてキリスト教宣教師が世界に派遣され国家侵略の先兵として機能してきた、そのものの精神構造になってしまっているということ

相手を尊重するということは相手を生かすということでもあり
キリスト教の立場で仏教の解体を言うこと自体、唯一神系が陥りやすい独善になってしまっている

貴方がキリスト教系にいてキリスト教会は解体する必要があるというなら、それはそっちの勝手で貴方がそのようにキリスト教系に働きかけていけばいいだけの話なのではないですか?

キリスト教会は解体すればいいと考えている
だからと言って仏教も解体すればいいという話にはならない

国家の中でいろんな宗派がそれぞれ排他的にならずに共存している状態で、日本の国家の中で誰もが住みよい社会になるような国を創ろうという一点を見ながら存在している状態であるということができる
これを可能にしているのが山川草木悉有仏性という考え方

何故限られた器の中で平和的に共存状態にある体系にあるものをわざわざ解体する必要があるのでしょうか

このことから言えるのは
むしろキリスト教がその教義が似ていることから浄土真宗に帰依するべきところなのだと考えられる


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