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浄土真宗のいち門徒です。
浄土真宗門徒は命終わる時、阿弥陀様のおはたらきにより浄土へ往生させていただく身でありますが、

わたしたち衆生の「なに」が往生するのでしょうか。
その主体とはなんなのだろうと考えることがあり、質問させていただきました。

私個人の考えは、「迷いの世界から救われるには阿弥陀様のはたらきにおまかせするほかないという信心」が往生するのかな、というところで止まっています。

どなたかお考えがあれば、お伺いしたいです。

できれば大まかな年齢・性別・社会的立場なども書いていただければと思います。

A 回答 (13件中1~10件)

 変易生死していたものが分段生死いたします。



一旦、私が死んで即、新しい身心に浄土に誕生いたします。

曇鸞大師、論註に穢土の仮名人甲、浄土の仮名人甲。

異に非ず、一に非ずと。

私が往生すると考えて差し支えないでしょう。
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まず、「弥陀の力により浄土に往生」ということ自体が架空の話であり、往生するとか、しないとかの以前の話で、元々、念仏の依教である無量寿経や阿弥陀経は釈迦の本意である法華経へと人々を導くための仮の教え、つまり、方便として一時的に説いた架空の話であって、いわゆる化導というものです。



たとえば、高い山を目指す時、人によっては道の険しさに躊躇したり、足腰の弱さに負けて断念しようとしたり、のどの渇きや暑さに堪えられず座り込んでしまう等の様々な姿があったとします。それらを頂上へと引率する者は、道はもうすぐ緩やかで歩きやすくなるとか、頂上の近くに来ているとか、しばらく行けば木陰の冷たい湧き水があるとか、それがたとえ真実でなくても様々に勇気づけたり、励ましたりして、何とか頂上へと至らせようと手を打ちます。つまり、対する相手に合わせて方便を以って導こうとするのです。

同様に釈迦も人々を法華経へと至らせんが為に、当時の人々の機根(きこん)、つまり、理解力や性格、あるいは欲するものや慣習等に合わせて種々様々な形で説いて行ったのです。これを随他意と言い、念仏の依教や金光明経や大日経、般若心経等々はすべてその類であり、早い話が法華経以外はすべて人々の機根に沿うように方便として説かれた随他意であり、本意、真実を説いた法華経はいわゆる隋自意となります。

ともかく、念仏の僧侶たちですら以上の点を弁えていない(仮に理解していても生活の糧の立場を失いたくない)ので、信徒の皆さんに釈迦の仏意と言うか、仏教の本来あるべき姿を説くこともないので、そのような疑問を抱くことになるかと思われます。

では釈迦が法華経を以ってして、人々に説き教えたかったことは何かと言えば、それは我々誰もが、つまり、老若男女、国籍を問わず、万民がその胸中に偉大なる性分を持ち合わせていて、それを発揮さえすれば、いかなる逆境、困難があろうとも行き詰ることなく、悠々と乗り越えて行くことが出来る。言わば『生老病死』という四苦を難なく克服して悠々たる境涯になるということで、その秘められた性分の存在とその開発方途を説きたかったのです。

昔も今も世の中の大部分の人は、この点に気付かずに、いわゆる宝の持ち腐れ状態のままで人生を終えているかと思われますが、実にもったいない話で、ちょうど油田や金鉱脈を持っていたのに、それに気付かず開発しないままで亡くなるようなものかと思われます。

ですから、仏教とは本来、我々の人生にとって最重要な点(仏教的にいえば一大事)を教えるためにあり、その開発の方途、つまり、自身の内なる強さをいかように引き出すかを教えようとして実教である法華経を説き、そこへ至らしめるために方便諸経を用いて50年ほどかけて導いて行ったのです。

ともかく、念仏に対する疑問同様に仏教全般に対する疑義を持たれて調べられれば『木を見て、森を見ず』の弊害に自ずと気が付かれて、仏教に対する視野が大いに広がるかと思われます。

当方は、仏教好きのただのオッサンです。

この回答への補足

法華経とはどのような行により性分が開発され、どのように救われるのでしょうか。

補足日時:2011/07/05 13:32
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「・・・・信心が往生する」とは、阿弥陀様が我ら全ての心中を刻々観察・記録なさって、あるレベルの信心に達した人々を「救う作業」を遂行してくださるとお考えのようです。

阿弥陀様とはたいそうなご努力と能力をお持ちなのですね。
ところで仏教の基本的認識の一つに「因果応報」があるそうです。すなわち「摩訶不思議な奇跡は決して起きない。あるべきものだけがあるのだ」とのことです。「奇跡を用いての救済」はないとの認識が阿弥陀様の願の根底にもあるはずだと小生は考えます。
念仏によって我らが往生できるものであるならば、「念仏に依らずにすでに往生している我らに気付く」ということが信心の効用であると信じます。「迷いの底の迷わぬ願い」が救われている対象でしょうか。
老人の一門徒です。
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 mmkyさんの「大悲は常に煩悩だらけの私の心を照らしているというのであれば・・・・・」にほぼ同感。

ポチしました。

 他力本願と云うけれど、実際は他力を思う心は“自力”と云えます。求め心と与え心が一つになってほんとうの信仰が生まれます。

 親と子。
 親の子を思う気持ちはいつでもどこでも。
 でも子は遊びに夢中で親のそんな気持ちは知らない。
 日が落ちて周りが暗くなって、不安になり初めて親の存在に気付き、家に帰ろうとする。

 親はいつもいつも子供の事を思っているというのに・・・・・
 子供は親の心に気付かない。

 親鸞上人のいう往生とは上人の云う“この身このままの私”が親の愛に包まれて安らかな気持ちになる状態を云っているように思います。
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私個人の考えは、「迷いの世界から救われるには阿弥陀様のはたらきにおまかせするほかないという信心」が往生するのかな、というところで止まっています。



○浄土真宗ですと
「き みょう む りょう じゅ にょ らい」で始まる正信偈のなかに
「煩悩障眼雖不見」「大悲無倦常照我」という語句があります。
直訳すると「煩悩の障害でみえない、でも、仏の大悲は常に我を照らしている。」
ぐらいの意味ですが、
ここで言う煩悩というのは日々のあなたの考えそのものですよね。あなたの考え、心といってもいいですが、それがあなた自身ですから、どんなに煩悩にまみれた私の心であっても、当然こんな煩悩だらけの私の心が救われる事はないかもしれないが、仏の大悲は常に煩悩だらけの私の心を照らしているというのであればそれをただ信じて、信心して、一生をおくろう。その結果煩悩だらけの私の心が仏の大悲にすこしでもかなうのであれば、こんな幸せなことはない。
というのが親鸞の信心ですね。それを往生といっていますね。
「き みょう む りょう じゅ にょ らい」という意味は「む りょう じゅ にょ らい」つまり阿弥陀仏に帰依するという意味ですから、帰依する主体は本来「心」ですよね。心から如来に帰依しますので、私の煩悩の心を救ってくださいという偈ですよね。
つまり、信心はきっかけでしかないのですね。往生するのは煩悩の心、煩悩の心とは言っても信心する心もその一部ですね。つまり往生の主体はあなたの心全体ということですね。

心は複雑怪奇ですが、あなたが日々考えていることの総体があなたですから、誰しも日々考えをチェックしないと本当の自身の心の総体を掴むのは難しいですよね。日々考えていることを書き留めてみるととんでもない自分であるわけです。心だけ見ると誰が極重悪人かわからなくなりますね。例えば、推理作家は毎日誰かを殺す方法を研究しているわけですね。これほどの極重悪人はいませんね。親鸞さんは女性が好みであったようですのでその類の煩悩は取りきれなかったでしょうね。つまり煩悩のない人などいないということですね。 哲学者より
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自分のすべてではないですか。


主観的な自分のすべてです。
でなければ、とても往生などとは呼べないでしょう。
主観的な自分とは、信心をもっている自分の存在感覚です。
そこには五感があり、意志があり、肉体に対する感覚もあります。
それらのすべてが往生するのです。
生けるが如くして往生できなければ、往生とはいえないと思います。

客観的には、この世のどこにも極楽など見当たらないのです。
客観的には、この世のどこにも阿弥陀様はいらっしゃらないのです。
客観的には、死ねば肉体は滅び、精神活動も停止したように見えます。
客観的には、往生の完全否定だけです。
でも違いますね。
信じるところに、極楽があり、阿弥陀様がいて、そこへ行く事ができるのです。
そこへ行く自分とは、業でしょう。
業という自分自身に他ならない。
業という生存感覚の自分です。
生存活動の集積ともいうべき業が、信心によって往生するのでしょう。
いわんや悪人をも、という業ですら往生できるのです。
そこには、信心という大きな架け橋が見て取れます。

極楽や阿弥陀様の存在を検証して確かめることのできた人は稀だと思います。
一般の人には分からない。
信心だけの盲信でも、仏の慈悲の導きにあやかれるのです。
そのことを誓願不思議というのでしょう。
如来の大悲の不思議力が衆生の縁にしたがって、速やかに感応を現す・・・というものです。
往生するという事もその一つなのでしょう。

信心さえあれば、間違いなく往生できるという確信が安心立命でもあります。
弥陀の誓願に嘘偽りはない、先徳の言葉に嘘偽りはない、と信じることが大切だと思います。

私は阿弥陀如来の脇持仏である観音菩薩にご縁をいただいた者です。
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三十半ばの男性、実家は真宗某派の寺です。



自分が居ると見なしたり、個別性が存在すると考える事を「迷い」と言います。つまり「往生する主体」と呼ぶべき個別性など存在しないのですから「なにが往生するのか」と言う問いは、本来なら成り立たないものなのです。無理矢理この問いに答えようとすると「浄土が浄土に往生する」とか「元ある姿に立ち返る」みたいな言い方をするしかありません。とは言え、いきなりこんな訳のわからない事を言われても困るでしょうから、少しばかりの説明を付け加えたいと思います。

質問者様もご存知の様に、我々凡夫が「迷い」から逃れるには、弥陀の本願力に預からねばなりません。何故なら、如何なる苦行難行をしようとも、煩悩によって煩悩を克服したり、迷いを以って迷いを打破する事は出来ないからです。

この点においては釈迦伝上座部も、自力禅宗も同じです。如何に智慧を磨き禅定を極めても、最後は弥陀の本願力に預からねば、誰一人として開悟する事は叶いません。小石が竹を打ったら悟ったとか、カラスがカァと鳴いたら悟ったとか、坐禅は心身脱落だ!と一喝されたら悟ったとか、弥陀の本願力の現われ方は様々ですけど、仏教が起こって以来、瞑想などによって完全自力で悟った例など、ただのひとつもありません。それ即ち、元々無い自分なるものが、自分など居ないと悟る事など、ありえないと言う事の証明でもあるのです。

本願力によって、自分などと言う者は居ないと悟れば、一切の迷いが晴れます。迷いや苦しみの根元たる個別性の死によって、迷いの無い世界に転じる事を「往生」と言い、迷いが晴れた後の世界を「極楽浄土」と言います。つまり、自分と言う迷いがあるうちは、とてもそうは思えないと言うだけの話で、実際には極楽浄土しかなかった、極楽浄土こそが全てであり、自分もまた極楽浄土であったと言う事実に目覚める事こそが、真の「救い」なのです。

真宗の教義は「平生業成」の一言に集約される様に、死後の冥福を祈る様なものではなく、生きている今、救われる事を説いています。そして万物に弥陀のはたらきを見出す者の目には、既に本願は成就し、誰もが救われていると映ります。この時、報恩感謝の念仏が、思わず口をついて出るのです。
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 ANo.5です。


 今、皆様のご回答を拝読しました。仏教って哲学であり理論をきっしり持っているんですね。
 だから無神論。魂?そんなものありやしないよ、っていうのも嘘を言っていないんですね。

 臨済宗の古い偈に
  そもさん、仏とは、乾屎橛
 っていうのもありますし、直踏というのもありますね。

 まぁ仏教は善男善女のめでたいお信仰とは違うようですね。
 そんなのじゃぁ間に合わない。ということでしょう。

 だから生まれてきたこと、ここにいること、死ぬということをどうなんかとわかることではないですか。
 誰が死ぬって?誰が生まれてきているって?
 誰も生まれも死にもしていないよ。
 て、私たちは教えられ、そうなんだと判りましたが。じゃぁ往生ってなんだ、ってなりますね。
 私たちって往生していませんか?どこに今いるんでしょう?
 実はそういう問題ですよね。
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 【わたしたち衆生の「なに」が往生するのでしょうか。


 浄土真宗のお友達や、僧侶の方はどのように仰せなのでしょうね。
 浄土真宗ということはさておき、一般に“往生”ってことなのでしょうか。
 ちょいと屁理屈ですが、【わたしたち衆生の「なに」】といわれると、【わたしたち衆生】の中にいろいろな「なに」があるんでしょうね。
 【わたしたち衆生】だというだけではいけないんですね。
 問題はその【わたしたち衆生】って何なのかってことでしょうか?
 そこで何と何を分離することになるでしょうね?
 【わたしたち衆生】とは【存在】だとか、【魂】だとか、【意識】だっていっても何も答えにならないんですね。
 【わたしたち】という複数は一体ですか?単に個別の集合ですか?それとも言い方としての表現ですか?
 【衆生】というのは何に対する存在呼称でしょうね?
 40数年、ヒンドゥ哲学での意識や自分というのを精進と勉強をしておりまして、“こういうことかな?”って書けないこともないのですが、それを縷々叙述したり質疑を繰り返していると、全部のヒンドゥ哲理をお話しすることになりますね。

 ですので、自分ということについて収斂しながら、ご自分で答えをお持ちになったらいかがかと存じますが。

 75歳男性。簡単なプロフィールをじこしょうかいしています。左のkrya1998をクリックしてください。
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50代、男性、幸福の科学の会員です。



>>わたしたち衆生の「なに」が往生するのでしょうか。

そりゃもちろん、魂とか霊といわれる私たちの肉体に宿っている本体部分のことですね。家や財産、地位などこの世のものに執着があるとか誰かに深い恨みがある場合、あの世の存在を信じていない場合、きちんと「あの世(天国)」に戻っていくことができないことがあります。
本当は、魂の存在って釈迦仏教なら当然のことなんですが、釈迦没後に「無我」の教えが誤解され「無我とは我が無いこと。つまり魂なんてものは無いというのが釈迦の教えである。」となってしまいました。
つまりは「無神論」「唯物論」ともいえるような教えに仏教が変質してしまったわけですね。

この見解は、仏教系の学校の多くがとっているスタンスみたいです。私の妻の叔父が亡くなったときに来た坊さんが、ひとおおりお経をあげたあと、いろいろとお話をされたのですが、「死んだら何も無くなる。全ては消えてゆく。」といったふうに取れるお話をしてゆきましたからね。たぶん魂の存在を認めたら、「おまえ、そんなこと信じているのかい?」と仏教系学校でバカにされるんでしょうね。

そんな見解なら、「お経とかいろいろな行事は死んだ人のためじゃあなく、生きている俺たちの気休めのためかい?」「死者の魂の存在を認めないなら、先祖もくそもねえだろう?そりゃ詐欺商法じゃあないんかい?」なんて思ったもんです。
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