幼稚園時代「何組」でしたか?

昔、子供の頃、学校で民主主義について先生に習ったこと。
曰く、「ある決めごとをするときに、みんなで話し合って、例えば5人の意見が4対1に分かれたとき、4人の意見に従うのが民主主義のルール。でも、同じ決めごとを5回行う機会があれば、5回に1回は少数派の意見を優先するべき。それもしないのは多数の横暴である。」
とても分かりやすい話で、当然のことだと思って聞いておりました。

月日は流れ、社会生活を送るようになってふと気がついたんですが、この基本ルール、守られてない場面が多いですね。
会社の同僚やグループでの飲み会や食事会で考えてみると、10人グループで希望を聞いて、7人が和食がいい、2人が洋食好き、残り1人がエスニック料理が好き、ってなったとき、10回に2回でも洋食に付き合ってくれることってあまりないと思います。まして、10回に1回、今回はエスニックを食べに行こう、とはならないですよね。
大体、毎回多数決を取って、みんな和食に付き合うのが当然みたいな風潮ありませんか?
少なくとも、私の周辺ではそんな雰囲気です。
これって、日本の社会に民主主義が根付いていないってことになるのでしょうか?
あ、もちろん、メンバーの中にエスニックアレルギーとか体質で食べられない人がいれば別です。あくまで好き嫌いの範囲でのたとえ話です。

A 回答 (7件)

 私も小さい時から母にも、可愛がってくれた恩師にも奇人と云われてきました。


 変人は普通がわかり、普通を生きられるが個性のしっかりしている人。
 お前はそれのできない、奇行的な奇人だと。小学校三年の時の、師範出て直ぐの大好きな先生で、中学校でも高校でも夜中中先生のお宅で過ごし、山歩きも連れて行かれました。
 でも先生は、奇人の少数意見を最後まで討議し、みんなにどれほど大事かを認識させてから結論を出させました。
 その間に私も考えを深めることが出来ました。

 民主主義は少数者の価値せいをどう認識し、どう扱うかが大事ですね。
 私はいつも異端であり、反逆してきました。だから普通のこともよく理解できる機会も得られました。

 問答無用で押し切ってはいけません。どこまで弱者を見るかは大事です。
 日本では自己主張を自分も抑える風習がまだ根強いのですが、そういう気持ちもほどほどがいいですね。
 転職する能力がなかったので、一つの大学の事務やで46年居まして、20代,そして30代の最初で労組の書記長をしていました。
 委員長は教授でしたが、私のデスクの側にきて何か一生懸命にどうでもいい事をお話になる。
 学生にも卒業生にも信頼されている先生でした。
 そのどうでもいいと思っていたことが、実は大きな課題、問題になるんです。
 先生はいつの間にか、言葉ももたず身分の不安定な弱い人の立場で考え、そのことを一生懸命書記長の私に話していたのだと、後でわかるんですね。
 私たちはいつもそういう大事な事を、みんなで無視して活動しがちでした。
 少数って大事です。隅っこって重要です。
 隅っこには不思議なことがたくさんあります。日本人も人類もまだ不慣れです。 
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
良い先生に教えていただいてよかったですね。
少数意見の考えを尊重しつつ、多数の幸せや利益に反映するという姿勢が大事なのですね。
単純に多数決で先に進めていくことは、私も真の民主主義だとは思いません。

お礼日時:2011/10/09 09:46

>>回答者様は食べ物くらいは多数の意見でも、とおっしゃいますが、逆にそのレベルならばたまに少数派の意見を採用しても、多数派あるいは全体の不利益にならないのでは、と思うのですがいかがでしょうか?



私は、あまり食べ物にはこだわらないというか、嫌いな食べもの屋に行くなら参加しなければいいと思うのですよね。また、少数意見を採用して、多数の人が嫌いな食べ物につき合うなら、全体の不利益が大きくなるのでは?なんて考えちゃいます。

まあ、食べ物については、女性が主導権をもつことが多く、男性はしぶしぶそれにつきあわされる方がわりと多いように思えますけどね。

まあ、飲み会が強制参加であるなら、少数意見も何度かに1回は採用すべきだと思いますが、自由参加であるなら、嫌なお店に行く予定なら参加しなければいいだけだと思います。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございす。
すっかりお礼が遅れて申し訳ありませんでした。
確かに仰る通り、飲み会が強制か不参加という選択肢が選べる自由参加かで、状況は異なりますよね。
私が想定していたのは強制参加のケースですが、この場合はやはり少数意見に配慮することも大事ですよね。

お礼日時:2013/01/12 21:59

民主制と多数決原理はイコールではありません。


しかし、現実には民主制は多数決で左右されて
しまう制度です。
現在は、選挙幾何学等により、多数決ですらありませんが。

それはともかく。
そういう現実をふまえて、民主制には「基本的人権」と
「司法制度」というセーフテイネットが備えられているのです。

いかに多数決といえども、基本的人権を侵害することは
ゆるされない。
非民主的に人選される司法の存在意義もそこにあります。
民主制なら裁判官も選挙で選ぶのが筋ですが、
それだと少数者、個人の利益が守れません。

例えに挙げている会社の飲み会はどうでしょう。
民主制が最も根付いている欧米は、質問者さんの
言うとおりのことをやっているのでしょうか。

行きたいやつだけ集まって行けば、
仕事が終わってまで会社の人とつるむのか、て
ところではないですか。

これはただの習慣の違いであり
民主制とはあまり関係の無いことのように思えますが。

関係あるとすれば、個人主義がどこまで徹底している
か、という問題のように思われます。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございす。
すっかりお礼が遅れて申し訳ありませんでした。
確かに、多数決以前に守られるべき基本的なことがらというのは存在するというのは、間違いないでしょうね。
また、個人主義で不参加も選択肢にあるような飲み会では、ことさら少数意見を配慮するほどのこともないということですね。

お礼日時:2013/01/12 21:53

民主主義ってのは単なる多数決のことじゃないですよ。


前提として意見の交換機会があることが必要です。開かれた情報によってこその民主主義です。

つまり、民主主義においては少数派は自らの意見を納得してもらって多数派の賛同を得たうえで多数派にとって代わることを求められているわけです。

エスニックに行きたいってひとはみんなにエスニックにいきたいを行動に出して訴えかける必要があるのです。
この行動をおこさないことあるいは意見交換の場がもたれないことこそが、民主主義が根付いていないってことになるんじゃないですかね?
(日本人の政治へ無関心さや密室でいろいろ決まるがまさにこれですもんね)
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございす。
すっかりお礼が遅れて申し訳ありませんでした。
正におっしゃる通り、少数意見が採用されるには多数派を説得できるくらいの理論を持たなくちゃダメですし、その機会である議論の場を設けない、あるいは数の力でまともに議論しないのが、真の民主主義じゃないですよね。

お礼日時:2013/01/12 21:40

日本では、学校等では、「多数の意見に従うのが民主主義」と教えています。



でも、しばしばニュースでも話題になる学校内でのイジメやそれに伴う自殺は、いじめる側が多数派であり、虐められる側が少数派です。そして、虐める側の多数派には、生徒や学生だけでなく、教師や校長、さらには、教育委員会までが隠蔽工作等で荷担することもあります。

なので、単純に多数派を良しとする民主主義では、タイトルにありますように「多数の横暴」ってのが発生するのは当然なんです。
本当は、「正しいことは?善悪の基準から考えてどうか?」ということで会社の飲み会についても考えるべきだと思えます。

そして、ちょっと前までは「正しさの基準」って「法律」あるいは「倫理」なんて言葉で表してきましたが、法律は証拠主義ですし、倫理はもう効力を失っている気がします。

たぶん、民主主義が根付くことよりも、「ものごとの善悪のを考える」ということでいかないとダメじゃあないかと思います。

そしてその善悪の基準を提示するのは、現時点では「まともな」宗教からしか出てこないと思います。
(アメリカの憲法も根本の価値判断のところは、キリスト教ベースみたいですからね。)

まあ、食べ物限定の話であれば、個人的には、多数派意見が支配してもいいかな?なんて思うのですけどね。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
私も、同じ考えで、民主主義≠多数決絶対主義だと思います。
単に、「多数の意見に従うのが民主主義」ではなくて、冒頭に掲げた説明をしてくれた私の恩師は、ちゃんと先を見通していたんですね。
飲み会の場所くらいで善悪の基準とかいうのも大げさかもしれませんが、少数派の意見も、その比率に応じて取り入れるのは全体の幸福にも繋がると思うんですよね。
回答者様は食べ物くらいは多数の意見でも、とおっしゃいますが、逆にそのレベルならばたまに少数派の意見を採用しても、多数派あるいは全体の不利益にならないのでは、と思うのですがいかがでしょうか?
ANo.3様の例の戦争のように絶対的な正義にかかわる場合は多数・少数の区別なく判断すべきでしょうけど。

お礼日時:2011/10/09 22:03

 小学校の先生の方式に従えば、1000人に1人が戦争をすべきだと考えたら1000回に一度は戦争を起こすことになります。

小学生向きの説明ではありますが、誤りです。実際には、参加者全員が、いずれの選択が自分の利害になるかではなく、いずれの選択がより自分の集団において正義が行われたと言えるにふさわしいのかという基準で投票することが民主主義の条件です。ですから、米価を決める際に消費者代表が値下げを主張し生産者代表が値上げを主張する、ただそれだけの社会は民主主義に値しません。彼らに必要なのは哲人政治、つまり善人による独裁です。

 しかしそうであっても我々には民主主義が必要なのです。その理由は民主主義の選択の結果が良いからではなく、選択の結果が良くても悪くても自分の属する集団のアタマの程度にふさわしい幸福または不幸を享受しているのだと数学的に証明出来るからです。哲人政治ではどの哲人が本当の哲人であるか、計算式がありません。集団の不幸の原因に関して諦めがつくという点に置いて、民主主義以上にすばらしい体制はありません。もしもすべての判断があなたに一任されたとしたら、あなたはベストを尽くしているにもかかわらず一人一人に負わせた小さな不幸が心に突き刺さりキリストの苦しみを味わうことになるでしょう。ネットの匿名掲示板に気楽に文句が書けるのも民主主義のおかげです。

 確かに我々は民主主義に値しません。それでも上の理由で民主主義を選ぶしか仕方が無いのです。現実の報道が報道の自由に値しないことと同じですな。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
正におっしゃるとおりですね。
みんなが自分の利益や欲求だけを前面に出すのではなく、他人もおもいやれる議論すべきですよね。
どんな優秀な人がリーダーになっても、その人に任せてしまうのは楽ではありますが危険ですよね。
ANo.2が述べられたように、ヒトラーも多数決で生まれたのですからね。

お礼日時:2011/10/09 10:00

>5回に1回は少数派の意見を優先するべき


 こんなルールは初めて聞きました。

 民主主義とは衆愚主義です。

 今までは政治化が指導力(強権力)をふるって衆愚政治化をかろうじて押しとどめていましたが、今では政治家が衆愚政治を推進しています。

 いやなら一人で行動しましょう
 私も一人で行動することが多いです。

 民主主義については、

  3人のグループのうち2人を占めればそのグループの意思を決定でき、
  5人のうち3人を占めれば5人の意思を決定できる。
  たとえ1億人で民主主義を実践しても、最初の1人さえ説得すればやり方しだいで意見は通る。

というのが真実です。

  ヒトラーも民主主義で首相になり権力を得たのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私はこう思うんですが、

民主主義≠多数決絶対主義
多数決絶対主義=衆愚主義

したがって、回答者様とは逆に、
民主主義≠衆愚主義
と考えます。

日本の社会って、会社の飲み会から国会まで、多数決絶対主義がまかり通っている、だから政党が派閥をつくったり国会で多数派裏工作をしたりしてるのでしょう。

やはり、そうではなくて多数派も少数派も同じ土俵で議論して、飲み会の例に挙げたように、少数派もそれなりに幸福を得られるようなやり方を編み出すのが、真の民主主義じゃないでしょうか?

お礼日時:2011/10/09 09:55

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