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キリスト教の話です。あまり詳しくないので教えてください。

すべての人間は罪を背負っているという考えはわかります

たとえば、なにか死ぬほど、つらいことがあったときに
「これはあなたの業が原因で、神から試練を受けているのだ」と信者はいいます・・

だけど、世の中には罪のない人間もいる。それは子供です。

神さまは、罪のない人間にまで罰を与えるのでしょうか?

子供が虐待されたり、殺されるのも神の御心なのでしょうか?
まだ、無垢で、罪を背負っていない子供にとって、
神さまから死を与える理由はなんでしょうか?
どう解釈すればいいのですか?

A 回答 (23件中11~20件)

>子供が虐待されたり、殺されるのも神の御心なのでしょうか



身も蓋もありませんが、その通りです。
神はそんなことに関知しないというのが正解でしょうか。
 
神の存在は物理法則だという方もいらっしゃいます。
この地球の存在自体が神の愛情ということもできましょう。

そこで生活する人間には自由意思が与えられています。
神は生存に必要な最低限のものは与えてくれます。
そこから先は人間の努力ということになります。

子供が虐待されるのは、社会の責任であり、国家の責任であり、
最終的には人類全体で共有されなければならない問題でしょう。
子供の虐待に限らず、資源の無駄遣い、暴飲暴食等、色々あります。

子供は使命を背負って、親に託されて生を受けます。
本来は子供と伴に親も成長するのが正しい姿です。
その生を虐待によって奪われるのは寿命だったのです。
それは人間の自由意思で行われことであり、神は関知できません。

そして生を奪った親には新しいカルマが発生します。
このような連鎖を止めるには神の存在を信じ、道徳心を高めることです。

これらのことにキリスト教もイスラム教も仏教も関係ありません。
宗教という枠を越えて活動する時代に入ったということです。
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まだ幼い子供が不治の病になり、死の恐怖と、孤独と絶望に打ちひしがれております。

神が居れば救ってくれるはずの苦難です。神が居らんことの証明ではないでしょうか。
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神さまは罪のない人に罰を与えますか?



○神様は全ての人に試練を与えるのです。善人、悪人に無関係にです。それが生きるという意味ですね。
試練を罰と取り違えてはいけません。罰は悪さをした時のみ与えられるものですね。
神さまは、「火の試練も水の試練も与えよう、強くなれ、我のようになれ」このように思われて人を創られたのです。「

無垢で、罪を背負っていない子供にとって、神さまから死を与える理由はなんでしょうか?
○これは子供に与えられた試練ではなく、両親や家族への試練です。子供は本当は先立つことを知っているのです。舞台劇で例えると、子供が切られ役を演じたということですね。逆もあるでしょ。子供の内に親が先立つときですね。これらは、神さまの弟子がシナリを書き、みんなで演じているということが本当のことなんですよ。舞台劇の裏ではみんな楽しく歓談しているでしょ。
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神様は罰を与えません。


一緒に苦しんではくれますが、
罰を与える神は悪魔です。

キリスト教の信者ですら思い違いをしています。
非常に残念なことです。

死は罪ではなく休息です。
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hasimoto35さん、ご質問読ませていただきました。



小さな子ども(たち)がひどい現実に直面させられていくのは、本当に心痛むことですよね。

ご質問と他の方々の回答を読みながら、まとめてみると以下のようなことがあるのだろうと考えています。

・人間は、すべて生まれながらにして罪人である。

・人間が罪ある者である以上、人間の世界に罪に伴う痛みが生じるのは当然のことである。

・罪のもたらす痛みが、弱者にむくことも多く、子どもたちが被害者になることもしばしばある。

・神は、そのような罪の現実に対する救いをもたらすために、イエス・キリストを救い主としてお与えになり、なお今も働いてくださっている。


あまりお答えになっていないと思いますが、気になる点があったら、さらにお声をかけてください。
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天に召されるという事は、罰ではありません。

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>神さまは罪のない人に罰を与えますか?



有り得ます。そのようなケースで世界的な事件となり、2000年の時代を越えて人々に語り継がれた事件が有りました。それはイエスが十字架にかかり私どもの罪のために死なれたことです。

自分のことで恐縮ですが、小学校の3年生のころ、友人と近くのお風呂屋さんに行って、棒キレをとってきました。それはチャンバラの刀にするためです。だれにも教わらなくても悪いことをしていました。

ここで述べようとしていることはそれでは生まれたばかりの赤ちゃんは罪を犯していないから罪が無いと述べようとしているわけではございません。むしろその逆で人は生まれた瞬間から心に罪を犯す要素としての自我があります。聖書では自己中心であるときすでにそれは罪であると述べております。罪とは結果だけでなく、罪を犯す性質も含めて罪と呼んでおります。

結果だけを判断基準にするのであれば、たしかにご指摘のような罪のない人がいるかもしれません。また罪が裁判などで明らかに成らなければ罪と呼ばれないのであれば、さらに多くの人が罪人とは呼ばれなくなります。

しかし聖書の見解は以下の通りです。:
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべてのひとは迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない。一人もいない。」ローマ3:10~12

>神さまは、罪のない人間にまで罰を与えるのでしょうか?

例えば、生まれつき目の見えない人を見てイエスの弟子たちは、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と聞きました。(ヨハネの福音書9章1節から3節まで)

イエスの答えは聖書によれば以下の通りです。:
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」

毎日数え切れないほどの不条理な事件が起こっておりますが、実は私にはその理由が多くの場合定かではございません。東北ではいまでも多くの人が家や仕事を失い、家族や子供や両親や兄弟を失っております。しかし私どもはたいした助けをすることができません。また本来責任のある政府や東京電力もその責任を回避しようとしていますが、そのような状況を改善するために私どもに出来ることは限られています。何を申し上げたいかと言いますと、聖書は第一義的に何か社会的な問題を解決するために人類に提供されているのではないのではないかということです。

ご質問者さんが純真な子供たちが虐待されたり、殺されたりすることを神様は見過ごして居られると述べておられるように思いますが、神様の関心はご質問者さんの罪からの開放が第一義の問題です。

>神さまから死を与える理由はなんでしょうか?
> どう解釈すればいいのですか?

聖書をお読みいただきまして、聖書の真に語りたかった内容をご理解いただけますと、ご質問者さんご自身の回答が上の質問に対して生まれてくるだろうと思います。その結果ご質問のような純真な子供たちが不幸な目にあうことが無いよう社会の建設をめざしたり、すこしでもそのような忌まわしいことがなくなるように人々の心をご自分が変わったように変えようと願うようになるかもしれません。
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 こんにちは。



 すべては 物語です。また 表現の問題です。
 あるいは 実際に《神》のことを話しているとしたら そうだとしても それは 神についての・人間の能力や次元における捉え方における限りで 仮りの話をしているということにしかなりません。

 要するに 神のことを われわれ人間は 何も分からないのです。
 (しかも 《かみ》という言葉を 人類は持っていますし これを《信じる》という言葉をも用いています。その限りで 上のような仮りの話や物語が その信仰の内容を仮りに(代理として)表わすものとして 持たれています。それは 良心と信教の自由という公理において 認められています)。

 ★ 神さまは罪のない人に罰を与えますか?
 ☆ 分かりません。
 ひとつには 本人は――そのおのれの存在のあり方において――分かるということかも知れません。そうでないかも知れません。
 もうひとつには 《分からない》という意味で 
  
   風は気ままに吹く。

 という説明のようなことが言われています。それは

   神は あわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者を
  いつくしむ。

 という意味です。あるいは

   〔双子の兄の〕エサウを憎み 〔弟の〕ヤコブを愛した。

 などとも書かれています。この双子の兄弟を分け隔てし えこひいきをしているという意味です。しかも 書かれていることによると それは まだ母親の胎内にいるときからだと言います。
 まるっきり分からない。ですよね?

 ★ すべての人間は罪を背負っているという考えはわかります
 ☆ これは 神の心すなわちと言ってよいほどのおのれの心 この心にさからって行為したという言わゆる原罪のことを言っているのですが けっきょくのところ この原罪は かのイエス・キリストの出現によってすでに ちゃらになりました。
 残っているのは 傷跡だけです。傷は癒されました。傷跡と言っても 母斑なども残っているかも知れません。あざや ほくろなどのたぐいです。
 傷口から突き刺さっていた矢は引き抜かれましたが 傷跡はまだ残っています。後遺症があるかも分かりません。

 ★ ~~~~
 たとえば、なにか死ぬほど、つらいことがあったときに
 「これはあなたの業が原因で、神から試練を受けているのだ」と信者はいいます・・
 ~~~~~
 ☆ 《業》は 行為という意味です。生まれてこのかた自分がおこなったことは それについて説明責任があります。それを言います。(それ以外の――前世だとかの――解釈は 屁の河童です)。

 言いかえると 上に触れた原罪による因果応報という見方は しません。ちゃらになりましたから。もともと 原罪も 癒されざる罪としてあったと考えることもないという意味です。それは 人間に自由意志〔による自由な――つまりは 自分の心に従うことも逆らうことも自由な――選択がおこなえる〕ということを言おうとしたものです。つまりは すでに触れましたが 自分の自由な思惟や行動など自己表現としての行為について説明責任を おのづから 負うという人間存在のあり方を言っています。

 ただし 《神からの試練》という考え方は それとして あり得ます。信仰において――信仰は 巡礼の旅路にもたとえられる人生としての動態ですから そこにおいて―― 試練をあたえられるという見方は あり得ましょう。――原罪と結びつけることは しません。

 ★ だけど、世の中には罪のない人間もいる。それは子供です。
 ☆ これは 子供であれば 何かを自由意志によって行なったというその行為について責任を問うことは まだむつかしい。という意味のほかには 次のように考えます。
 いま問題の原罪について 要するにそれは嘘をついたり偽りを述べたりして へそを曲げることですから 子どもはまだそういう・知った上での(つまり悪意の)嘘をついたりしたことはないとすれば・つまりないとしても けっきょくこれは 人間の自然本性としてそのようにへそを曲げうるという潜在性があると見ます。その限りで 〔すでに消されているところの〕原罪を 人類の一人としては 誰もが例外なく 負う――つまり 負っていた・つまりその後遺症はおよぶことになる――と見ます。

 ★ 神さまは、罪のない人間にまで罰を与えるのでしょうか?
 ☆ したがって ひとつに 後遺症が 運わるく ひどく及んだ場合もあるでしょう。ひとつに そんなことはお構いなしに 神がえこひいきをした結果 貧乏くじを引いた子どもがいるということかも知れません。

 ★ 子供が虐待されたり、殺されるのも神の御心なのでしょうか?
 ☆ 最終的には そうです。個別具体的には その虐待をする親たちの問題でもあります。その親たちとの共生を考えるならば 社会に生きる人間つまり回りまわってわたしたち一人ひとりの責任になります。

 ★ ~~~
 まだ、無垢で、罪を背負っていない子供にとって、
 神さまから死を与える理由はなんでしょうか?
 どう解釈すればいいのですか?
 ~~~~~~
 ☆ 本人に尋ねるのが いちばんだと考えます。子どもであっても 尋ねてみるとよいでしょう。まだ 言葉もままならない幼児でしたら そういう〔逆の〕えこひいきを受けたと考えます。



 以上は
 ★ キリスト教の話で
 ☆ はありません。組織宗教としてのその教義については 知りませんから。個人におけるクリスト信仰と 組織宗教としての・ないし社会集団を成す文明のごときクリスチアニズム(つまりいわゆるキリスト教)とは まったく別です。
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早離と即離の話も参考になると思います。


神と現実の不整合ではなく、現実の昇華の譬え話です。
神を疑う何故?ではなく、こうするという人の理想態が示されています。
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たいへんな思い違いをしておられます。

聖書は神は愛なりと説いています。

ルカによる福音書6章37せつ「人を裁くなそうすればあなた方も裁かれることはない。
人を罪人とは決めるな。そうすればあなた方も罪人と決められることはない。
人を許しなさいそうすればあなた方も許される。与えなさいそうすればあなた方も与えられる。
~~あなた方は自分の量る計りで計り替えされるからだ。」
イエスはこのように解いています。

ルカ18章15 マタイ19章13~15
子供を祝福する。
イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れてきた。
弟子たちはこれを見て叱った。
しかしイエスは乳飲み子たちを呼び寄ていわれた。
(子供たちを私の元に来させなさい。さまたげては成らない。
神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。
子供の様に神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。

子供が病気や事故で死ぬのは最大の悲しみです。それは神様のせいではありません。
私達は子供はイエス様のもとでその魂はイエス様とともに
神に守られ神の愛のもとで安らかであると思っています。

どうか新約聖書だけでもお読みになって、
分からない所はこのサイトでもご遠慮なく投稿されてください
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