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なぜ誰も教えてくれないんですか。
裁いている者が終わりの日に裁かれ、不法な者が表し示されるのは終わりの日であると書いてあるにもかかわらず、他の群れが間違っていると、永遠をかけて言い切っている以上絶対な証拠が必要なはずです。間違っていたら裁かれるわけですから、真理のことごとくを悟っており、絶対的な証拠と覚悟が出来ているはずです。
どの教理について行けばいいのか、荒廃をもたらす嫌悪すべき者が立ってはならない所に立っているのは誰なのかを死ぬ前に判断しなければなりません。聖句だけを使ってその句を証明する句を教えてください。

マタイ 5
「17 「わたしが律法や預言者たちを破棄するために来たと考えてはなりません。破棄するためではなく,成就するために来たのです。
18 あなた方に真実に言いますが,律法から最も小さな文字一つまたは文字の一画が消え去って,[記された]すべてのことが起きないよりは,むしろ天地の消え去るほうが先なのです。
19 それゆえ,だれであれ,これら一番小さなおきての一つを破り,また人にそのように教える者は,天の王国に関連して『一番小さい者』と呼ばれるでしょう。だれでもそれを行ない,またそれを教える者,その者は天の王国に関連して『大いなる者』と呼ばれるでしょう。」

ここで、「律法を破棄しに来たと考えてはなりません」と、「一番小さなおきて一つを破りそれを教える者は一番小さい者と呼ばれる」は「それゆえ」でつながっているので、律法が破棄されたと教える者も天の王国には関連しているのはここでは置いておくとして、破棄されていないのは間違いないですよね?

さらにイエスは、

マルコ 7
「8 あなた方は神のおきてを捨て置いて,人間の伝統を堅く守っているのです」。
9 [イエス]はさらに続けてこう言われた。「あなた方は自分たちの伝統を保とうとして,巧妙にも神のおきてを押しのけています。
10 たとえば,モーセは,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言いました。
11 ところがあなた方は,『もし人が自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみなコルバン(つまり,神に献納された供え物)なのです」と言うならば』と言います―
12 あなた方はもはやその人に,自分の父や母のために何一つさせないのです。
13 こうしてあなた方は,自分たちが伝えた伝統によって神の言葉を無にしています。そして多くのこれと同様の事をあなた方は行なっています」。」

ここで、いろいろと理由をつけても結局神のおきて、つまりモーセの律法を巧妙にも押しのけて神の言葉を無にしていると書いてあるので、上の句とあわせても律法を破棄したとはイエスは言っておらず、律法が破棄されたと広まることを予測してなのか、律法を破棄しにきたと考えてはならないと念をおしています。

さらに、イエスはおきてを守り行いなさいと言っていて、律法をいくつか例に挙げて言っています。

マタイ 19
「17 [イエス]は彼に言われた,「なぜあなたは善いことについてわたしに尋ねるのですか。善い方はお一人だけなのです。しかし,命に入りたいと思うならば,おきてを絶えず守り行ないなさい」。
18 彼は言った,「どの[おきて]ですか」。イエスは言われた,「ほかでもない,あなたは殺人をしてはならない,姦淫を犯してはならない,盗んではならない,偽りの証しをしてはならない,
19 [あなたの]父と母を敬いなさい,そして,隣人を自分自身のように愛さねばならない」。」

同じ場面のマルコだとおきての「隣人を自分自身のように愛さねばならない」の部分が「など」になっているので律法の例を挙げているだけだということはわかります。

マルコ 10
「17 [イエス]が出かけようとしておられると,ある人が走り寄って来てその前にひざまずき,こう質問した。「善い師よ,永遠の命を受け継ぐためには何をしなければならないでしょうか」。
18 イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません。
19 あなたはおきてを知っています。すなわち,『殺人をしてはいけない,姦淫を犯してはいけない,盗んではいけない,偽りの証しをしてはいけない,だまし取ってはいけない,あなたの父と母を敬いなさい』などです」。」

この時点であなたが知っているおきてとあるので、モーセの律法のことなのは間違いありません。
さらに次の句はかなり絶対的な言葉で、

マタイ 22
「36 「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」。
37 [イエス]は彼に言われた,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。
38 これが最大で第一のおきてです。
39 第二もそれと同様であって,こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。
40 律法全体はこの二つのおきてにかかっており,預言者たちもまたそうです」。」

律法全体は隣人を自分自身のように愛するを意味しているとまで書いてあるので、律法を破れば隣人を自分自身を愛すことはできないことになります。これだけでは足りないと続けて書かれていますが、律法が破棄されていないのは間違いないと思います。

イエスが徹底的に律法を守ることを教えているのはイエスだけではなく、当然神も、

イザヤ 48
「18 ああ,あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。
19 そして,あなたの子孫は砂のように,あなたの内なる所から出る末孫は[砂]粒のようになるであろうに。人の名がわたしの前から断ち滅ぼされることも,滅ぼし尽くされることもないであろうに」。」

と、ヤコブの家を再び島々から集め、全地に告げ知らせよと書かれている(イエスより後の預言)このイザヤ48の中でも、律法を守れば平安は川のようになると言っており、ダビデも人の務めは律法を守ることが「すべて」であると言っています。

伝導の書 12
「13 すべてのことが聞かれたいま,事の結論はこうである。[まことの]神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の[務めの]すべてだからである。」

さらに、イエスは一度も律法を破ることを教えていない証拠に

使途 10
「14 しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。わたしはいまだかつて汚れたものや清くないものを何も食べたことがないからです」。」

ペテロはここで、全ての食べ物が清いという意味が全ての人が清いであれ、全ての食べ物がきよいのであれ、イエスは一度も律法を破ることを教えていないのでモーセの律法で禁じられている食べ物は食べないといっているのは間違いありません。
この幻以降、全ての食物が清められたと悟ったならここではじめてモーセの律法中、食べ物に関しては清められたので守らなくてもいいことになります。しかし全ての食べ物が清められたのが、全ての人が清いという意味なのであればモーセの律法で禁じられている食べ物は禁じられたままだということです。
ペテロはいまだかつて食べておらず、今後も食べないと言っているわけですから間違いないと思います。

旧約聖書の律法は本当に破棄されたんですか?

A 回答 (4件)

   「旧約聖書の律法は本当に破棄されたんですか? 」とのご質問でした。

その点についてローマ人への手紙3章をご覧ください。特に19から22節にはこうあります。

   「さて,わたしたちは,律法の述べる事柄はみな,律法のもとにある者たちに対して語られていることを知っています。それは,すべての口がふさがれて,全世界が神の処罰に服するようになるためです。したがって,律法の業によって肉なる者が神のみ前で義と宣せられることはありません。律法によって罪についての正確な知識が生じるのです。しかし今や,律法からは離れて神の義が明らかにされました。律法と預言者たちによって証しされているとおりです。そうです,イエス・キリストに対する信仰による神の義であり,信仰を持つすべての者のためのものです。差別はないからです。」

   モーセの律法は神の完全な基準を示したおきての書でした。しかし、ユダヤ人はそれを完全に守り行なうことができませんでした。それで、その罪のための犠牲を常時捧げなければなりませんでした。ユダヤ人は神の友アブラハムの子孫の中でも選ばれた部族であり、最も神のおきてを守り得る人々とみなすことができたでしょう。要するに、ユダヤ人は全人類の中から抽出されたのであり、その彼らでさえもモーセの律法を守り行なえなかったということは、不完全なアダムの子孫である罪人はだれも律法を守り行なうことができないということを証明するに足るものとなったのです。ですから、不完全な私たちがモーセの律法を守り行なうことによって神のみ前で義と宣せられることはあり得ないのです。

   一方、完全な神の子であったイエスはモーセの律法を完全に守り行なうことができました。そのような意味でイエスは「律法を成就しました」。(マタイ5:17) それにより、モーセの律法は完全な人間にとって到達可能な基準であるという点が明らかになったのです。では、罪人であるアダムの子孫はそのような完全な基準に達することができるようになるのでしょうか。その点についてエフェソス4:11-13にはこうあります。

   「そして彼は,ある者を使徒,ある者を預言者,ある者を福音宣明者,ある者を牧者また教える者として与えました。それは,奉仕の業のため,またキリストの体を築き上げるために聖なる者たちをさらに調整することを目的としてであり,ついにわたしたちは皆,信仰と神の子についての正確な知識との一致に達し,十分に成長した大人,キリストの満ち満ちたさまに属する丈の高さに達するのです。」

   要するに、クリスチャン会衆はクリスチャンが「キリストの丈の高さ」にまで成長する目的のために設立されたということです。ですから、最終的に不完全なアダムの子孫も完全な神の子の基準にまで達するよう再教育が施されているわけです。ただしそのためには、「古い人格を新しい人格に」置き換えなくてはなりません。(エフェソス4:22-24)

   このように、モーセの律法という神の完全な基準は今のところ達成できないことが明らかになったために、もはやそれを完全に守り行なうことによって義なる立場を得ようとすることは全く無意味なこととなりました。しかし、その基準に達することが可能であることはキリストによって証明されたのであり、またその神の子の完全な基準に達するよう神とキリストが私たちに再教育を施してくださることも発表されました。上で挙げたローマ3:22の「キリストに対する信仰」とはそのようにして私たちが最終的に神の子の完全な基準に達することが「できる」ということを信じることであり、それは今まで挙げたような根拠に基づいています。それで、今はまだ不完全で罪を犯す者であっても、そのような「キリストに対する信仰」を抱き、キリストの弟子として神の道を日々歩んで新しい人格を培っていくなら、その人の(不完全な)行為ではなく、その「信仰」が神のみ前で義となるようになりました。

   また、モーセの律法を行なう者たちは「割礼」を重視していましたが、もはや割礼を行なう必要がないということを使徒パウロはローマ人への手紙の4章で力説しています。是非その部分を読んでみてください。私は「なるほど!」とうなってしまいました。実際、もはやクリスチャンが割礼を施さないということ自体、モーセの律法はすでに破棄された(守り行なうものではなくなったという意味で)ということを明らかにしているでしょう。(使徒15章のエルサレムにおける会議で正式に決定されたことが示されています。) このクリスチャンがモーセの律法をどうみなすかについては、使徒パウロが詳しく論じています。ローマからヘブライにかけてご精読ください。そうすれば、聖書そのものから直接答えを得ることができるでしょう。
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キリストは律法は世が終わる日まで続くとも言っています。




律法は律法だけ守れば良いと言うのではありません。


律法だけ守れば良いと言うのは人間の自我であり、そういう気持ちが律法の形骸化や単なる一儀式をすれば許されるという事をイエスキリストは批判したのです。



本来、律法は人間が罪を犯した場合、神(主)から許してもらう事で、人間勝手な儀式だけでの許しではないという事です。



モーセの律法は神(主)が人間の性を理解して作られた物で、本来の神(主)の律法よりもだいぶ甘くできている。


イエスは本来の神(主)の律法を伝えたのです。

マルコ伝にも記載してあります。




しかしながらイエスキリストは何故現れたのか、人々に聖霊と火によってバプテスマする為です



聖霊の愛を受け、人間の魂を復活をさせる為にキリストは現れたのです。
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聖書そのものが、大元であるはずのユダヤの書を各国の言葉に換えているもので、現在残っているものが真の原書であるというものは少ないそうです。


それがキリスト教になると更に都合のいいように変えられていますから、果たして真実の書が何を言っていたかを知る事は非常に難しいでしょう。
聖書研究かは皆この事を頭の隅に置きながら研究しています、原理主義者を除いて。
まして今の日本語はもちろん、フランス語や英語がマシだなんて考える事は愚かしいことです。
こういうのを論語読みの論語知らずとでも言うのでしょうか?

従って聖書の言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、常にその意図を探る必要があります。
研究者は複数の訳本を比較し、その中から真実を見出そうとしています。

とはいえ、歴史は繰り返すといいます。
つまり、聖書の契約を破棄したのではなく、自分の都合に合わせて解釈しているから歴史が戻っているのです。
但し、そこには若干の違いが発生すると思います。
即ちこのステージでは多分キリストは現われないし、現われても人類全部を救おうなどと考えないだろうということです。つまりみんながどうしているかではなく自分がどうなんだという事です。
結局聖書などを基盤とした宗教では博愛精神ではなく個人救済をしか目指せないということです。
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日本語版なんて意訳だよ。


聖書を語りたいなら原書を研究しなよ。
訳書で研究している学者なんてwwwwwwwwwwww
歴史的に古い訳書であってもそれは訳書の研究であって、原書の研究じゃないねw

宗教学やりたいなら原書でどうぞ。
少なくても英語版だな。
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