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における隣人愛とは何ですか??

A 回答 (6件)

愛は『命そのもの』と云っても良いものです。


従って自分の命をいとしむように。
隣人の命もいとしむと言う事ではどうでしようか?
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キリスト教における隣人愛は


新約聖書のサマリア人の譬話を読めば分かります。
ルカ福音書10章25節から37節にあるので、まずは読んでみてください。
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うーーん キリスト教は支配者が宗教を支配する道具として利用してしまったので、律法を否定した時、愛も消滅してしまったと思うので、、、


、、

その前身のユダヤ教においての隣人愛について解説というか、、、やってみようと思います。


えっと、、、、

ユダヤ教において律法は、モーセ五書を指します。
(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、身命記)


ハンムラビ法典というものが、古代にあった。
恐らくハンムラビという人が、それまであった不文律を、法に定めたのだと思われます。

例えば「目には目を。歯には歯を。」がハンムラビ法典でも有名です。


イスラエル民族においても、同じ法律がありました。
ハンムラビ法典は、身分により報いが違うが、イスラエル民族の場合、「奴隷の目を潰した主人は、奴隷の年季が明ける前に、奴隷を自由人にしなければならない。歯を折った主人は、年季が明ける前に、奴隷を自由人にしなければならない。」(出エジプト21-26-27)というもの。


で、他には「寄留者(奴隷のことですね)を虐待したり、圧迫してはならない。君達はエジプトでは寄留人だったからである」(出エジプト22-20-23)

というように、異国人に対して虐待の禁止を説いている。

他に「隣人の上着を質に取る場合、日没までに返さなければならない。 なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆うものだからである。 彼は何に包まって寝ることができるだろう」(出エジプト22-25-26)

つまり隣人が気に入らないから、借りた金を日没までに返せないなら、衣服はもらう ってのは駄目 ってわけです。


利害を共にする相手は愛するが、そうではないものは愛さないでは駄目と説いている。

利害関係が一致するものへの愛は、フィリアー。
利害が異なる者にまで覆うものがアガペー。
で、出エジプトはアガペーを説いているわけです。

他には「君の敵の牛あるいはロバが迷っているのを知ったら、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。 
もし、君を憎む者のロバが荷物の下敷きになっていたら、君は見捨てておいてはならない。必ず彼とともに助け起こさなければならない。」(出エジプト23-4-5)

このように敵対する相手も愛するようにと律法は説いている。


イエスが隣人愛を説いたとされますが、実は律法において既に定められていたわけです。


「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(レビ記19-18)


「心の中で君の身内を憎いんではならない。復讐してはならない。君の国の人々を恨んではならない」(レビ記19-17-18)


新約のマタイの5-43-44)に「君の隣人を愛し、君の敵を憎めと言われていたのを、君達は聞いている。しかし君達に私は言う。君達の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とある。


律法にも旧約のどこにも「君の敵を憎め」とは書かれていない。

そして、「迫害するもののために祈りなさい」も誤訳で、「神の義を追い求める者のために祈りなさい」じゃないか と。


律法は、同胞の社会で生きる根底の人をも救い、日頃利害関係が異なる相手も助けよ と説いているわけです。


律法を守らないと神と出会えないが、神と出会わなければ律法を守ることはできない。

キリスト教は律法を否定したため、神と出会うことは永遠にできなくなった。


では、キリスト教の隣人愛とは何か?
利害関係が一致する相手を愛するってことじゃないか と。

いやいや 貧乏の人を救済しているじゃないか?
ええ、その事によりもっと大きい儲けを計画して投資しているわけですよね。

パーティー券 一枚10万とかで開催されるらしいです。
で、オークションやって落札して他の人に「あの人はこんなものにあれだけ金を使える財力を持つ」と認識してもらい名を売る。
すると、パーティー会場では「今度お宅の企業と是非合同で事業をしたい」と儲け話がころがりこんでくる。
貧しい人たちへの寄付のパーティーは、実は投資談合の場なわけです。

で、オークションで多額の寄付をするわけで、貧しい人に手を差し伸べている名士と評判を得てさらにビジネスがパワーアップ。
それはもっと大きい利益のための貧しい人を利用しているだけ愛じゃない。

まっ 結局 律法から遠ざかった人たちは、利害関係が一致するものを隣人と呼ぶわけです。
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における隣人愛とは何ですか??



字の通りですね。汝の隣人を愛せよ。敵と見えるものをこそ愛せよ。
・・・なぜなら肉親を愛することは誰しもやってることだからですね。
動物を観察すると子供はかわいがってますね。でも敵は食い殺すでしょう。人間は動物であってはいけない、本来、魂が別れて個性化しただけですから人種の違い宗教の違い国の違いに関係なく、みんな本当の兄弟なんですね。イエスはそれを知っているからそういっただけなんですね。後のものが理解できなかったのでわからなくなったということでしょうね。
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tonetさま。

こんにちは。

「愛」については人それぞれいろんな意味があって、この言葉自体結構曖昧な言葉ですから。僕には明確にこれだとは言うことが出来ません。

なので、このように考えてみたらどうだろうと言うアイディアを書いてみたいと思います。

「愛」の中には「執着」「怒欲無知などの感情・煩悩」の自他に苦しみを生む部分と、「慈悲喜捨」のように清らかな、自他を苦しみの滅に導くものとが有ると感じます。

前者のエゴの部分が少なければ少ないほど、後者が多ければ多いほどに、自他に素晴らしい「愛」と言えるのではないかと考えてます。

出来るだけ「怒り」「貪欲」「無知」を増進させるものから離れるように。「慈悲喜捨」の心を増進できるものに近づくように。

人と関わることはベタベタしたり、踏み込んで付き合ったりするだけではありません。付き合わないのも一つの関わり方です。

毒蛇や肉食獣と相手のテリトリーに踏み込んで仲良くしようとしないほうがお互い良いでしょう。それも関係性の一つです。

同じように「怒り」「貪欲」「無知」を共に増進させるなら離れることも一つの選択となるでしょう。攻撃する人・盗む人・うそつきな人・詐欺師・・・離れたほうが自他のためになります。

影響がないぐらいの人格が整えば問題ないでしょうが。

なかなか無知な我々には難しいですからね。

ともあれ「慈悲喜捨」の増進のためになるようにいろいろ工夫して暮らすのがベストでしょうね。慈悲の瞑想なんていうのもあります。

すべての物に対して「慈悲喜捨」で接する事を「隣人愛」としてみては如何でしょう。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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 まづ


 ★ キリスト教 ないし 集団を組む宗教
 ☆ としてではなく 信仰つまりキリスト信仰としてお話します。
 教義としてではないという意味です。
 ただし そうは言うものの この
 ★ 隣人愛
 ☆ に関しては 信仰にとっても もしそうだとすれば 唯一の命令です。理性で考え実行するためのおしえではないですが 信仰を持つということは 隣人愛を志向するということです。
 でも 先ほどから おしえではないと言っていますが その意味は 
 ○ 信仰は たしかに 自分が選んだのですが むしろ 与えられた
 ☆ と受け取っているということです。つまり  
 ○ 隣人愛の実行も その実行の力を与えられて おこなうものである
 ☆ と受け取っているということです。

 ではその中身はどういうことか ですが まづ
 ▲ 自分と同じように 〔心を尽くし知恵を尽くし知識を尽くして 隣人を愛す〕
 ☆ と言われます。たぶん 自分を愛する以上に 他人を愛することは よほどのことでない限り むつかしいのだと思われます。

 では その中身とは何か。つまり 要するに
 ○ 愛とは 何か
 ☆ です。もっとも 一般的には
 ○ 愛とは 関係です。
 ☆ 関係というからには つながっているということです。嫌っていても 好きであっても 関係を断つのではない状態を言います。無関心ではないという意味です。
 この《無関心でいては 愛ではない》ということ これをもって お答えとしましょうか。《コミュニケーションを断たない》こと これでじゅうぶん大きな愛です。(切れないからと言って 話の中身をすり替えていては だめですよ)。
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