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 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が中心になるとは思いますが、天国や天使(み使い)といった概念を持った宗教の教義に関して質問です。

1、人間は死んで天国に生まれたら天使になるのでしょうか??それとも、天国の住民であっても天使とは違う者と扱われるのでしょうか??

2、また、天国に行った人間はどのような形で、人間界と関わりを持つとされているのでしょうか??それとも、天国に行った人間はこの世と関わりはもてないのでしょうか??
 
 天国や天使といった概念は、ギリシアや北欧の神話などが混ざり合って作られていると聞き及んでおります。ですから、一概にこうとは言えないものであると思いますが、どうぞよろしくお願いします。また、出来れば聖典や論書ような教義的な根拠を提出しながら、お話していただけると嬉しいです。無知な質問であるかもしれませんが、なにとぞご容赦ください。

A 回答 (20件中1~10件)

私はオカルト興味ないんで、簡潔にご質問に答えます。



>1、人間は死んで天国に生まれたら天使になるのでしょうか??
>それとも、天国の住民であっても天使とは違う者と扱われるのでしょうか??

人間が天使なることは、生前も死後もありません。
天使が人間になることもありません。
天使は人間とは別のものです。

>2、また、天国に行った人間はどのような形で、人間界と関わりを持つとされているのでしょうか??
>それとも、天国に行った人間はこの世と関わりはもてないのでしょうか??

基本的には、天国に行った人間はこの世と関わりは持ちません。
というか、時間的に、天国に行ったあとには、この世は存在しないというのが、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの共通の基本教義である「最後の審判」概念。

ユダヤ教の思想では、この世は終わりの時があって、そのときに
・天が割れたり地が割けたり天変地異でえらい騒ぎ
・これまでの死者が全員甦る
・そして甦った人間全員が「裁判」を受け、永遠の天国に行く者と永遠の地獄に落ちる者とに分けられる。
・それぞれ判決に従い、天国か地獄に行く。
・最後の審判は1回だけ。この世の世界はそこで終わる。

結構特殊な思想ですが、これはイスラームにも直接受け継がれています。
また、キリスト教も、旧約聖書・ユダヤ教を受け継ぐことにより、最後の審判を教義に採用しています。
(ナザレのイエスは、あまりこれには興味が無かったようですが、彼の死後の教会はユダヤ教教義を引き継いだ。)

というわけで、良い人間が天国にいった時には、もうこの世は今の形では存在しないのです。

なお、天使って結局、ユダヤ教でもイスラームでも、どんな存在(生き物)なのかよくわからないんですね。
旧約聖書読んでもコーラン読んでも、むかしからそういうのが存在する前提で書いてあるだけ。
(もちろん、キューピッドみたいな視覚的イメージは、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの天使とは無縁。
 聖書やコーランの天使は、ごつい男性または爺さんですね、どちらかというと。)
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>私はオカルト興味ないんで、簡潔にご質問に答えます。
fountainofsさんがどのような意味でオカルトという言葉をお使いかは文中でははかりかねますが、私も神秘主義的なオカルティズムにはあまり興味はありません。私が知りたかったことは、あくまで宗教学おける神学的研究としての問題だったので非常に助かりました。
 問1は多くの皆さんもそうである様に、外典偽典などの例外的なものを抜かせば、教学的に人間が天使となるのは不可能なようですね。
 問2にかんしては私の文章読解力が甘いので誤解も多いかもしれませんが簡単な文章にさせていただくと、天国に行くか地獄に行くかの判決である「最後の審判」が下るのは世界が崩壊した後であって、たとえ天国に生まれても自分が関わってきた世界はもうすでに存在していないということでよろしいでしょうか??また、その「最後の審判」を受けるまでは、死者たちはどのよう状態で待機するのでしょうか??
 お時間ありましたら、また教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

お礼日時:2008/01/15 15:52

[1]天国はマタイ福音だけにある言葉で、王国の意味です。

‘天’という字があるだけに空にある国として間違く使われています。空にある国の名前は、三番目の空、或いは楽園です「コリント後12:1~4」                                                             人間は死んで楽園に生まれることは出来ません。全ての人は霊が死んだままに生まれます。聖書は霊の字です。ですから、霊が死んだ人は、霊の字である聖書を読んでも、その意味をわかりません。霊が死んだ人の霊が蘇ることを生まれ変わるといいます「ヨハネ福音3:1~13」。ですから、楽園で生まれることは出来ないけれども、今、生まれることはできます。イエスキリストが十字架で流された血によって自分の罪が完璧に無くなったことを「心から信じる人」は、生まれ変わった、救われた人であり、楽園にいけます。                                                                       地上に居る時に救われた人は楽園に行きますが、救われて無い人は地獄に行きます。救われた人々は、復活すると天使と同じくなります「マタイ福音22:30」。                                                                                                 「2」「愛する者達よ、今は私達が神様の息子達です。私達がどのようになるのかは未だ現れなかったけれども、彼がお現れになると私達が彼と同じくなるということを知ってますが、それは私達が、その方そのまま、その方を見るからです。ヨハネ一書3:2」。このように、救われた人は復活して、その方そのままの姿に変わります。即ち、救われた人は復活して天使になり、天使達の体がイエスキリストの復活した体と同じだと言われています。                                                                                      復活されたイエスキリストの体は、肉と骨で出来ていて「ルカ24:39」、栄光ある体で腐らないだけでなく、見せることも隠すことも自由自在であり、壁も通り抜ける事が出来ます「ヨハネ20:26」。                                                               だから、ヨハネ1:22は、生まれ変わった者達には‘神様の息子達’になる権勢を与えたと言われていらっしゃるのです。                                                                        「3」根拠を書いてくれという貴方の求めは、立派な要求です。                                                                  この世の支配者は悪魔だからです「コリント後4:4」。ですから、聖霊に導かれ無い人は、悪魔に騙されて自分勝手なことを言っているのです。悪魔は、地獄を隠します。牧師だと言いながらも、悪魔について一切説教をしない人も多すぎます。聖書に50回も書かれてある地獄を何故説明しないでしょうか?彼らの神様は、聖書が言われる神様と異なるからです。神様は、愛のみだという霊的な詐欺師もいます。地獄を隠すのと全く同じです。そういう人は、自分が神様のようになって、聖書を判断している人々です。そうしながらも、自分は神様を信じていると言うのです「ヨハネ16:2」。                                                                                         聖書の中で高慢な人だけは救われた人が居ません。高慢な人々の父である悪魔も光の天使として現れます「コリント後11:11~14」。彼はいつも笑いながら神様の愛だけを言います。彼は徹底的に地獄を口にしません。彼は、信じる、信じると繰り返して言います。言っていることが、まるで神様が言っているように見えます。だから、光の天使として活躍すると聖書は言われるのです。「時に至ると、人々が健全な教理に耐え切れず、彼ら自身の情欲に従って痒い耳を楽しくさせてくれる先生達を多く置きます。また、彼らが彼らの耳を真理からそむけ、無駄話に回します「テモテ後4:3~4」。          
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。また、詳しく書いていただき助かります。
 これから、例に出してくださっているような書籍を当ってみたいと思います。自分自身がまだキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の教理をなかなか理解できずにいますので、もう少し勉強しようとお思います。ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/26 10:21

baka-hageさん ありました。

見つかりました。筆者不明ですが かなり視野の広い穏当な解説です。
 《死者への執り成しの祈りは可能か》
 =http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koshin/shin43.htm

 ・アウグスティヌスの扱いが 微妙にわかりにくい部分がありますが 全体として 明解に説明してくれています。

 ・ユダヤ・クリスチア二スムにかんして歴史的に扱ったあと たとえば 《現在では、この問題への見方は、大きく三つに分かれているように思います》として 次を挙げています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 1・死後の世界でも、一定の条件の下で、人間には霊的成長と救済の可能性がある。
 これは煉獄の教義を持つカトリック教会の立場です。

 2・人間の救いは、地上においてキリストを信じるかどうかによってのみ決まる。したがって終末においては、これ以外にいっさいの救いは存在しない。
 この立場は、主として福音主義系のプロテスタント諸派に多いようです。

 3・死者は、キリストへの信仰者も非信仰者も共に、キリストの恵みのもとにあるが、終末には、キリストにあって、人それぞれの行いに応じて正当な裁き/赦しが与えられる。だから、死者の救済については、人間は、死者の霊をキリストに委ねることができるのみである。
 これはプロテスタント諸派と東方教会の立場に近いようです。カール・バルトの使徒信条の解釈もこれに近いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 じゅうぶん価値のある文章です。
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この回答へのお礼

 返事遅くなってしまいまして申し訳ないです。何度も回答ありがとうございます。
 おぉ!?分かりやすい。全体的にまとめられてて助かります。これを基本にもう少し自分なりにまとめて行きたいと思います。
 どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/26 10:15

 《復活》――人間イエスの神の子キリストとしての そして かれにあやかってのわたしたちの――が 重要だと考えます。



   しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、
  と聞く者がいるかもしれません。
  ・・・
   死者の復活〔は〕・・・蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないも
  のに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、
  蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
   つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の
  命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは
  命のある生き物となった」(創世記2:7)と書いてありますが、最後
  のアダム(=キリスト・イエス)は命を与える霊となったのです。
   最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次い
  で霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、
  第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からで
  きたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に
  等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっている
  ように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
  ・・・
   兄弟たち、・・・わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたち
  は 皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異な
  る状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬
  のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、
  わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、
  この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ち
  るべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着
  るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

    死は勝利にのみ込まれた。
    死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
    死よ、お前のとげはどこにあるのか。
      (イザヤ書25:8の意訳)

   (パウロ:コリント前書15:35-58)

次は プロテスタントの一つの宗派の信仰教理です。信頼のおける内容でした。

 全体のもくじ:http://yukinoshita.or.jp/tsuushin/#k
 《復活の命》の項:http://yukinoshita.or.jp/tsuushin/k0509.htm

 重要と思われることは 次の項目・用語の区別だと思います。

   神:霊
   ・・・その使い(天使):不死で霊ではある
   人間:肉(=身体および精神)

しかも 慣用としては 

  肉は 身体とそして感性としての魂( anima )とから成るとも見る
  身体と精神に 霊が宿るという表現をする
  この霊のことを 魂ということばで表わすこともある

 《復活の命》の項で重要だと思われるのは もちろん霊の体としての復活なのですが その前提としてのように たとえば 次の指摘だと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 崇高な霊と汚れた体が対立しているのではありません。対立があるとすれば、一方に、生まれながらの肉としての人間、すなわち、罪に捕らわれた魂と罪に仕える体があります。そしてもう一方に、罪〔が〕赦され、贖われた魂と義のための武器としての体があるのです。
 聖書には元々、物質や体を悪いものと見なす考えはありません。・・・
(ハイデルベルク信仰問答講話 その20 「復活の命」)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしには 死後のことは よく分かりません。正直に申せば パウロのことばや 上の解説について 感覚として分かるようにも じつは 思いますが よう説明しません。
 長くなりましたが 次の文句は たいていは通り過ぎてしまいがちだと思われるので さらに掲げさせていただきます。

   永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣
  わしになったイエス・キリストを知ることです。
   (ヨハネ17・3)

    目が見もせず、耳が聞きもせず、
    人の心に思い浮かびもしなかったことを、
    神は御自分を愛する者たちに準備された。
     (イザヤ書64:4の意訳)
   と書いてあるとおりです。
    (コリント前書2:9)

 わたしには分からないことですが このご質問の応答の中に 掲げさせていただきたいと思います。
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この回答へのお礼

 たびたびありがとうございます。お礼は上の質問にまとめさせていただく、ご無礼お許しください。

お礼日時:2008/01/26 10:12

聖書的な法則は契約なんです。

信じなさいそうすれば救われます
信じないなら救われません。信じていないのに祈りました。神様は私の言う事を聞いてくれませんと 
(ある意味で浄土教の教えかな南無阿弥陀仏と唱えれば)
もう一つは私の力では信じる事が出来ない。聖霊が宿ったという言い方もあるし、
門をたたきなさい!そうすればあけてもらえるでしょう。そんな感じで
一つのキリスト教の中に大乗というのかな、自分の信仰で開いていく
そして小乗というのかな、祈れば助けてもらえるその要素があり、
その方がどの聖書の言葉によって自分の思いを変えていけるのか?
その方の経験と言うことになると思う。
まあその方と神様の契約によって、信じる事が出来るのであって
同じクリスチャンであっても他人はわかりません。
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この回答へのお礼

 遅くなって申し訳ないです。たびたび回答ありがとうございました。
>>一つのキリスト教の中に大乗というのかな、自分の信仰で開いていく、そして小乗というのかな、祈れば助けてもらえるその要素があり、その方がどの聖書の言葉によって自分の思いを変えていけるのか?
 ここでは、自分の信仰を多くの人に広めていくことを「大乗」と呼び、祈りで自分自身を救っていただくというのを「小乗」と呼んでいるということでよろしいでしょうか。そういった二つの側面を持ち合わせながら、聖書とのかかわり、その上での宗教的経験が重要ということでよろしいですかね。
 ちょっと私の解釈なのかもしれませんが、そこは大目に見ていただきたく思います。
 ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2008/01/26 10:11

次が カトリックの信仰要理(カテキスム)です。


http://www.vatican.va/archive/catechism/ccc_toc. …
残念ながら 日本文でのものは まだ見つかりません。
中で
   SECTION TWO: THE PROFESSION OF THE CHRISTIAN FAITH
   CHAPTER ONE: I BELIEVE IN GOD THE FATHER
   ARTICLE 1: "I BELIEVE IN GOD THE FATHER ALMIGHTY, CREATOR
       OF HEAVEN AND EARTH"
    Paragraph 5. Heaven and Earth
I. The Angels
II. The Visible World

の 天使 の項目ですとか 次の項目での 復活 最後の審判 天国と地獄 などを読みましたが これまでの回答とちがった特別の内容は あまりないように感じましたが 読みそこねているかも分かりません。

   CHAPTER THREE: I BELIEVE IN THE HOLY SPIRIT
    ARTICLE 11: "I BELIEVE IN THE RESURRECTION OF THE BODY"
I. Christ's Resurrection and Ours
II. Dying in Jesus Christ

  ARTICLE 12: "I BELIEVE IN LIFE EVERLASTING"
I. The Particular Judgement
II.Heaven        
III. The Final Purification, or Purgatory.
IV. Hell
V. The Last Judgement
VI. The Hope of the New Heaven and the New Earth              
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この回答へのお礼

 英語訳すの大変でした。僕英語の成績2しかとったことないもんですから(笑)自慢じゃ有りませんが、英検五級落ちたことあります(爆)
 まぁそんなことはさておき、回答ありがとうございました。信仰要理のまとめですね。箇条書きであったので、分かりやすかったです。
 自分自身もう少し聖書等を呼んでまとめていきたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/16 11:43

>現代のキリスト教教学において、人間が死後に天国へ行った場合、天国とは具体的にはどのような場所として説かれているか?



私が知る限り、どんなところか具体的にキリスト教会は示していません。

ダンテの神曲などの世界は、筆者の脳内で描いた空想で、現実存在しません。

もともとエデンの園とかシオンとか、バラバラになったイスラエル人たちが帰還し一緒に暮らすことを想定した世界だったと思えます。
それは一つの思想に全ての人々が賛同し、仲良く暮らす社会。
みな共通の認識を持ち、共通の価値観を持っている世界だと、内部では争いは起こりません。

それが不可能なので、現実バラバラになったわけですよね。
統一して一つになってしまったら個を失う。
そのことを念頭において、もう一度、本当に全人類が個性なくたった一つになることをあなたは望むか考えてみると、統一して一つになる世界は本当に必要であるか、わかるんじゃないかと思うんですね。

そうなると停止しますよ。
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この回答へのお礼

 たびたび、ありがとうございます。
 やはり、ダンテの神曲であったとしても教学的に証明できるものではないと言うことですね??
 なるほど、
>>もともとエデンの園とかシオンとか、バラバラになったイスラエル人たちが帰還し一緒に暮らすことを想定した世界だったと思えます。
そういった、想定の基天国というものも形成されていったと考えれば、自然ですね。勉強になります。
 根掘り葉掘り質問して申し訳ありませんでした。多くの知識を得させていただきました。なんとなく輪郭がつかめてきたように思います。ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/16 09:38

天使というのをどこまで広げるのか?生きた人を守るためというのなら


仏教の考え方にもある意味で含みます。
また旧約の中でも新約聖書の中でも一応書かれてるような感じですね

そんなことで将来は医者か牧師になりたいと思っていたケイシーは、とある体験をすることになる。彼がいつものように聖書を読み終えて森からの帰宅の途上に突然自分の名前を呼ぶ声が聞こえその声の方を振り向くと、そこには光につつまれた女性の姿が見え、彼女はケイシーにこう語りかけてきた。 とエドガー・ケイシーのHPに書いてますね

ただ教義的な裏づけというより見えるかどうか?でしょう。
聖書の中にもすべての人が預言し・・・と書いているしね。
実際に死んだ人が現れてガンを治したと友人から話されたりするとね
後は信じる事が出来るのか、信じる事が出来ないか?この2つであって
信じる事が出来ない人からみればいくら考えても理解できない世界なんですね。幽霊を見た。感じるという人は絶対にいる。というし
見えない側から見ればいないというしね。(そりゃ見えないから信じてくださいと言っても無理じゃないかな)
信仰というものがそうじゃないかな?
信じれるときが信じる時、信じられない人にいくら声をかけても絶対に無理、そこに何らかの力が一人一人の中に宿った時に見える
仏性というのかな?(違ったらごめん)

後死んだ後は天使や住人という分ける事はないと思います
すべてが兄弟姉妹の関係ですから

興味あるなら祈ってください。
時々マリア様が枕元においでくださり
暖かく感じると言う方もいますね
その経験でマリア様に祈ってると言う感じじゃないでしょうか?
僕たちには見えないけど彼女たちには見えるんだと思う

仏教はある意味で理論的だけどクリスチャンはどちらかと言うと感覚
経験、神秘的なものを持つ宗教で納得できないかも・・・
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この回答へのお礼

 たびたび、ありがとうございます。
 たしかに、
>>ただ教義的な裏づけというより見えるかどうか?
ということにも納得します。「見える」つまり信仰の実践による経験ということですよね。
 仏教においても、仏性(仏になる種といえば分かりやすいですかね)ということが出たので少しお話させていただきますと、仏教には「山川草木悉有仏性」という言葉があり、まぁ解釈にもよりますが日本仏教の主流といわれる仏教各派においては「仏性はどなたにでも有無を言わさず全ての人に有る」といいます。ただ、私自身は仏教実践の経験から自分の中に仏性があることを見出したことは一度たりともありません。けれども、私は「仏性などない」とは思っていません。あくまで「仏性は教理の前提として存在しているが、実践の場において私には見ることがかなわない」という意味です。
 そして、仏性を見出すことのできない者がどうすればよいか?という実践経験の立場に立った仏教も存在しますが、その根拠も経典によるわけです。つまり、信仰教学(理論)と信仰実践(実践)というのは、表裏一体でありながらも、そこにはどうしても誤差が存在します。どちらによるかということなんでしょうが、たとえ実践的な立場たったとしても、教学の上に立った理論がなければ信仰ではなくただの絵空事になってしまうとおもうんです。

>>実際に死んだ人が現れてガンを治したと友人から話されたりするとね後は信じる事が出来るのか、信じる事が出来ないか?
確かにそうですが、「私はキリスト教を信仰していたから、神が亡くなった人を私の元につかわしてガンを治してくれた」といわれたら、キリスト教の教義的な論拠がなければ私は信じられません。教義的な裏づけを取ったとしても、私がキリスト教を信仰するということではありませんが、その人の宗教実践の経験としては信じるでしょうね。

>>仏教はある意味で理論的だけどクリスチャンはどちらかと言うと感覚経験、神秘的なものを持つ宗教で納得できないかも・・・
たしかに、そういった面はあると思います。けれども、キリスト教であったとしても教学を基にした「感覚経験、神秘的なもの」を体系化していると思いますよ。宗教ってある意味知識と経験の積み重ねではないかと思うんです。
 なんか長々お書きしましたが、ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2008/01/15 16:55

No.10の補足です。


(1) 神は 霊であり 人間は 肉(身体と精神)に作られており 天使は 肉ではないが 神なる霊そのものでもない従属者として想定されているようです。

 ・《天使たちよりも わづかの間 低い者とされた》(詩編8:5)イエ
  ス
  (ヘブル書2:9)
  (* つまり 肉に作られた存在=人間となった)。

 ・神は人間を天使のように すなわち罪を犯しても決して死ぬことはない
  ように造ったのではない。けれども 人間が従順の義務を完全にはたす
  ならば 死は介入することなく 天使の不死と永遠の至福とが与えられ
  るようにと造ったのである。
  (アウグスティヌス:『神の国について』 13・1)


 ・世あるいは世の部分を支配するあの権能(サタン)によって神を問い求
  める人々は神から引き離され遠く散らされる。・・・それゆえに かれ
  らは聖なる天的な権能について語るのを聞き あるいはそれをあれこれ
  と思っても 人間の弱さを驚異させるかれらの業(* 知力あるいは統治
  能力)を願望するが それによって神の憩いが与えられる敬虔を倣おう
 としない。かれらは敬虔によって天使の存在を欲するよりも 高慢によっ
  て天使の能力を欲する。
   (アウグスティヌス:『三位一体論』8・7)
   (* 神の声を聞くことができるようにと《天使の存在を欲する》より
  も 不死なる《天使の能力を欲する》というような意味だと考えます)。

(2) 人間は人間でありつづけ 天使は天使でありつづけるという想定だと思います。どちらにも 善悪のちがいもあるようです。また 死後の人間が 生者に《還相回向》するというよりは どうも 生者のほうが 死者に祈りをささげるというような情況として捉えられます。

 ・しかし人間の死と最後の復活との間の中間時 魂は隠れた所に閉じ込め
  られ それぞれ肉体において生きていたとき得たものにしたがって休息
  もしくは苦しみを受けるのである。
   故人の魂のために 仲保者(キリスト・イエス)の犠牲がささげられ 
  たり あるいは教会の中で施しがなされるとき 現在生きている近親者
  の敬虔によって 故人の魂の重荷が軽減されることを わたしたちは否 
  定してはならない。しかしこれらのことは 死後これらのことが自分た
  ちの益になるように 生前ふさわしく生きていた人々にとって〔のみ〕
  益になるのである。
   実際 死後これらのことを必要としないほど善くはないが 〔そうか
  と言って〕死後これらのことが役に立たないほど悪くはない生き方もあ
  る。・・・(* といろんな場合が挙げられていきます)。
  (アウグスティヌス:『信仰・希望・愛(エンキリディオン=手引き・
  入門)』赤木善光訳 6・4)

 このあとは 最後の審判へとすすむということのようです。(審判の前に すべての存在が 復活するということのようです。悪なる存在は 罰せられるために 復活してくるというかたちのようです)。
 推し測った限りでは 人間は 天使のような存在になるのであって 天使になるのではないようです。不一ですが。
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この回答へのお礼

 すいません。一つ一つ読んでいたもので、前のお礼で質問したことがすでに回答があるとは考えていませんでした。失礼しました。
 なるほど。キリスト教の教義においては、人は天使のようにはなれるが基本的には天使にはなれないし、現在の仏教のように死者は生者見守り導き生者も死者を供養するというような考えではなく、生者から死者に関わりを持つと言うことでよろしいでしょうかね??
 いろいろありがとうございました。なんとなく分かってきた様な気もします。もうしばらく、勉強してみたいと思います。

お礼日時:2008/01/15 15:16

No.3です。




>ティアマトの神話(『エヌマ・エリシュ』)の話は私も簡単には勉強したことがあります。
>確か19世紀ごろに解読されたものだと記憶しています。

そうです。
その内容をご存知なら、話が楽になります。
いくつも同じような内容が、両者の文学の中にありますよね。

例えばエヌマ・エリシュでは神々が戦争をしましたよね。
神々が増えてしまい、うるさくなって、安息できないとアプスーが怒り、ムンムが「やっつけてしまいなさい」と口ぞえをしたため、アプスーはその気になった。
ところがエアはそのたくらみを知り、アプスーを殺してしまった。
そして今度は息子を使ってティアマトを殺してしまった。
その時、神々はまっぷたつに別れて戦争をしたんですよね。

で、エノク書でもやはりまっぷたつに別れて戦争をしたのですが、翻訳のせいかわかりませんが、神々じゃなく天使たち ってなっているんですね。

ハルマゲドンは最後の審判っていう話ありましたよね。
よくよく聞くと、天使 VS 堕天使の戦争のことらしい。
メキドってところが古代の戦争の激戦地だったらしく、もしも起こるのなら、メキドの丘ってことになったらしいです。

確か、ローマに包囲された熱心党の党員達が自決したところだったと思います。
2000年ほど前のできごと。

で、一方では神で一方で天使ってなっており、どういう定義なのだろうって不思議に思ったんですね。

で、考えたんです。
エヌマ・エリシュでは神々となっているが、ギリシャ語に訳されたとき、天の使いという意味になったんじゃないかと。

最初の天使はエルがついていませんが、だんだん エルって言葉がつくようになっている。
でもエルって「わが主」って意味で名前じゃあない。
神様の名前を直接言ってはならなかったエヌマ・エリシュの物語を持っていた人々は、エル つまり 我が主って呼んでいたわけで。
そりゃあ 虹の契約がありますから、人間にとっては神々は主人ですから。

創世記のエロヒム つまり 神々って書いてありますよね。
三位一体と考えればおかしくないという人いますが、素直に神々と訳していいと思うんですね。
元の物語ではアプスーが安息日欲しさに自分の子孫たちを殺そうとしたっほど、神様はうじゃうじゃいたんだから。
あくまでも、この物語の中ではたくさんいたことになっています。

ということは元ネタでいけば、天使=神様ってことになります。

ということは、(1)は<人は神になれるか>

答え:人間が会議で決定すれば人は神になります。

クムラン宗団は、終末論を保持しており、エノク書に神々の最終戦争が予言されていると思っていたようです。
光と闇の子の戦いが予測されており、エノク書からその戦争が起こる粘土を特定したんですが、その年になっても起こらなかった。
それで計算間違いしたとされたようです。
今のように一年は365日じゃなかったし、いろいろ暦が入り乱れてしまい、どの暦で計算すればいいのかわからなかったみたいです。

ただし、キリスト教となったであろうクムランの分派は、イエスの出現を最終戦争の始まりだと思っていたフシがあります。

で、クムランは本来の大祭司の家系の人がリーダーだったようです。
彼らは階級制度がとても厳密にあり、その階級の上の方はガブリエル とか ミカエルなどの肩書きを持っていたんじゃないか って見方があります。

となると、ガブリエルもミカエルも人間に違いないことになります。
ってことは、集団で「ガブリエル」と認定された場合、ガブリエルになるってことです。
会議でやはり決定するんじゃないかと思います。
上位になると、なかなか平信者には顔を見せなかったようです。
いわゆる天上人ってわけですね。


2.信者がどれだけ聖書を理解しているか試験したりするんじゃないでしょうか。
「天の国に行くことは、ラクダが穴を通るより難しい」みたいなことをイエスが言ったとされますが、ある説によると(トンでもとも言われていますが)、ラクダという意味を持つその文字は、今でいうなら神学校の卒業真近のランクのことだったとか。
ラクダが穴を通る = 神学校の卒業試験にパスする より天の国に入ること つまり 天使の肩書きを貰うことはずっと難しい という意味 だったのかもしれません。

神学校がどの程度だったのかわかりませんが、ある説によると、入学ですらかなり難しかったらしいです。

天上人になってしまったら、人間界というか平信者の元には現れなかったようです。
律法を否定した、、、誰だったか忘れましたが、処刑さた人いましたよね。
聖書の中で、、、忘れた・・・ すいません。
その記述の中で、イエスが神の右の座にいるのを仰ぎ見た という記述があったと思います。
またまたある説によると、裁判の場で、それを塔の上からイエスが天使の肩書きを持つ幹部と見下ろしていたシーンじゃないか と言っています。
天使と神の混同が行われていたとすれば、天使ではなく神族になったイエスと他の幹部ってわけですね。


キリスト教の教会史資料の中にイエスは70歳を超えるまで生きていたという記録があるそうです。
エノク エリアに共通するのは、死亡が確認されていないこと。
それでまだ生きているとされているんですね。
イエスもそう。


>>>死んだら終わりです。 一回きりなんです。じゃなきゃ ゾンビみたいに復活するのなら、殺人もオッケーなわけで。人の命を軽んじることになってしまう。
という回答は、個人的な心情なのでしょうか??それともそれを明確に示している宗派があるのでしょうか??

キリスト教の売りは奇跡ですよね。
キリスト教で死んだらそれでエンドってしてしまったら、誰も信者にならなくなるじゃないですか。
信者になる人は、最大の売りである奇跡を当てにしてなっているわけでしょ?
当選確率が増すと思って、信者になるわけでしょ?
教会が奇跡を売りにしてくれないのなら、誰も信者にならなくなって、神学者たちは生活していけなくなるじゃないですか。
従って、死んでそれでおしまいですと言うキリスト教派閥は私が知る限り無いです。


>>>キリスト教の聖書ではイエスは「天の国が到来した」っていってますよね。
という言葉は聞いたことがあります。kigurumiさんの文章によると、この世が天国であるということでしょうか??またそういった教義を打ち出しているキリスト教宗派はあるのでしょうか??

<イエスはヘブライ語を話したか>って本によると、
『ヘブライ語で「国」は「支配」ないし「支配される人々」を示すが、領土的な意味では決して使われない。「天」は「神」の湾曲的な同義語である。

「心の貧しい人たちは、幸いである。天の国は彼らのものである」

彼らの物は典型的な誤訳であるが、全ての英語訳の聖書に今なお残っている。
「彼らのもの」と訳されたギリシャ語は「彼らによって成り立って」と訳されるべきであろう。
人は天国を所有できるわけがない。
また、我々に所属するわけでもない。
イエスがこの山の垂訓の八福で言い表しているのは、天国を構成している人々はどんな類の人々か、である。』


『さらに混乱が起こってくるのは、動詞の時制に関連している事柄である。
 ヘブライ語には、文法上、英語やギリシャ語のような、複雑な時制が無い。
ヘブライ語では、過去に相当する動詞の形は一つしか存在しない。カタブである。
文脈によれば「私はやって来る( i have come)と現在完了形で訳さざるを得ないにもかかわらず、RSV(改定標準訳聖書)の訳者のように「私は来た(i come)と訳す翻訳者がいる。
RSVの訳者は、ギリシャ語の動詞を訳する際に何度も何度も同じ間違いを犯している。
例えばルカ19;10では「人の子(つまりイエス)は失われたものを訪ねだし、救うために来た(i came to seek and save the lost)と訳されている。 ここの文脈によれば、came よりむしろ has come とするえきところだ。
(日本語訳のニュアンスでは区別がないが、英語ではcameでは、 過去に来たが今はどこにいようと関係ない という意味になってしまう。
明らかにイエスは来て、そしてその言葉を語ったときにその場に、地上にいたのだからである。
このような時制の混乱はどこから生じたのか。
それオリジナルのヘブライ語福音書をおギリシャ語に翻訳する際に、ヘブライ語の過去時制(完了形)を訳するのに、ギリシャ語のアオリスト時制を用いたためである。
実は旧約聖書の七十人訳ギリシャ語聖書の翻訳者依頼の慣行であった。
しかしギリシャ語テキストをヘブライ語に戻してみるなら、この混乱は消去できるのだ。

イエスが「私はやってくる (i have come)というとき、英語の読者ならイエスあ天上の王座を離れて地上に主の僕として降りてきたというイメージを描くだろう。
しかし、「私はやってくる(i have come)という語は、しばしば意志ないし目的を表すヘブライ語の慣用表現になることがある。
ルカ12:49ではイエスが「i have come」を文字通り意味していないのはほぼ確かであろう。
ここで慣用句的に用いて、「私は地に火を投じたい」あるいはむしろ「私の目的(使命)は、地に火を投じることだ」ということを意味している。』


というわけで、イエスは地上に火を投じ、それによって穢れは地上から消えたことになります。
2000年ほど前に。
それを良い知らせとして報道したのが福音ですよね。
これが本来のことだったのに、今じゃあ 「悔い改めろ さもないと地獄んじ堕ちるぞ、 キリスト教を信仰しないやつらは全員地獄行きだ」とヤクザ顔負けの脅迫を大音響で宣伝している迷惑な困った信者さんによって世の中の日常の穏やかな朝と午後は破られている。

つまり2000年前に地上の穢れは清められたので、天の国が地上に降りたってことですよね。
でも信者の誰一人もそんなこと信じていない。
信者ですら信じられないイエスの教え。
困ったもんです。

天と地は合体して一つになった 喜べってのが本来の意味だったのに、ねぇ・・・・。

ということで、キリスト教では天国は地上に降りたって教えていることろはないです。
そうなっちゃうと 金取れないでしょ?
ビジネス成り立たないじゃないですか?
営利企業が無償しちゃうと潰れるしかないでしょ?
稼ぎまくらないと団体維持できないでしょ?
というわけで、天の国は2000年前に到来したというイエスの言葉を信じる教会も信者もこの世にはいません。
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この回答へのお礼

 お付き合いいただき、ありがとうございます。
 前半部のキリスト教神話の起源論、後半部の現在のキリスト教教学の言語的な翻訳の問題点、なるほど納得のいくものばかりでした。
 ではもう一つだけよろしいでしょうか??確かに、
>>ということで、キリスト教では天国は地上に降りたって教えていることろはないです。そうなっちゃうと 金取れないでしょ?ビジネス成り立たないじゃないですか?営利企業が無償しちゃうと潰れるしかないでしょ?稼ぎまくらないと団体維持できないでしょ?というわけで、天の国は2000年前に到来したというイエスの言葉を信じる教会も信者もこの世にはいません。
とおっしゃることもごもっともですが、kigurumiさんがおっしゃることを退ける教学的な理論も無くてはおかしいように思います。そういったある程度の理論武装が無ければ、宗教として成り立たないように思います。そこで、そういった問題点にお詳しい方であれば、現代のキリスト教教学にも精通していらっしゃると思います。そうでなければ問題点は指摘できないはずです。
 ですから、kigurumiさんのご意見を踏まえて上で、現代のキリスト教教学において、人間が死後に天国へ行った場合、天国とは具体的にはどのような場所として説かれているか?ご存知でしたら教えていただけないでしょうか??

お礼日時:2008/01/15 13:59

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