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▲ (ヰキぺ:汚れなき悪戯) ~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9A%E3%82%8C …

§ あらすじ

〔キリストの〕像はマルセリーノが大きな肘掛け椅子をすすめると降りてきて、
私が誰だか分かるかと問うとマルセリーノは神様ですと答えた。

像は特にパンと葡萄酒を喜んだのでマルセリーノは毎日それらを盗み、それに
気づいた修道士らは訝りながらも気付かぬふりをして彼を見張ることにした。

像との話題はマルセリーノの母のことや像の母のことに及んだ。ついにある日、
トマス修道士が見張っている時、例のようにパンと葡萄酒を持っていったマル
セリーノに対し、キリストは彼が良い子だから願いをかなえようと申し出た。

迷わずマルセリーノは母に会いたい、そしてあなたの母にも会いたいと言った。
今すぐにかという問には今すぐと答えた。

ドアの割れ目から覗くトマス修道士の前で像は少年を膝に抱き、眠らせた。

トマス修道士は階段上まで戻ると兄弟たちを呼んだ。駆けつけた神父、修道士
たちは空の十字架を見、やがて像が十字架に戻るのを見て扉を開いた。輝く光
のなかで、マルセリーノは椅子の上で顔に微笑みを浮かべて死んでいた。
~~~~~~~~~~~~~

☆ 母に会えたと思ったから 死んだのか?

身無し児であることは 生死を懸けるほどの問題か? 

それとも マルセリーノにとっての特殊な場合か?

質問者からの補足コメント

  • ご回答をありがとうございます。(失念しました)。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/12/18 07:24

A 回答 (5件)

当たり前すぎて恥ずかしい答えですが。



天国の母に会いたいという希望を叶えるには、天国に連れて行くしかないとキリストが判断したから。
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この回答へのお礼

ううーん。
まづは ご回答をありがとうございます。

ご投稿に恥づかしいことは何もありませんが
★ 当たり前
☆ なのかどうなのか?

つまり たとえばもしキリストがマルセリーノに話をするとすれば
天国の母を一目垣間見させて あとは このように天国でお母さん
も元気だから きみも 独りぼっちだけれど ちからを得てあゆん
で行きなさいとか 言ったかも知れません。

つまり そういった励ましなら ひとつの当たり前ではないかと思
うからです。

つまり 天国に子どもをも召すということであれば それとして認
めた上で しかしながらどうしてその今――まだ幼い歳の時に――
死ぬということにしたのか?

なぜマルセリーノは この五歳の時に死んだのか? という問いが 
まだなお残るような気がします。

どうでしょうかねぇ。

お礼日時:2016/12/14 10:52

そう言えば、忠臣蔵の季節ですね。



日本人的心性では、
「吉良は悪い奴だ」
「義士である赤穂浪士が可愛そうだ」
で終わってしまいますが、
キリスト教的心性からすると、
『フランダースの犬』、『汚れなき悪戯』、そして、『さまよえるオランダ人』は、
「神さまバンザイ、良かった、良かった」
となるのかもしれない(笑い)。
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この回答へのお礼

なるほど。やっぱし神の話に行き着くのだと。

つまりは こちらでは 人間どうしの水平の・ヨコの関係でだいたい話
が終わるものを あちらでは タテの関係へと持って行きたがる。

◇ 「神さまバンザイ、良かった、良かった」となるのかもしれない
(笑い)。
☆ これは どうなんでしょうね。つまり それほど 不安なんでしょ
うかねぇ。

あるいは妻は 毎日毎日いつもいつも 夫から愛しているという言葉を
耳にしないと 不安になるんでしょうか。

◇ キリスト教的心性
☆ は 反キリスト教的心性と同居しているのでしょうか? 誰もがそ
うなんでしょうか。

それは いわゆる教養あるエリートたちだけの問題なのか? それとも
人びと一般に見られるものなのか?

アガサ・クリスティーのドラマでは ハロウィーンなんかを頻りにたの
しんでいますよ。つまり異教の神々や妖怪たちとあそんでいる。・・・


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/12/18 15:26

こんにちは。



☆☆ その修道院・その町・ひいては世界の人びとに信仰の効用を知らせるた
めにですか?
◇「イエスが」と言うよりは、「キリスト教関係者によって」となりましょうか。
悔い改め、《気づき》の手段として使われた、となるのでしょう。

プロテスタントの信者にはいないと思いますが、カトリックの信者の中には、10年に一度くらい、イエスの真似をして、自身を磔にして、自死するヒトもいますしね〜。

わたしには理解しがたい行為ですけれど・・・。

キリスト教世界には、自己犠牲を賞賛する文化的、精神的基盤があるんですよ。
かつてニーチェが熱狂したワーグナーの作品は、キリスト教的な自己犠牲による(他者の)救済を取り扱ったものが多い。



さまよえるオランダ人
https://youtu.be/EPnLD4m_agQ

このオペラの1時間50分すぎに、
神を呪い、永遠に海を彷徨わなければならなくなったオランダ人(の船長・船員)を救うために、このオペラのヒロインであるゼンタは身を投げる。
そして、ゼンタのこの自己犠牲的な死によって、オランダ人は呪いを解かれ、ともに天に昇ってゆく、救済される。

かつてあれほど熱中したにも関わらず、
ニーチェは、ここにキリスト教の甘たるい、浪漫的な腐敗臭を感じ取り、ワーグナーと訣別する。
哲学的に言えば、
これはアポロン的なもの、デルポイ・死の神学で、死の世界、あの世(イデア界、天の御国)を賛美するかのようなプラトニズムであり、「生」を蔑ろにしている
となるのでしょう。

こういった文化的、精神的、文学的土壌がヨーロッパにはあることを忘れてはいけないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ (ヰキぺ:さまよえるオランダ人) ~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%BE …
§ 5.3 第3幕
・・・オランダ人はエリックのゼンタへの愛を見て「裏切られた」と言い、
帆をはり去っていく。ゼンタは自らの純愛を岩の上から叫び、貞節を証明
するために海に身を投じる。ゼンタの純愛を得た幽霊船は呪いを解かれ死
を得て沈没する。そしてオランダ人とゼンタは浄化され昇天していくので
ある。
~~~~~~~~~~
☆ たとえばここですよね 次のハカラヒは。
◇「イエスが」と言うよりは、「キリスト教関係者によって」となりまし
ょうか。悔い改め、《気づき》の手段として使われた、となるのでしょう。

☆ 例のヤマトタケルの場合 妻が海に身を投げて(畳のようなものを海
面に敷いた?)嵐を鎮めました。

《純愛・貞節・浄化・昇天》は かかわっているのでしょうが それらを
強調・重視するとは限らない。そこに違いがあるでしょうか。


◇ キリスト教世界には、自己犠牲を賞賛する文化的、精神的基盤がある
んですよ。
☆ 何だか厄介ですね。他面で 他殺はもちろん自殺をも罪悪視している
んですけれど。

◇ これはアポロン的なもの、デルポイ・死の神学で、死の世界、あの世
(イデア界、天の御国)を賛美するかのようなプラトニズムであり、「生」
を蔑ろにしている
☆ ただ だからと言って ディオニュソスの側に走って行ってもらうの
も困ります。

それは 復讐の死・つまりそれとしての他殺を賛美しています。(バッコ
スの信女)

さまよえるオランダ人のオペラは 知らないのですが ストーリは単純な
んですね。(だから どうこう言うのではなく 意外な感じです)。

お礼日時:2016/12/18 15:14

こんばんは。



中学生の頃に、金曜ロードショーでこの映画を見て、衝撃のラストシーンを目にし、滂沱の涙を流した思いでがあります。
 ――意外に思われるかもしれませんが、わたしは非常に涙もろく、感動的なシーンなどを目にすると、すぐに泣いてしまう(^^ゞ――

奇跡を起こすことが可能なイエスならば、この子供を殺さずに他の手段があったのではないか?
イエスならば、(一時的にせよ)母親を蘇らせること可能であったに違いない。
 ――新約の福音書には、イエスが死者を蘇らせた書いてある――

また、キリスト教の神学的な立場から見た場合にもこの行為には疑問が残ります。
パリサイ人でしたっけ、
「結婚した夫が次々と死に、その都度、元夫の弟を迎えた長男の妻は、死後、誰の妻になったらいいのか」
と質問していますよね。
イエスは、このとき、「天国の有り様、人間(同士)の関係は、地上とは異なる」と答えていますから、これはおそらく親子関係にも当てはまるのでしょう。
であるとすれば、
映画のイエスは、確かに、この子供の願いを叶え、母親に逢わせたことになるのでしょうけれど、
しかし、この子供の願いは「(死んだ)母親としあわせに暮らしたい」であって、(映画の)イエスは、この願いを叶えていない疑惑が濃厚です。
かなり問題です。

聖書にそのような記述があるかどうかわかりませんが、
キリスト教では「神は自身が愛される子供を早く天に召される」という話をよくしますから、
この点から考察をする必要があるのかもしれません。
「フランダースの犬」のネロ少年もクリスマスの夜に召されておりますから(^^ゞ



如何にもキリスト教的な物語、価値観、死生観だとは思いますが、わたしには承服できない話です。
すこしうがった見方をすると、イエスによって、マルセリーノは生贄にされたのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありゃりゃ。おどろきですね。こんにちは。ようこそ。
ご回答をありがとうございます。

◇ 奇跡を起こすことが可能なイエスならば、この子供を殺さずに他の手段
があったのではないか?
☆ そうなんですね。まづ――単純に―― この疑問を持ったわけでした。

▲ (ルカ福音20:37-38) 神は死んだ者の神ではなく、生きてい
る者の神である。人はみな神に生きるものだからである。

☆ この基本線に飾りがついたりそこから逸脱することもあったりするので
しょうが。

レヴィレート婚の話にかかわって:
◇ イエスは、このとき、「天国の有り様、人間(同士)の関係は、地上と
は異なる」と答えていますから、これはおそらく親子関係にも当てはまるの
でしょう。

▲(ルカ20:34-36) この世の子らは、めとったり、とついだりす
るが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、
めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり、
また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得な
いからである。

☆ ちなみに 《娶ったり嫁いだりしない》というのは 男女の性差がなく
なるからか? それとも両性のどちらかで依然としてありつつ 婚姻はなく
なるというのか? といった問いが出されていて アウグスティヌスは 男
女の性差はありつづけると言っていました。(直観でしょうか)。


◇ キリスト教では「神は自身が愛される子供を早く天に召される」という
話をよくします
☆ これはわたしにも あまりかんばしいとは感じられません。清く貧しく
美しくをただ美化しているように映ります。

◇ すこしうがった見方をすると、イエスによって、マルセリーノは生贄に
されたのかもしれませんね。
☆ その修道院・その町・ひいては世界の人びとに信仰の効用を知らせるた
めにですか?

生け贄は イエス自身が最後だとは思います。旧約の時代にすら:
▲ (マタイ福音9:13) 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけ
にえではない』(ホセア書6:6)とはどういう意味か、行って学びなさい。
☆ と書かれている箇所もありました。

◇ 「フランダースの犬」
☆ やマッチ売りの少女。これらも パッとしませんね。そのこと自体につ
いて感動的なんですが。日本人は好きなんでしょうか。

お礼日時:2016/12/18 07:23

>なぜマルセリーノは この五歳の時に死んだのか? という問いがまだなお残るような気がします。



5才と言えば入学前です。知恵の衣に覆われる前で、純粋な情緒に素直に従える最後の時期みたいな気がします。失われる直前の、あどけない無垢な最後の時期。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

そういうお考え――と言いますか 感性でしょうか――なんですね。

つまり もしそうだとしたら わたしなら:
★ 知恵の衣に覆われる前で、純粋な情緒に素直に従える最後の時期
みたいな気がします。
☆ という時期を通り過ぎて ものごころもしっかりと付き 知識も
知恵も求めて――あるいは 善と悪とをも知って―― 成長して行く
段階に入るわけですよね。

つまり そのような青年期や成人期のほうが さらに楽しみになるか
と思ったりするからです。

聖なる甘え と言いますか そういったすなおな子どもの心と時代を
とうとぶことに 変わりはありませんが。

これは 互いにどちらも自由に考えてみるといった問いなのでしょう
ね。

さまざまな考えに出会うことは よいことだと思います。

お礼日時:2016/12/14 11:12

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