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聖書についての質問です。イエス・キリストが律法を成就した、という言葉が出てきますが、私はイエスキリストが、十字架で死に、復活することにより、律法の要求を完全に満たしたので、律法が成就され、結果律法が不必要になり、破棄されたのだという理解をしていました。
 ところがある方から、キリストは罪を犯さなかったなのだから、律法を全部守ることができた。律法を完全に守って成就したのだ。その方が十字架についてくださったから十字架に意味があるのだと言われちょっと混乱してしまいました。
 キリストは神ですから、律法を完全に守ることはできた方ではあったと思いますが、そういう方法を通して、律法を成就したとなると、キリストの十字架は、極論を言うと律法の成就には関係ないことになってしまうような気がして、その方の意見にははなはだ疑問なのです。
 「キリストが律法を成就した」ということは、どうやって成就したのか教えてください。私は普通のプロテスタントのクリスチャンです。よろしくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

 No.2&5です。



 見切り発車になる部分もあると思いますが お応えをいただいたので 考えるところを述べてご返事といたします。

 ★ (No.5補足欄) ~~~~~~~~~~
 ( a ) しかし、その上で律法は我々クリスチャンの生活の指針、目標となると私は思っています。
 ( b ) 具体的には「神を愛し他者を愛すること」につながっていくのだと思います。
 ( c ) それが律法の成就か?と言われると?です。
 
 ( d ) ところで、話は戻りますが、キリストは律法を全部守られて、さらにその上で十字架にかかられ死なれ復活なさったので、律法を成就したと言っていいのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 律法は 煮詰めた言い方をすれば アブラハムの信仰すなわち《信仰によって歩む生活の態度・姿勢・信条》を人間の言葉を用いて規範として明らかにしたものと捉えます。
 アブラハムは 目に見えるものによってではなく 信じることに従って歩むとき むさぼることはない。ひとを傷つけることも殺すこともない。うんぬん。この生活態度(つまり現実生活では 経験思想である)を規範として表現したのが モーセの《むさぼるなかれ / 殺すなかれ》などなどだと捉えるというわけです。
 アブラハムは 新しい契約を待ち望みつつ いわば族長ないし民族を中心とする契約のもとで言ってみれば《律法を成就していた》とおおむね言えるのではないでしょうか?
 そういうふうな意味で――と同時に むろんエレミヤの記すあたらしい契約すなわちイエスの出現のもとで―― 《律法は 文字(表現したものないしその観念)としては 要らなくなったし もともと要らない》とパウロらも明らかにしているのではないか。

 ですから その中身としては
 ★ ( a ) 律法は我々クリスチャンの生活の指針、目標となると私は思っています。
 ☆ だと思われますし
 ★ ( b ) 具体的には「神を愛し他者を愛すること」につながっていくのだと思います。
 ☆ とわたくしも思います。

 ★ ( c ) それが律法の成就か?と言われると?です。
 ☆ これも 初めのNo.2からぶつぶつと言い続けていますようにわたしも まだあれぇっと思っているところがあるというわけです。
 そこで ( d )の主題に行き着くわけですが。

 見切り発車を致します。
 ○ キリスト・イエスはその出現によって ( a および b )の実践さらにはその完全な成就を 人びとが果たすためのちから(泉の水)を与えた。
 ○ そのときあたらしい契約のもとでの――つまりは 律法はすでに心の胸板に書かれていることになるかたち(エレミヤ書)での――《アブラハム〔の子孫〕》というあたらしい人が それぞれおよび力を合わせて 律法の霊としての中身を成就していく。
 
 ☆ 失礼しました。張り切って述べました。
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この回答へのお礼

丁寧なお答ありがとうございます。こんな風に考えたことがなかったので衝撃をうけています。深い。
アブラハム契約⇒シナイ契約⇒イエスキリストの出現⇒イエス・キリストを信じたアブラハムの子たち
が結果的にシナイ契約をも成就していくという壮大な神様の大河ドラマですね。
かなり驚いています。アブラハムは、律法がない時代に律法に沿った生き方を信仰によってしていたということですよね。するとイエス・キリストにあってアブラハムの子にされた私たちクリスチャンもそう生きれるという希望があることを感じています。あなた様の深い見識と洞察力に感嘆しております。また教えてください。

お礼日時:2010/09/23 21:09

律法が成就したは煩雑な律法に埋もれていた神の真理を普遍的なものとして明らかにされた。


と思っています。
十字架は有名なイザヤ書53章の主のしもべの苦難と死により理解できるのではないでしょうか。
私も勉強の足りない一生一求道者だと思っています。

9月15日のローズンゲンより
主は不遜な人を嘲りへりくだる人に恵を賜る。箴言3章34

イエスは言われた「信じるものは何でも出来る。」その子の父親はすぐ叫んだ、
「信じます。信仰のない私をお助け下さい。」
マルコによる福音書9-24

私はあなたの高みに入っていこうなどとは思いません。どうやっても、私の理解があなたに到達
することはないのです。私はただ、私の心が信じ愛している貴方の真理をいくらかでも
つかみたいのです。その時には、私はもう信じるために理解しょうとせず、
理解するために信じるものとなります。
カンタベリーのアンセルムスの祈り あなたとはイエスのことだと思います。
難しいけど記憶の中にとどめておきたいと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。ローズンゲンはモラビア兄弟団が出している冊子ですよね。私は個人的にツィンツェンドルフ伯爵様が大好き、少しモラビア兄弟団の事を学びたいと思っているところです。カンタベリーのアンセルムスは、私の贖罪論の理解を助けてくれました。いろんな方々のおかげで、今の私の信仰生活があると思うと、感動します。感謝しつつ

お礼日時:2010/09/24 16:41

>ユニークなご回答ありがとうございました。


>新しい視点が与えられました。感謝します。

ユニークでしょうけど、現実ですから。

キリスト教はユダヤ教から分離した団体ですが、要するにハーフ。
ハーフというより遠い親戚みたいなものかな?

エジプトの宗教がアフリカを出てパレスチナ地方と習合し、かたやギリシャ方面に伝わりその土地の宗教と習合した。
ギリシャ地方の方面に伝わった方が、パレスチナ地方のものと習合した結果キリスト教になったと思えます。

古代のパレスチナ地方では太陽の通る道にある星を12にグループ化して名前をつけた。
これが12使徒の原型。

めんどくさいので、説明動画を貼り付けますね。

http://video.google.com/videoplay?docid=14310371 …

イエスの正体がわかったでしょ?
何故新訳聖書があのような内容になったのか、前回の説明と今回の動画を読むことで「あーはー」とわかったでしょ?




人々を逆さまにして振っていたのがキリスト教から世界銀行に変わっただけの話し。

右に回すと姿が消える指輪。
この指輪を手に入れたものは、最低のことをしながら誰からも気づかれず、最高の名誉と権力を手に入れる。

指輪を持っている人が悪事をやっても、誰も気づけない。
ところが、指輪を使うタイミングを間違うと、姿が消えきれない状態なので、やっていることが他人に見えてしまう。
プラトンの言う最低のことをしながら最高の評判を得ている大悪党になりそこなうわけです。

「イルージョン 見破ったり!」


http://ch07081.kitaguni.tv/e369348.html

<兵器メーカー、ポルノ出版社、避妊用ピルのメーカーなどに出資(バチカンが株所有→大スキャンダル。社会に衝撃)>


つまり、世界平和をうたい姦淫を禁止し避妊を禁止している全キリスト教会のボスバチカンは、兵器メーカーやポルノ出版社や避妊ピルメーカーの繁栄に尽力を尽くしていたことが明るみに出ちゃった。
片方で戦争を支援しつつ、その戦争で負傷した人に愛だと言って近づいてポッケから盗み取ってということをしていた。

姿見えてまっせ、すっかり姿を消してから略奪しないと、、、、

ヨーロッパを震撼させた20世紀後半に発覚した出来事。
よくも2000年も姿を消して悪事を続けられましたよねぇ。
誰にもバレずに最高の名誉と権力を得ていたので偉業といえば偉業。

絶対にバレないというのが大悪党の条件ですから、2000年後に馬脚を現してしまったので、プラトンの言うこの世でもっとも邪悪なもの ではないわけで。
まあ 相当の悪党ですけどね。


で、プラトンの善人の証明は、やってもいないものをやったとして罪を着せられ、名誉を剥ぎ取られ(紫の衣を剥ぎ取られ)、十字架にかけられ殺される際でも、最後まで「この人達を罰しないでください、この人達はポルノ出版社や避妊ポルメーカーや兵器メーカーの株を買うと、社会がどんな大被害を受けるか ちっともわかっていなかったんです」とかばい死んだ人がいたら、その人は100%善人だったってことになる ってことです。

さて、「キリスト教は、自分たちが何をしたのかちっともわかっていなかったんです。長年世界に悪をばら撒らし不幸を量産していたこの集団は責任能力が無いんです。彼らを許してやってください。」と言って死んだ人いましたっけ?

この時代が終わる頃、私たちはどこに行けばいいのか?と弟子が聞いたところ「水がめを持った男の屋敷に入れ」と言った。

世界銀行にこと?
新世界秩序の支配下に入るってこと?
今は北米と南米が一つのグループになりはじめており、ヨーロッパも一つのグループになっていっており、アジアも一つのグループになっていき、最終目的はこの3つのグループが一つになり、新世界秩序の支配下に入ることなのだそうです。
キリスト教も怖いがこっちの方がもっと怖い。
指輪を回されるとやっていることを他人が知ることはできない。

そして我々はチップを埋め込まれ支配される と。Orz。
キリスト教の次は新世界秩序かよぉ。
日本 ふんばれーーー! 天皇万歳!
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この回答へのお礼

ありがとうございます。動画などを見させていただきながら勉強させていただきたいと思います。

お礼日時:2010/09/24 16:36

ふ~ん


そのパウロって人とbrageloneって人がかぶってみえるなぁ

その性格が


                                 
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ふ~ん


そのパウロって人とbrageloneって人がかぶってみえるなぁ


                                 ´
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日本の憲法って今まで変わったことが無いそうです。


他の国は改定しているが、日本は変えていない。
どんなに時代が変わろうと普遍性を帯びているので、最初から欠陥が無い憲法ってことですね。

さて、プラトンはギュゲスの指輪というものを書いた。
右に回すと姿が消える指輪を手に入れた者が、一切悪さをしないでいられようか って問い。
<この世の中で最も悪人な者とは、最低なことをしながら誰にも知られず、まっとき善人だとされ最高の名誉を手に入れている者だ>とプラトンは考えた。

隠れて悪事を働かれたら誰も気づけない。
善人だと思える人であっても、悪をやっても誰も気づかないだけかもしれない。
どうすれば根っからの善人だとわかるのか?と考え、善人だと去れる人の名誉を剥ぎ取り、十字架に磔にして鞭で打って槍で突き刺しでも、最後まで善人としてふるまった場合、その人は生粋の善人だったということになる。

こうプラトンは考えた。
これが最初かどうか知りません、プラトンより前に物語があったのかもしれませんが、ひとまず私がさかのぼれる最も古い話はプラトンのギュゲスの指輪。

後にその物語はトールキンに受け継がれ、指輪物語となった。
さらにそれは映像化され、ロード・オブ・ザ・リングとなった。

指輪を捨てるとは原爆など恐ろしいものだという説も流れた。
しかし源がプラトンのギュゲスの指輪だと知ると、なーんだ 悪事をやっても誰からもとがめられないという権力のことか とわかった。


さて、プラトンのギュゲスの指輪を完成させるべく、トールキンやらピータージャクソンらが取り組んだわけですよね。
物語は完成したか? 完璧なものになったか?

ユダヤ教は自分たちの持っている聖書を唯一の聖書としている。
預言によってこれに足すことも引くことも修正することも禁じられており、ましては新など新しい物語を作るなど、神を愚弄するにもほどがある神に背信する極悪行為だから絶対にしない。
それだけ聖書は時代に依存しない完璧なものなので、足すことも引くことも修正することもする必要が全く無い日本の憲法と同じ普遍の属性を持っているというわけですね。


>律法が成就され、結果律法が不必要になり、破棄されたのだという理解をしていました。

律法が不要と解いたのはパウロですよね。
パウロの遍歴を見ると、どうやらヤコブが率いていたエルサレム教会から破門されたらしいです。
どうして破門されたかというと律法をことごとく否定したから。
なんら守る価値の無い神からの言葉だからいらない 捨てろ って解いたので破門されちゃった。

神の言葉など くそっくらえだ ペっ って神に唾したわけです。

「さあ 新しい神は俺様だ 敬え」というわけで、破門された以上 エルサレムには近づけませんので、諸外国を豪遊して自分を神とせよと布教してまわった。
だからキリスト教信者はパウロの言葉ばかりあげつらうようになったわけです。
実質パウロを神の代理人だと西方のキリスト教はしてますよね?


>ところがある方から、キリストは罪を犯さなかったなのだから、律法を全部守ることができた。律法を完全に守って成就したのだ。

初期のキリスト教徒って、文盲だったんです。文盲以外、知的障害者や精神障害者たちで構成されていたんです。
従ってプラトンのギュゲスの指輪の内容を知ることは無かったのではないかと。
知っていたら、イエスの磔刑物語を聞いて、プラトンの国家か とわかったと思います。
知らなかったために、詐欺師のパウロにすっかり騙されて言いくるめられてしまった。
キリスト教の初期の書物にはパウロについては「二枚舌、詐欺師、神の背徳者」と書いてあったそうです。
今でもその書物はバチカンの図書館に残っているかも。
外に出たら大変なことになりますからね。

>キリストの十字架は、極論を言うと律法の成就には関係ないことになってしまうような気がして、

動物が人間の身代わりに殺されることで、人間の罪が消えるとした概念を、イエスを動物にみたてて、同じ概念をこすりつけたんだと思う。

ユダヤの言い伝えはこうなんです。
メシアが現れ太陽の門より入場し、民族全体の穢れをはらうために神の前に立ち贖罪をする、その時、つながれたことが一度も無く傷ひとつ無い赤い牛が身代わりの動物として殺され燃やし尽くされる と。

ユダヤ教ではまだメシアが現れていないので、民族全体の贖罪はしていないことになっています。
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この回答へのお礼

ユニークなご回答ありがとうございました。新しい視点が与えられました。感謝します

お礼日時:2010/09/24 07:22

すみません、質問者さんはメシア預言についてはすでに知っていたようですね。


私の早とちりでした。

私の理解では、「律法の成就」とは「=預言の成就」だったので、それ以上のことはあまり神学的
に考えたことはありませんでした。余計なこと書いて申し訳ありません。
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この回答へのお礼

とんでもない。メシア預言について教えていただき感謝しています。また教えてください。

お礼日時:2010/09/23 20:49

これに関しては結構誤解している人が多いようですね。



現在、私たちが「旧約聖書」と呼ばれている書物、これはイエスの当時から存在しましたが、それは当時「聖書」と呼ばれていたわけではありません。
なんと呼ばれていたかというと、
モーセ五書、すなわち「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」が、=「律法」、そして、詩篇、これはそのまま「詩篇」、そして、預言者たちの書は「預言」と呼ばれていました。(ダニエル書なども含まれます。)

つまり、ルカ24:44に書かれている
………………………………………………………………………………………………………………………
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
…………………………………………………………………………………………………………………………

は、どういう意味かというと、実は、
「世の救い主、メシアに関する預言はすべて私のことを預言している。私はそれをすべて成就する。つまり、私こそが旧約聖書で預言された救い主なのだ」

という意味なのです。
律法と、詩篇と預言に、救い主に関する預言がたくさん書かれていることは、当時から民衆の隅々にいたるまでよく認知されている事柄でした。イエスの大胆な主張、私こそがそのメシアだという主張は、当時の人ならば誰が聞いてもその重要性がよくわかる発言だったのです。それひとつとっても死刑にされてもしょうがない大胆な主張だったのです。

また、もし興味があったらこのメシア預言に関してもよく調べてみて欲しいのです。
これは、驚異的な正確さでイエスの生涯を預言しており、その不思議さは驚くばかりです。

参考までに私の過去の投稿のリンクを貼っておきますので、見ていただけるとよいと思います。

参考URL:http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4034661.html
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この回答へのお礼

過去の登用のリンクありがとうございました。メシア預言について、私ももっと勉強してみたいと思いました。感謝します。

お礼日時:2010/09/23 20:57

 No.2です。



 エペソ書からも《律法》との関係についての文句を挙げておられます。
 そして《ある方》とのやり取りに関して いづれの側からの見方も成り立つのではないかとの見解を省みようとしておられます。

 いままだご趣旨についてしっかりと捉え得ていないのですが いまひとつ別の文章を見つけましたので それを掲げてお考えをうかがおうと思いました。

 ▲ (ルカ福音 24:44) ~~~~
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは すでに復活したイエスですね。
 《わたしについて書かれてある事柄》と言っていますから 律法そのものの成就とはまた微妙に違うのかも知れません。
 ただし ここでの《実現する》も マタイ5:17の《 plerosai =満たす》と同じ語( plero-te-nai つまり受動態ですね)が使われているようです。

 すなわちわたしの感覚では イエスのあと――磔の死と高挙と復活のあと――の世界において すでに律法の戒めを説く必要のない状態(ないし情況)にあって その律法の目指すものについての成就が得られて行くであろう。こう言っているようには思われます。まだよく分かりません。

この回答への補足

 ありがとうございます。ルカの24:44は旧約聖書に書いてあるメシア預言の成就としてイエスキリストが語っておられることだと私は理解しておりました。
 キリストによって律法が成就し、律法は役目を終えたと私は理解しております。たとえば
[口語訳] ガラテヤ人への手紙
3:19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。[口語訳] ローマ人への手紙
10:4 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
 というパウロの言及からも、キリストによる律法成就。結果律法は不必要になった。しかし、その上で律法は我々クリスチャンの生活の指針、目標となると私は思っています。具体的は「神を愛し他者を愛すること」につながっていくのだと思います。それが律法の成就か?と言われると?です。
 ところで、話は戻りますが、キリストは律法を全部守られて、さらにその上で十字架にかかられ死なれ復活なさったので、律法を成就したと言っていいのでしょうか?あなた様のご意見をお伺いしたと思います。私の質問に丁寧に答えていただき、本当に感謝しております。祝福を祈りつつ
 

補足日時:2010/09/23 15:26
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Kin77777777様



補足に対しての私の考えですが、私が以前先輩のクリスチャンの方にきいた例え話をしょうかいさせて頂きたいと思います。

牧場にある囲いを十戒だと思ってください。神さまはその中にイスラエルの民をいれ、悪から守ってきました。つまり、異邦人の私たちはその柵の外にいたのです。ところが、イエス様がその柵を取り壊し、異邦人である私たちもその中に入ることが許されました。ファリサイ派の人たちが、律法の行いによって義だといっていたがんじがらめの柵そのものは、なくなってしまったのです。でも、その柵の杭の跡は残っています。だから、私たちには神様が「ここは安全圏だよ」といっているところが見えるのです。そこに留まるのも、出て行ってしまうのも私たちの自由意志によります。

私には凄く分かりやすい説明だったのですが、どうでしょう?


私自身、まだまだ未熟なクリスチャンなので、色々教えていただけると助かります。
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この回答へのお礼

 この例話は素晴らしいですね。なるほどですね。すると「律法は我々が救われ、義とされる条件では無くなり、我々クリスチャンが目指すべき目標となる」と私は理解しました。ありがとうございます。また教えてくださいね。

お礼日時:2010/09/23 15:06

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