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~聖書を読む方への質問です~
人間の子孫って、聖書ではアダムとイブですよね?二人だけですか?

もし、この二人だけなら、人類はどうやって増えていったのだと思われますか?

現実的に考えると、ちょっと・・・タブーの世界になるのかな・・と思ってしまいました。

こんな質問を受けました。
アダムとエバ(イブ)から考えても、あるいはノアから考えていただいてもかまいません。あるいは、当時ユダヤ人に救いを説いたイエス・キリストの教え(新約の部分)が、どうして他民族であるわれわれにとっても福音になるのか。という切り口でも良いかもしれません。

★イエス・キリストがあの時、あの場所で説いた教えについて、「現代において聖書を読み解き、福音を受けておられる皆さんはどのように自分の中で哲学的に解釈されているのか?」という事を知りたいのです。

●自分の見出した答えを聞きたいので、自説をどんどん語ってください(^^
●もちろん、科学的見地で進化論やミトコンドリア・イブ等を融合した解答でもかまいません。

●つたない言葉でもいいです。現代におけるあなたの模索を語ってください。

お願いします。

A 回答 (42件中1~10件)

アダムとイヴは宇宙人が地球に入植した始めの人類で、聖書で言う神とは宇宙人のことを指す、という面白い話を聞きました^ ^

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お待たせしました。

昔約30年以上「エホバの証人」として聖書研究していた者です。
 まず質問ですが・・・nicodemo様、いらっしゃいますか?w

今でも書き込んでもお返事いただけるんでしょうか?w
スルーでしたら寂しいですから・・一度お返事いただけないと?
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えー、この質問の私の意見だけ書かせていただきますね。



>もし、この二人だけなら、人類はどうやって増えていったのだと思われますか?

兄弟同士で交わったのではないでしょうか。
聖書には二人の子の名前はカインとアベルとセツしか書いてありませんが・・・。
エデンでも子供を産んだかもしれないし、
アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。(創世記5:74)とあるから娘もいたらしいし。

>アダムとエバ(イブ)から考えても、あるいはノアから考えていただいてもかまいません。あるいは、当時ユダヤ人に救いを説いたイエス・キリストの教え(新約の部分)が、どうして他民族であるわれわれにとっても福音になるのか。

聖書のことばそのまま書きますね。

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
(ローマ人への手紙3:29~30)
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ちょっと本来の質問とは内容が違いますが、三位一体は嘘っぱちでしょう。



これは聖書が書かれた後、宗教会議なんかを経て後付された教義です。
ほんとにみんな一体なら、浸礼を受けたイエスに天から聖霊が注がれて神の声が聞こえた場面は一体何の茶番なのでしょう。
あと、必死でゲッセマネで祈ったのは自分自身に捧げてたって事?

西暦325年にクリスチャンでもないローマ皇帝のコンスタンティヌスが二ケアで会議を開いて、神と子が同一体だっていうことを決めちゃったんだけど、要は宗教的に国内がもめてるのを何とかしたかっただけで、どっちが正確かなんてこのおっさんにとってはど~でも良かったんだよね。
ちなみにこん時は聖霊は一体だなんて誰も言ってない。

聖霊がここにくっついたのは西暦381年のコンスタンティノープル公会議でってことだそうだ。ここでニケア会議で出来た内容に聖霊を「主」また「命の与え主」とするって事が付け加わっていわゆる「ニケア信経」ってのができて、キリスト教は三位一体を公式ルールにしようとしたんだな。

でも実際にはこれが今のように広~く一般化するのにはたいそう時間がかかったみたい。
お上の命令でいきなりそんなこと決められたら、敬虔な信者さんは右往左往するでしょう。

それに三つ組みってもともとキリスト教なんて無いころにプラトンとかがギリシャ哲学でもちだしてない?
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聖書読書の初心者です。


聖書には、比喩と真実が混在していて、多くの矛盾もありますが、他の理路整然とした本には無い、素晴らしさを感じているこの頃です。
 さて、アダムとイブの話は、地球上に人類が誕生したときの象徴であると思っています。つまり、複数の男性と女性が神との交流をして、平和に暮らしていたが、やがて相体と比較、競争の見方を憶えて追放され分裂していった・・。 
 <イエスの言葉について>
 「私によらなければ・・・、」これは、釈迦やモーゼを批判した言葉ではなく、形式と習慣と規律に縛られて、神様の愛を分からなく成ってしまった当時の人みんなに訴えた切実な愛の言葉ではなかったかと思います。
 イエス以前にも、「愛」は在ったけれど、刹那に消えていた人間の本質の一つが、「愛」という言葉で隈取ることで、一貫した生き方になることが出来た、素晴らしい指導者であったと考えます。
 キリスト教が弾圧されていた当時の信徒を励ますために、パウロなどの手紙も他の信仰を批判しているように思えます。その点、イエスは千年2千年未来に向けて言葉を送っているように感じますが、その使徒の言葉は、当時の信徒を励ますことがなにより大事にされて、現在においては修正の余地ある言葉と受け取っています。
 私個人の聖書の読み方は、いろいろの牧師先生が語る解釈を自分の心深くに放り込んで、自分の中にある、神様のかけらとでも言えるものが反応することを味わうようにしています。
 クリスチャンでは有りませんが、機会があればメッセージを聞くように努めています。そのようにして、以前苦手だった聖書が少し好きになっています。(^^)v
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先ず神は宇宙そのもの、あるいわ根源の一点ですから、キリスト教も仏教も神道も神対人類の関係の教えで、どの民族であっても食べられる魂のパンであることを知ってください。



神をカミというのは、火と水の相反するものの噛み合せによって三つ目の者が生まれるという繁栄の掟を考案し、働いている方という意味です。火は凸で縦に働く気で、水は凹みで横の気力です。これが組むと真ん中に摩訶不思議な旨い力が生じ、全く別な固体が生まれます。例えば火と水が組むとお湯になります。両手を打ち合わせるとパンと音が立ちます。女=凹に男=凸が交わると子(プラス)が生まれます。この子供でも判る簡単な原理が、もっとも深い宇宙のヒミツ(火水)なのです。

アダムは開田夢で神の夢で、霊火です。この夢の建設の為に水=肉=物質の現象界が作られました。これがイヴ(異部、穢場)で、「全て」のものの母となったとあるのです。つまり、アダムとイブの男と女は凸と凹で火と水で、噛み合う=仕股を合わせる、目を組む=視思を会わせる場=現象界(プレゼント)が生まれ、栄える恵み(プレゼント)の仕組みが始まったということです。
「イヴ=穢場は全てのものの母」という言葉に注目して堅持してください。

イエスはゝの宇宙の一点、主神から106代目であると私は数えました。6は謀で、イエスは神の計画とそれに取り組む智慧を教えて去ったということです。107、8、9は、主神の子、イエスの子孫の私達に任されているということです。聖書に書かれてある子産みは人の胎内の発展の仕方を教えているのです。ですから男尊女卑の精神主肉体従で書かれているのです。

ノアは野明けの法明けの世の変わり目の教えで、陸地に降り立ったのは2月27日であると明記されています。廿七は世の字です。1999年2月27日に日本の中心の飛騨高山に三大太陽ピラミッドが建設されました。2月27日に麻原彰晃は死刑の判決を受けました。勝井秀樹のメジャーデビュー戦も2月27日です。日比谷線サリン事件は11年前の3月20日でこの122年前の3月20日に明治天皇が丁髷を断髪されて、侍精神が落ちて合理主義のアンダーグランドの代に入った、魂にヒビが入りだしたということです。

イエスの復活の教えはおしゃれな頭(語瑠午建=預羽=ヨハネ=48音=日の本に観音)になれ、で、「私は渇く」といって人々の差し出す酸い葡萄酒を受けた、ことです。ドライな心を反省して、人生の苦労は神の差し出す成長のパンであると悟って、積極的に苦労を受け入れる生活を始めたということです。この取り返しのゆえにパラダイスに迎えられたと教えているのです。

話題になった映画パッションでは、イエスは葡萄酒を吐き出しています。犬養道子は葡萄酒を飲まなかったと書いています。人気のあるテレビ伝道師の中川健一は、「キリスト教が他の宗教と違うところは、過去は許された、今から先のことだけを考えればいいということです」といっており、「私は渇く」という不可欠な反省を無視した甘い言葉を吐いています。

因果応報の理あるゆえに百人百様の運命がある。神人二人三脚もその魂にとってもっとも良い道を神が選ばれている、という神真理が宗教であり、厳粛な運命を知れば 唯我独尊、孤高で誇りを持って自分の人生を生きられる筈であります。

一日も早く宗教の読み代変えりがなされて蘇りの光の中を歩き出してほしいものです。
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創世記によるとアダムとイブはカインとアベルを授かりました。

しかしその後カインはアベルを殺したためカインは神の怒りを買い、エデンの東のさらに東に飛ばされてしまいます。その後アダムとイブは900歳以上まで生き、多くの息子や娘を授かります。またカインも妻をめとり(おそらく妹)子孫を残しました。しかし神が「私の霊は人の中に永遠にとどまるべきではない。」として人の一生を120年としたのです。
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 排他性はキリスト教の限界


>これはおっしゃる意味が良くわかりません。ユダヤ教の排他性を取り除いて、やっとキリスト教ができたのですよ。(でなければ、世界宗教になりえません)イエス自身は棄教者にもわけ隔てなく近づいたのですから。

 カテゴリーの質問欄に載せましたが、遠藤周作「キリストの生涯」が面白いとおもいます。
 
 「イエスは宗教はユダヤ教の域を出なかった。イエス教を作り上げたのは弟子たちである。」、と考えているえらい学者もいるそうで、決して無視できないことだとおもいます。
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この回答へのお礼

お時間いただきました。 回答に感謝します。

>これはおっしゃる意味が良くわかりません。ユダヤ教の排他性を取り除いて、やっとキリスト教ができたのですよ。(でなければ、世界宗教になりえません)イエス自身は棄教者にもわけ隔てなく近づいたのですから。

●同意します。

遠藤周作の『キリストの生涯』はまだ未読です。必ず読もうと思います。
私は『沈黙』で赦しについていろいろなことを教えてもらったと考えています。

>「イエスは宗教はユダヤ教の域を出なかった。イエス教を作り上げたのは弟子たちである。」、と考えているえらい学者もいるそうで、決して無視できないことだとおもいます。

●これは非常にコメントしづらい問題です。
イエスがユダヤ教という土台のうえに教えを説いたことが『必然』だったのか『適正』であったのかはわからないことです。
 ただ、その教えを受け入れる者だけがイエスの教えの証しをするものであり、弟子達はもちろん、現代の信者の道がキリスト教と排他性の問題に答えを出してくれると思います。

回答、ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/10 21:21

nicodemoさん、こんにちは。

先日は返信ありがとうございます。いくつかお返事させていただきます。


>これは、キリスト教に限ったことではなく、すべての宗教・宗派に提示されたテーマなのでしょう。

私はキリスト教の排他性はキリスト教の限界、今後の課題というようには全く考えておりません。
これは夫が「妻だけを愛する」=妻以外の人とは関係を持たない=他の女性を排除する、というたとえと同質の排他性と捉えています。

「愛」というものには、同時に「正」というものが共存しあっています。そこに妥協はありません。
例えば、キリスト教は真理だけど、他の宗教を通っても真理に到達できるよ。
という言い方において、そこに矛盾が生じるのがおわかりいただけますか?
真理というものは絶対に正であるべきものであり、そこにいろいろな要素が混ざることを認めてしまった場合、それはもはや真理ではなく、人間の都合に合わせた「真理のようなもの」としてその姿を変えることとなります。つまり、真理が真理であるための「正」の部分を歪ませることになります。

・・・なんてこんなこと書くとまたクリスチャンは頭が堅いとか言われそうですが(笑)
すみません。
ただ、私たちには神様が非常に慎重さをもって伝えてくれた知恵に対し、
そのはかりしれない配慮を尊重・堅守するべき責任があるのです。このところをご理解いただけますと幸いです。

>ただ、正当な読み方をする限り、ヨハネ3章においてのニコデモはバプテスマの意味を提示する為だけに登場する人物のように思いました。
>*ヨハネ3章は教義(バプテスマ)への言及箇所だと考えます。
(ニコデモというだしによって、手法が具体的に提示される。)

バプテスマという儀式的なことに言及しているという意味ももちろんありますが、やはりここは霊的に「新しく生まれる」=信仰を持つということに関して非常に核心となる箇所でもあります。「新しく生まれる」ことがなければ、聖霊というものもまったく理解できないことでしょう。それは人間の努力ではどうしようもできない領域です。新しく生まれるということは、同時に神という存在を経験によって理解することにもつながります。

この「新しく生まれる」を別の言葉で表したものがローマ書8:2にあります。
「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したのです。」

このヨハネ3章では儀式としてのバプテスマということよりも、どちらかというと霊的な新生という部分に的を絞って読む方が適切かな?と私は考えます。

また、ご存知かもしれませんが、ニコデモはこのイエスとのやりとりののち、信仰を持ったであろうことがヨハネの19:39によって窺えます。


>ただ、『あたらしく生まれる』という表現になった背景に留意する時に、
輪廻転生の影響が見られると推察は可能だということです。
宗教的なものでなく、風習・文化的側面から考えて頂ければさして抵抗はないような気もします。

そうですね。私も信仰を持つ前はここは輪廻思想について語っているのではと考えていましたので、推察することについてはしょうがないことでしょう。

ただ、その頃の自分を振り返ってみると、その「新しく生まれる」ということについて理解していないのにもかかわらず、そこの箇所をその時点において自分の持っている知識や思考にあてはめて解釈しようとしていたなと思います。

人間は、自分の理解できないものを己の能力の未熟さを顧みず、「わからない」と素直に認める前に、自分の思慮の範囲で理解したつもり(またはそれを理解できずに拒絶する)になってしまう生き物のようです。

映画の感想文などを見ているとよくわかりますよね。自分がすごい面白いと思ったのに、その映画に対して理解力がないために、こき下ろしている人を見ると「わかってないなー」って思ってしまうものです。もちろん自分が全然わかってないパターンもあります。

人はいつも今の自分を完成形と考えてしまいますが、実はいつまでたっても不完全なものなんです。このことに心に留めながら聖書を読むとものすごい知恵に満ちたものであることが次第に明らかになります。


**非常に興味深い掲示板を紹介して頂きありがとうございました。
数ヶ月前のやりとりという事を忘れ、つい乱入しそうになりました。
ありがとうございました。

まだ閲覧されている方は何人かいらっしゃいますから、疑問・主張などがあれば投稿いただいても大丈夫ではないでしょうか。新しく更新されたものはトップに表示される仕組みのようですよ。
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この回答へのお礼

>「愛」というものには、同時に「正」というものが共存しあっています。そこに妥協はありません。
>例えば、キリスト教は真理だけど、他の宗教を通っても真理に到達できるよ。
>という言い方において、そこに矛盾が生じるのがおわかりいただけますか?

>真理というものは絶対に正であるべきものであり、そこにいろいろな要素が混ざることを認めてしまった場合、それはもはや真理ではなく、人間の都合に合わせた「真理のようなもの」としてその姿を変えることとなります。つまり、真理が真理であるための「正」の部分を歪ませることになります。

★宗派を含めると話がややこしくなりますので、キリスト教世界VS仏教で返答します。

●二つの思想のどちらが真理なのか?という二元論でゆけばおっしゃるとおり片方は真理ではないでしょう。しかしながら、仏教は神の道でなく、人の道です。仏陀(悟りを得た者)の思想と模索(瞑想など)を辿り、自らの存在を認識する道です。これは、キリスト教世界と相反するものだとは思いません。カトリックで『禅』による瞑想が受け入れられている(一部ですが)ように、人としての道を究めることは父を否定するものではなく、おなじベクトルにのびる道なのだと思います。

>ニコデモはこのイエスとのやりとりののち、信仰を持ったであろうことがヨハネの19:39によって窺えます。

ニコデモは、3章であれほどイエスを認めていながら、なぜ彼を受け入れることができなかったのでしょうか?
 きっとあの後彼は復活にも立会い、『新しく生まれ変わる』という意味がわかったと私も考えています。
 そして、新しく生まれ変わる事によって父を知り、キリストを受け入れる道は仏陀の道と同じみちであっても、真理は曇らない思います。

回答、ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/10 21:13

私は一時期キリスト教原理主義者の間で暮らしていたことがあります。



これでもかという位改宗を勧められました。

理由は私に地獄に行って欲しくないから。
100%善意なのはわかりましたが、キリスト教の意義を問いました。
あなた達はそれを正しいと思うから信じるの?それとも天国に行って楽をしたいから信じるの?

そんなものは彼らには問題ではありませんでした。
ただ単純に、聖書は真実である。神は絶対である。人はそれをひたすら信じていればいい。なぜなら神は世界を想像し、イエスは全ての人を愛したのだから。
インドの大地震を見てみろ。これは邪教に対する神の罰だ。
被害者達を哀れには思うが、神に従わなかったのだから仕方がない。

どうしてそんなに単純に、排他的になれるのかと思いました。
自分が気に入らないから地獄に行け?自分に従順でない者が幸せになる権利はない?
その神とやらは何様だ?(神様ですね・・・)
言っていることがどっかのガキ大将と変わらない。なまじ力を持っているだけにヒトラーよりタチの悪い独裁者ではないか?
あまりに人間くさすぎる。

私は神の存在を信じません。少なくとも、宗教として存在するような絶対的な存在を信じません。
宗教はいいものでも悪いものでもありません。それを大切だと思う人には大切なもので、そうじゃない人にはそうでないものにすぎません。

もし、神のような絶対的な存在がいたとしたら、人間に「それ」を理解できるわけはないと思います。
人間なんて脳が大きいだけの動物であり、生物にすぎないのですから。様々な概念そのものからして違うものをわかることはできません。

けれども人間はその脳の大きさ故に、自身の存在について悩みます。
例えば、人はなぜ生きるか?
人はどうやって生きるべきか?
世界はどうしてできたのか?

そうして生き方の基盤になるようなものを求めます。
その人間としての魂の叫び、それが聖書なのではないでしょうか?

神聖なものでも絶対のものでもありません。ただ、人間的で、悲痛ともいえるような魂の叫びなのではないでしょうか?

まだ記憶が生々しすぎて、聖書その他の宗教的なものに対して懐疑的になってしまいます。でもいつか、客観的に人間の人間による人間のための書物として読んで、自分なりに解釈できるようになればいいと思います。

なんだか愚痴のようになってしまってすみません。
私は無知で、人生経験も足りないただの未熟者ですが、そう考えます。
少しでも参考になればうれしいです。
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この回答へのお礼

お時間を頂きました。回答に感謝します。

●愚痴なんてとんでもありません。
何度も読み返しましたが、りっぱなあなただけの『聖書の解釈』確かに伝わりました。

>それを大切だと思う人には大切なもので、そうじゃない人にはそうでないものにすぎません。

●まさに通りだと思います。
同じ聖書でも、原理主義者には絶対であるし、教義による解釈もまた絶対です。それを信じるのも自由ですが、回答者様のように摩擦が生じてしまうのであれば本末転倒。難しいものですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/10 21:00
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