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1609年に薩摩の兵3000が琉球に侵攻し4000の琉球の兵が破れて和睦のあと支配されることになった件で疑問があります。
帆船で長期航海を行い(激しい船酔いや士気の低下も想定される)、兵糧も十分ではなく土地勘もない薩摩の兵が、なぜ琉球を短期間で侵略出来たのでしょうか?琉球の方が交易も活発で薩摩よりも豊かであるような気がします。また薩摩は関ヶ原で直前に兵力を失っているとも思えます。
なぜ薩摩が琉球に侵略できたのでしょうか?琉球の兵力、軍備、他国との戦闘(琉球が他国を侵略したような事実もあれば)など付随する情報がありましたらお願いします。薩摩側の被害も教えてください。

A 回答 (5件)

設問に対しての偏りが感じられます。


1.長期航海による兵の弱体化
2.兵糧が不足
3.土地勘の無さ
4.関ヶ原での兵力の減少
を規定事実かのようにしていますが,その資料は何処から来たのでしょうか ?

資料が無くても反論は出来ます。あなたと同じ「想定」ですけど。
1.訓練によって、船酔いは克服できる。出来ない者は遠征軍から外せた。
 士気の低下が有ったとも言えない。勝てば、貿易の利益を搾取でき暮らしが楽になる。
2.沖縄に着くまでに,いくつもの島で補給できた。また,兵を休める事が出来た。
 まさか,鹿児島から何処にもよらないで沖縄まで直行したとは思ってないですよね。
 万が一兵糧が不足していたなら,現地調達の為に全力を注いだ筈。
3.薩摩も琉球と貿易も外交もしていたので,案内できる人材は居るし,地図も作っていたと思うのが普通。
4.薩摩藩の全兵力を、関ヶ原に差し向けるわけが無い。当然近隣大名に対抗できるだけの兵力は温存している筈。

単に,関ヶ原で使わなかった,銃や大砲などのフル装備で侵略に向かった。
交代しての銃の連射、船からの砲撃。これだけでも琉球軍を圧倒したと考えるのが普通だと思いますけど。
初戦で、一番強い兵力が完敗すれば,勝てる可能性は下がりますよね。
それで和睦に向かうのは、当時の常識だと思いますけど。
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基本的に薩摩兵って強いんじゃないでしょうか?



薩摩は戦国の世を戦い抜いて、九州をほぼ統一しました。
九州を統一したほどの軍勢と、琉球の島国で平和に?過ごしていた軍勢では勝負は見えているように思います。

薩摩では、戦国いろは歌などによって一種の軍国教育がなされていました。
しばしば少数の軍で大軍を破ることができたのも兵の軍国教育による士気の高さの賜物だと思います。

推論が多くてすみません。
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薩摩3000Vs琉球4000では、薩摩が勝って当然だと思います。



>琉球の方が交易も活発で薩摩よりも豊かであるような気がします。
その豊かさを軍備に回さなければ、豊か=強さとはなりません。

>また薩摩は関ヶ原で直前に兵力を失っているとも思えます。
関が原は好きで行った戦ではありませんし、全軍を投入したわけでもありません。


>なぜ薩摩が琉球に侵略できたのでしょうか?

平和ボケの琉球とそれまで100年以上戦争をしていた日本の違いです。
この時代、戦術・戦略思想は大きく発展し、武器も進歩し、何より鉄砲という近代兵器が生まれています。
当時の日本の鉄砲保有数は、ヨーロッパ全土のそれと同じで、その為にヨーロッパ諸国は日本の侵略を諦めた程です。
また、ここまで鉄砲を自国で生産し、使いこなしたのもアジアでは日本だけです。
当然兵の質も高く、秀吉の朝鮮出兵でも明の兵を圧倒しています。
あの頃の日本は、兵の質ではアジア(世界でも?)で最強だと思います。
薩摩はその日本でも最強といわれていた国です。

琉球は周りが海で脅威となる隣国がなかったことや、明国の柵封を受けていた事もあって、他国の侵略を心配することがありませんでした。
一方薩摩ですが、関が原のあの一件で徳川から危険視されており、いつ取り潰されてもおかしくなかった状態です。
江戸から遠い為に、徳川も攻めるのが難しかった為に生き延びていましたが。
力が欲しい薩摩にとって、砂糖が取れて大陸との交易もできる琉球は、非常に魅力的な国でした。
更に領地も減らされており、下級武士に至るまで危機感がMAXだった薩摩の士気はむしろ最高潮でした。
実際、その後、薩摩は幕末に至るまで幕府から嫌がらせを受けており、それが倒幕に繋がっています。
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一時は九州を席捲し薩摩大隅日向の一部三か国を治める島津にとって、兵3000なんてなんでもありません。


当時戦国大名が無理なく出せる兵力が、十万石あたり3000くらいです。(薩摩はもっと多いとみるべきかと思いますが)
実高でも35万石ある薩摩ですので無理なく出せる兵力、むしろ選りすぐりの精兵と見るべきですし、十分な兵力を見積もって侵攻したとみるべきでしょう。
そして当時の日本は火力は世界一です、だいたい兵の三分の一は火縄銃を持ってますが、この場合はごく一部の兵力の遠征なのでもっと多いとみるべきかもしれません。
なうての島津の精兵が3000、フルに火力武装してるとなると、当時4000の兵力で勝つなんて平和馴れした琉球兵じゃなくてもなかなか難しいでしょう。
もちろん十分な火力と食料を蓄え城に籠り籠城戦となれば耐えられるかもしれませんが、火力も無ければ十分な備えも無かったのではないでしょうか。
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薩摩が琉球を侵略できたのは、琉球軍の作戦が悪かったからです。



その前にまず・・・

1.薩摩軍の航海について・・・薩摩軍はまず琉球の支配下にある奄美諸島の攻略に行きます。島々を攻略しながら沖縄に近づいていきますが、島と島との間は短く、ほとんど1日から2日で到着しており、海上で何日も過ごすという事をしていません。
島々の制圧期間を除くと、薩摩の山川港から奄美大島までは途中の島で一泊しましたが、それを入れて2日で着いていますし、その次の徳之島へも1日で着き、その次の沖永良部島にも1日で着き、次の沖縄本島にも1日で着いています。
島々での戦闘があったから薩摩から沖縄本島への到着は20日以上かかりましたが、航海日数だけで言えば必ずしも長くありません。これを長期航海と呼べるのか・・・私は疑問に思います。
また、薩摩は朝鮮出兵で水軍を出していますし、関が原の戦いにおい残存部隊が本国に戻る際には、海路であり黒田水軍と戦ってもいます。豊臣政権以降の薩摩の兵は海路を利用して派兵される事が多いので、船に慣れている者も多いと思います。

2.兵糧について・・・薩摩は琉球遠征にあたり五ヶ月分の兵糧を用意しました。3月4日に出航し4月初めには琉球は降伏しています。1ヶ月で戦いは終わっており、薩摩軍の兵糧が十分ではないというのは疑問です。

3.土地勘について・・・琉球を攻めるにあたり、水先案内人としてトカラ列島の七島衆が薩摩に味方しています。

4.豊かさについて・・・琉球が降伏した後、薩摩の検地では琉球は11万3千石と出ています。当時の島津は58万7千石ですから、琉球の石高は薩摩の五分の一です。石高から言うと、琉球が薩摩より豊かであったかについては疑問符が残ります。

5.兵について・・・諸説ありますが薩摩は関が原で1500の兵を動員し、三分の二を失ったと言われています。ただ、薩摩の石高から言えばもっと兵を動員する事は可能でした。例えば豊臣秀吉の朝鮮出兵では1万人の動員を命じられています。兵士の動員方式に百石三人制というのがありますが、これを薩摩に当てはめれば1万7千人は動員可能であり、しかもこれは限界の数値ではありません。関が原で薩摩が兵を失ったのは事実ですが、薩摩の動員能力から言うと、損害は少ないものでした。

6.薩摩の損害は100から200人ほどだそうです。

琉球軍の敗因・・・まず琉球王国の一角を占めていた奄美諸島では、薩摩の鉄砲にしてやられました。
奄美大島では島民3千人を集め砦を築いて薩摩軍に抵抗しようとしましたが、薩摩の鉄砲に敗退しました。
「棒の先から火が出る武器に驚いて逃げ去った」とか、徳之島でも「目にもとまらず棒の先から火が出て打ち倒した」とあり、どうやら奄美諸島の人達はあまり鉄砲の事を知らず、その威力の前に敗退したようです。
沖縄本島の場合は、作戦ミスです。
琉球軍は北部の良港である運天港を守るために千人の兵を今帰仁城に配置しましたが、まずここを薩摩軍に攻められ壊滅します。
薩摩軍はその後、読谷山の付近で海路、那覇港へ向かう部隊と、陸路、首里へ向かう部隊の二つに分かれ、二方向より進撃します。
琉球軍は薩摩軍が那覇港に来ると思い三千の兵をここに配置し守りを固めていました。薩摩の水軍はその那覇港の守りの堅さに一度は敗退しています。
しかし、琉球軍は陸路、進撃してくる薩摩軍の早期察知には失敗しており、気付いた時には手遅れで首里目前でこの薩摩軍を食い止めるには兵力が100人ほどしかなく、この部隊も結局薩摩軍に壊滅させられました。
そして首里に迫った薩摩軍に琉球の王は降伏を決断します。
つまり琉球軍は多いとは言えない貴重な防衛戦力を北部に派遣して各個撃破され、情報収集を疎かにして薩摩の進撃路を読み誤って陸路の防備を疎かにし、薩摩軍に敗北しました。
つまり琉球軍は情報と兵力の集中に誤りがあったための敗北です。
なお、沖縄本島の戦いでも薩摩の鉄砲に痛手を受けたようなので、薩摩の鉄砲にしてやられたという部分もあるかと思います。
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この回答へのお礼

船舶関係の仕事でこの辺りを航海することがあるので疑問に思っていました。経験上、今のGPSとエンジンのある数百トンクラスの貨物船で山川港から南西諸島を経由して沖縄に行くだけでも体力と神経を使うので薩摩が木造船でたどりついて琉球に勝つとは信じられなかったのです。特にトカラの島々は対馬暖流も早くて、波が3-4mあるのは普通で、入港や波除できる港が無いように思えます。飲み水の確保なども結構大変じゃないかとも思えました。具体出来なデータと細かい情報をありがとうございました。当時の様子が目に浮かぶような解説で納得です。

お礼日時:2012/01/11 11:14

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