【あるあるbot連動企画】あるあるbotに投稿したけど採用されなかったあるある募集

私は「国家」というものがどうにもキライです。国なんてあって当たり前だろ、と何度も考えようと思いましたが、生理的にと言っていいほど嫌悪感があります。

政治家やら官僚の、うわべだけ上品に取り繕って結局権威主義的なところがどうにもキライです。

歴史の教科書の表面だけ見れば、昔の王政の時代から社会は進歩しているように見えますが、権威の体質なんて大同小異、大して変わらないんじゃないですかね…

税務署の有無を言わさぬ徴税なんかにモロにそれが表れている気がします。

哲学的に言えば、ヘーゲルが国家擁護みたいな思想を確立して、それに反発するような流れでニーチェから始まりドゥルーズ、フーコー、デリダのような、反体制的な要素を含むポストモダン思想が一世を風靡したかに見えましたが、またなんかヘーゲル的な大きな物語に戻りそうな風潮じゃないですか?世相的にはリーマンショック後のゴタゴタをアメリカ政府がカバーしただけで(それも大したことだとは思いますが)思想までそういうトレンドになっているような気がしてならないのですが…

小さな政府の議論の形として、国は立法、行政、外交、国防に限定して、それ以外はすべてNPO法人みたいなものにする…というアイデアがあっても良いんじゃないですかね?(立法、行政があれば今と変わんないじゃん、という気もしますがどう書けばいいかよく分かりませんでした。)

一気にスリム化して税を今の半分程度にし、後はすべて寄付で、公的サービスを賄うのです。多様性が求められる時代になってきていると思うので、そのくらいマンガの世界みたいな大転換があっても無理はないと思うのですが。

どうでしょう?例えばコミュニタリアンからそういうアイデアが出ても良いのではないでしょうか?

A 回答 (6件)

いつの頃からかはおくとして、日本という国家ができて、政府自体が次第に大きくなり、膨大な国と地方の公務員の体制ができたのはやはり国民の希望とそれなりの必然性があってこうなったのでしよう。

特に最近は無駄を省こうという努力が大声で叫ばれ、ぼちぼちですが実際にもなされていることは間違いないと思います。

いつの時代にも権力というものは存在したし、彼らが被支配層から見て嫌悪させられる存在であったことも確かだとは思います。しかし、安定して市民が暮らせる社会というものはそういったものが必須であったし、あることも確かです。巨大な政府が莫大な公費をつぎ込んだからこそ、今にある便利なコンクリート作りの日本で我々が快適に楽しんで暮らせることも間違いないのです。現実にこれからはそれらの公的財産をメンテナンスしていくだけでも結構な税金と役人が必要なのです。それとも国民年金は外国の保険屋に投げてしまえとでも?


小さい政府と言えばアメリカの方向が想起されますが、様々の規制を外して税金を減らしていく方向は、公共サーヴィスのない砂を噛むような殺伐たる弱肉強食の社会を作り豊かな社会に必要な厚い中流市民層を痩せさせて、最貧層と富裕層とに開離する結果になったのではなかったでしょうか。

質問者様のおっしゃる理想的な方向性はそれなりに興味深く、聞く価値があると思います(一例どこの地方都市に行っても巨大な総合庁舎ビルがあるという現状はおかしいいと思います)が、100年後のSF的フィクションならともかく、おっしゃるそういった理想が一朝一夕にがらがらぽんとできるはずもなく、現実としては地道な公務員改革、構造改革、各種公益法人の整理統合といったことからやるしかないのではないでしょうか。そういったことへの大胆な提案のほうが今の日本には必要な気がします。
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この回答へのお礼

安定した社会のために必須と言ってもそんなに懸命な政策を次々に政府が実行してくれているとは思えませんがね… これは世間の多くの人も感じていることでしょう。

逆に、賢明な、本当に国民の多くが社会の質の向上に役立っている、と感じる政策を次々に実行してくれるのであれば、税金をそこに大量に投入されてもある程度は納得が得られるのではないか、と思います。教育の質の向上に予算を付けるとか、全国の橋、学校などのインフラ施設は耐震の観点から見てもうかなり老朽化しているものが多いそうです。そういうものの一斉改良の公共事業を行うとか。そういう公共事業であれば、意味もあるし、国内産業も一時的にでも回復するはずです。あるいは今日読んでいた本では、道路と車が相互交信するシステムを作って、絶対に交通事故が起こらない交通システムも、現代の技術では可能だ、と書いてありました。これを公共事業として行えば、ゼネコン、自動車会社、エレクトロニクス産業全て儲かるはずです。

逆に現状の政府というものがどうしても賢明な政策を選択しにくい仕組みになっているのであれば、強制的にでもスリム化したほうが良いのではないか、と思ったのです。

一方、二重行政の排除など、明らかな無駄はどんどん削るにこしたことはないでしょうね。その意味で、橋本さんには頑張ってほしいです。個人的には、参議院の排除などは性急すぎる印象がありますが。

お礼日時:2012/02/26 01:14

航空会社一社が傾けば国営で再建する、あるいは、電力会社一社の経営が危ないからと言って「国有化して再建する!」などという暴論を支持する国民が多い以上、大きな政府、強力な国家になり、民は重税で苦しむことになるでしょう。

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 こんにちは。



 スサノヲ人間語とアマテラス普遍語(科学語ないし人格語)というふたつの概念およびそれらの見比べをとおして考えてみます。

 あやまちうるスサノヲ人間語とあやまち得ない(不可謬性を持つと見なされている)アマテラス科学語かつ人格語との対比です。

 

 雷を 神鳴りと捉えてそこに超自然的なちからをも見ることは 一般に スサノヲ人間語です。これを 放電現象として認識するのは アマテラス科学語でしょう。後者には 経験合理性から見て 普遍性があるというわけです。

 子どもに雷を落とすおやぢに対してそれは あまり褒めたことではないですよ 人間というものについて考えを重ねてさとりを得てくださいと言うのは だいたいアマテラス人格語からの声でありましょう。さとりは 経験合理性ならびに人としての倫理規範に照らして 普遍性がありとうといことだと見なされているというわけです。
 
 でも どうでしょう? 
 雷を落とすというスサノヲ人間語――人間的な あまりに人間的な(?)――は そこで全否定されましょうか?
 決してそうではないと考えられます。怒ることのほうが 愛情に満ちているということは じゅうぶん考えられるからです。このとき アマテラス人格語が言えることは お行儀よくしましょう お父さんの言うことを聞きましょう わるいことをしてはいけませんくらいでしょう。



 アマテラス人格語は それじたいは普遍的な内容を持つと考えられている規範や道徳を表現したものですが けっきょくそれを言う人あるいはおこなう人を問題にするならば 必ずしもその内容どおりには 成っていない。言うこととおこなうこととが食い違っている。

 あるいは アマテラス科学語にしても その科学語じたいは そのときの現在における妥当性のある認識であるにもかかわらず その説明として使っている知識や情報と そのとき問題になっている事柄とが やはり内容において一致していない。ことがあり得ます。つまり 問題をすり替えて さも科学的にただしいことを言っていると見せかけているという場合です。





 あるいはさらに 放電現象を神鳴りだと捉えたからと言って そのスサノヲ人間語が 全否定されるわけではない。アマテラス科学語は あくまで経験世界における経験事象について経験合理性で分かる範囲のことのみを扱っている。したがって 非経験の領域はどうなっているのか これは 扱わない。
 ところが 非経験の場が あたかもわが心に非思考の庭を成らせるといった神の信仰を やはり人は持つに到っている。神をおそれることが 知恵の初めなりとも言われて来ている。
 あっ 神鳴りだという言葉とその意味合いには 科学的な知識としての無知と 反科学的ではなく非科学的な信仰の問題とが潜む。科学が おそらく禁欲してあつかわないと決めている非経験の場 そこにおけるナゾの何ものか これに対するきよらかなおそれを 人は持つ。はずである。
 ここから 知識を活用する知恵が得られ そのようにへりくだる人間こそ 人格語の境地に近いと考えられる。





 したがって要するに 普遍性を問い求めるアマテラス科学語および人格語は あくまで 人びとに共通のヒトとしての自然本性をそなえたスサノヲ人間語から 人間語を基礎として 引き出され築かれていくものと考えられる。人間語を基礎として である。アマテラス普遍語を取り扱いこれを活かすも殺すもそれは スサノヲ人間語に立った人間であるかどうかだと考えられる。月並みなたとえでは 泥沼の中に蓮の花が咲くとか。



 ところで アマテラス普遍語を自由自在に駆使するのは 一般にアマテラス公民です。スサノヲ人間語の世界に生きるスサノヲ市民から言わばアマアガリして 社会の第二階へと上がって行った人びとである。
 よって
 ★ 小さな政府の新しい議論はできませんか?
 ☆ を考えるに当たっては まづ 人間を問題にしたいと考えます。人間あるいはつまり現実が 変わるということ。すでにあたかも二枚舌を駆使するように変わってしまっているのだから 元にもどるということでもある。
 スサノヲ人間語という基礎にもとづきアマテラス普遍語を話すようになること これです。
 いまは実際には アマテラス語は そのひどく訛った方言がいくつか 政財官メディア等々それぞれの世界で 話されている。こういうことではないでしょうか? 訛り過ぎています。






 なお 社会の形態としては インタムラ(村)イズムを考えています。インタナショナルなインタムライズムです。
 主権の存するスサノヲ市民社会(ムラ)が アマテラス公民圏を主導するという。そのために ムラどうしが連携する。世界的に協力する。世界のムラムラが 連携する。それには 企業をも巻き込まなければならないでしょうね。うんぬん。うんぬん。
 おそらくまづ日本が先駆けて アマテラス公民圏からの大政奉還をスサノヲ市民圏が受ける。こういう名誉革命を経ることになるかも分かりません。(それは もっとあとかも分かりません。なにしろ いまは 安全保障の問題があるぢゃないですか?)
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かつてコンピュータは、コンピュータ・センターにホスト


コンピュータがあり、各利用者の所には端末だけがあって
(穿孔テープやマークセンスカードなどで)入力すると、
しばらく順番待ちしていると、突然交信して出力が始まる
という、中央集権的なものだった。
それが、PC(パーソナルなコンピュータ)の登場と同時に、
「中央」に情報を蓄えるのではなく、各PCをつなぐネット
ワーク全体が1つのデータベースとして機能する、インター
ネットが現われて、「ITの民主化だ!」と大いに騒いだ
ものである。
しかし、情報機器は民主化したが、それを使う人間の方は
どんどん社会性が乏しくなり(自己チュー化、拝金主義)、
インターネットは、社会全体の情報を個人に届けて民主的
な意識を醸成させるどころか、逆に個人の情報を中央に
吸い上げて、コントロールするものになりつつある。

経済において、元々の原始共産制=物々交換の助け合い
が、分業化の発達と市場の拡大において、その需給を
つなぐ情報(助けられた感謝)が、貨幣という物体に転嫁
されたとたんに独立した価値を持ち、それを欲しがる事で
結果的に社会的行動を嫌々とらされるようになってしまい、
奪い合いの弱肉強食の擬似ジャングルになってしまった。
そうした、“離れてしまった生産者と消費者”を再びつなぎ、
顔の見える取引き=作った物を喜んでもらう生き甲斐を
取り戻し、助け合いとしての社会性=社会生命的自覚を
醸成する事ができるのも、インターネットなのだが(ネット
マネーによるキャッシュレス化と合せて貨幣制の廃止)。

同様に、“数年に1回、代議士を選ぶ事による国民主権の
発揮”などという回りくどい方法のせいで低下している
参政意識を、ネット投票による直接民主制により、国会を
廃止する(役立たずの老人への高給を財政再建に回せる)
事で、真の民主主義を可能にするのもインターネットなのだ。
開発コンサルによる予算案・政策案コンペに、国民が直接
ネット投票する(個別の案件は随時ブレークダウンして
国民投票に、自治体レベルの案件は住民投票にかける)。
コンペに勝ったコンサルが官僚を指揮して為政し、次点の
コンサルがその結果を評価し、次年度のコンペにフィード
バックする(下位のコンサルは入れ替え)。

もちろん、今のワイドショー政治に嬉々としている国民に
舵取りをまかせれば、衆愚政治に堕するのは目に見えて
いるが、それは今の政治家でも同じ事。
同じ脱線しても、今度は政治家のせいにできず、「衆愚」
のままでは自分たちが困窮するだけならば、そこに初めて
社会的自覚をもって自律的に社会行動をとれる、真の
民主主義への淘汰圧がかかるのだ。
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 NPOや、半分の税と寄付、なんて、世間知らずのお坊ちゃんのたわ言としか聞こえません。


 単に体制に噛み付けばカッコいいと思っているだけの底の浅い独りよがりです。

 それに、司法はどこへ行ったの?
 裁判はNPOに委ねてしまうの?
 税を半分にして、いったい何を削るの?
 寄付って、いったい誰が寄付するの?

 世の中の悪意や危険と向き合わずにすむ世界に生まれ、今日まで誰かに守ってきてもらえたことに感謝し、そのためにあなたの知らないところで人知れず血と汗と涙を流して頑張っている人間がいることを勉強し、世の中の本質を理解して、当事者であるということを良く考えてから、出直すことをおすすめします。

 知っている言葉を並べれば箔がつくと思っているようですが、真実を語る言葉には、余計な飾りは不要で、シンプルでかつ人の心にとどくもの。
 もっと社会を、自分の肌で感じ、その構造を学んでください。
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”昔の王政の時代から社会は進歩しているように見えますが、


権威の体質なんて大同小異、大して変わらないんじゃないですかね…”
   ↑
変わらないと思います。進歩したのは科学技術だけです。


”国は立法、行政、外交、国防に限定して”
   ↑
(1)司法が抜けています。司法は必要でしょう。
(2)福祉てのは行政がやっていますが、それは
 どうなのでしょう。
 後の文章を読むと、矛盾しているように思えます。


”すべてNPO法人みたいなものにする”
   ↑
それで需要が満たされるでしょうか。
社会の秩序が保てるでしょうか。

レッセフェールということでやった結果、
貧富の差が拡大し、労働者が貧困にあえぎ
社会が不安定になって、それで社会主義が
台頭してきた、という歴史はどう思われます?

その社会主義に対抗するため、資本主義国家も
福祉を充実するようになり、今日の大きな政府
になってしまいました。


”コミュニタリアンからそういうアイデアが出ても良いのではないでしょうか”
   ↑
ここまで読んで、質問者さんの意図が解りました。
だから、NPOみたいのに、総て委ねる、てことですね。

共同体主義は魅力的ですが、難しいでしょうね。
強引にやると、社会主義みたいに失敗するんで
ないですか。

この回答への補足

当然司法もですけど、それだと教科書の説明と全く同じで今の国家と変わらないじゃないですか。ただ確かに司法は他の集団では代替できないでしょうね。だから行政の削減、と書けばいいんですかね…そこは表現がよく分からなかったのですが。

あとレッセフェールだと国家以外は市場、でしょうが、イメージとしては書いたとおり、NPOの拡充ですよ。

今は一方的に国・地方税を取られ、役所(特に財務省)で配分を決められるわけですから、負担と受益のひも付きを普通の人は納得しにくい、と思うんです。それにそもそもその配分の過程で財務省の権限・縄張り意識の話になって国益ならぬ省益追求の体質になってるんですよね?まあそこにどうやってメスを入れるのかは言うは易しで本当に難しいんでしょうけれど…

どの分野をNPOと今すぐ列挙できませんが、例えば有名な「もやい」の貧困者救済とか、言われる通り福祉、今盛んに人手集めが叫ばれている介護なんかも得意とするNPOはあるでしょうし、これは国外なので脱線ですが、貧困国復興の活動をする「かものはしプロジェクト」とか、地雷撤去活動を続けるNPOなどの含めれば、たくさんあると思います。

効果の良く分からない政策に大幅に使われるよりも、納得のいく活動に寄付したほうが良い、と考える人は結構いるんじゃないか、と思うのです。全体の税を半分にする代わり、年間5万円は必ず寄付する、等の法律を設定しないと実際効果は出ないかもしれませんが。

補足日時:2012/02/14 23:43
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