牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

例えば【ありがとう】と言う言葉がある事をおぼえずに育った人間は、ありがとうと言う感情が理解出来ないと思います。
言葉があり感情が生まれ、感情があって動けるのだと思います。
人間の人格や性格も言葉【言葉の選び方や抑揚、タイミング】で決まります。
我が家は挨拶【朝初めて会った時のおはよう、何かをして貰った時のありがとう、家庭に帰って来た時のおかえりなどすべての挨拶】がない家庭、言葉があまりない家庭だったので、あたたかい家庭じゃありませんでした。私も【物】みたいになってしまった気がしてます。

人間が言葉で出来あがるのであれば、そのために日々日記で言葉を書く事も効果がありますか。

A 回答 (8件)

> 言葉があり感情が生まれ、感情があって動けるのだと思います。



「言語相対性の仮説」というものがあったそうです。これは大雑把に言うと「言語があり、思考ができる」即ち「言語=思考」という仮説です。ヨーロッパ、特ににドイツにおいて伝統的な考えであったそうですが、アメリカの言語学者:E.サピアとB.ウォーフの20世紀半ばの発表が有名です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%94% …

思考と感情という違いはありますが、基本的な考え方は同じかと思います。

「言語相対性の仮説」については次のような実験が行われています。

1)言語に無い色は認識ができるか?・・・これは出来ました。

2)聾児と正常児では、物を区別する能力が違うか?・・・これはある時期までは聾児が劣っていたのですが、7歳ぐらいになると違わなくなったそうです。

感情の学習についは、昨今「ミラーニューロン」の発見により、感情は言葉から生まれるものではないという考え方が主流になっているそうです。
http://www.brain-book.com/review/0013.html

問題があったとするならば、おそらくは「言葉があまりない家庭」に育ったことではなく、「感情表出があまりない家庭」で育ったことではないかと思われます。

> 人間が言葉で出来あがるのであれば、そのために日々日記で言葉を書く事も効果がありますか。
無責任な素人考えですが、熱狂している集団に加わるようなことをした方が良いと思います。例えばこういうイベントに行って騒いでみるとか。
ttp://www.youtube.com/watch?v=y3OG1x1R2R8&feature=fvwrel
(頭にhを加えてください。)
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 人間は“言葉でも”出来上がると思います。


 また人間は言葉を選ぶのだとも思います。

 品格なんて言葉が在って、人間にも上品な人とか下品な人、なんて形容することがありますが、上品な人の言葉使いと下品な人の言葉使いはやはり違っていて、それはその人の性格が選んでいるのだと思います。
 意識して使う場合もありますが、その人の品に在った日常の言葉は無意識のうちに身に付けたもので、自然とそうした言葉づかいになっているはずです。
 上品な人が日常に下品な言葉を使う気にはなれないはずですし、下品な人も上品な言葉は使えないのだと思います。

 それは言葉には感情を込める事が出来るから。
 言葉は感情を含める事が出来る。

 言葉を持たない幼子は泣いて母を求めますが、物心がつき親の教える優しい言葉を繰り返し聞くうちに、ママ、パパとか、ぶーぶー(くるま)とかを覚え、母を呼ぶときには自然とママと呼びかけるようになります。もう少し大きくなれば日本人なら、お父さんお母さんと言って父、母を想えるようになります。
 言葉を覚え、感情が込められるようになったからでしょう。

 日本人にとって外国語のサンキューは大多数の人が日本語として使っていると思いますがフランス語のメルシーはどうでしょうか。サンキューよりはだいぶ外国語的でメルシーにありがとうの気持ちを込めにくい人は結構いるように思います。それはやはりあまり接する機会がないから。

 我々は言葉で自分を作り上げる事が出来ると思います。
 向上心があるならば、好ましい生活と好ましい言葉づかいをすることで、良い自分を作り上げることができます。

 
 

 
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あなたの意識の成り立ちの起源に遡る必要があるのです。



まず、進化の過程や動物、乳幼児を観察すると意識や感情に言葉は必要では無いようです。
一方、言語を獲得した人間の場合はどうでしょう。一般には、言語と感情は切り離して考えることができます。しかし、言語という特殊な能力を獲得した人間の中には、言語を伴わないと意識されない特別な人達が存在します。

言葉があたかも実物が存在するかのように確たる存在感を伴っている人達。

こうなってくると、感情そのものとそれが言語表現された存在がセットになっていないと理解されないという状態になるんですね。更に進むと言葉が先行して実体があとからついてくるようになります。

このことは言葉が単なる伝達手段にすぎない人達には理解不能なのです。

>人間が言葉で出来あがるのであれば、そのために日々日記で言葉を書く事も効果がありますか。

人間が言葉で出来上がる → あなたが言葉で出来上がっているのであれば、あなたは言葉の中に没入することになります。

善し悪しの問題ではありません。

おすすめは、言葉は単なる道具で言葉で生きて無い人間も数多く存在することを想像することです。
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 こんにちは。



 ★ 例えば【ありがとう】と言う言葉がある事をおぼえずに育った人間
 ☆ とそして 《言葉をまったく覚えなかった人間》とは ぜんぜん違います。

 だいじょうぶです。

 ことばをめぐっては それを使うという心つもり(意志)がはたらきます。
 ことばが分かるというときには 知性が刺激されて意志はさらにその理解を深めよう広げようとするようになります。

 ということは 人間は 表現する動物です。
 自己表現の主体となる存在であり 自己表現の過程じたいが その人間だとも言えると思います。つまりその動態が 人格であると見ます。

 意志が中軸であるのですが そのときには言葉を使うのですし 無言の場合や自然と向き合う場合にも 言葉をとおしてその思いやその情況感をあきらかなかたちとして持ちます。

 むろん 日記も 自己表現の一環です。


 自己表現と言っても 人は 社会的な動物でもありますから 対話が必要です。
 そのようなとき――わたしの若いとき―― このような情報交換の場はなかったので 書物をつうじて対話をしていました。(友だちはいましたが 突っ込んだ話を進めていくと いやがるようになりました)。
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言葉は、感情、思考を伝えるための道具です。



道具だけ使っても、ただ使ってるだけで、漢字のお勉強程度でしょう。

コミュニケーションが人間を作る
そのために言葉を使う

言葉では出来上がらない

出来上げるのに必要な道具
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言語とは、空気の振動やインクの染みに過ぎません。


その記号性に対する条件反射により、発信者と受け手
の脳内に同じイメージを想起させるものです。
だから、感謝の気持ちのない人間に「ありがとう」を
いくら教えても、謙虚な人間に育つ事はありません。
あくまで脳内のイメージが先で、それに対する条件反射
的な対応をする事(=学習)によって、「意味」は生じる
のです。

僕が2年間暮らしたケニアのスワヒリ語に、火の熱さを
表す「モト」がありますが、レストランなどでビールを頼む
と、「モトかバリディ(冷たい)のか?」と聞いてきます。
別にビールをお燗する訳ではなく、気温の高いケニアで
放置しておくと温かくなるから、日本語で言うなら「さめた」
状態を「熱い」で表現するのです。
同じように、「新しい」を「湿っている」を意味する「ビチ」で
示します(湿度の高い日本とは逆のイメージ)。
つまり1つの単語(熱い、新しい)の意味する範囲が、
環境によって決まる場合、いくら言葉でイメージを規定
しようとしても自分の座っている座布団を持ち上げて
空を飛ぼうとしているようなものです。

もちろん、そうした言語による理解を深めた後に、比較
文化学的な研究を経て、自然や文化の相対性を脳内に
再構成した後であれば、そうした齟齬を克服したコミュニ
ケーションは可能ですが、少なくとも言葉先行では無理です。
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言葉が無くとも、感情は存在するでしょう。


動物にだって感情はありますから。
人間は言葉によって出来ていますが、言葉だけで
できている訳ではないでしょう。
言葉に出来ない感情や行動。
言葉に出来ないモノはいくらでもあります。
言葉は完全ではないのです。


ただ、例えばです。
日本人は、当初は文字を持っていませんでした。
そこへ、中国から漢字が入ってきました。

すると、おもう、という感情が
思う、想う などと細分化明確化され、感情がより精緻
になっていきます。

つまり、漢字に出会うことによって、日本人の
感情が豊かになり、知的レベルがアップします。
そうなると、今度は既存の文字では現すことが
できない感情が発見され育っていきます。
そこで、その新しい感情に適合した文字が
造られます。
以下、その繰り返し。

同じ事は、言葉にも言えると思います。

言葉は人間を造って行きますが、言葉によって
造られた人間は、新たに言葉を造っていきます。
そういう相互作用の結果で人間が創られている
のではないでしょうか。

言葉と人間の関係はこういうものだと思われます。
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 例え言葉が無くても人間には基本的な感情は備わってはいると思います。


ただ、確かに、たくさんの言葉とその使い方を知っているのは
大きな財産だと思います。
 仰るように日記をつけるのは良いことだと思います。
「日記をつけるのは2度生きることである」と言う言葉もあります。
私もつけてますが、読み返すのは大変面白いですし発見もあります。
 後、いろんな本を読むのも大変効果があります。
特に古典を読んでください。言葉の使い方と知恵の宝庫です。
(AMAZONの読者レビューが参考になります)
 そして良い映画をたくさん観てください。
良い映画は人生の教科書になり得ます。
ただ、楽しいだけの映画ばっかりを観る人もいるようですが
私は感心しません。
(これも、TSUTAYA DISCASやYahoo映画のレビューを読んでください)
本と映画、両方に言えることですが、もし気に行った作品があれば
作者は勿論のこと、中で言及していた作品なんかも辿って行ってください。

 例え、言葉の乏しい家庭に育ったとしても、まだまだ間に合います。
言葉の乏しい大人なんてゴロゴロいます。
残りの人生を豊かにされることをお祈りします。
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