No.14ベストアンサー
- 回答日時:
☆☆(回答No.13) ~~~~~
おさな子のこころの内なる《非思考の庭》が クリスチャンの子とユダヤ人の子とムスリムの子とアルケー信者の子とでは 有意なチガイがあるとでも言いたいの? 無神論者の子は論外だとでも言うわけ?
~~~~~~~~~~~~
☆ これで 明確に持説をのべています。
それに答えず 他方では わたしが結論をはっきり示さないと言っているようです。
無神論者の子であっても ほかの信仰形態の親の子であっても 《非思考の庭》なる動態は 同じだという結論を いやというほど あきらかにして述べています。
ただし 宗教は オシエの問題に問題がすり替わっていますから 話がややこしいのです。
>無神論者の子であっても ほかの信仰形態の親の子であっても 《非思考の庭》なる動態は 同じだ
あなたに次の言葉を送りましょう。
「人の道は信仰の上に信仰を作らず、信仰の下に信仰を作らず」
No.13
- 回答日時:
ひとつだけ言うことがある。
★(No.12お礼欄) あなたの考えによればユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、アルケーの神も皆同質であり、無神論に等しいゆーことになる。
☆ 宗教は 《信仰類型論》そのものではないということ。
《オシエ》が まといついている。と言うよりも オシエが《非思考の庭》(信じる)に取って代わってしまっている。
だから 《聖なるアマエ》あるいは《きよらかなおそれ》としてなら――非経験の場にもとづくというかぎりで―― 無神論も有神論も 《同質》なのです。《無い神》というように 名前がちがっているだけだということ。
おさな子のこころの内なる《非思考の庭》が クリスチャンの子とユダヤ人の子とムスリムの子とアルケー信者の子とでは 有意なチガイがあるとでも言いたいの? 無神論者の子は論外だとでも言うわけ?
やけに《無神論》に話を持って行こうとしており 持って行けたら それはそこでアウトだとでも言いたいようである。
メガネが曇っているようだよ。
>やけに《無神論》に話を持って行こうとしており 持って行けたら それはそこでアウトだとでも言いたいようである。
別に無神論に話を持ってゆこーとしている訳ではなかった。
誤解を解くために付け加えると、アルケーの神を掲げることが無神論になろーが有神論になろーが大した問題ではなかった。
ただあなたの話ははっきり結論を示さず判り難いので、わたしが自分の基準であなたの考えに結論を下したにすぎない。
No.12
- 回答日時:
★(No.9お礼欄) そもそも神は1つなのであるから、他の神と比較するなど無意味である。
☆ ところが そのような内容の違いとしてではなく 呼び名としては 同じじんるいのあいだでも いくつかに分かれているわけです。
そもそも言葉が 民族ないその言語によって違います。
この名前としての違いを言っており それのみのことです。
そのとき 名前など無いと言い 無神論を標榜する場合も 条件として次の前提が満たされるならば すなわち:
《非経験の場》の想定およびこれを受け容れるという
《非思考の庭》を《信じる》という人間の意志行為かつ
その動態だと見るというその前提に同じく立つならば
こうであるならば みな同じひとつの《信仰類型》にあてはまりますとゆーておるのです。
★ この点においてはユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの神も、アルケーの神も同じではないの。
☆ うえの《信仰類型》として同じです。
★ あなたの考えに従いアルケーの神を掲げることが無神論に等しいのであれば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も同じく無神論になるのではないの。
☆ 同じ説明になります。
★ するとあなたは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教もみな無神論であるとゆーておるの。
☆ とにもかくにも イエス・キリストと呼ばれた男は あらゆる宗教の神は 《個人の主観としての〈非思考の庭〉にいだかれる神》にすべて還元されると言ったものと捉えています。この真理を指し示した。
すなわち 《信仰類型》として・また《人間の信じるというかたち》として どんな神が来ようと《無い神》が来ようと 同じひとつの生きる動態であると。そのあと《考える(コギト)》が来る。
どーやら結論は出たよーである。
あなたの考えによればユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、アルケーの神も皆同質であり、無神論に等しいゆーことになる。
これ以外には考えられん。
どー考えよーとあなたの勝手であるが、これではせっかく神学学んでも教会から相手にされんことだけは間違いなさそーである。
まーえーんでないの。
それも1つの信仰には違いあるまい。
No.11
- 回答日時:
神も 無い神も 信じるという点においては 堂々巡りの思考状態であり 他の疑問を持ちながら考えるという思考回路からは外れており 非思考状態とおもいます。
『信じる』をAとしますと神も無い神もアルケーもあるいは絶対的な別物であっても 全てAであります。なにかのAの主張は固定回路からの疑問のない発信であって他の発言とかみあうはずはなく 延々と主張が続くということでしょう。ただなぜその主張に至ったかは説明できると思います。Bragelonneさんが神を信じる前提として非経験の場があると説明されます。私にはこの点は納得できないのですが 説明は分かります。しかし アルケーを信じるに至った人の道さんの説明が相当不足しているように思われます。アルケーが浄土真宗にあらわれているとは驚きましたが この飛躍をもってすれば 他の宗教にも繋がるような気がしました。教祖が教義の主張することは このカテでは範疇違いとは思いますが 主張に至る説明は出来ると思います。まずはアルケーを信じるに至った十分な説明を試みられたらどうでしょうか。
以上失礼しました。
No.10
- 回答日時:
一般的な、辞書にあるような解釈による信仰、乃至信仰心(信じる〔という行為〕)をブラジュロンヌさんは、あれは真の信仰とは言えない、と云って否定しているのです。
一般的な解釈に依る信仰の世界は“思考”によって作り上げられた世界なので、それを“信じる”のは信仰とは云えず“信念”と云うべきもの、信念は信仰とは違う、と主張しているのです。
発端は、宗教界への不信感から。「宗教」がもたらす“負”の世界に疑問を持ちそれに立ち向かおうとして、『非思考の世界』のあることを“意識”し、“理”によって表わそうとしているのです。
だいぶ前の事ですが、この哲学の広場で「魂とは何ですか」と云った意味合いの質問に回答した事が有ります。
精神と魂とどう違うんでしょう?という疑問に私は“大木”を例えに使って説明してみました。
「地面から上の幹や枝葉が精神、地下の根っこが魂と云えるのでは。精神は意識しやすいが魂は意識しにくいもの」と。
再度例えてみれば、“非思考の庭”は魂の発生源を想定したものである、と云ってみたい。
そして“ヒラメキ”は“非思考の庭”と魂とをつなぐ“動態現象”であるとも。
宇宙と地球の境目を『宇宙の渚』と命名して、その神秘な世界を放送したテレビ番組(NHKのオンデマンドで見られます)を見ましたが、その宇宙の渚で起きている「かみなり」現象が、精神の“ヒラメキ”現象とダブります。
アルケーの神も“非思考の庭”も胴体異名。
あとは思索を通して起きる信仰心を、それは「思考であって信仰とは言えない」というブラジュロンヌさんの主張の是非が意見の分かれ目かと思います。
No.9
- 回答日時:
★(No.8補足欄) ~~~~
bragelonneさん、あなたの掲げる神学のレベルがどの程度のものか検証すべき時がやってきたよーだ。
ここで徹底的に検証せんといかんな。
~~~~~~~~~~~~~
☆ どうぞ。というか すでにわたしの質問でずっとやって来ていますよ。
★(No.8・お礼欄) ~~~~
>この実証ないし論証をしてから この《実在する》という言葉を使うのがよいでしょう。
アルケーの神が有る神であるためには、その存在を実証しなければならないのか。
アルケーの神を掲げるものが、これが実在することを確信し、無限であることを確信し、経験したと感じているのであればそれで十分ではないの。
有る神を掲げるのであれば、常にこのよーにその存在を実証しなければならないのか。
それともアルケーの神だけがその存在を実証しなければならないとゆーておるのか。
~~~~~~~~~~~~
☆ 問題は 次の一文をめぐってです。
★★(No.4お礼欄) ( b ) アルケーの神は実在するし無限であり経験もできる。
☆ 次のふたつのうち いづれかをえらぶ必要があるでしょう。
(1) このように《実在するし 経験もできる》というのであれば それだけなら 《非経験の場(つまり 神)》を 《神は存在する》派としての有神論で受け容れている。
よって
★★(同上) ( f ) 非経験の場でもなければ、非思考の庭でもありません。
☆ という立言は おかしい。矛盾するゆえ 取り下げることになりましょう。
(2) もしそうでないとすると・つまりその意味は
★★(同上) ( f ) 非経験の場でもなければ、非思考の庭でもありません。
☆ こちらのほうを活かすとするなら ( b )の《アルケーの神は実在する》というその実在は 経験世界における出来事を言うことになるはずですから 科学的に実証しなければならなくなる。こういうことです。
で ここで大事な問題は こうです。
(1)の立ち場に立って 《非経験の場》の想定をみとめているのであれば
★(No.8お礼欄) アルケーの神を掲げるものが、これが実在することを確信し、無限であることを確信し、経験したと感じているのであればそれで十分ではないの。
☆ というほどに じつはけっきょく 《アルケー》という名以外の神についても それぞれの主観においてこの《確信》があるということを あなたはみとめなければなりません。
どのような名をつけていても 神は――そして 無い神も―― 非経験の場という前提にもとづくかぎりその神は 他の神と つねに同等であり対等である。こうみとめなければなりません。これが 大事なことです。
つまり
★(No.4お礼欄) アルケーの神が唯一絶対の神であると知ることです。
☆ であるとかあるいは《アルケーの神以外に神はない》という趣旨のことを言っては 自己矛盾になります。ほかの神をいだいている人びとも それぞれにその神を実感しているということです。何らあなたの神および神学と その構造が 変わるものではありません。
つまり構造というのは だれであっても その心の内なる《非思考の庭》として成り立っているのが 《神を信じる》という動態だということです。
これで やっとぎゃふんと言ったであろう。どぢゃ。
> どのような名をつけていても 神は――そして 無い神も―― 非経験の場という前提にもとづくかぎりその神は 他の神と つねに同等であり対等である。こうみとめなければなりません。これが 大事なことです。
そもそも神は1つなのであるから、他の神と比較するなど無意味である。
この点においてはユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの神も、アルケーの神も同じではないの。
あなたの考えに従いアルケーの神を掲げることが無神論に等しいのであれば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も同じく無神論になるのではないの。
するとあなたは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教もみな無神論であるとゆーておるの。
No.8
- 回答日時:
★ (No.4お礼欄) ( b ) アルケーの神は実在するし無限であり経験もできる。
☆ 《実在する》というのは 経験事象であることを言っています。
つまり《経験できる》というごとく 科学的に一定の条件を満たしてそのとおりにすれば 誰でも経験できその結果 誰もが同じ認識に到るという含みを 持っています。
この実証ないし論証をしてから この《実在する》という言葉を使うのがよいでしょう。
この問題があったから ただちには答えたくなかった。
この回答への補足
bragelonneさん、あなたの掲げる神学のレベルがどの程度のものか検証すべき時がやってきたよーだ。
ここで徹底的に検証せんといかんな。
>この実証ないし論証をしてから この《実在する》という言葉を使うのがよいでしょう。
アルケーの神が有る神であるためには、その存在を実証しなければならないのか。
アルケーの神を掲げるものが、これが実在することを確信し、無限であることを確信し、経験したと感じているのであればそれで十分ではないの。
有る神を掲げるのであれば、常にこのよーにその存在を実証しなければならないのか。
それともアルケーの神だけがその存在を実証しなければならないとゆーておるのか。
No.7
- 回答日時:
★(No.6お礼欄) では訊きます。
☆ もうすでに到るところで述べてあきらかにしています。
そうでなくても 大半は いままでの応用問題であって 容易に答えは出るはずです。
神というすべての名の神は そのままひとつの神にまとまります。
そして 神の名などはどうでもよいものとなって行きます。
むろん世に無神論者だという人びとのその《無い神》も 同じひとつの神にまとまるという意味です。
あるいは と言うよりも 《ひと》としてその自然本性が互いに同じだという意味になります。
その上で おのおのの色合いがつくようになるという側面があるのでしょう。
また 《神》は それぞれの主観の内におさめられて もうあまり外には出て来ないでしょう。
非思考の庭におさまっているという寸法です。
オシエを説く宗教が要らなくなります。組織は自己解体して行きましょう。
なお多神論の神々は 《ひとつの神》の分身だと言えば 分かりやすいでしょう。
この回答への補足
bragelonneさんよ、この程度の問答で自分の答えも示せず、逃げ回るよーであればそんなもん神学ではない。
わしなんかはっきりとゆーておる。
「アルケーの神を除いて神は存在しない」と、
こーはっきりゆーておるんや。
分かるか分からんかが分からんナゾの何たらかんたらゆー程度ではアホらしくて神学にならんよ。
>容易に答えは出るはずです。
容易に答えが出るといーつつ、答えを示さんのはなんで。
容易に答えが出るとゆーのであればそれを示せばよいんではないの。
何故示さない。
再度確認させて頂きたい。
あなたの考えではアルケーは無い神であり、従ってアルケーの神を掲げることは無神論になるのか。
No.6
- 回答日時:
まだ つづくようです。
★(No.4お礼欄) ~~~
( a ) アルケーの神は存在します。
( b ) アルケーの神は実在するし無限であり経験もできる。
( c ) 我々人間との間に確かな接点を持っている。
( d ) その接点が消えることはありません。
( e ) 現にわしなんか今この瞬間においてもアルケーを感じとっている。
( f ) 非経験の場でもなければ、非思考の庭でもありません。
~~~~~~~~~
☆ これが 或るひとりの人の――つまりあなたの――主観において繰り広げられていると受け留められる《非思考の庭》 その内容としての動態です。
その動態の中身として ひとによっていくつかのかたちがあるというわけです。
(1) ( a-1 ) 神は存在します。
とするなら いわゆる有神論としての《非思考の庭》(信仰)の表明です。
(2) ( a ) アルケーの神は存在します。
と表明するなら その《有る神》に《アルケー》という名をつけたということです。自由です。
(3) ( b ) アルケーの神は実在するし無限であり経験もできる。
これは すでに( a )の自己表現を成しているなら 同じことを表明しています。わざわざ説明しているのでしょう。
(4) ( c ) 我々人間との間に確かな接点を持っている。
これも ( a )の有神論およびその神の名を《アルケー》と言うという神学をすでに表明していますので そこからみちびかれるまったく同じ内容にほかなりません。
(5) ちなみに 人間と《非経験の場》とは絶対的にへだたっている。それゆえにこそ 絶対の側が 相対の世界を覆い包むようにして《接点》を持っているとなるのです。
ぜんぶを包んでいると言ってもいいし ニュートリノのごとくつらぬいて行くと言ってもよいでしょうし 梵我一如のごとく《わたしとアルケーの神とは 一体である》と表現してもよいでしょう。
(6) ですから――その神は 《非経験の場》なのですから・絶対であり不可変的であるゆえ――
( d ) その接点が消えることはありません。
というのも あたりまえです。
(7) ( e ) 現にわしなんか今この瞬間においてもアルケーを感じとっている。
という体験を述べることも 自由です。ただわづかにそこに《非思考の庭》というひとつの枠組みを共通とする以外には 人びと〔のおのおの主観〕との共通点は 見い出しがたいと言わねばならないはずです。
ぎゃくに言えば そのように差異をみとめあうところの自由さが 《非経験の場》なる神のあたえる自由です。
単純に言って 神のもとにあって ちっぽけな・それでもそれ自身でとうとい存在だという自覚がおのおのにあることによって 対等で自由であることになります。
(8) ( f ) 非経験の場でもなければ、非思考の庭でもありません。
つまりこれは 大枠の《非経験の場 そしてそれをわが心に受け容れたとき成る非思考の庭》が《無い・ゼロというかたち》だと表明したことを意味します。
つまりは 無神論というかたちが基礎にあると言っているのでしょう。
(9) わざわざ( a )で非経験の場としての神に アルケーという名をつけていますが 《神学としての思考》においては 《無い神》を自分はえらんでいるのだと表明していることになります。いささか複雑です。まだ 整理されていないのかも知れません。
(10) なぜならつまり
( b ) アルケーの神は実在するし
と言っているなら 無神論を基礎とするというのは 自己矛盾でありましょう。整理してみてください。
言いかえると わたしが説明する理論としての《非経験の場》や《非思考の庭》という言葉をわけもなくこばんでいる。それだけのことのように思われます。
つまりアルケーの神は無い神に等しく、アルケーの神を実感することは無神論に等しいとゆーておる訳か。
では訊きます。
この世界では多くの神々が信じられているが、それらは有る神と無い神に分かれるゆーことなのか。
例えばアマテラスはどっちなの、有る神なの無い神なの、アマテラスを信じれば有心論なの無神論なの。
ヒンズーやイスラム、ユダヤ教やキリスト教の神は有る神なの無い神なの、そしてこれらを信じるのは有心論になるの無神論になるの、どっちですか。仏教はどーなのかな。
それからあなた自身はどーなのか、有る神の方になるの、それとも無神論者なの、どっちですか。1つここではっきりゆーたほーがえー。
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