【大喜利】【投稿~9/7】 ロボットの住む世界で流行ってる罰ゲームとは?

大津自殺でもそうですが、教育現場では評論家も含めて、どうしてこう一般常識に外れた事が次々起こるのでしょう?

産経新聞 8月21日(火)15時4分配信抜粋
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120821-00000 …

 一連の事件、報道の中で気になることも指摘しておきたい。教師経験者の評論家たちの論評が、いかに常識外れかということである。

 例えば、他のいじめ被害者を念頭に、つらい学校には行くな、逃げろという意見が相次いでいる。

 問題の本質はいじめがはびこり、児童・生徒の安全も図れない学校にある。その改善を学校に求めるのが筋であり、加害児童・生徒こそ矯正もしくは排除されなければならない。被害者に負担を押し付けることは本末転倒だ。

 学校の隠蔽体質の原因を、学区の自由化、学校間競争を高めた結果だと問題視する意見も多い。学校の評判を気にするあまり、校内の穏便を装うという指摘だが、これもまた本末転倒の意見で噴飯ものだ。

 競争の中で成績を上げるべく努力するのが社会一般の姿だし、その際に不都合を隠せば責任を追及されるのが企業社会の常識である。

 努力しない子供を「個性」として放置したように、運動会での順位付けを「平等」の名で追放したように、公教育界は独自の論理を生んだ閉鎖社会である。その弊害を除去するために教育委員制度が採られている。

 首長が議会の同意を得て任命する原則5人の教育委員が、教育長をトップとする事務局を指揮監督する制度だが、大津市では全く機能しなかったと言うしかない。

 「仕事を抱える私ができることはやった。非常勤の教育委員が事務局をコントロールできるのか難しい部分もある」

 今月9日、ようやく報道陣の前に現れた岡田隆彦・教育委員長の言葉である。この程度の覚悟と自覚なら、重責を受けるべきではなかった。

 公教育の責任者はだれなのか。今、真剣に、全国で考えるべきことはそれである。(編集委員・安本寿久)


・・・記事の中でも書かれているように「競争の中で成績を上げるべく努力するのが社会一般の姿」「不都合を隠せば責任を追及されるのが企業社会の常識」です。

大津皇子山中の事件が代表的ですが、国民にとって非常に大切な教育の現場で、なぜこんな世間の常識を逸脱した騒動が起きるのでしょう?

またどうすれば改善されるのですか?

A 回答 (9件)

「地元の駅弁を出て、でもしか教師になり、気楽な一生をすごすのさ」の教師が、元凶かなと思う



あとは、過激なドラマとかゲームとか現実離れした感覚が蔓延ったのも元凶かなとも思う

なんでも「リセット」できると思っているのでは?

いじめ自体は、昔からあるのですが痛さを分からない人が増えたせいもあるのかも

「貝の火」何かでも表現されていますし

ただ限度がわからなくなったことと責任逃れする教員が増えたこととなど

まぁ原因となることがいっぱいあるので改善は・・・難しいかもですね
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手の付けられない犯罪者と向き合い、他人に危害が加わる恐れ有りと判断して発砲した警官が訴えられ、仮に敗訴して罪に問われたとした場合、その後日本の警察はどうなるでしょうか。



要はそれと同じで、現在の教育現場も過去の一つ一つの事件や事故、それとそれに関連する色々な思惑が絡まり合ってその姿を形成しています。

確かに子供の人権は守らねばなりません。また教師の中にもとんでもない奴がいて、本当の意味で暴力教師と言える者もいたかも知れません。しかし昔の教師は、その良し悪しは別にして、世間から教育を任され自分なりの方法で又自己の責任において教育を貫徹していましたし、それが許されていた。

だから言う事を聞かない子供や悪さをした子供を叱れたし、時には体罰も辞さなかった。しかしそれは飽くまでも子供を躾ける為の体罰であって、決して暴力では無かった筈だし、少なくともそこにはその教師の教育に関するポリシーがあった筈なのです。なのにその体罰が様々な経緯を経て教師の手から取り上げられてしまった。

所詮子供などと言うモノは、猛獣と何ら変わりのない危険な生き物です。食べてさえいければ体は日々成長するし、人間と言う生物の本能に従い行動する。それを理性ある人間に導く為には、猛獣使いがそうであるようにアメとムチを使い分けて上手に躾ていく必要があり、それが教育の根幹の一つである筈なのです。

なのに教師はそのムチを取り上げられた。それでもアメで釣って一応の芸をこなす猛獣は作ったものの躾が全く出来ていない。だから教師として、何時牙を剥いて襲ってくるか分からないと言う怖さもあるし、同時にそんな不良品にしてしまった責任も負いたくない。それに元はと言えばムチを取り上げた方が悪いと言う意識がある。

仮に犯人逮捕の為の発砲で警官が罪に問われたなら、その後の警察は恐らく発砲を躊躇するだろうしそれによって普通なら捕まえられる犯人でも捕まえられ無くなるかも知れない。そしてそれが問題として取り上げられれば、次には犯人を見ても見なかった事にするかも知れない。しかもその事を一番理解しているのは同じ境遇にある警察官同士なモンだから、他人から何と言われようと要は現場の事を何も知らないものが何を言うという態度で仲間を庇うだろうし、更には世間に知られる前に隠蔽し何事も無かった様に振舞うかも知れない。そしてその根底に、犯罪を阻止する為の正当な発砲が罪に問われる様な世間にマトモな事を言っても同じと言う諦めがあるとするなら、一体どうしたら良いのか・・・。

今の教育の現場も同じで、昔聖職と呼ばれていた当時の教師の姿は無く、只子供に教科書に記載されている事を教えるだけの地方公務員が、教育委員会や教員OBの評論家とグルになって責任回避と明日は我が身の為の運命共同体を作っていると言うのが現状です。勿論この話を進めて行くと最後には誰が教師からムチを取り上げたのかに行き着いてしまうのすが、この際体罰を叩きまくった新聞や教師を唯の教育労働者に仕立ててしまった日教組の責任は置いとくとして、先ずは教員不適格者を排除する意味からも厳正な評価をもって一度教師に失業の危機感を持たせる。
恐らくこれが一番手っ取り早い方法なのかなと思います。
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>大津自殺でもそうですが、教育現場では評論家も含めて、どうしてこう一般常識に外れた事が次々起こるのでしょう?



親子そろってタダの子供のおふざけ、親はまだ子供なんだから~としか認識が無く、子供だからこそ一般的な常識を植え付けると言う一般的な親としての考えが無く、そんな偏った教育で育った子は親は間違ってないと教えられて来た、俺の何処が可笑しいの?程度でしょう。

昔からこんな親子が数多く居たのだけど 親子共々ほっとけば良いんです、まだ暫くこの親子が関係する方々に被害が及びますが、被害を受けたらドンドン訴えれば良いだけです。

この子たちがだんだん大人に成るに従って どんどん親子共々ドツボにハマり表社会所か裏社会からも追われる様な生活を送る事になりますから。
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地方教育行政の独立性が高すぎる弊害の現れです。

教育委員会は「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」に基づいて、都道府県、政令指定都市、主要都市に設置されています。

公立学校の教員は、都道府県の教育委員会によって任用され、該当の都道府県の中だけでしか人事異動がありません。地元志向の強い教員志望者は地元の都道府県で採用されようとしますから、結局生まれてから死ぬまで、自分が生まれ育った県しか知らないことになります。地元の文化、風土、空気、事情、慣習には詳しいが、所詮は井の中の蛙で、視野が狭い人間しか育ちません。狭い職員室の中だけでしか通用しない処世術をどうしても身に着けることになる。狭い職員室の中で人間関係が固定化してしまうのを避ける為に人事異動が行われているんです。転任・転出が無いと、一度生じた親分・子分といった人間関係、いじめ教師・いじめられ教師といった窮屈な人間関係が固定化してしまう。また地元の有力者との癒着関係なども生じてしまう。そういう弊害をなくすことが人事異動の目的です。

新聞報道などで、いじめ被害に遭った生徒が先生に相談したときに「我慢しろ。卒業まで耐えろ。」と指導したなんて記事があります。これ実は、いじめられ教師が自分の処世術を生徒に伝授しているのです。我慢すれば、いじめ教師かいじめられ教師かどちらかが転出して、地獄から抜け出せるという仕組なんです。教員の世界がそうだから、同じように生徒の世界にも、その論理が通用すると思っているわけです。

教員の世界といっしょくたに論じているけど、これも乱暴な話で、47都道府県ひとつひとつ全部違う。私もさすがに都道府県別に論じるほど知見があるわけではないが。

で、そういう狭い世界で主任・教頭・校長と出世志向の強い教員が教育委員会に出世していきます。教員はどちらかというと日教組系の皆横並びで平たくという人間が大多数なので、出世志向の強い教員はほんの一握りです。都道府県の教育委員会はともかく、市の教育委員会は人材難なんです。

大津市長の越 直美は定例記者会見で、沢村憲次教育長の他に適任者はいないと大見得を切りましたが、これは満更嘘でもない。たとえ沢村憲次にどんな問題があるといって大津市には他に実務能力があり、教員の世界を知っている人間などいないというのは本当のことなのでしょう。

市といっても村感覚なのです。八つ墓村なんです。教育よりも村の恥を隠したいという論理になってしまうのです。真実を追究するより、よそ者に知られたくないと考えるのです。皆でかばいあう。そういう村の暗黙のルールを知らないよそ者が転入してくるといじめられることになるのです。

これがイジメ自殺の基本原理です。大津市は山奥でない交通の要衝だから転入者も多い。そこは八つ墓村と異なる。しかし大津市の文化、風土、空気、事情、慣習は八つ墓村なのです。大津市に限ったことではない。旧住民と新住民の文化摩擦がどうしても生じる。それは当然にして学校にも持ち込まれるのです。

大人なら、もう少しましな解決方法があっても、子供には知恵がない。追い詰められて自殺してしまう。

今、問題なのは、誰一人として、こういう問題の本質に気づいていないことだ。それは教育評論家とて例外ではない。教育評論家は教育には詳しい専門家だが、決定的に無知すぎるのだ。彼らは、余りにも洞察力がなさすぎるのだ。私以外誰が、こんな話をできようか。

沢村憲次教育長は「家庭にも問題があったのではないか。」との弁を発して、「すり替えだ!責任逃れだ!」と全国から非難沸騰・集中砲火を浴びましたが、この弁にも一理ある。
あの一家が、八つ墓村の文化、風土、空気、事情、慣習を理解してくれたなら、こうまでいじめられることもなかったのではないかと言っているのだ。それを子供に教えるのが親の責任なのではないかといっているのだ。

大津警察署が被害届を受理しなかったのは、八つ墓村のしきたりには被害届など無かったからなのだ。

>またどうすれば改善されるのですか?

その答えは稿を改めたい。事件の実相が国民の共通認識とならない限り、いかなる改善策もつぶされてしまう。というか、総理大臣にして、あの程度の認識ではどうにもならない。私一人が主張したところで所詮無力だ。
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改善する方法はある



改正教育基本法が指摘するように、教育の第一義の責任は家庭にあるのだから、家庭が責任をもって子女を教育すれば良いだけである
(当然、学校教育を前提にした義務教育制度を返上することになる)
そうすれば、学校教育がなくなり、学校におけるイジメがなくなる


はっきり指摘しておこう

諸外国の学校でイジメが起これば学校の管理責任が問われるのは当然である

では、加害者にしろ、被害者にしろイジメの背景に存在する事象を見抜けなかった家庭の責任について日本国の世論はどこまで思慮しているだろうか?
 諸外国ではこの部類の問題にはむしろ神経質なまでに家庭教育の責任を重視する
諸外国では銃乱射事件などの事例でも犯人が通っていた学校云々などという評論などありえないが、日本ではむしろ学校教育の責任を強く指摘される
 つまり、より家庭教育が無責任で、学校教育に重く非現実的な教育を押し付けている上に、それが当然だと思われているに過ぎない

 質問者の見解も一般人の見解も、非現実的な学校教育への責任論をかざしているに過ぎないと言えるだろう。
(義務教育の義務の意味さえ真っ当に理解できていないのが日本の現状だし、給食費滞納問題に見られる学校責任に対する意識とそれに相反する家庭の教育責任意識の希薄さなどは評論にならないのが現実であることも同じ根底にあるだろう)

 それを露骨に体現するのが、学校外における子女個人の違法行為に対する世間の見解である
諸外国の学校教育では、躾の部類は担当せず、専ら家庭教育の領分である。
この時点で学校教育に荷重な責任を押し付けているのであり、教育資源の実態からしても、非現実的であろう。(それだけ学校が非現実的な負担を強いられているのである)
 世間は、学校外の子女の違法行為に対して、警察に通報しつつ所属学校に連絡する事例が多々ある。
学校内の子女の行動に対する責任は当然として、学校外の子女の行為に学校責任を見出す論理的正当性など存在しないが、日本では平然と学校に問い合わせが行われる
下手すれば、そのような事例で保護者が学校側の教育について責任転嫁する事例がある
(そのような事例は大概が、大阪地方という事実もあるがw)
このような事例は少数だが、諸外国では到底想像できない話なのである

 同時に指摘しておくが、質問者や世間が「常識」というが、世間の常識は普遍的なものであろうか?

自分は、学校教育・私的教育・教育出版業界・学術出版・学会・法曹界などの各業界に所属しているが、どこの世界にも業界独自の規範・暗黙のルールがある
それらは一般世界の価値観・規範で統制することが出来ないケースが多々ある
そして、それならの非常識という規範が存在しないと業界が統制できない。統制できなければ、それだけ社会に弊害を露呈させるだけのことだから、当然、独自の規範を持つのである

少し考えてみればわかる話である
殺人は法律的にも法的にも問題行為である。しかし、それが軍人という立場で一定の状況下では合法化される・・・・
このような事例を極端とすればそれまでだが、職業によってその業界倫理・規範が独自に存在するわけであって、常識などで看破できない問題が内在するのが当たり前なのである

つまり、
<一面の常識論では正当化できない世界がある>・・・ということである

これ( <>の指摘 )こそ常識であろう。
同じ日本国・日本人であって、地域・社会・家族・個人で常識が異なるように、常識とは普遍的なものではない。
(”それが理解できない未開人が日本人には多い”というのが、ジェラルド・カチース氏が指摘していたが、その通りだろう)
 質問者の社会感・住む社会・世界にも一般常識では理解できない規範が存在するのである。
それを自覚できないのは、思考停止の産物である。
問題はその常識外れと思われる行為をどう処断するか?という問題であるに過ぎない

こちらからすれば、常識をもって正論を形成しようという意識こそ「常識外れ」であろう
少なくとも、知識人は「常識」などと正当化して評論することは回避するのだからw

ちなみに、世間の批判は理解できる。
では、批判するのは結構だが、それが単なる批判に過ぎないことをどれだけ認識しているだろうか?
 断言は出来ないが、教育業界はイジメの撲滅などは不可能だと断定するのが圧倒的だろうし、イジメの定義からして停滞している現実がある
世間が思うほど対処法があるわけでもないし、そもそも一般社会でも、イジメが存在するのである
その事実を棚に上げて学校だけ”イジメを撲滅しろ”と言われても説得力はないのは当然であろう

結局、”ないものねだりのガキの論説”という本音があるが、それをそう批判しないのが教育者なのである

ゆとり教育についても、ゆとり世代というレッテルが一種の”イジメ”の様態とも言えるが、そのような批判はされない。それは、そのような評論をした人間が多数であるから、それをイジメと論ずることが躊躇されているだけに過ぎない。
皮肉なことに、ロンドン五輪で史上最多のメダル数を得たわけだが、ほとんどの選手が「ゆとり世代」である。
この事実を突きつけて、”ゆとり世代”論者がどう反論するのか?というのは楽しみではあるが、
包括的かつ現場の視座のない教育評論など「無責任かつ視野狭窄」なものになるのが相場である

だからこそ、多くの教育評論家は、世間の意見を「現場も知らないで好き勝手なことを言いやがって」と思いながら、口だけでは理想論を述べているのである。(それを見透かせ合い視聴者が多いのは笑えるが)
そんなに学校教育が信用できないなら、家庭教育が教育を担えば良いのである
それが出来ないから学校教育に任せているわけだが、学校教育が十分に対応できるだけの教育資源を持ち合わせていない現実を鑑みてイジメ問題を考えることが必要なのである

美辞麗句・理想論は聞き飽きている。
具体的な予防防止策が必要な問題であるのだから、その具体論をもって批判してほしいものである

少なくとも自分は、イジメと共存するのが人間社会の常道だと思うので、イジメを排除しようとは思わないが・・・・

以上
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>国民にとって非常に大切な教育の現場で、


>なぜこんな世間の常識を逸脱した騒動が起きるのでしょう?
>またどうすれば改善されるのですか?

マスコミ主導・一般市民追従の「学校いじめ」を止めるのが第一歩でしょう。

学校での教育が十分なされる(効果を発揮する)と、一般市民が真に賢くなり、成熟します。
一般市民が賢くなり成熟すると、
例えば広告の「売らんが為の嘘・効果の過剰宣伝」を信じなくなります。
或いは、「適切な検証を怠った、適当な情報」に踊らされなくなります。

つまり、社会には「消費者は、『おバカ』な方が良い」という流れがあるのです。

「一寸『消費者様』として持ち上げ、『貴方達は賢いですね』とおべんちゃらを言って
 その実、一般市民=消費者を『馬鹿な奴ら』と見下して、自分達に都合良く踊らせている存在」

があるのです。そういう存在が

「学校は社会とはかけ離れている」
(当然です。学校が教える「知識」は「嘘」「適当」「いい加減」の対極です)

「学校は駄目な存在だ」
(当然です。「儲け主義が蔓延る社会」からすれば、利益度外視で仕事している訳ですから)

「学校の教員は世間知らずで、社会役立たず」
(当然です。「他人なんて利用する為の存在だと考える人間がいる事」「人間の悪意・狡さ」を教えず、「人は協力し合って、足りない所を補い合って生きていくもの」「人間には誰しも善意がある」という前提なのですから。「他人を利用して、甘い汁を吸っている社会」からすれば、「愚の骨頂」でしょう)

と声高に叫び、

「怠け者」
(学ぶ事が出来ない、「学ぶ能力」が低い人達)
「下層階級」
(自分の力不足・努力不足を棚に上げ、他者を妬むばかりの人達)
「反社会的・非社会的人間」
(社会規範を身に付けず、他者に甘えて好き勝手している人達)
を持ち上げ、煽て、自分達に都合の良い存在・状態に仕向けているのです。

親も、「全部、学校が悪い」と言っていれば、物凄く楽ですから。
「人として、我が儘な要求」を学校にしても、
「こっち(親)をモンスター扱いした」と喚けば
「自分達(親)が被害者」ぶる事が出来ますから。
(マスコミに後押しして貰えるので)

本当に
「家庭教育は万全。社会も健全に成熟している。ただ、学校だけが可笑しい」
のなら、「いじめ」の発生はもっと少ないでしょう。

「親も、社会も、自分達の事を棚に上げて、学校ばかり叩いている」
という、正に「いじめの構図」が存在して
「学校は、叩かれて・いじめられて当然。家庭・社会は全然悪い所がない」
という「いじめ」が「やって良い事」となっているから
子供の間でも「いじめ」が絶えない・増加しているのです。

教師がどんなに子供に寄り添おうとしても、
子供達がどんなに教師に頼ろうと思っても
子供達はマスコミから
「教師を信用するな」
と刷り込まれています。

更に、親の「友達化」「未成熟」が進み、
「子供を叱れない」
「子供を躾けられない」
「子供を成熟させられない」
という状況です。


そもそも、
「人に迷惑をかけてはいけない」というのは間違った躾けです。
「誰かを助けてあげられる・誰かの役に立つ人間になりなさい」とすべきなのです。


親は「友達と同じ」ですから、仲良くは出来ます。
一緒に楽しく過ごす事は出来ます。
「親」ですから、物理的に頼る(好きにさせて貰う)というのは「当然の要求」となります。
(全て叶えて貰えるかどうかは、別)

しかし、「親」が
「自分が困難に陥った時」「別の友達(クラスメート)が困っている時」等に
「助けてくれる存在」
「力になってくれる存在」
「精神的に頼れる存在」
にはなっていない場合が少なくないのです。

何故なら、「自分と同等の存在(=友達)」だからです。

自分の身近で「いじめ」が起こっている場合
「親子が健全な関係を築いている家庭」なら
「最近、○○君が大変な目に遭っている」
等と、「親に打ち明け・相談」します。
例え「親にチクるな」と言われていても、
「親と子に、健全な信頼関係」があれば、「親に打ち明け・相談」します。


教師にしても、大半は「子供達の為に、必死で頑張っている」ものです。
しかし、「一般社会で不祥事が起こるのと同じ頻度で起こった不祥事」を
過剰に取り上げられ、不当に叩かれ、
マスコミによる「民間企業・民間勤め人は健全。学校・学校関係者だけが異常」というミスリードを真に受けた人達に誹謗中傷され、仕事の妨害をされ

やがてやさぐれ、或いは心を病み、
「民間勤めの人にいる割合と同じ程度に、可笑しい人・失態を隠す人」
が現れるのです。


「いじめ」に関しては、「学校だけが変・異常だから」という話ではありません。
「学校を悪者扱いしている(=学校教育が功を奏すると困る)存在」による
「学校叩き」「学校という存在に対するネガティブキャンペーン」を
何の疑問を持たず鵜呑みにし、踊らされている人達が多過ぎる事が問題なのです。
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 マスコミ報道のセンセーショナリズムに操られていないでしょうか。



 大津市の中学校で起こった事件は過去にも数え切れないほど起こっており、その多くは学校・教育委員会・マスコミによって隠蔽され、揉み消されて来たと考えるのが正解だろうと思います。

 こうした隠蔽体質の犠牲になって来た人達の声は取り上げられないまま無視され続けていたのが、インターネットの普及で内部告発や個人情報の公開などが自由になり、いじめ事件の詳細な内容を情報操作や事実の隠蔽が多いマスコミを通さずに、インターネット上に公開して告発出来るようになった結果、マスコミ報道が取り残されているのが背景にあると考えるべきでしょう。

 今まで沈黙を続けていた、いじめ自殺被害者の父兄が告発出来る場所が至る所に生まれ、少しの勇気があれば、加害者側に大きなダメージを与える告発が可能になった情報社会が実現している事実に対して、マスコミを通さない事件情報の公開に、情報操作が不可能になる危機意識を政府やマスコミが持っていると判断すべきでしょう。

 大津市の中学校のいじめ自殺事件は悪質ではありますが、必ずしも珍しいものではありません。マスコミが大騒ぎした理由は別にあるように思います。

 一般市民がマスコミ報道によって社会常識だと信じ込んでいる事が、実は情報操作やマインドコントロールに過ぎず、多くの不都合な真実は隠されているのだという認識を持つ必要があります。

 福島第一原発事故の真相が隠されたまま出て来ないように、大津市の中学校で起こったいじめ自殺事件も、なぜ、事件が放置されたのか、なぜ、周囲の先生や中学生は被害者を助けようとしなかったのか、なぜ被害者の両親は事件を知らなかったのかなど、謎が多いのを忘れてはいけません。事件の真相は隠されたままで、マスコミが騒いだのは不都合な真実を隠す為だったと考えるべきではないでしょうか。
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こんにちは。



現在私は中学生なので、いじめを受けている側としている側の心情というのはわからなくもないです。(自己的に)

まず、第一としていじめについて真面目に考えてくれる先生が少ないこと。
仮にいたとしても、その先生だけではどうしようもなく、
先生に相談した生徒をいじめる行為が強くなり、かえってよくありません。
また、今回の自殺の件の時のように、学校側や教育委員会側が
いじめと自殺の因果関係を認めないなどという、まわりの対処・反応も原因の1つと言えるでしょう。
自殺した生徒としては、自分が自殺することによっていじめの問題がなくなると思った、
辛くてどうしようもなくてそれを絶った、のどちらかかと。
生徒の気持ちが前方だったのなら、と思うと、胸が痛みますよね。

やはり、いじめをなくすには、「関係ないから」といった考え方ではなく、
ひとりひとりが自分のことのように考える必要がありますね。
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>なぜこんな世間の常識を逸脱した騒動が起きるのでしょう?



常識を常識として厳しく教える人がいなくなった。

>またどうすれば改善されるのですか?

落ちるとこまで落ちて、識者・評論家も含めこれでは大変・日本沈没と認めるようになならなければ改善の見込みなし。つまり当面は見込みなし。
子供目線の教育では、常識の教育もできませんよ。
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