街中で見かけて「グッときた人」の思い出

理系脳でない人が、大学受験で理系選択をしてしまうと合格できる大学の
レベルが2~3ランク下がってしまうと聞いたんですが本当ですか?
高校数学や物理を得意科目にできる人は一定の数学センスや才能がある人だけなんでしょうか?

A 回答 (6件)

NO1さん同様。


多くの数学者が「受験数学は数学じゃない」と言ってますし、東大や京大など有名大理系に入学した者も1,2年経つとその意味が徐々に分かってくるようです。

何より、人間を文系、理系で分けるということ自体ができないのです。
「中学で数学が大の得意だったA君が高校の途中でつまづく」なんて事はよくある事です。
さてA君は理系脳なんでしょうか?
あるいは東大や京大の数学科に現役で入る秀才がいます。
しかし中には才能の限界を感じ、転向をしたり中退する者が結構います。
彼らは理系脳だったのでしょうか?
しかし14歳、17歳で気付くわけではありません。
20歳、25歳で気付くものです。それもある日を境に気付くわけではありません。
何よりも大事なのは
「本人が俺が理系だ」と言ってることと「真の理系であるかどうか」は、それなりの専門家がしっかりと診断をしたか、あるいは10年20年経たないと分からないものであると言う事です。

ですからネットの判断、友人や本人の自己感覚と言うのはなによりも怪しいもので信用できないものです。


確かに50m走やピアノ、英語と同様に数学も「センス」があります。
しかし帰宅部に比べると
陸上部は全員が足が速い、
ギター部はギターが上手い、
サッカー部はサッカー部が上手いものです。
つまり受験勉強は

やればあがる

ってアレですね。
もちろん得意不得意があります。僕は国語は「なんとなく」出来たし、「なんとなく」英語や数学が得意だった友人もいます。
けれど努力であったり、工夫自体で十分に戦えます。
(この辺は海外で活躍する体の小さな日本人スポーツ選手を見ればよく分かるのではないですか?)

また
受験で求められる理数系科目はしょせんこの「○○が得意」と言うレベルです。
「文系脳だから医学部や帝大理系に受からない」ことは有り得ないのです。
そもそもですが
「文系/理系」と言う枠で分けているのは日本ぐらいの者です。
欧米では例えば学部を哲学、大学院で数学や物理と言うのはごく普通に有り得る手です。
また文系の資格最高峰である司法試験の合格者の2-30%は理数系出身者です。

もちろん「その科目にどうしても親しみを感じない」のに理系を選択する必要はないです。
しかし、大学そして社会は受験科目から分かるように「そういった部分の基礎素養を求めている」わけであなたたちに物理学者や数学者になって欲しいわけではありません(英語なども同様です)。
あくまで「基礎素養があれば大学や社会で活躍できる可能性が高まる」と言うわけですから、受験レベルでは、あくまでほぼ万人に解ける問題があり、あなた方にも十分解けると考えて勉強をさせているわけです。
そういう部分は履き違えてはいけません。
ちなみに
「強みを伸ばす」
「弱みを補う」
では広く前者の方が効果的だと言われています。
しかしそれはハイレベルな問題であり、受験レベルで求められているのはあくまで「基礎」です。
初学者では「東大や慶応がどうして基礎になるんだ」と感じるようですが、
基礎を毎日こなし、問題に触れて1問1問を丁寧に読んでいけば、あくまで基礎なんだなあと感じるはずです。1,2割どうしようもない難問に出くわしても問題はありません。
どの大学でも5-7割を取れば受かります。
難問を解く必要性はありません。

「理系脳」と言うのはサボるには便利な言葉です。
「女だから/男だから」や「不況だから」同様に。
選択として強みを伸ばすのか、ただサボりたいが為にその言葉を信望しているのか見極めて下さい。

進学高校ではどこもセンター数学は全員が満点を取ります。400人いれば400人が取ります。
当然、その高校に入学するためには文系科目もしっかり取らないと入れません。
そして大学も半数は文系進学者です。
さて彼ら理系脳なんでしょうか?
僕はそうは思いませんが。
あなたがもしセンター数学「すら」満点も取れないのであれば、単なるサボりだと思います。
どうでしょうか?
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「脳」なんて定義の難しい言葉を使うから、「400人いれば400人が満点」などという明らかにデタラメな回答が得意げに出されてしまうのです。

灘や筑駒を差し置いてその下クラスの大阪の進学校だとセンター数学平均点が満点だとでもいうんですかね。しかも本人は敵前逃亡しているのに(センター未受験)。満点のひと以外はノーカウントなら、どの高校でも「全員満点」です。

最初の質問を読み替えると、

「高校数学や理科で落ちこぼれる程度の生徒が大学受験で理系選択してしまうと合格できる大学のレベルが(文系学部を受験した場合に比べて)2~3ランク下がってしまうと聞いたのですが本当ですか?」

2~3ランク(例えば東大から地方国立とか?)も落ちないと思いますが、偏差値にして2~3くらいは落ちるでしょうね、そりゃあえて不得意教科で勝負に出るわけですから。「数学や理科」を「国語や地歴」、理系を文系と読み替えても変わりません。

「高校数学や物理を得意科目にできる人は一定の数学センスや才能があるひとだけなんでしょうか?」

得意不得意というのは主観的なものです。中堅どころのクラスで得意というのは、東大受験生にとっては「大の苦手」のレベルでしょう。その程度だといずれ壁にぶつかるかもしれません。センスや才能と言えるレベルではありません。猛トレーニングや丸暗記でもなんとか伍していけるでしょう。

東大など全国区レベルで得意と言える生徒は、大学の先取りくらいはしているだろうし、受験の数学や理科で満足していません。しかし受験数学では最高峰、珠玉とも言える東大や京大レベルの練りこまれた数学入試問題を「こんな受験数学なんてどうせ役に立たない」と馬鹿にして受ける生徒などおそらくひとりもいないでしょう。本人は楽しみながら大学と知恵比べしているつもりでしょう。

また、上位理系にしっかり勉強して入るごく普通の生徒は、上にはとんでもない怪物がいることを承知で入学するので、はたで想像するよりずっと謙虚です。やりもしないで斜に構え、遠くでうそぶくばかりの外野(文系に多い俗物)の人間とは根本的に学問に対する姿勢が異なるのです。

ただし、そのレベルでないと理系として通用しない、なんてことは全くありません。学問体系としてのサイエンスに関してはいまひとつでも、実務レベルで優秀なエンジニアなんて腐るほどいます。
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 敬愛するnightcell01氏から的確なコメントが寄せられました。


>欧米では例えば学部を哲学、大学院で数学や物理と言うのはごく普通に有り得る手です。
また文系の資格最高峰である司法試験の合格者の2-30%は理数系出身者です
 言い得て妙です。ものをどう認識するか、これは哲学の認識論領域の問題であり、それを具体的に表現する手段が言葉である。ならばその認識論を大学で専攻するにはどうすればよいか、との筋立ての問題となり、「論理的に考える」は高校までの国語と数学に代表され、それを「言葉で具体的な形として表す」ことも国語と数学になります。
 数式といえども、それが表さんとするところはそれを記した人の言葉と同じです。実際に入試の数学問題を担当する教員は数字や数式の羅列を見ているのではありません。その数字や数式を用いて「何を示そうとしているのか」を必死になって読み取ろうとします。あくまでも「最後までその受験生の意図を読み取らねば、その受験者の将来を閉ざしかねない罪を犯してしまう」との深刻な責任を負わされているからでもある。不器用で荒削りな受験生ほど僕らにとってありがたい存在も珍しくはありません。逆に秀才タイプの決まり切った文言でさも意味ありげでコンパクトに纏めてくる受験生ほど、「ションベン臭い洟垂れ小僧が…」と鼻先でせせら笑ってもしまいます(下品でごめんなさい)。
 理系脳があるならば文系脳もあることになります。その境目をどこに求めるかとするなら、どこにもありません。学問領域は常に他の隣接諸科学と境界を接し、文字どおりのボーダーレスとなっています。そうした姿勢は京都大学の総合人間学部などに顕著に見られてもいます。「人間」という対象を理解するならば、どうしても人間が残してきた足跡を辿るには政治学や経済学そして社会学、心理学といった個別具体的な領域とそれを含み尚且つ土台とする哲学及び歴史学、人文学といった文字どおりの文系領域からのアプローチと脳科学や分子生物学といった理系からのアプローチもあります。それが相俟って一つの対象を分析する視角にもなる。それが学問の森へと分け入っていく出発点につながる。学部はトレーニングのための時間です。本来なら、学部入学後ただちに専門の領域へと入っていければ良いのですが、現状ではそれもままなりません。したがって学部の位置付けは以前の理念よりも遙かに後退し、高校の復習に時間を割かれてもしまうことに顕著に表れてもいます。大学側としても極めて深刻な事態に頭を悩ませてもいます。
 質問者様はご自身の志望される大学のランクが下がってしまうとの危惧をお感じの様ですが、センター試験の数学や物理はあくまでも「基礎的な学力の有無を問う」程度です。ですから逆に理系の志望者が文系科目の社会科科目を選択し、ままならない状態で大学の一般教養科目で落とされるケースも逆に増えています。昨年も何人か撃墜しました。その理由が納得できないと研究室を訪れた学生には丁寧に説明しました。その中の一人の話です。彼の言い分ですと、歴史なんて暗記科目だからそれでいいじゃんとの、まことに歪んだ発想でしたので、「ではきみは『正長の土一揆』という表記と『正長の徳政一揆』の表記の違いがどこにあるか、わかりますか?」との基本的な質問をしてみました。
 彼はキョトンとした顔をし、先生が何を言っているのかわかりません。一揆ならばどちらでも構わないのではありませんか?。僕は理工学部の学生ですから、その様な科目など必要ありませんよ、ただ一般教養は必修ですからコマ割と時間が合致した条件で選択しただけの話ですと真顔で抜かしました。
 後日、理工学部の友人からは大変に失礼をしましたとのメールを受け、件の学生に「もう一度、履修し直すようにと指示をした」とのコメントも記されていました。どうやら彼は他の一般教養科目の講座でも同じ手口で落としていた様子でした。確かに理系学生からすれば一般教養は自身が興味を持つ領域に進むために入ったはずの大学で、くだらない社会科学や人文学の科目の退屈な講座を履修しなければならないのかと不満を持つ向きも一部にはあります。しかし大学生活も三年次あたりになるとようやくそうした「邪魔だった学問分野の意味」が見えてくるようで、一二年生に混じり、講義に潜り込んでくる学生の姿もチラホラと見られます(学生の顔くらいはこちらも殆ど頭に入っています。大学の教員をなめたらあかんぜよ)。
 話は脱線してしまいましたが、質問者様がお持ちの不安を理系コースの高校生が国語や社会科で同じ不安を持っているとお考えいただければ、少しは肩の荷も軽くなるかと考えまして、加筆させていただきました。
 
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 本来ならば、受験はその場で一本の論文を書かせれば済む程度の話です。

しかしながら日本の教育システムは知識を問うことを重視しますから、質問者様の様な素朴な疑問をお持ちになり、入学前から入学後の可能性を否定する形にもつながってしまいます。
 端的に定義するなら、受験の数学や物理と大学の理学部で専攻する数学や物理学とは全く異質なものであり、受験の理数科目はパターン認識の延長線上にあるものともいえます。限られた時間の中で、如何に効率的に確実に問題を解く能力があるかどうかを判定する試験ならば、そのためのテクニックを得るためにひたすら反復練習を繰り返すことも一つの手法でしょう。
 また幾つかのパターンを例示し、その中で最も自身に適した選択肢を選び、それを徹底的に身体で覚えるなどの手法もあります。
 但し、そうして大学の門を潜ってきた学校秀才に対し、僕ら大学教員が先ず真っ先にする仕事は「鼻をへし折ること」から始めます。高校までの「知識だけで対応できる世界」は専門領域には一つとしてないからでもあります。 けれど「真っ当に方法論の正否などを問う」などといった学生は丁重に扱い、院に進みその領域を更に深めて行くようにもアドバイスします。つまらない学校秀才は「はい、どうぞ。4年で卒業して下さい」と幼稚園児の遠足同様に扱いますがね 爆!
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理系でセンスありと言えるのは、論文でも発表できる


ようになってからやな。受験までの数学は、PCの
操作のように、マニュアルどおりに事を進めるだけで
いい。それすらできないモノや、具体的な数字を以て
考えないモノは苦労するというより、進学後に、確実に
ついていけない。高校レベルで戸惑うモノは、理系に
進むべきではない。大学が高校より難しいと、理解
できればいいんだけとな。
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受験なんて、単なるテクニックだ。


センスや才能は関係ない。本質は、犬や猿に芸を仕込むのと一緒。知性すら必要ない。
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