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今年も始まりました。熱い最中に大変だ。という私もかつては高校球児。

その甲子園大会で、選手宣誓についてですが、簡潔ではないですよね。
あの場で世情や心情などをまるで演歌の口上のように発することになったのは、
いつ頃からで、どんな理由からでしょう?

また、地方大会からTVで放送される試合については、
最終回に大差で敗戦濃厚であっても、投手へのベンチからの伝令は、ニコやかです。
マウンドに集まる選手達も同じですが、試合終了で敗者は号泣。
観戦者が求めているのか、高野連の思惑なのかわかりませんが、
高校生に理想というか夢を押し付けちゃあいけない。
負けていて笑っていては、サッカー元日本代表の城彰二のように責められるのではと
心配です。(・・・皮肉です)

勝って喜んで、負けて悔しがってあたり前で、これは本来の勝負の姿です。
かつては、本塁打としても喜ぶなとか、ガッツポーズはするなとかなぜか相手へ気を使え的なことがあったとは、みんな知っているんカナ。

A 回答 (4件)

>いつ頃からで、どんな理由からでしょう?



一応これが質問なので回答します。1984年の夏の大会からです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC66%E5%9B%9 …

とくに理由などありませんが、元々事務局が丸ごとこの内容でこういうふうにしゃべれと言われてたわけではないので、たまたまこの宣誓のクジをひいた高校が、自分の言葉でしゃべったら好評で、以後定着したという記憶があります。

その以前から、戦うことを誓います、では高校生らしく?ないとの指摘が高野連からあり、試合することを・・・とかプレーすることを・・・などと細かな部分での注文はありましたが、宣誓文丸ごと自分たちで変えたのはこの大会からのことで、英語を交えたというのはそのあとの話です。

ちなみに城は昔からあんな表情をしてプレーしてますから、負けたのに笑ってるのでなく、笑ってるように見えただけの話です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なーるほど。そーいえばそんな話題もあったような、なかったような・・・。

しかし、台本どおりというか、通例どうりでなかったものに対して大会運営側はどー思ったんでしょう。
だって、リハ好きな日本です。前日のリハでも語り口調だったんでしょうね。
まぁ、結果(世間の反応)が良かったのなら、大会担当者の手柄ってことなんでしょうね。

城彰二の場合、後でメンタル面で頬の緊張に有効だからと医師だかトレーナーだとかの助言でガム噛んで・・・なんて言っていましたが、本件では皮肉まじりのジョークのつもりです。

あれは、TV映りを意識しているに決まっている。いや、そー決まった。

お礼日時:2013/08/10 00:04

>最終回に大差で敗戦濃厚であっても、投手へのベンチからの伝令は、ニコやか


>高校生に理想というか夢を押し付けちゃあいけない

試合中負けていても笑顔なのはリラックスなどメンタル面で良い効果があるとされている為であり、決して観戦者や高野連の押し付けでは有りません。

私の記憶では10年ぐらい前にどこかの野球部が「どんな時でも笑顔」を実践し、いい成績を収めたのを皮切りに今では多くの野球部また別競技のスポーツ選手が真似するようになったと記憶してます。

一見ヘラヘラしているように見えますが少しでも良いパフォーマンスをしようと無理やり笑顔を作ってる姿を見ると昔はあーだとか礼儀知らずとか誰々の押し付けだろうとか思えません。
試合後に悔しくて号泣している姿を見ると尚更そう思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

う~ん、残念。
選手宣誓の件が抜けてます。

練習試合や地方大会のTV中継がない試合では、見ることができない光景です。
特に練習試合では、試合の運びが作業です。

ドラマのような「爽やかさ」は微塵も無い気がします・。

そーなると、映りを意識しているように思えます。
監督の指示・・・"言われなくても・・・"が暗黙で・・・。

お礼日時:2013/08/09 23:51

選手宣誓は、好きなことを好きに言えることを喜ぶべき。

しかし、現段階でも、まだまだ大人の不純なる策略のようなものの関与が垣間見えて不愉快。誠に残念ながら、監督先生、学校長などの関与が、宣誓文の中にあるものと考えざるを得ない。何時、本当の意味で、何の制約も無い形での選手(高校生個人)宣誓が可能な時代が来るのか。そのあたり、欧米諸国との落差、文化的後進性を感じる。


高校野球というのは、たった一校を除いて、全部が負ける。たいていは負けるということ。そういうことであれば泣くのは愚か。負けるためにやっているという考え方が正しい。

フェンス超えの本塁打は打撃としてはミステイク。得点が入るとか、ユックリ走れるから楽だとかは関係なく、究極的には、弾丸ライナーこそが真芯でとらえたという意味では完璧な打撃という認識があれば、下を叩いてしまっている本塁打でガッツポーズはありえない。見世物小屋のプロ野球の悪しき姿に惑わされてはいけない。

かつて、私の時代には、「本塁打しても喜ぶなとか、ガッツポーズはするな」と監督、コーチに言われたことはない。私たちかつての選手は、そんなことは言われなくても知っていたし、当たり前にそういうことが出来た。究極の打撃、究極の投法を求めていた時代が、その昔、あったということ。

そうでないと、野球なんぞというものは、女々しく相手のミスの誘発ごっこという悲しい競技スポーツに成り下がってしまう。

その昔、各町内のガキ大将が集まってひとつの学校チームになる時代があって、そういう時代のガキ大将は、正々堂々の真っ向勝負を望んだ。相手もミスなく、力一杯にぶつかってきてくれることを望んだ。タイマン勝負のあと、まあ、勝っても負けてもガッツポーズはしない。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
選手宣誓の件は、知りたかった内容とはすこーしかけ離れているように思えます。

勝利のポーズというか、自身の成果を表現することは悪いことには思えませんが、
どーやら柔剣道にみる武道を当てはめている気がしてきました。

柔道は、国際色豊かになって変革せざるをえなかったんでしょうけど、剣道は国外に
広まっても柔道ほどではないようです。
剣道は試合で勝利してもその場で喜んだら、注意から負けになっちゃうんです。

グランドに出入りする際に一礼することと道場への入退場時が一致することに今気づきました。

お礼日時:2013/08/09 23:41

>あの場で世情や心情などをまるで演歌の口上のように発することになったのは、


 いつ頃からで、どんな理由からでしょう?

確信は全くなく、単なるあてずっぽうですが、
昭和62年の金沢高校 岩井大 主将の選手宣誓からかもしれません。
当時、初めて英語で選手宣誓したことが有名になり、
その後、各高校手を変え、品を変え取り組んでいるような気もします。

もしくは、この10年くらいの間に選手宣誓が希望者から抽選になりましたよね。
選手宣誓に脚光が集まってきたんですね。
その頃からかもしれません。


>観戦者が求めているのか、高野連の思惑なのかわかりませんが、
 高校生に理想というか夢を押し付けちゃあいけない。
 負けていて笑っていては、サッカー元日本代表の城彰二のように責められるのではと
 心配です。(・・・皮肉です)

私も数年前まではそう感じていました。
地元の高校がぼろ負けしているのに、ピッチャーもベンチも皆笑っていて、非常に
腹が立ちました。
しかし、ふと考えてみると、うれしいはずがないんです。
悔しくてたまらない。そんな状況で笑うってすごいことだと思い直しました。
暗くしぼみこむ、そして誰かを恨むような状況よりも、いつでもポジ出しで笑って
プレーできる。
これは大人こそ見習うべきと感じました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

選手宣誓は、日本全国の開会式で「我々選手一同わぁー・・・」ではないんだそうですね。
また、その内容を評価したりしているところもあるらしいですね。
これは、異常な事態に思えます。
こんなの競ってどーすんの?と、思ったりしません?

まぁ、金沢ですか。始まりってもんがあったんですね。

次回、選抜でもいいんですが、「我々選手一同わぁー・・・」に戻ったら周囲の反応はどーなんでしょう。

これはこれとして、にこやかにしているのは、地方でもTV中継のある決勝に集中しているようです。
中継のない試合では、そーでもないようです。と、なると映りを意識していると言わざるを得ません。
連中の実態とは違う「爽やかさ」という幻想を求めちゃいけない気がします。

お礼日時:2013/08/09 23:21

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