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此処に酸素が存在する と言う文が成り立ちます。

酸素が存在しなければ 窒息して死んでしまいます。

酸素が存在するという事は 酸素分子が存在する事を普通は言います。

理科の勉強をしてると 酸素原子も酸素と言います。

しかし兎も角も そこに原子番号8の酸素原子が存在する事を 酸素が存在すると言います。


存在といえば人間存在 実存 心やスピリチュアルの世界を言う事もあります

そう言うことも含めて 貴方の 「存在とは」のイメージはどんなですか 教えて下さい。

A 回答 (17件中11~17件)

酸素などというモノは存在しません。



存在するのは、ここにあるこの酸素だけです。
ここにあるこの酸素以外は全て概念に過ぎません。
存在するのは、人間の頭の中だけで、現実には
存在しません。

犬も同じです。
犬なんてモノは存在しません。
存在するのは、私が飼っているこの犬だけです。
犬などというのは、人間の頭脳に存在するだけです。
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この回答へのお礼

あなたの頭脳にだけ存在しているのですね

では私は誰でしょう?私は存在してないのでしょうか?

酸素を存在しないと言ってしまったら、酸素呼吸をしている

全ての生き物も存在してない 全ての人も存在してないのでしょうか?

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/06 12:53

ゆるぎなく存在するから、それが置かれている場、空間もまた存在する。



では、それが圧縮された斥力場のように、一定の力関係で互いに

侵食出来ない均衡を保って隣接していたら・・・隣接自体が空間が存在

することを前提にしてはいるが、要は、物質が飛び散るのではなくて

完全に「消滅する」ことがあり得るなら、空間も消滅することがあり得る。

更には、その変位の連続を時間として「物質」と「空間」を結びつけて

いるのならば、時間も溶解して消滅することもあり得る。

そうして、実際に質量の1/1000が放出された原爆は二つの都市を

焼き払い、太陽の重力場で星の光は曲がり、自重で時空もろとも

潰れていくブラックホールも確認されている。

存在する、ということがこれらのエネルギーなり場なり、役割を

分担して舞台を演じるようなものならば、芝居が終われば

誰もいない暗い舞台にもなるだろう。

意識と認識という視点からその三角関係に割り込めば、

我々の妄想さえも当人にとっては存在する、ということに

なるだろう。

夢の中は、無限なのか有限なのか。

その二つの言葉が、とても心もとない、絶対性などない、

不安そうな双子に見えてくる。

暗い舞台の上で心もとなく不安に寄り添う双子に見えてくる。

存在、というものを単独で成立する絶対的なものと考えると

夜も眠れない恐ろしいループにはまりこむが、それが

私達の夢の中に連なっているのだと理解すれば、恐怖は去り

安眠することもできるだろう。

私達の意識は存在するだろうか。

私はそれさえも、鏡に映り切り取られた、周囲の鏡像に、

ピンホールの、内面が鏡の球体内部に映しこまれた像に

過ぎないのではないかという考えから抜け出すことが

できずにいるのです。

我々もまた、自分が実在すると思い込んでいるだけの、

いわば、世界が見ている夢の中の登場人物に

過ぎないのではないか、と。

ならば、必然的にあなたは私は同じものの異なる像であり、

それゆえに存在せず、同時に全てであることになる。

私はどこにも存在していないのかも知れない。

いささか古臭い哲学ですが・・・

まあ、閑話休題・・・
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この回答へのお礼

なんか喩えの多い話ですねえ

我思うが故に我ありでも駄目ですか

私は存在と言うのはそれ程怖ろしく極端な言葉だとは思っていません

だから質問して皆さんのイメージを伺っているのです

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2013/10/06 19:45

存在するとは、重さ(=正確には質量)がある事を言います。



スピリシュアルとか、思想などは存在とは言いません。概念です。
難しいのは音楽ですが、やはり定義にしたがえば「存在する」と言わないのが正確です。

音楽は、存在しない。ただ聞こえるのみ、、、。カッコイイ?



ちなみに存在と実存は厳密に違いますが、それはまた別の機会に、、、、。
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この回答へのお礼

私は、エネルギーと性質が存在すると思います。

音楽は性質として存在します。

酸素はエネルギー(質量)として存在します。

精神も性質として存在します 実存もそうです。主観的ですが。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/05 23:11

「存在と時間」を著したハイデガーによれば、存在と存在者(存在するもの)を区別しています。


「存在者(存在するもの)」とは、私たちが目にするもの、山や川や机や椅子や犬や猫を意味しますが、存在はそうした存在者の根拠のようなもので、存在者をして存在せしめるものです。
古代ギリシャから「存在とは何か?」がずっと問われてきましたが、アリストテレスは存在には多様な意味があるといってこの問題から回避し、存在を実体にいいかえて、実体について論じました。
そしてプラトンは存在者の対立を止揚して、最高で普遍的な概念である「イデア」に到達し、その「イデア」こそ真の実在で、それに比べたら私たちのいう存在者、具体的なものは却って実在性の低い仮象だといいました。
この普遍的で最高の概念、「イデア」を私たちの感性を超えた超・感性的な世界としたら、その超・感性的な世界から感性的な世界を眺めるのを「プラトン主義」といい、古来「形而上学」と言い習わしてきました。
これが古代末期のプロティノスの新・プラトン主義において「一者」「イデア」からの発出による世界の創造という説に受け継がれ、さらに聖アウグスティヌスによってユダヤ・キリスト教の神による世界の創造という教義に結び付けられ、「イデア」は神にいいかえられ、かくして中世キリスト教世界を形成する元になりました。
つまり、存在が実体にいいかえられ、今度はその実体が神にいいかえられることで「存在とは何か?」という問いが忘却されて行ったというのがハイデガーの診断です。
では、存在とは何なのか?
ハイデガーは「存在と時間」でいいます、

(1)存在とはもっとも普遍的な概念である。
「存在」はもっとも普遍的で、しかももっとも空虚な概念です。概念というのは種から類へと上昇するにつれ、普遍的であると同時にもっとも抽象的なものになり、内容が空疎になって行きます。「存在」という概念はその概念のピラミッドの頂点にあるもので、もっとも普遍的であるがゆえに、それが何であるかを規定することが出来ない。
何ものかを規定することは類に種を包括することですが、もっとも普遍的な概念である「存在」にはそれ以上大きな概念がないので、それが何であるかを規定することが出来ません。
(2)存在という概念は自明の概念である。
存在は日本語だと「ある」とか「いる」とか「である」といわれ、私たちが日常もっとも使う言葉です。もっとも使う言葉はそれが何であるかは自明です。私たちは「ある」とか「いる」とか「である」という言葉がなにを意味するかよく知っています。知っていなかったら、こんなにも日常的に使っていないでしょう。しかし、時間が何か、と聞かれてすぐには答えられないように「ある」とか「いる」とか「である」という言葉の意味が何であるかを聞かれると直ちにそれがなにを意味するか答えることが出来ない。あまりに自明なことは何であるかと聞かれると答えることが出来ない。

以上、「存在」という言葉がひじょうに厄介な言葉であることが分かります。
アリストテレスが回避したのも良くわかります。
近代哲学のカントは「存在」を主体による一般定立と考えました。
定立とは措定のこと。
つまり存在者を目の前に立てることです。
たとえば、「酸素が存在する」といった場合、酸素を措定すること、目の前に立てること、措定する作用が「存在」です。
ハイデガーによれば「存在」とは存在者を存在せしめる潜勢力(ポテンシャル)です。
アリストテレスの言い方でいえば、現実態に対する可能態です。
酸素が現実態とすれば、その酸素を存在せしめる、存在者として存在せしめる潜勢力(ポテンシャル)が「存在」であり、措定する力です。
晩年のハイデガーは「存在」を「性起(エルアイグニス)」といいました。
存在者をして存在せしめる「力」、それこそが「存在」です。

そしてハイデガーにいわせれば人間こそが最も「存在」に近いところにいる。
人間は実存することで、「存在」にみずからを開き、存在の可能性にもっとも接近するものです。
人間以外の動物や物体は存在にみずからを開くことはなく、閉じている。
ところが人間だけが、「存在とは何か?」と、問うことが出来、自分が世界に開かれていることを感じる。
人間の本質は「世界=内=存在」です。
人間だけが、己が世界に宇宙に存在していることを意識している。
そして己という存在者が「何者か?」というのをたえず問題にしている。
こんな存在者・動物は人間以外には存在しません。
それは人間だけが「存在」に開かれているからです。

「存在」が何であるかを論じることはひじょうに難しいことです。
また「存在」をイメージすることもできません。
もっとも普遍的で、もっとも自明な概念は考えることもイメージすることもできません。
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「酸素」などという“モノ”は、ありません。


それは陽子や中性子、電子の集合であり、炭素や窒素と同じ“モノ”です。
そうした陽子や電子の、ある“並び方”の事を「酸素」と呼ぶのです。
「並び方」は、存在ではありません。

そうした階層現象性は、その意識を可能にする認識体(個体)から、細胞>分子>原子>素粒子>クォーク>量子(超弦)へとくり返されます。
その根源である量子は、静止質量を持たない光子でもあり、また不確定性原理の実体として「存在性を成す位置とその変化である運動量の一方の値を確定しようとすると、他方が無限不確定化(=無)する」というように、本質的な存在性を相殺する性質のものなのです。
即ち「存在性」とは、そうした本質的な相補的不確定性を、原理的に確定化せずに階層現象表面的に“いい加減に”捉える事で派生するものだと言えるのです。

そうした不確定性原理における相補的不確定性の「位置(S)と運動量(St)、時点(T)と質量(Ts)」の2対が、時間(T=記憶(自我仮説)=過去=超光速)と空間(S=予測(時空仮説)=未来=光速下)の、潜在的認識可能性(感受表面(量子相互作用)=現在=光速)からの相補分化(原理(超弦=量子)的光速性の階層現象表面的定性化による非光速性)に由来する事は、私の過去の回答にある通り。
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この回答へのお礼

それでは「酸素は存在しない」と言うことですか?

その辺の整合性はどうするのですか?

窒素も炭素も鉄もアルミニウムも何も存在しない

ただの並び方だといえば原子にとどまらず原子核も?電子も?

じゃあ何が存在するのでしょうか?

エネルギーと性質が存在すると私は考えています。

しかしそれだけでは話になりません。

ありがとうございます。

お礼日時:2013/10/05 23:08

『周囲が、自分を認めて初めて“存在”する』と考えたら、(真剣に)自分を認めてくれる他人や周囲は滅多にいないようなので、自分は『何らかの生きている意味を見つけて、それに邁進している自分を感じた時に“存在”する』のだと思います。



【自分の人生が正しいのか】【生きていて意味があるのか】は自分自身で自分に発見するモノだから、【自分自身で自分を認めて“存在”する】のだと思います。

だから、常に自分自身に拒否感のようなモノを感じている方はカワイソウだな、と少し思ったりします。
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この回答へのお礼

今日の様に価値観が多様化し 哲学の風潮も薄れると

十人十色でなかなかたしゃを評価しませんよねえ

逆に批判ばかりが激しく 自己責任だとか差別とか

自分の価値は自分が見出さないと「それは良い」と言ってくれる

学校の先生のような人は減りました

自己否定の精神まではいいですが トラウマのようになると

カウンセリングを受けないといけませんねえ

自分の存在を自分で認める と言う存在であっても良いと

僕は思いますけどねえ

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/05 20:41

「燃えよドラゴン」でしたっけ、ブルース・リーが言いました。

「考えるな。感じろ。」と。

感じられれば、それは、私にとって「それは存在するもの」だと思ってます。
(深く突っ込まないでくださいね。私は「底の浅い人間」ですので。)
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この回答へのお礼

感じられれば それは存在するもの

そうですよね 五感・六感でで感じ得ないものは認識できませんからねえ

存在してるかどうか分かりませんよねえ。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/05 19:50

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