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此処に酸素が存在する と言う文が成り立ちます。

酸素が存在しなければ 窒息して死んでしまいます。

酸素が存在するという事は 酸素分子が存在する事を普通は言います。

理科の勉強をしてると 酸素原子も酸素と言います。

しかし兎も角も そこに原子番号8の酸素原子が存在する事を 酸素が存在すると言います。


存在といえば人間存在 実存 心やスピリチュアルの世界を言う事もあります

そう言うことも含めて 貴方の 「存在とは」のイメージはどんなですか 教えて下さい。

A 回答 (17件中1~10件)

No.15の0fool0です。



ちょっと無責任に詩的過ぎましたね。

存在とは認知が無ければ成り立ちません。

視覚の無い人物に色や光は認知出来ません。

あらゆる存在は全て『認知』の上に成り立っています。


仮に五感・第六巻の全てをなくした人物がいるとしましょう。

いるのですから、いるのですが、それはどうやって本人は確認するのでしょう?
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「「「此処に酸素が存在する と言う文が成り立ちます。



酸素が存在しなければ 窒息して死んでしまいます。」」」

ほんとうにそうですよね。

すべての物事のつながり(因縁)の中で、やっと私達の意識の存在にしても、こうして存在していて、それゆえにこうして私の意識と目とメガネとキーボードが^^、これを読んでいる人に「今」という時間存在の中で、これを書いていて、そちらは、時間差の後、その「今」という存在にて、これを読んでいる意識として存在している^^のですよね。

(これを口とお腹の筋肉と声帯等の存在を使って言ったら舌をかみそうになります^^)

仏教思想の中での縁起論は、十二縁起論にしても、分類の仕方も並べ方も組み合わせ方も支離滅裂^^なのですが、肝心な点は、すべてが因果で変化しながらつながっているということですよね。

その奥には、そういう縁起という存在を意識することが、人間の意識をどのように高めてくれるのかという感じな点があるはずでそれを掴まなければ、どんなに深遠にみえる教えも、私達凡人の意識という存在にとってはただの「空理空論」という存在になつてしまうわけですよね。

混沌という意識状態も、時としてそこから必要なアイディアが浮かんだり、私達にとって重要な観点に気が付いたりする意識状態である時もありますが、教えがそのような雑多複雑なものであってはその役目も果たさないまま、神棚にまつりあげているというかんじになってしまいかねません。

科学の発祥の因縁についての科学史のあたりを私は知りませんが、東洋からの科学の発達のエネルギーが史上にみられないのは、そのへんの「あいまいさ」によるところも大きかったのではないかと思っています。

ギリシャ時代の、物質の元素論がそのまま現代科学の引き金となったかどうかはともかく、

現代では、それぞれの物質(「「「酸素」」」もそうであるわけです)を構成する分子とその組み合わせの奥に、原子の存在を見出し、その原子のさらに構成要素として原子核と電子が存在していて、さらにその電子や原子核がクオークとかいうそれぞれ6つの要素からできているところまで解っていて、それはとうとうもはやこれ以上小さな物質は「「存在しない」」というところまでたどりついているのですよね。

そして、それはまさにすごい発見の世界ではあるわけですが、分子というそれぞれの物質がなぜそのような働きを持つ物質なのか?という点は、あの原子の中身である原子核が原子の大きさから言って東京ドームにピンポン玉というスカスカな存在、それがさらに6つまでの小さな構成要素でできていることが計算上わかったぐらいでは、何も解明されていないのと同じわけです。

これはクオリアという感覚質と名付けられている五感などの感じる原因そのものの探求と同じで、答えは不明のままの世界となっている世界です。

このクオリアという概念は、いつかは解りえると考える学者と、いや人間には解りえない限界がありその限界をその概念は示しているという学者(茂木健一郎さんはこちらです^^)と二分しているそうです。

おっと、クオリア自体の説明はもう少し深めておきますね。

例えば、物が見えるとか赤なら赤と認識できるとかいうのが視覚での感覚質(クオリア)」であるわけですが、

目というレンズと焦点を合わせる機能をとおして私達が物を見、形や色を判断しているのであっても、カメラがそこにあったとしておカメラ自体が物を見ているわけでは無いことを考えると、その裏に刺激を受け取る神経の作用があり、そのさらにうらに刺激を瞬間に分析し、判断し理解する、刺激の伝わり方が脳の中で起こり、其のうえで私達は物を「見ている」と認識するというわけなのですが、

はてさて、網膜の後ろに移った映像が、どのようにして生物の中で、「「見える」」という感覚質に変わるのか?、このこと自体は、分子生物学の発達した現在でも、解明度ゼロだということなのです。

逆に、クオークという物質の最小単位まで突き止めたということは、さらにその限界を人類が見てしまったということに近いことなのかもしれませんね。


でも、ここで再び、仏教思想の世界が顔を出してくるのです。

「見る」という一点に絞っても、宇宙の因果のすべてを経て「たった今」それぞれの生物は物を「「見ている」」というのが縁起論というわけですが、

はてさて、いったいこんなふうに物事を、言葉を通して探索し考える意識の世界自体は、どんな因果でこの宇宙に生まれ来ったのでしょう。そこを「「見」」そして「「考えて」」みましょう^^。

まず、この延々とどこまでも大きい宇宙の広がり、何億光年の星たちの存在の中で、現代ではそのほとんどの星がただガスであり、やっと岩石や砂粒と火の塊のような物質は形成されることはあっても、酸素と水素という分子の融合はほとんど定着する形跡が見られないと解っているそうです。

ということは、まずこの地球という水が定着した星の存在自体が奇跡ですよね。

そのための微細な温度ということ、あるいは太陽との距離とかいうことも不思議と言えば不思議ですけど、はてさて、その条件さへあれば、水は定着するのでしょうか?、

そして水が存在すればそこに生物が生まれるのは必然なのでしょうか?

分子生物学もまだまだまだまだ解明度ゼロに近い世界で探求の闘いをしているようなものなのでしょう。

やがて、その生物こそが進化し続け、生きるというたくましい本能を身につけ、哺乳類にいたっては、子どもを谷底に落としてでも生き抜くことを教える姿がみられたり、であって無駄な殺しはしない本能に生き抜く姿が、いつしか人間という存在にまでたどりついたのですよね。

むかし、掃除で屋根の上のゴザをどけたら数万匹と思われるようなアリの大群が全匹こちらに一せいに向かって、片端から私の足もとを上り始めたことがありました^^。映画みたいでした。一匹のアリにかまれた痛さをアリアリと思いだした私は当然ゾゾゾゾゾゾッとしかかって^^いたのですが、なんとアリのどなたかが隠れ場所を発見するとその途端、全匹が其の方向に向かって引いていってしまいました。

ほっとすると同時に、わ、私は、感動で立ち尽くしていました。

こ、こんなふうに生物って生き抜いてきたのか!

ですが、本能に縛られている生物の脳には、それでもなお、その意識の中に「友」という存在はまだ「存在」していなかったはずなのです。(異論はあるところでしょうが、詳しくは略します)

このことこそ、本当は「縁起」という考えにとって最重要なところだと私は思ってます。

むかし、疲れていて睡眠中に、目を覚ましたらそこもまた夢の中で、やっと本当に目が醒めたと思ったらまだそこは夢だったという繰り返しが^^延々と続いたこわあああい夢をみたことがあります。

もちろんそのまま醒めなかったら、今頃体はそのまま衰弱して死んでしまったで笑から、今この実話を書いているとうこともなかったわけ^^ですが、当時は笑いごとではなかったところです;;;。


人間っていつか死ぬ、いつか意識は消える!?

ならば、夢の中とこの命の現実とはどのような違いがあるのだろうか?

ここも詳しくは略しますが、夢の中の意識が特に「物事を見つめ、分類し、反省し、進歩するための意識」の部分でこそ、かなりボケネている^^という点以外に、もうひとつ重大で根本的は意識存在の在り方の世界をそこに見つけたことを憶えています(実際には、それから3年ぐらいの後ですが^^)

当たり前と言えば当たり前ですが、そこには他の人、つまり同じ人間としての「友」が夢という存在の中には、実際には^^存在していなかったわけです。

その「友」という意識が芽生え、人間としての在り方の世界、つまり価値の世界が、同時に生まれたのが、なんと80万年前らしい人類発祥地点での 「見つめる脳」がこの宇宙に生まれた瞬間です。

こころ通じる友がいて、ごはんがおいしい!

そんな当たり前の私達の意識の存在の奥の奥にこそ、私は「縁起」の思想を見、そして仏の真実を見、そこにひれ伏さないではいられなない人間の一人としての自分の存在を見出すのです。


ああ、お互い人間どうし、切実な抜苦与楽に、当たり前の相身互いの存在として、命をすててでも生き抜きたい^^ものです。

存在がどんなものであれ、私達「今」生きています。

そして生きるとは縁起と愛の自覚という存在だと思います。

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存在とは、感じること。



感じる主体が自己である。

そして時に支配されるもの。

変化に住む。
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この回答へのお礼

詩的ですねえ 存在は変化に住む

なかなかの名言かも

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/12 17:15

私(K)がいなくなって、しばらくして、かっての知人Bが


「おい、Kが、死んだんだって?!しらなかったなあ…。」
と知人Cに唐突に言い、Cは
「うん、そうなんだよ。そう…。」
と、ぽつりとうなずき、しばらく二人の会話が途切れる。

あとどんな会話が続いたのか、それともそのあとまったく関係ない別の会話になったのか、それはどうでもよろしい。
私の存在がそこで確実に証明されたといってよろしいかと。

(それがあらまほしいことであるとか、そういった未来のインシデントの可能性の可否で私の存在性が否定されるとか言うことではまったくありませんので、念のため。)

酸素分子については部外漢ですのでコメントを控えます。
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この回答へのお礼

聖書にも たしか「三人以上のものが私の事を話す時、私はそこにいるであろう」みたいな事を言っています

人間存在は肉体が主ではなく 心(精神)が主ですから

肉体が滅びてもせいsんの存在は化石のように

或いは子供を育て上げた人の様に人の心に行き続けるでしょう。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/12 17:47

『存在』とは、


自分が認識した時点で表出するモノ・コトであると考えています。
つまり自分中心でしか「存在」はあり得ないということです。

例えば、yuniko99という人?がいることをこの質問を見た段階で認識します。
詳細はわかりませんが、いるだろうと認識します。
ここで初めてあなたは存在することになります。
名前を見ていなくても、こういった質問をする人がいるんだなぁという認識の仕方もあります。
いずれにせよ存在は認識されないとありえません。

これに近い言葉に『発見』があります。
「アメリカ大陸発見」というのも認識されて初めて存在することになるのです。
それまでのヨーロッパではアメリカは存在していないわけです。
もちろん、原住民は認識しているので、原住民の中では存在します。

どの程度の共通認識になるかで、常識かどうかが分かれますが、存在するかどうかは、常に自己の中でしか判断できません。
友達に聞いたことでも、自分で認識するまでは、その存在は不明確なままです。

これは目に見えないことでも同様です。
電気は見えませんが、その仕組みを知ることで存在を認識します。
問いの酸素も同様です。

しかし、酸素や電気を知らない幼い子供の中では、これらは存在しません。
学校などで教えられて初めて認識して、存在するとして扱います。

人間は、こういった他人が知った『存在』を、自分の認識として強制されます。
通常一度認識された『存在』は、疑うことをしません。
ところが、強制された『存在』と自分で認識した『存在』を区別することができないので、改めて認識をし直さない限り、誤りが続くこととなります。

いつの時代もこれが最も厄介な問題となっているわけです。
魔女狩り、ホロコーストをはじめ、歴史を振り返れば、この強制される『存在』が引き起こした悲劇は枚挙にいとまがありません。

話がそれましたが、こんな感じです。
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この回答へのお礼

なるほど一つのお考えとしてあるものかと思います。

わたしは 普通に考えて 経験的にも直感的にも我々の認識していない存在が途方もなく多くあると考えます

我々は地平線に山や木を見ることができますが、地球の内部まで認識する事は出来ません しかし在るとしか思えません

宇宙でも見えないほど遠くの銀河が 現代の望遠鏡では1000億個以上在ると考えられるそうです

過去には認識できなかったものが 更に更に認識できるようになって行く

その時私は 私たちの知りえないマクロミクロの世界が実際には無限に近く存在していると思えます。

従って我々が知らない世界が無数に存在するだろうという

捉え方をしてしまいます。

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2013/10/09 22:21

>こりゃたまげた たまげたね~こりゃ



 貴方の たまげた は どこに 存在するのかね それともどこにも存在しないのかね

 私には、どうでもいいことだが、貴方の質問の「存在とは何か どの様なものでしょうか?」かの答えは、そこにある。
 
>それらは心の中に在ったのだろうか、外に在ったのだろうか?

 酸素と同じ。
 
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この回答へのお礼

酸素と同じ? 分らない

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/09 20:12

私は、存在に対して、寛容な考えをもっています。


私がAを認識すればAが存在し、Aが存在すれば、Aの認識に
よって私の目にBが見えてくる。
そんな感じで、認識の雪崩みたいな、加速のような
連鎖的な、認識の爆発ともいうべきことが存在だと思います。

かくして、
「心の中の真実など、まるで別物に変わってしまうほど
脆弱なものだ。」
を経て、
「そうだ、今の僕だけが僕じゃないんだ。」
となります。
つまり、
存在とは、それほど脆弱なものだということになります。
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この回答へのお礼

なるほど面白い考えかたですねえ

どうもありがとうござます。

脆弱なものなんですね 存在は。

お礼日時:2013/10/09 19:53

影響がある、ということが、存在しているということと違うだろうか。

僕にはそう思えるね。
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この回答へのお礼

影響があるって 自分に と言うことですか?

見えれば影響在りますよね 聞こえれば影響あるし

でも感じられなくても在るものも 在るのかもしれませんね。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/08 14:12

長文になるかもしれませんが?、だいじょぶでしょうか


?、読むのが大変ならスルーでw、簡潔にしてみますが
、、いや無理かも?w

私は存在を曖昧だと感じます、、人は曖昧という厄介な
、広がりのある拡大した、本質的な背景に、感覚が付い
ていけないのかもしれませんが、

矛盾の追及と検証・確認という手法は、現世という限ら
れた現実に理解の幅を引き下げた、限定的・制限の現実
だと感じます

存在はその中に含まれ、その中に含めようと人はし勝ち
であり、それ以上の広がりには無視を決め込んでしまう
と(現実は1つだという拘りの所為だとも思いますが)

もしも?、10人の優れた秘教家達が、イエス様の史実
を確認しようと、過去の世界へと旅立ち、新約聖書には
登場しない人物や事象を確認し、またその人達を現世に
物質化し、連れて来たとします(実際これはやろうと思
えば可能なようですが)

そして秘教家達の体験の全てが、現世の史実とは違った
とします、、彼らが連れて来た過去生の人達も、現世の
史実には実際には登場・存在しなかった人達となる場合

このような場合、秘教家達が経験した事象は、一体なん
といえるのでしょう?、、彼らが連れて来た人達は、何
者といえるのでしょう?


私はこのような事に繋がる、間接的な経験を何度かしま
した、、人々はどの程度のレベル・段階でなにを問い、
どの程度のレベル・段階でなにを納得し、確信・断定し
ているのでしょう?(私は愚かな拘りだと感じますが)

優れた秘教家達でさえ過ち・理解の前段階というレベル
に陥る可能性が大な状態から、更に遥かに掛け離れた低
い段階で、人々は非常に限定された現実を求め、それら
に納得したり、確信・断定したり、、私にはそんな風に
感じられます

私は時々、以前何度となく伺った観音様のお言葉を思い
出します、、
「人は物を語るに値しない存在(段階)なのだ」と、、

霊的能力と素養を欠いた状態で、思考の粘土をこねこね
する事で、一体なにが形作られ、成し遂げられるのでし
ょう?

それがスピ系や哲学の現実ではないでしょうか?、、こ
のような話をすると、単純・安易に侮辱・差別と取られ
反応する人達がいますが、拡大した本質的背景を具体的
に提示する事は、侮辱・差別とほんとに言えるのでしょ
うか?

そして人々は、自己確認という関心を持ちはしないまま
なんです

視覚の世界を許容しない盲目の人達は、視覚の世界に付
いてあれこれ語るに値する存在といえるのでしょうか?

視覚の世界を拒否さえしつつ、それでも尚、視覚の世界
の領域に踏み込もうとするのはなぜなのでしょう?

彼らにとっては、視覚の世界というのは、何万光年も離
れた、どこかの惑星の出来事のような物だと私には思え
ます

これは全く大袈裟でも誇張でもありません、、私達のレ
ベルからは、そこからも何万光年も先のような段階の、
第1の悟り・解脱の段階から、更にそこから何万光年も
先のような段階の第2の悟り・解脱の世界が、実際にそ
んな状態のようなんです

ぺーぺーの私はかろうじて知る事が出来ました、、自分
が余りに何も知らず感じる事さえ出来ない段階にある事


私の話してる事は、精神世界では小5~中1レベルの話
であって、別に高い段階の事ではないんです
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この回答へのお礼

半分分らず 半分分りました

知り得ないことが如何に多いか

だから曖昧にしか捉える事は出来ない・・・??

どうもありがとうございます。

お礼日時:2013/10/10 18:20

私の存在のイメージを如何に説明しても、貴方には、私の存在のイメージを鮮明にイメージできないでしょ。

逆もしかり。

貴方は、貴方の存在のイメージを追求するしか道はありません。

酸素については、息を吸ってるし、理科で酸素をならったんだから、存在しているってことにしてます。一応ね。

人間存在とか、実存、心、スピリチュアル、神、魂、・・幽霊、天国、UFO、異世界、宇宙人の果てまで体験済みなので、酸素と同じように、存在しています。
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この回答へのお礼

幽霊、天国、UFO、宇宙人まで体験済みですか

こりゃたまげた たまげたね~こりゃ

それらは心の中に在ったのだろうか、外に在ったのだろうか?

どうもありがとうございます。 

お礼日時:2013/10/08 14:48

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