映画のエンドロール観る派?観ない派?

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卑弥呼の正体を教えてください。

A 回答 (3件)

最近、卑弥呼は存在しなかったという説が広まっています。


正しいです。卑弥呼という人物は存在しませんでした。

しかしずばり日御子姫命は存在していました。

だけれども日子(比古、彦)という名前のついた男性はたくさん存在しても、日子と名のついた女性は見かけません。
当時は日子は天皇などに許された高貴な名前でした。
ゆえに天孫降臨した瓊瓊杵尊や神武天皇に日子(彦)の名前がついていました。

さて日本書紀や古事記では神功皇后時代しか卑弥呼に当てはまる時代はありません。
しかし卑弥呼らしき人物が出てこないのです。

神功皇后は近いのですが、微妙に異なります。
弟に息長日子王がいて、豊姫なる妹もいるので本当に近い存在なのですが、何かしらしっくりきません。

さて話を卑弥呼に戻して魏志倭人伝の卑弥呼の死直前の記述を見てみましょう。

(魏志倭人伝 引用)
その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。
倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
(引用 終わり)



よく見てみると卑弥呼は男王の卑弥弓呼と仲が悪く魏の国に援助を求めていることがわかります。
そして魏の国が動くとすぐに卑弥呼は死んでしまいます。




そしてこの男王というのはなんだか息長日子王に似ていますね。
しかも神功皇后の弟にあたります。
そうなんです。そのままなのですが、この息長日子王こそ、この狗奴國の男王の卑弥弓呼なのです。
当時は日御子王と呼ばれていました。


それでは卑弥呼とは神功皇后のことなのでしょうか?
違います。記紀の作者もそれには違和感を抱いています。

ここで視野を広げて、当時の倭の国の天皇を見てみましょう。

天皇は神功皇后の夫であった仲哀天皇こと帯中日子(足仲彦)天皇です。
ここにも日子の名前がありますね。
后は帯姫(神功皇后)と大中姫と弟姫です。

ここであることに気が付く人はいないでしょうか?

そうなんです。帯中日子(足仲彦)天皇は自分の名前を分割して、帯姫(神功皇后)と大中姫に与えているのです。
なぜ?弟姫だけ、弟姫なのでしょうか?



ここが問題なのです。
実は帯中日子(足仲彦)天皇は弟姫にも自分の名前を分け与えて日子姫と呼ばせようとしていたのです。
しかし日子は男性が着ける名前ですので、中に御の文字を入れて日御子姫(日美子姫、日魅子姫)と呼んでいました。

そうです。この弟姫こそが、今まで謎とされていた日御子(姫)だったのです。

しかしなぜに卑弥呼と男王の卑弥弓呼はこんなに似た名前なのでしょうか?
答えは簡単です。
この息長日御子王と日御子姫は夫婦だったのです。

それは三韓征伐が終わって神功皇后が都に帰還してからのことです。
既に帯中日子(足仲彦)天皇は亡くなっていますので、日御子姫は再婚させられたのです。

日御子姫は帯中日子(足仲彦)天皇の子である誉屋別皇子を出産していましたから、いわば政略結婚です。
しかし仲があまり良くなかったのです。

当時は神功皇后が政権を握っていました。

日御子姫は小さな護衛隊しか持たずに魏の国に度々貢物を出して頼ったのです。
しかし魏に援助を求めたところで息長日子王と神功皇后の怒りを買って処罰されたのです。
一緒にいた百名あまりの家臣も処罰されて日御子姫は死にました。

魏の国と組んで政権を乗っ取ろうとたくらんだとみなされて処罰されたので日御子姫の名前は取り上げられて弟姫になり今は日本書紀にわずかに名前が出ているだけになっています。

これが日御子姫の謎で記紀の人々もこの事実に気がつかなかったようです。

帯方郡も実は帯姫(神功皇后の三韓征伐が原因)

そして204年にできた魏の帯方郡の由来についても帯姫で説明できる。
旧暦の200年12月には倭の国(日本)は出兵をして南朝鮮を手中に収めた。
そこで北朝鮮半島を支配していた公孫氏は帯姫(神功皇后)がいる方角の国という事で帯方郡と名付けたのでしょう。


年代測定の謎は?

ずばり、すぐれた巫女としての先祖を思いやる気持ちの陵墓整備が現代の年代測定による時期の特定を惑わせているのです。
まさか神功皇后がそんな事をしていたなんて現代の学者や歴史小説家にさえ想像できなかっただけなのです。

三韓征伐にしろ、先帝らの陵墓整備と巨大化にしろ、神功皇后は驚くほど聡明な女性だったのです。

現代人の想像(固定観念)を軽く超えている神功皇后は只者ではありません。
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卑弥呼=ピミホ=pimiho



呼をコと発音するのは、平安期以降であることが分かっています。これをコと呼んでいる説は全滅です。

ピ pi は、日本語の音の変移でピ→フィ→ヒと変わったことが分かっているので、今風に発音するならヒでOKとなります。今のハ行は当時はパ行だったのです。花はパナ、だからといって花をパナと発音するのは面倒でもあるので、ハナと読んでもOKという感じでしょう。

ホは面倒で、今のハ行が当時はパ行だったので、じゃこのホというのは今の何行の音なんだということになるのですが、実は当時の日本にはハ行の音はなかったのです。それで、日本書紀や古事記で呼が何の音に当てられているかをみると、どうやらヲの音だったようだ(3例程度しかなかったはずなので、確定的ではない)と言われています。

つまり卑弥呼は、中国人にはピミホと聞こえたが、日本語ではピミヲと発音されたものの可能性が高い。ピミヲを今風に発音すれば、ヒミヲ(ヒミオ)となる。

ちなみにハ行がなかったことは、海の字が良く分かる。海=ハイという発音が、ハ行がなかったために、ファイ(パイ)よりカイのほうが音が近いからと、日本ではカイと読まれるようになったのが現在まで繋がっている。当然、日本以外の国では海はハイと発音する。


さて発音だけで結構な行になったけど、そのヒミオさんは、どうも北九州の土豪の女王だったらしい。女王というよりシャーマンのような感じ、まぁ巫女と言っても間違いではない。
この巫女さん、残念ながら日本書紀や古事記には書かれていない。だから日本書紀には神功皇后が卑弥呼ではないかと注釈が付いている。もしもっと卑弥呼に相当しうる人物が書かれて居るならば、そのような注釈が付くわけが無い。

なぜ日本書紀や古事記に書かれていないのかと考えるに、おそらく機内ヤマトが北九州に勢力を伸ばす前に、邪馬台国が他の国(おそらく南の狗奴国)に負けて吸収されたのであろう。敗者の歴史は残らないが、敗者の敗者なのだからこれはもう全く残らない。この事は日本書紀などに記述が無いことに良く合致していると思う。


よく、卑弥呼は日本書紀の○○だと思う、などという人がいるが、ろくな根拠もなく、よくそんな妄想を垂れ流せるな、などと思ってしまう。
おっと蛇足。
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実は卑弥呼こそが天照大神だったと言う

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