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近所に、「足利 正廣」 文暦3年 66歳没 の立派な墓碑がありますが、所有者?に聞いたけどよくわかっていないとのことでした。気になってしかたありません。何でもけっこうです。どなたか教えてください。

A 回答 (5件)

こんにちは。


手近な資料で調べてみましたが、文暦頃に足利を称する可能性のある、源姓足利氏の中には正廣を名乗る可能性のある人物はいなそうでした。今一つの藤原姓足利氏には下記のように、養子に入った大江広元三男の正広が可能性があるかとは思いますが、確実ではありません。また、系図を元に推量しましたが、当然系図に載らない人物は多いでしょうから、そのような人物の中に足利正廣がいる可能性もあります。ですから参考程度にお読みください。

信頼性がある程度ある系図で、足利正廣と称し得る人物を上げると、大江広元の三男で、藤原姓足利氏の庶流の那波(なわ)氏に養子に入った正廣(政廣・宗元とも)称した人物が上がります。当時の那波氏が那波を名乗ったのか、佐貫もしくは足利であったのかは不明と言わざるをえないのですが、足利正廣と称し得る人物ではあります。
この人物が載っている系図は二つ。一つは『系図纂要』、今一つは『尊卑文脈』です。まず、『系図纂要』の「藤原朝臣姓 佐野 足利」にある図です。平将門を討ったことで有名な俵藤太と呼ばれる藤原秀郷の流れになります。
秀郷-千常-文脩-兼光と系譜があるのですが、『系図纂要』は兼光から始まります。兼光の後は、頼行-兼行と続きますが、この兼行の兄弟の宗行(行尊)からは小山・結城氏が出ています。
兼行には師重・成行・行房・孝綱の子があって、師重が澤俣太郎、成行が足利大夫(藤原姓足利氏の惣領家)、行房が林 佐貫六郎、孝綱が長沼大夫と記載されています。行房の子が成綱(佐貫四郎大夫)、行国(足利六郎)で、この内の成綱に二子があって、一人が成光で佐貫太郎、今一人が季弘で那波太郎と記載されます。成光の系統は重光―廣光-廣綱と続き、廣綱は佐貫四郎大夫 右衛門尉(尊卑は左衛門尉)と記載されています。
これに対して季弘は子の名前が弘澄で、「太郎 従木曽将軍京合戦討死」と記載されています。この弘澄には三子が記載され、宗澄は「太郎」、女は「政廣 妻」、政廣は「實大膳大夫大江廣元朝臣三男 継家後復本姓大江氏」と書かれています。
また、大江氏中の那波氏系図には、大江広元の子として、政広をあげ、「那波氏藤原姓佐貫四郎太夫成繁孫那波太郎弘澄討死。其子宗澄無子。以宗元為養子。配其女改為大江姓。本宗元。那波掃部助判官。」とあります。
『系図纂要』の藤原系図と大江系図を比較すると、弘澄の祖父の名が、藤原では成綱、大江では成繁となっていること、宗澄と政広の関係について、藤原は義兄弟、大江は舅と婿の関係であることの違いがあります。
『尊卑文脈』の「左大臣魚名公五男他(藤成の子孫)」はほぼ『系図纂要』と同じですが、「那波」の苗字が記載されていないこと、弘澄の父親が季弘ではなく秀弘であること、弘澄の子については宗澄のみが記載され、女と政廣については記載がされていません。しかし、『尊卑文脈』の「大江朝臣」の項目には、大江廣元の子に、親廣・時廣・宗元・季光等の男子が記載され、宗元には「光イ(名を宗光とした本があることを示します)那波掃部助 改正廣」と記載されています。
次に、『承久記』の「佐貫左衛門尉正広」についてですが、これは承久元年正月二十七日(正確には健保七年。この年の四月十二日改元)の記述で、源実朝の右大臣拝賀の為の鶴岡八幡宮参拝=実朝暗殺時の、随兵に出てくる記述です。これと全く同じ記述が『吾妻鑑』にもあるのですが、『吾妻鑑』では、「佐貫左衛門尉正広」の部分が、「佐貫左衛門尉廣綱」となっています。佐貫氏直系の成光-重光―廣光-廣綱の系譜の「廣綱」とされています。なお、この佐貫・那波についてですが、現在の群馬県、当時の上野国の邑楽郡内の佐貫荘や那波郡を苗字の地とする一族で、一族の本宗と目される下野国足利荘を中心として蟠踞した藤原姓足利氏のもと下野・上野両国に大きな勢力を振るった大族です(足利氏は同族の小山氏と並び称されています)。ただ、源平の争乱で藤原姓足利氏は平家方だったために没落し、所領は源姓足利氏の恩賞とされます。
佐貫・那波を名乗った後でも、行国(足利六郎)のように、足利を名乗る者があったこと。源氏の足利氏の一族の斯波・吉良氏も、鎌倉時代の正式署名は足利であったことも考え合わせると、大江廣元の三男で、那波政広(正廣)が足利を名乗る可能性はあったように思います。
この説の欠点はいくつかあるのですが、一つは年齢です。文暦3年が存在しないことは確かです。当時は安定期なので年号を間違えるとは考え難いとは思いますが、墓碑に年号・俗名が彫られているなどから考えて、当時の墓碑ではなく、後世の墓碑である可能性が高いと思われますので、墓碑をつくった時点で、伝世史料が例えば文暦二年とあったものが、文暦三年に写し間違いされたものであったなどの混乱があったのかもしれません。そこで、一応、文暦三年(実際は嘉禎二年)が存在したものと仮定して考えると、この年は西暦で1236年にあたります。正廣は66歳死去とのことなので、年齢は数えなので生年は1171年になります。父親の大江広元の1148年生まれとされているので、1171年には24歳なので、三男の父親と考えても可能です。しかし、兄の親廣・時廣の生年はわかりませんが、広元四男で毛利氏の祖である季光の生年が1202年とされていますので、おおよそ30年の年齢差があることになります。
次に、那波の一族で九州の地に遷ったような人物が見当たらないことです。系図上の記述からは、上野と相模に在住したらしい記述があっても、その他の地域に関する記述はありません。那波氏の子孫は、室町・戦国時代には存続したようですが、これも上野国の在住です。ただ、広元四男の季光の所領が、根本領の相模国の毛利荘だけでなく、越後国佐橋荘南条と、安芸国の吉田荘(戦国大名毛利氏の出身地)もあるなどの例からも、那波氏が根本荘園以外に領地を持っていた可能性はあるとは思います。
欠点の三点目は、広元三男の正廣が「掃部助・判官(衛門尉)」などの官職を持ちながら、『吾妻鑑』には一度も登場しないことです。子の政茂は幕府評定衆の顕職にあったので、登場回数も多い上に、兄弟の親廣・時廣・季光等も『吾妻鑑』での登場回数が多いことと比べても極端のようには思います。領地の経営に専念していたとの説もあるようですが。

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

ここまで丁寧に調べていただき感謝いたします。歴史ってこんなに深いんですね。確かに後で作られた墓碑の可能性もありそうです。でもその目的は謎ですね。あとは地元で私のできる範囲で調査してみます。

お礼日時:2014/02/09 19:06

> ところでこの人は後鳥羽上皇方に就いた人なんでしょうか?九州にいた可能性あるんでしょうか。



藤原足利氏は滅亡後、源氏の部下(御家人)としてこの後生き残っていく(佐貫広綱が有名です)ことになります。正広は、時代としても、また官名としても、広綱本人か、その息子か縁者の一人だと考えれば辻褄が合います(が、それが正しいかどうかは分かりません)。

佐貫正広は源義実が暗殺されるときのお供の中に名前が見えますが、その後出てきません(見逃しているだけかもしれませんが)。また、本によっては佐貫は「讃岐」であり、四国ゆかりの人物ということになります(この場合には足利は名乗りません)。
どちらにしろ、名前が一度出てきただけですので、その後のことは分かりません。

ただし、上皇側についた家はほぼ全て領主の座を追われていますが、その後も佐貫を領していくので、上皇側と考えるのは難しいのではないかなと思います。
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この回答へのお礼

重ねてお答えいただきありがとうございます。後は地元で調べさせていただきます。

お礼日時:2014/02/09 18:58

素直に読めば、文歴からの改元を知らずに「文歴3年」と掘ったと考えられますね。


その場合は1236年に66歳、つまり1171年生まれ(当時は数えなので)だと分かります。つまり鎌倉初期頃の人ということになります。

この時期に「足利」を名乗るのは、ごく知名度のない人を除けば、足利市(栃木県)辺りに縁のある足利氏しかありません。
もしそうなら、源氏から足利と名乗り始めた辺りの時期(足利2代義兼と同時代の人)、もう一つの足利氏である藤原足利氏が滅亡した直後頃になります。

この時期に足利姓を名乗りうる「正廣」としては、藤原足利氏の分家の佐貫左衛門尉正広という人が承久記に名前が見えます(この人が実在しているかどうかも分かりませんが)。
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この回答へのお礼

詳しく回答していただき感謝です。ここは九州ですので佐貫左衛門尉正広の線が強いのかも。ところでこの人は後鳥羽上皇方に就いた人なんでしょうか?九州にいた可能性あるんでしょうか。質問ばかりですみません。

お礼日時:2014/02/08 01:31

確かに文暦は3年はありません


年号の刻み間違いか と思います

もし地元の偉人とかなら資料館や図書館に行けば何か分かります
石碑になるような人ですから何かしらの功績を残した人でしょう
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。地元は誰も知らないみたいです。でも確認に図書館にいってみます。

お礼日時:2014/02/07 21:28

日本で文暦(ぶんりゃく)という元号は、1234年~1235年の2年間のみ使用されているので、文暦3年という年号はあり得ません。


読み間違いではないでしょうか。
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この回答へのお礼

さっそくお答えいただきましてありがとうございます。今もう一度現物を確認してきました。横書きは「文暦三年十月二日 六十八才没」です。年齢はまちがっていましたが文暦三年は何度見ても文暦三年と彫られてました。自分で検索した範囲では「足利正廣」では何もヒットしなかったのでここに質問したのですが・・・ 文暦が二年しかなかったのなら、これってなんなのでしょうか?

お礼日時:2014/02/07 21:21

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